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9月 27, 2015の投稿を表示しています

知らないほうがよかったかも

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“Old Science Fiction Films“というフェイスブックのサイトがある。そこに週一くらいで、昔のSF映画の写真やポスターが投稿される。あの頃のSF映画というのは、金星から怪獣が襲来したり、猿が人類を支配したり、荒唐無稽なストーリーとトンデモ科学理論が売り物。「フィクション」なんだから何でもあり。「サイエンス」のほうは二の次だった。
巨大化したフランケンシュタインに人間が食われてしまう話なんてほんとに怖かった。それを白黒テレビの画面で見たりするからか、トラウマになるほど恐ろしいものに思えた。しかしその後、科学の時代となってくると、怖さの感じ方も変わってくる。「フランケンがあんなに巨大化したら、脚が地面にめり込んで歩けない」とか、科学的根拠の細部に突っ込みたくなってしまい、せっかくの娯楽作品が楽しめない。
SF映画を作るほうだって、それだけ窮屈になってきたのでは。昨年のヒット作「インターステラー」でも、細かい科学的根拠を説明するのに苦労していたように思う。一方で、現代科学がどれだけ万能かというと、本当にそうなのかは怪しい。科学が宇宙の真理をすべて解き明かすなど、まだまだずっと先のことのようだ。
だったらむしろ、心の中だけでも原始人に戻っても良いじゃないか。地球が丸いことを知らなかった時代の人類の気持ちで想像力を解き放とう。そして大胆でぶっ飛ぶような、夢のようなホラ話を作れたらいいのにな。



道に迷った時には

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慣れない駅のホームで電車から降りたとき、僕は右左どちらの階段に向かうべきなのか分からなくなる。それはまあ仕方ないことだ。駅の改札を出てから目的地に向かう時にも、方向が分からない。これも仕方ないかも。深刻なのは、良く知っている場所でも、ちょいちょい迷子になることだ。以前働いていた会社の社屋内ですら迷ったことがある。
僕はこれを「生まれつきの方向音痴だから」ということにしている。しかし一方で、それがただの言い訳に過ぎないことも知っている。人間には方位を感じる感覚器官など無いではないか。感覚の問題ではなく、そもそも地理的情報が欠落しているだけなのだ。地図を整理して頭に入れようと努力せずに、「勘」で方向決めている僕は音痴ではないのだ。きっと、ただの怠け者なのだ。
大学で若い世代の人たちと接していると「人生で進みたい方向がわからなくなった」という悩みを聞くこともある。そんな時は、彼らにこんな風に話をする。「君は社会とい地図を知らないだけなんだよ。道に迷わば木を切りてその年輪を見よ(☆1)と言うしかからね」 偉そうな言い方ですが、僕自身が痛い目に合って、身に沁みていることですからね。
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☆1:道に迷わば木を切りて年輪を見よ
「木を切って年輪を見る」とは「歴史を学んで進むべき方向を知る」という意味なのだそうです。寺島実郎さんの著書「歴史を深く吸い込み、未来を想う」で紹介されていました。

養老先生のブルースカイ

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朝日新聞の「人生の贈りもの・わたしの半生」は僕の大好きなコラム。いまは養老孟司先生が登場されていて、毎晩帰宅後に読むのが至福の数日であった。たくさんの名著を残し、本業の解剖学者としても趣味の昆虫学者としてもすばらしい先生の半世記を、こうした簡潔なインタビューで読めるのはうれしい。
昔NHKの番組取材で、東大の養老先生の研究室にお邪魔した。解剖学の研究室なので、物凄い標本類の数々が置かれていてビビったのを覚えている。僕なんぞ、取材チームの末席の初年兵に過ぎないのに、そんな僕のシロウト質問にも、先生はにこやかに丁寧に対応してくださった。あの時、瞬時に、穏やかで優しい養老先生のファンになった。
定年前の55歳で東大を辞めた日の朝、養老先生には「空が青くきれいに見えた」そうだ。勤め人としての責任から解き放たれて、本当の感性が解放されたのだ。養老先生いわく、人は外部からのイメージに合わせようとして生きている間は、青空を美しいと感じる余裕もないということらしい。うーん、どうしよう。明日キャンパスで、空を見上げてみよっと。

原始力復興委員

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おいしそうに描けてるでしょうか。先日もご紹介した「プティ アクィーユ」のシャルキュトリーをいただいているところ。フランスパンに「パテ ド カンパーニュ」を乗せて、いろいろなお野菜やピクルスも。もちろん赤ワインも一緒である。
あまりにおいしくて、ふと変なことを考えた。これだけの食材だが、これをぜんぶ自分で揃えるとしたらどれだけ大変か。トマトを育て、小麦を挽いてパンを焼く。鶏を育てパテに仕上げる。ぶどうからワイン? いや無理無理。スーパーやネットですべてをまかなう僕の生活は、もう現代社会の流通機構にフルに依存している。恵まれ過ぎで、罪悪感さえ感じるほど...
こんな僕が、ビッグイシュー9月号(☆1)の「原始力復興委員」という記事を読んだ。新潟県糸魚川市で古代人の生活を実践している山田修さん。彼は、磨製石器に木製の柄をつけて斧を作る。その斧で肉を切り丸太舟を作る。丸太舟で青森までの780キロの航海に出る。「縄文人の見習い」として生きることが、底抜けに楽しいのだそうだ。こういう山田さんの生き方、軟弱な僕には真似出来ない。だけど、いつかは僕もこういうことを、真剣に考えなければならない日がくるだろう。
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☆1: ビッグイシュー日本版 2015年9月号 奈良美智さんの巻頭インタビューもすごくよかったです。今回は、ものすごく暑い夏の日に八王子駅前の販売員さんから買いました。その直後にゲリラ豪雨が来たのを覚えています。

僕とアルフォンゾ先生

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アルフォンゾ先生は、インドネシアのバンドン工科大学で美術やデザインを教えている。JICAの招きでこのたび来日。日本の大学を見学しにいらしたのだ。近藤先生の案内で、私の研究室にも遊びにきてくださった。私も美術デザイン担当なので、いろいろ楽しくお話させていただいた。
特に盛り上がったのが、いまどきの学生の作品についての話だ。デジタルツールの発達のおかげで、学生が「手抜き」をするようになってしまった。これは由々しき事だ。と、そういう話。オリンピックの騒動じゃないけれども、ひとのものをそのままコピーしたり、既存のテンプレート(☆1)を使って簡単に済まそうとしたり。
どんなツールを使っても、学生が作品に真剣に取り組むならそれでいい。しかしツールによって仕事が簡単になると、人間というものは「怠け者」になる。デジタルペイントは、もともとは「絵の具」の代用品ではないか。さんざん「絵の具」と格闘した人がこれを使うぶんにはいいのだ。しかし、デザインを勉強中の学生がいきなりこれを使い始めると、どこかいい加減になってどこか真剣味に欠けた作品づくりになる。
「まずいっすよねー」 「ほんと、まずいっす」
インドネシアの先生と、こんな会話をするとは。
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☆1:テンプレート すでに出来上がっているフォーマットに、きまった数値や文字、画像などをいれるだけで作品ができてしまうという便利な仕組み。学生だけじゃなくて、オトナだって結構使ってますからね、これ。



プティ アクイーユ

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長年お世話になっている高校の先輩が岩手県で、「プティ アクイーユ」というシャルキュトリー(☆1)のお店を始めた。フランス料理シェフの息子さんのために製造しているのだけど、レストランへの卸し以外にもネットでの販売もしているとのこと。早速お試しセットを送っていただいた。この絵は「鳥レバーのムース」の瓶詰めです。
先輩に聞いたところ、防腐剤は使っておらず、岩塩や天然の発色剤に、もともと含まれる防腐効果だけで製品化しているとのことで、瓶詰めにする行程の管理は大変なものだと聞いた。それに材料も各地から新鮮で良質なものが入った時に作るということであった。
ふだん僕たちがコンビニなどで買っている食品の多くには防腐剤が使われている。広域での大量消費社会の宿命で、長時間保存できる食品だけが長距離の運搬に耐える。ほんとうは、この先輩のお店のようにな手作りで純粋な食べ物を、地元で消費するというのが理想なのだ。岩手県に住みたくなった。

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☆1:シャルキュトリー 細かく刻んだ肉類などを練り上げて成型したパテやテリーヌなど、赤ワインとの相性が良いおつまみとして、レストランやカジュアルな飲食店に並ぶメニューです。