芸術家は食えない

アマディのカマキリ
わたくしはアーティストを無条件で尊敬いたします。

アーティストといえば、芸術家。芸術家というものは、社会的地位や収入、名声などとは関係なく、自分自身の芸術の道を極めるもの。ゴッホにしろ、モジリアニにしろ、制作に没頭していた生前は、自分の作品が何億円という価格で取引されるなど、夢にも思わなかったはず。

判っていても、そう出来ないのが現代。ついつい、手近なところで成果を挙げて、ちょっと有名になろうとか、ちょっと儲けてやろうとか、ベリー・ショートサイトな(超短視眼的)欲求に走ろうとする。私自身が、とても怪しい。いまどきの学生も、とても怪しい。芸術をやりたいのか、有名になりたいのか。結局は「芸術家として有名になって、お金持ちになりたい」というのが、いまの私たちの「本音」なのですよ。

とても心配なのが、美術大学の男女比です。ものすごく女子が多いんですよ、いまの美大。どこでも大体そうです。いまの男の子たちは「芸術」を目指さなくなったんだろうね。やはり「芸術家では食えない」という現実を知っているからでしょうか。いまや日本男子は美大を目指さないのか。

そんなことを考えつつ、NHK・BSの「たけしアート☆ビート」を見ました。(☆1)

今回は「ガラスの詩人」と呼ばれる、ブルーノ・アマディを紹介。ベネチアン・グラスの本場で、幼い頃からガラス職人としての腕を磨き、ついに独自の作風を切り開いた。その作品は世界的に有名となった。しかし、いまも彼は、6畳間ほどの小さな工房兼ショップで、自分の気に入った作品だけを、粛々と作り続けている。量産して儲けようともせず、とりたてて宣伝もしない。ただただ、自分の納得のいく作品をつくり、発表するだけ。

不肖わたくしも、居住まいを正して見ました。正座しなおして、録画を二回、拝見しました。そうね。儲けを優先してはいけない。有名になろうなどと、ちゃっちい目標を持ってはいけない。こんなふうに、徹底的にやってみたいものだ。

アーティストはこうでなくちゃ。

アマディさんは、トータルで55年間もガラス工芸と向き合っている。本物のアーティストだ。儲けとは関係ない何かを求め続ける人。ジョージ・クルーニーに似たイケメンでした。ガラスの棒を持って炎に向かう姿は真剣そのもの。ミケランジェロも、きっとこんな顔をして作品に向かっていたのだろう。

北野武さんとアマディさんとの掛け合いも良かった。ふたりはまるで十年来の友人のようだった。アーティスト同士、なにかが引き合うのですね。ルーブル美術館の元館長も登場しました。ブルーノ・アマディ作品のコレクターであり、の良き理解者。ヨーロッパのサロン文化は、このような人物が、しっかりと引き継いでいるんだね。さすがイタリア。

いまの日本の社会で、アーティストとして成功する近道といえば、どうしてもメディアに露出して有名になること。サロン文化もなく、国の文化的な保護もなく、公共機関による文化政策は、すべて「ハコもの」ばかり。中身のない美術館を建てて満足してしまっている。今こそ、日本の芸術文化の次世代を担う人材を、養わなければいけないのに。

企業のメセナ活動もなくなってしまった。西武美術館もなくなっちゃたし。それにバブルの時代ですら怪しかった。どこかの製紙会社の社長が、ゴッホの絵を何億円も出して買って「死んだらカンオケに入れて燃やしてくれ」と言ったとか。世界中から大ヒンシュクでした。日本人社長はお金が儲かると、殖財やギャンブルに走るしかないのかな。これままでは、日本は芸術不毛の地になっちゃうぞ。

民主主義と自由を謳歌しているはずの日本が、文化的に不毛になっている理由はなんなのだろうか。偏見を恐れずにいえば、教育文化を担う行政機関の努力が足りないのだと思う。公平で普遍的な「ゆとり教育」は実践できても、輝く才能を磨き上げることは出来ない。そして、もうひとついけないのがメディアだ。芸術作品や作家を、一種の流行商品のようにしか扱わない。尊厳を持った作品としての理解がなされることがない。

むしろ、封建時代の徒弟制度の中でこそ、高度な芸術工芸作品が生まれたではないか。なぜならば、封建君主の中に、高い教養と芸術を見る目持った人物があったということ。いまの日本の政治家に、芸術を理解する人物がどれだけいるのだろうか。経済偏重の官僚たちに、文化を理解する良識がどれだけあるのだろうか。

うーん。

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☆1:11月16日(水)0:00〜0:57 放送 [ NHK BSプレミアム ] 「第一部:ガラスの詩人、ブルーノ・アマディ」

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