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Showing posts from 2012

異国のお菓子の味をとても近くに感じた

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おそらく今年最後の水彩画になると思われる一枚を描きました。でもこれはこのお菓子の実物を描いたのではないのです。この異国のお菓子、実際にはみたことないのです。 この夏より、スエーデンはゴッドランド島という極北の異国に暮らすお友達が送ってきてくださった写真をもとに描かせていただいたものです。このようにして、私は何万キロも離れた異国の味覚に想像をはたらかせ、ちょっと食欲をはたらかせながら、絵を描くことができたしだいです。こういうコミュニケーションはうれしいです。 思えば大変な時代だね。感慨ぶかい。 しかし現代ってどこかおかしくないか?

名作のカゲに芋の煮っ転がしあり

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「男はつらいよ」シリーズ。全部で48作もあるのに、どれも面白い。クオリティが高い。なぜだろう。いやなぜだろうはないだろう。山田洋次監督はじめ、スタッフと役者がベストを尽くして作られたものだからだ、当然だ。 でもやはり、なぜだろう、と考えてしまう。世の中に、監督やスタッフがベストを尽くさない作品なんて無いのだ。なのに、面白い作品とそうではない作品が生まれてしまう。これは不思議なものだと、いつも考える。 ブックオフで『「男はつらいよ」うちあけ話』という本に出会った。著者は、松竹でシリーズの広告宣伝を担当していた池田荘太郎さん。池田さんの肩書きは「寅さん課長」という。まさにシリーズとともに生きた証人の言葉で書かれた本だろう。よし、このシリーズの秘密をさぐってみよう。

イブの夜にメトロン星人を思い出した

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先週、珍しく眠れない夜がありました。 羊を数えて夜半に目が覚める。何度目かの深夜、ちょうどメッセージ着信。おっ、どこぞの誰かも眠れないのね。スマホを取り上げました。なになに。「お友達のHさんがあなたを[ SKILLPAPER ]にお誘いしています」とのメッセージ。お友達のHさんはNHK時代の同僚です。いまはなんとスエーデンの大学教授。なるほど眠れないのではなくて時差ね。 [ SKILLPAPER ]とはなかなか面白そうではないか。ふむふむ。自分の専門領域を7つ登録するのね。僕の場合「デザイナー」「料理」「教育」とかのキーワードを入れてみた。なるほどね〜。こんな風に自分の専門領域とか興味範囲をいれておくと、世界中のヒトビトと交流できるのか。明日の朝には、またまた沢山のフレンドたちとつながっているのであろう。 そんなことをやっているうちにいつの間にか意識を失っていた。

35歳になるまでは目をつぶってね

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35歳というのは人生の中での、ひとつの到達点かと思います。職場ではある程度のポジションを獲得。少しは人脈もできる。家族や家を持ち肩の荷も重くなる。自分に自信もつき、その一方でさらなる未来に不安も感じる。そんな年齢かと思います。 大学を卒業して10年くらい。 その10年くらいは、無我夢中でいいんじゃないですか。ある意味適当で。ある意味むちゃくちゃで。目の前に見えるとりあえずの目標に向かっていく。とりあえず知り合った人との縁を大切に支え合う。やれることからやっていく。出来ることから覚えていく。

百年後に誰かが開ける

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このカンは、内部を密閉することで紅茶を保存している。 僕たちは文章を書くことで自分の記憶を保存している。「記憶を保存する」て「食事を食べる」みたいで変です。でも茂木健一郎先生もいうように、僕たちの記憶っていうのは、結構自分の都合のよいように変えられてしまうものらしいから。 同級生みんなが尊敬している恩師が遺された研究ノートの表紙には「どんなに薄いインクでも記憶に優る」という文字がありました。たしかロマン・ロランの言葉ですか? 僕たちは、自分で保存しきれないほどの記憶や、あまり保存したくないような記憶も保存している。ブログとかメールとか、ツィッターとかたくさん文章を書く時代となりましたのでね。ひとりひとりの人間が考えたり、感じたりしたことを、日々電子空間(古い言葉!)に、知らず知らず保存している。そういうことだよね。

クリングゾルの最後の夏

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ヘルマン・ヘッセは、生涯の旺盛な読書を通じて、中国、日本などの東洋思想に惹かれていた。実際に南アジア方面への旅行を通じて著した「インドから」という本もありますし「シッダールダ」という本も書いています。 「クリングゾルの最後の夏」(☆1)という小説は、四十二歳で生涯を閉じようとする一人の画家を主人公にヨーロッパの没落を扱った異色の小編だそうです。読んでみたいけど、なかなか入手できないです。この小説に出てくる主人公たちは、お互いを「杜甫」「李太白」などと呼び合う。彼らの会話は、まるで禅問答。

誰かと一緒にいる時間

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11月28日の日経新聞に「感動体験に財布開く」という記事がありました。というか、この記事読むために買ったんですけどね。(電子版で全文見れず→結局実物購入)この不況のさなか、堅調なディズニーランド。バブルの頃よりもお金がないはずなのに、客単価が上がっている不思議。その秘密をオリエンタルランド社長の上西京一郎さんが明快に解説していました。 誰かにプレゼントを買ってあげてもそれは一瞬のこと。でもテーマパークでは、誰かと長時間を一緒に過ごせる。そこが大事。だから、ディズニーランドは三世代で時間を一緒に過ごせるようなパークを目指しているという。なるほどなるほど。ディズニーランドが売るサービスとは「誰かと共有できる時間」なのですね。

ちっちゃいけど逞しいね

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毎朝、郵便ポストから朝刊を取ってくるのはわたしの仕事です。近所へのゴミだしのついで。だんだん寒くなってきたのでちょっと面倒になりましたが、朝食で朝刊を広げるのは、数少ない楽しみのひとつなので。特に、最近の第三極やらなんやら選挙戦前の政党乱立で、にわかににぎやかになって以来楽しみですね。みなさんも堪能されていることかと思います。 でも、いったい、どこに投票してよいのやら、まったく途方に暮れています。 それとは関係ないのですが、ポストから朝刊をとって、ふと足下をみました。 この子がいました。うちの庭でも、もっとも分の悪い場所でひっそりと花を咲かせている。ポストやら塀やらの日陰になって、ほとんど太陽の光を受けないポジションです。でもここに植えられちゃったんだもんね。

不老長寿のアイランド

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ヨーグルトは長寿の元と言われてますね。ですから、今日も食後にいただいております。その前に水彩画に描きましたので、30分ほど置きっ放しでした。 朝日新聞の日曜版に付録でついてくる「 GLOBE 」おもしろいです。11月号に「人々が死ぬことを忘れた島( The Island Where People Forget to Die )」というタイトルの記事がありまして、思わず切り抜きしました。60代半ばで肺がんになって余命9ヶ月と宣告されたギリシャ人、モライティスさんの話です。

完全なる配送網でDVDが届いた

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昨日の夜アマゾンで注文したDVDが、本日午後に届きました。今朝になってネットで配達状況を調べる。「配送センターからお近くの宅配業者さんに届いています」だって。おっ、近づいているぞ。午後になってもう一度。「宅配の車に乗ってお近くにいます」ときた。やった。もうすぐじゃん。すると、ほどなくして「ピンポーン」と、DVDのご到着。 DVDにしてみれば、たった一晩の国内旅行。今はもう当たり前のこと。アマゾンのプレミアム会員なんだからね僕。しかし、よくよく考えてみると、これは本当にすごいことだ。どれだけの人の手によって運ばれて来たのか。そして、この正確さ。日本の配送網というものは、おそらく世界でも最高水準?FEDEXとかDHLとかも、昔は仕事でよくお世話になった。でもこんなにまで正確で早かった?

幸せである確率

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「ユーザー・イリュージョン」という分厚い本を読みました。すごく面白くて一気に読みました。2週間はかかりましたが、その間とても幸せでした。新しい発見が沢山あって、自分の中にすこし智慧が増していくようで。 今では大半の内容を忘れましたが、その中でよく分かった(ような気がした)のがエントロピーの正体について。 エントロピーというのは、簡単にいうと「乱雑さ」のこと。この世の中のすべてのものは「しだいに乱雑になっていく」運命にある。私の部屋もあなたのキッチンも、放っておけば、どんどん汚れて行きます。片付けないかぎり、しだいに乱雑さ(エントロピー)が増すのです。 なぜでしょうか。  「ユーザー・イリュージョン」という本は 、こう言ってます。自然界の中で、物事が「きっちりとした形で並ぶ」確率が低いのは、そういう「きっちりした」パターンになる状態が、その他の「きっちりしない」パターンより少ないからだというのです。私の部屋がきっちりと片付いているという状態よりも、片付いていない状態のほうが、バリエーションが多いのです。だから、しだいにごちゃごちゃになる。なるほどー。わかるわかる。きっちりする状態は珍しい現象だってこと。  

嵐のシンポジウム

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メディア学部主催のシンポジウムに参加しました。ソーシャルの時代到来を受けて、 社会企業家による活動を考えるトークイベント でした。台風17号が猛スピードで北上中という悪条件にも関わらず、沢山の参加者で盛り上がりました。 キーノート・スピーカーは、デイビッド・グリーン氏。インドなどの貧困地域での医療活動にあたる。医療活動といっても、医師団を送り込むとか、地域医療の充実とかそういうことではない。いわゆる、市場破壊による医療イノベーションのことらしい。 白内障の手術や、補聴器の購買などは、アジアの貧困地域にとっては、あまりに高額医療である。貧困であるために、治療を受けられずに失明してしまうお年寄り、耳の聞こえない人々を救うプロジェクトだ。 理屈は簡単。医療機器や医療用材料の高騰を作り出して、高利潤をもくろむ大企業の向こうを張り、低価格の製品を生み出す仕組みを起業するのだ。低賃金の労働者を確保し、高水準の技術保有者を雇い、サプライチェーンを抑え、公的ファンドの支援を取り付ける。そして、大企業には逆立ちしても実現不可能なくらいの、低価格の医療サービスを実現するのだ。

ある勝算

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フランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」。いま観ても画面から発する強烈なパワー。いわゆるベトナム戦争の頃の「問題作」だったのだが、今もなお、その「問題意識」は古びず、訴えかける力は衰えない。 コッポラの奥さんが撮影過程を克明に記録した、素晴らしく面白いドキュメンタリーがある。この中で、コッポラは「この映画はめちゃくちゃな駄作だ」とか「大学で"F"(不可)を取ったようなものだ」とか散々泣きわめいていた。(正直だー) 大金をかけてフィリピンに組んだセットは台風で流されるし、主役は急病で倒れるし、製作予算は底をついて財産は抵当にはいるし。 それでも、コッポラは決して映画の完成をあきらめなかった。彼にはある「勝算」があったから。そのおかげで映画は大ヒットとなり数々の映画賞を総嘗めにした。

闇の奥

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この人誰でしょう?  マーロン・ブランド演じる、ゴッド・ファーザー( ヴィトー・コルレオーネ)のつもりです。ちょっと似てないけど許してください。ジェンコ貿易会社の事務所で、ネコを抱いて座っているところですよ(想像)。なぜこの人の表情って怖いのでしょうか。今回、ゴッド・ファーザーDVDボックスの特典ディスクのメイキングを見ていて、やっと分かりました。 ゴッド・ファーザーが怖い理由、 それは彼の「目の表情」がよく見えないということ。 この人の「目」の表情は、飛び出した「額(ひたい)」の影で隠れちゃっているために「チラ」っとしてか見えない。だから怖い。他にも怖いところは沢山ある。なにしろガタイがでかい。ほっぺたがブルドックみたい(口にティッシュをつめた特殊メイク)、声がドスが効いて威厳があるし。でもとにかく一番怖いのが「闇の奥に隠れた目」なのだ。

芸は身を助ける その2

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九段の靖国神社。僕はあの場所が好きなんです。それほどの愛国者でもない自分がなぜ?理由はふたつ。大村益次郎の銅像が建っていること。そしてその頭や肩に、たくさんのハトが停まっていること。あの風景を見ていると、大村先生(こう、呼ばせてください)が僕に「日本は平和を守るように」と語ってくれているような気がするんです。 大河ドラマ「花神」。中村梅之助さんが、生き写しのようなメーキャップで、大村益次郎を演じていました。若き村田蔵六が大阪の適塾にて頭角を現し、ついに兵部省次官・大村益次郎となる。このドラマ、大好きでした。だから、僕にとって、大村先生は他人のような気がしない。望遠鏡を持って遠く(上野なんでしょうね)を見つめる銅像。その後ろ姿を見ていると、あのテーマ曲が聴こえてくる。林光作曲のあのメロディー。逞しいチェロの音色。ほんと良い曲だった〜。 ところで、あんな高い塔の上の立派な銅像って日本では珍しい。あれに負けないのはトラファルガー広場のネルソン提督像くらいじゃないかしら。(僕の知っている範囲で)なぜあんなに立派なのか。日本の近代化に尽力した大村先生。皆からとても尊敬されていたから。でもそれだけで、あんなに立派な銅像が建つものだろうか。ずっと疑問に思っていました。

芸は身を助ける

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最近、学生さんから相談を受けたり、高校生のご家族とお話していると「資格」について質問をされることが多い。テレビ局に入るにはどのような資格があれば良いのか。放送局で働くのに役立つ資格とは何なのか。正直なところ、答えに困ってしまいます。もちろん、電波や通信関係の技術的な資格はあるし、技術職の方には役立ちます。でもディレクターやプロデューサーとなると、あまり資格は関係ないのです。 本音で言うと、私はこう答えたい。「実際のテレビ局の現場で何が役立つかなんて、その時まで分からない。だから何でも勉強して、人に負けない一芸を持つように」と。でも、これでは答えにならない。高校生や大学生のみなさんが求めているのは、生活の保障となるような資格。 先月、家内が映画「武士の家計簿」をDVDで借りて来てくれました。なんと私の教育用です。 「しっかり見て、勉強するように」 バブル時代に会社生活を送ったせいか、お金に大雑把な私。幼少期に甘やかされたのもいけないのかしら。どうも経済観念が甘い。タイトルからして、おそらくこの映画は、窮乏生活に耐えるために家計簿をしっかりつける武家の話だろう。私を倹約家に改造するために、家内はこのビデオを「教育用」に選んだとのことです。 「はい」。私は素直に見始めました。映画は大好きだもんね。 昨年暮れに夭折した森田芳光監督晩年の作品。さすが、ただの倹約家の話ではなかった。家内は、私の「節約術」の教育には役立たないと知り残念そうでしたが、結局、家族そろって泣き笑い。感動してこの映画を見ました。そして我が家に残ったのは、この鮮やかなメッセージ。「芸は身を助ける」

火曜日が楽しみ

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ものすごく忙しい週末だったので、あまり気にもとめていなかったのですが、先月の5月19日(土)に、千葉県地方では大変なことが起きていました。広域にわたる「断水」で、埼玉や群馬でも騒ぎは広がったのです。基準値を超えるホルムアルデヒドが検出されたから。 我が家の近所のコンビニや酒屋さんでも、ペットボトルの水が早々に売り切れに。しかし結局のところ、我が家は「断水」という事態には、ならなかったのです。なぜか。それはうちの近所の「浄水施設」が最新で優秀の施設だったからです。 くわしくは知りませんが、なにか特殊な浄化装置というものがあるそうで、浄水所によってはそれが無いところもあったとのこと。人間の生活にとって「水」の供給は、最も重要なインフラ。浄水施設の機能がこうして進歩しているのは、なんだか安心。関東県全域にこうした設備が配備されてほしいですね。 「エリン・ブロコビッチ」という映画は、「水」をめぐる法廷闘争を描いた映画。弁護士の資格もなく、ロースクールに通った事もない、極貧のシングル・マザーが、公害を垂れ流す大企業を相手に、巨額の賠償金を勝ち取った。そういう実話に基づいて作られています。まるで映画のような話。だけど実話。アメリカ全土が、このサクセス・ストーリーに「スカっとした」という。私もこの映画、見て「スカっと」しました。思いっ切り。

初恋の来た道

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チャン・イーモウ監督作品「初恋の来た道」。原題の意味は「私のお父さんとお母さん(我的父親母親) 」というのだと、うちの研究室の中国人留学生が教えてくれた。「きれいなお母さん」も、本当は「きれいな大きな足」というタイトルなんだって。なんだって、こんなに変わっちゃうのかな。ちなみに「北京バイオリン」は「あなたと一緒に」なのだそうですね。 最近では、日本公開の洋画のほとんどが原題をカタカナにするだけになった。中国作品の場合は漢字だからそうもいかない。どうせ日本語に直すのだから、映画の主題が分かりやすく、あるいは親しみやすいタイトルに変えるのでしょうね。「初恋の来た道」は確かに、この映画の重要なテーマなのだけど、本当の主題ではない。(だからといって、この素晴らしい映画の価値が下がるわけではないけれど)

ラベンダーの香り

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時間旅行と聞いて「ラベンダーの香り」を連想する。NHK青少年ドラマを見て育った、僕たち昭和世代はみなそうだろう。元祖タイムトラベル小説「時をかける少女」の設定だから。時間旅行の秘密は、ラベンダーの香りがする謎の薬品にある。未来人が持って来たのだった。  時間旅行ができれば、誰でも人生をやり直すことが出来る。自分で自分の過去を修正する。今となっては「誤ち」と分かっている、過去の行為を今の自分がやり直すのだ。これが可能ならば、誰の人生も完璧なものとなる。 「メン・イン・ブラック(MIB)3」を、東宝シネマズ日劇で見た。ステレオ3Dですよ。これまでの前2作とも大好きな私。ハチャメチャなストーリー展開でありながら、大真面目な科学定理や、冷徹な人生哲学が散りばめられている。このシリーズは、私にとってSF映画の見本みたいなもの。このシリーズのDVDは、床の間に飾っておきたい。 この「MIBシリーズ」で、なぜかこれまで封印されて来たのが「時間旅行」だ。SF映画にとって常套手段だけど、使いようによっては、シリーズ全体の流れを崩壊させてしまうかもしれない。陳腐で安易なB級映画に成り下がっちゃうかもしれない。やはり禁じ手だったのか。それともバリー・ソネンフェルド監督は、最後の手段として温存してきたのかしら。

ニワトリの日

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「コケーッコー」たかが一羽のニワトリの叫び。だけど、この一声は、ポップミュージックの歴史を変えた一声ではないだろうか。ビートルズの名盤「サージェント・ペッパース」のB面(☆1)終盤で「グッド・モーニグ グッド・モーニング 」から「サージェント・ペッパーズ(リプライズ)」の間。この「コケーッコー」が、2曲を見事につなぎ合わせる。 前半の「コケーッ」までは、ニワトリの声なんだけど、後半の「コー」は、ジョージ・ハリソンの弾くギター・イントロ。合わせると「コケーッコー」と聞こえる。録音技術によるマジックです。 このアイデアは、45年前の今日、1967年4月19日水曜日に生まれた。 「 ビートルズ・レコーディング・セッション」 (☆2)によると、その日、ロンドンのEMIスタジオでは、サージェント・ペッパーズから、マジカル・ミステリー・ツアーにいたるレコーディングスケジュールが目白押しだった。

職務に忠実

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テレビ番組のスタッフ初顔合わせ。私はそこで「音声さん」を言い当てる自信がある。「音声さん」だけはスタッフ表を見なくても分かる。カメラマンと照明さんを見分けるのはむずかしいけどね。さて、どうやって当てると思いますか? ドラマのロケで「音声さん」はじっと座り続けます。ひたすら座っている。(☆1)はじめは「いいなあ」とうらやましかった。だって、長い長いロケの撮影中、僕たち美術スタッフは、ずっと立っているのだ。座っている美術スタッフとは、すなわち「いなくてもいい」人。いやでも立って働かなければ。

ADからスタート

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テレビ局のディレクターを目指す若者は、「AD」というポジションからスタートする。(☆1)アシスタント・ディレクター。とりあえず「ディレクター」という名前はついているけれども、特にディレクターらしい仕事をする訳ではない。 まずは、プロダクションの最底辺の雑用からのスタート。台本のコピーとり。資料整理。スケジュール表づくり。小道具の買い物。弁当の注文。お茶いれ。とにかく何でも。テレビ番組の撮影の準備という作業は、おそろしく雑多な仕事の集積である。ADの仕事に終わりはないのだ。やりかたがまずい、といっては、先輩にやり直しもさせられるしね。涙。

映像の外にあるもの

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カメラの視線が静かだから映像の外にあるものが見える。 取材の気持ちが穏やかだから言葉の外にあるものが聞こえる。 素晴らしいドキュメンタリーだった。3月9日(日)放送の 「あの日から1年 『南相馬 原発最前線の街で生きる』」(NHK総合) 。この番組の語り口は実に謙虚で静か。むしろ寡黙。それでいて、見ているこちら側に、大きくて重たい何かを残してくれた。東日本大震災一周年。各局過熱気味の演出が多い中で、この番組の静かさは異色だった。 テレビ番組が、その中で伝えることができる情報の量は、意外に少ないものだという。番組中でナレーターがどれだけ語り、映像がどれだけつぎ込まれようとも、新聞や雑誌などの印刷物の情報量にはかなわない。立花隆氏によれば、NHKスペシャル一本分の情報量は、文芸春秋の一記事の情報量にもならないそうだ。(☆1)

騙される人

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「人間というものは『騙(かた)る動物』である」とは、エドガー・アラン・ポーの言葉。(☆1)「人を騙す」ことはいいとしても(良くない?)、「騙される」対象にはなりたくはない。 名作映画「スティング」は「詐欺師」の映画。最初から最後まで「詐欺」づくし。しかも最も「騙され続ける」のは、ほかならぬ観客なのですよ。そう、騙されるのは映画を見ている「あなた」なんですよ。なのになぜか「あなた」は喜んでしまう。この作品の人気が衰えることはない。何かおかしくないですか。 答えの鍵は、この映画における「騙し騙されるストーリー」の構図にあると思います。 物語における「騙し」には、大きく分けて2つのパターンがある。ひとつは「がっくり」パターン。人間というものは「すっかり信用していたもの」が実は「インチキだった」などという場合には、ムカっとくるもの。誰しも過剰反応して当然です。損をしたり、がっくりきた上に「こんなもの信用してバカね」なんて言われたりする。誰だって怒って当然のパターン。

我思う、ゆえに我あり

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「キッド」の撮影を終えたばかりのチャップリンを、サミュエル・リシュフスキイというロシア人の少年がたずねてきた。彼は、七歳で世界チェス選手権保持者という天才。 少年は、二十人の大人を相手にチェスの同時対戦をするというエキジビジョン・マッチを行うために、カリフォルニアに来ていたのだ。彼はカリフォルニア州選手権者のグリフィス博士を含めた大人全員を、いとも簡単にねじ伏せた。チャップリンは、その光景を「それはどこか超現実的な光景でさえあった」と述べている。少年そのものも、かなり変わった子だったらしい。(☆1)

収入のため働く

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左でファイティングポーズをきめているのは、鯖島仁(さばしまじん)。昨年、日テレで放送された「ドンキ・ホーテ」の名物キャラ。外見は古典的な武闘派ヤクザに見えますが、実は児童相談所の心やさしい所員なのです。(大好きキャラなので、CGで再現させていただきました) ヤクザでなおかつ児童相談所?複雑な設定だけど、これが意外にうまくいく組み合わせ。きわめて特殊な職業形態。いまの日本では、児童相談所という職場が忙しい。これは現代における、悲しい特殊事情が生んだ仕事だけど。職業にもさまざまな成立用件があるのだ。 さて昨日までの話のつづきです。夏目漱石先生の時代にも、こうした特殊な仕事というものがいくつも生まれたらしい。以下、漱石先生の講演録「道楽と職業」から。 「とにかく職業は開化が進むにつれて非常に多くなっていることが驚くばかり眼につくようです。怪しからぬと思うような職業を渡世にしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。[ 中略  ] 開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分れれば分れるほど、我々は片輪な人間になってしまうという妙な現象が起こるのであります」

職業か道楽か

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未曾有の就職難に襲われる大学。そこに身を置くものとして、ちかごろ私は「職業とは何か」と考えさせられている。先日も、出版関係の方と飲みながら、これからの若者の「職業」について、意見を交わしたところだ。そして偶然、この本を開いた。 夏目漱石晩年の講演録「私の個人主義」という本。この本には、漱石が関西において行った、4つの珍しい講演の内容が記録されている。 第一の講演のタイトルが「道楽と職業」なのである。聴衆にむかって「私はかつて大学に職業学という講座を設けてはどうかということを考えたことがある」と語りだす漱石先生。大学での就職指導にあたる私にとっては、格好の教科書ではなかったか。この本、購入以来四ヶ月も「積んだ」ままだった。私は馬鹿だった。 むちゃくちゃ面白いではないか。 とにかく、急いで読んでみた。 「道楽と職業」というタイトルのとおり、この講演の眼目は「道楽」と「職業」をくらべてみること。漱石は「道楽」の本質とは、実は「職業」のそれと同一あるとのべる。どちらも、自分の持てる体力や知力を使って働くことに違いはないのだ。ただ、その力の方向だけが違うだけ。

智名無く勇功無し

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動物の毛先を持ち上げたからって「力持ち」とは誰も言わない。 太陽や月が見えたからって「眼が良い」とも言われない。 雷鳴の大きな音が聞こえても「耳が良い」とは、誰も思わない。(☆1) 兵法の書「孫子」にある言葉。第4編にあたる「形篇」の途中から出てくるくだりです。これは別に「小さな手柄を自慢してはいけない」と言っているのではないのです。勝負の達人というものは、このように「力もいらない簡単な方法で勝つものだ」という教えなのです。 大騒ぎをし、大勝利をあげて、皆から喝采を受けるような勝ち方は、最善の勝ち方ではない。むしろ、誰にも気づかれずに、何の功績も努力もないような形で勝つ勝ち方がすばらしいのだ。こう言っているのです。 誰だって、目立った活躍をとげてまわりからの喝采をうけたい。大々的勝利を得て、その功績を認められたい。ヒーローになって目立ちたい。人情としては当然。しかし、本当の勝利者というのは、そういう「大騒ぎ」はしないんだよ。「孫子」は、そう教えています。

降りられないゲーム

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人生は降りる事の出来ないゲーム。 こう考えると恐ろしい。僕たちは生まれた時から死ぬまで、世界の生存競争というレースに参加させられて、走り通す運命と言われる。でも、そうではない人生というのはあり得ないのでしょうか。昔は高校生の必読書であった(今は知りません)バートランド・ラッセルの(☆1)「幸福論」に、「競争」という章があります。第三章です。それを読んでみたいと思います。 「誰でもいい、アメリカ人や、イギリス人のビジネスマンに向かって、生活の楽しみを一番じゃまするのは何かと聞いてみるとよい。彼は『生存競争だ』と答えるだろう」(『ラッセル幸福論」pp.48 ) 欧米人というのは、もともと「生存競争」で闘うのが好きだったのではないのかしら。狩猟民族だったのですから。ローマでは健闘士がライオンと闘ったりしたでしょ。現代における経済市場での闘いだって「生存競争」ですよね。それなのに、やはり「生存競争」というのは、彼らにとってもストレスなのでしょうか。実は好きでやってるんじゃないんですか。

スター・チャイルド

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今日はこの方のお誕生日。1月8日(1942年)の生まれ。著名な理論物理学者、スティーブン・ホーキング博士。ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病と闘いながらも、精力的な活動を続けています。(☆1 ) 「宇宙にはじまりがあるかぎり、宇宙には創造主がいると想定することができる。だがもし、宇宙が本当にまったく自己完結的であり、境界や縁をもたないとすれば、はじまりも終わりもないことになる。宇宙はただ単に存在するのである。だとすると?創造主の出番はどこにあるのだろう?」( 『ホーキング 宇宙を語る』 林一訳 早川書房) 創造主のことを考えるということはとても非日常的で超絶的なこと。僕なんか、神社にお参りしたり、お寺に行ったりするたびに、手を合わせて神様を拝むわけだけど、だいたい思い浮かべる方というのは、自分が昔お世話になった、いまはこの世に居ない優しい人たちのイメージ。本当にこの宇宙をつくり、僕たちの存在を支えていてくれる全能の存在というのは、一体どのような姿をしているのか、まったく想像もつかない。

天使の夢

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「そこにはふたたびわたしを絶望の底無し沼に引きずり込む、まだ力が残っているのではないか」(☆1) ハリウッドで成功を遂げ、ロンドンに凱旋帰国したチャップリン。熱狂的な歓迎を受けた後で、幼少期を過ごしたケニントン・ロードの街々を訪ねる。そこで母ハンナ、兄シドニイと過ごした日々を回想し、名声と富を手にした現在と、過去を照らし合わせた。その時ふと、この街が、再び自分を不幸のどん底に引きずり込むような、不安にかられたという。 それほど、チャップリンの幼少期は貧困と苦悩の極限だった。ある時から喉をわずらった母ハンナは、舞台女優としての仕事を失う。チャップリン兄弟は貧民院に収容されて、母とは引き離されてしまう。極貧の中を逞しく生き抜き、舞台役者としてなんとか成功への糸口をつかむ兄弟。だがそれはすでに遅かった。あまりの心痛と栄養出張のために、愛する母は発狂してしまっていた。 1921年公開の「キッド」は、こうした極貧の記憶から作られた。路上に捨てられた孤児は、少年時代のチャップリンそのものなのだ。その証拠に、主人公の浮浪者と少年が暮らす、汚れたアパートの屋根裏部屋のつくりは、自伝に書かれた寂しい家とそっくりだ。

言いたいことは明日言え

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アメリカ資本主義の父 「言いたいことは明日言え」 元旦に私が、トイレに取り付けたカレンダー。第一週のページにこう書いてありました。誰の格言なのか知りません。でもありがたい教えです。自分の意見を否定されてムカついた。誰かに思いっきり反論したくなった。どうしても自分の考えを押し通したい。ひとこと言いたい。すぐに言いたい。でもちょっと待て。結局は「言わなきゃ良かった」と猛省することになるんじゃないの? 宴会の席での言い争いなら、うまい解決方法もありますよ。言った方も、言われたほうも、忘れたふりをすればいい。大人ですからね。しかしそのような大人の処世術も通じないのが、メールやソーシャル・ネットワーク。とにかく消えないのですから。上の格言を今風に言いかえてみると、こうでしょうか。 「送信したいことは明日送信せよ」

最初の一日

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今日は、これからの人生の最初の一日。 映画「アメリカン・ビューティー」のクライマックスは、こんなナレーションから始まる。主人公レスター・バーナム(ケヴィン・スペイシー)は、新しいジョギングウェアで、その最初の一日を軽やかに走り出す。そうそう、今日は僕にとって、新しい人生の最初の一日さ。気分は最高。しかしそれはとんでもない一日の始まり。彼にとっての「最後の一日」の始まりだったのだ。(☆1) レスターは、リストラ寸前の職場から法外な退職金をせしめて、自暴自棄な生活を享受する。いまや人生の意味を完全に見失ったクソ親父。倦怠感ただよう家庭は言い争いが絶えない。こともあろうに、娘の同級生に年甲斐も無く心奪われてしまうレスター。多感期の娘は、この父親を完全に見限っている。なにごとにも完璧を求める妻キャロリンは、不動産業での成功を夢見るあまり、同業者との浮気に走る。隣家に住む堅物の退役軍人、フランク・フィッツ大佐(クリス・クーパー)は筋金入りの右翼。その息子リッキーは、麻薬の売人をやりながらビデオ撮影にふけるサイコパス。

苦悩する天才

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1918年くらいの写真らしい。ハリウッドで、チャールズ・チャップリンが自分自身のために建てた映画スタジオ。おそらく「犬の生活」などの短編を制作しているころの、撮影セットでのスナップだろう。スクリーンで見る、ドタバタ喜劇のチャップリンとは違って、深い思索に沈んだような表情をしている。 この時代のチャップリンは、ラ・ブレア通りのこのスタジオで、時間も予算も、好きなだけかけて、「自由な映画制作」に没頭できるようになった。カーノウ劇団の一員として渡ったアメリカで、成功のきっかけをつかんだチャップリンは、この頃は、まさに破竹の勢いで、映画界の成功の階段を駆け上がっていた。ミューチュアル・フィルム社との、週給1万ドルにボーナス15万ドルという契約を終えたばかり。今は、ファースト・ナショナル社との間で、年間100万ドルの大芸術家として、名を馳せていた。世界中がチャップリンの喜劇に酔いしれていた頃だ。 しかし、こうした大成功の裏で、チャップリンは常に「芸術家としてのカベ」と闘っていたのだった。この頃になると、彼は単なるドタバタ喜劇役者の役割を超えて、監督、演出家、脚本家といった仕事も兼ねるようになった。まさに映画の全責任者である。年間100万ドルは、前もって契約されていたとはいえ、出す映画はすべて成功させなければならない。時には、このスナップのように深く思索に沈むこともあったという。ひどい時にはアイデアがまとまるまで、2〜3日もの間、撮影が中断する事もあった。

富に至る道

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貧しいリチャードの暦 我が家では、新年になってからカレンダーを取り替えます。 元旦の本日は家中のカレンダーが新しくなりました。家長である我輩は、今年は二階のトイレのカレンダーを替える栄誉を与えられました。二階のトイレに掛けられるカレンダーは 「こどものべんぞうさま(便蔵さま)」カレンダー と言って、トイレの中で、ゆっくりとクイズに答えて頭が良くなるというもの。名前からいって、運勢が上向きになりそうなもの。新潟の「ぴいくらぶ」という、とてもユニークな企画集団によるものなのです。よかったら、一度ご覧下さい。 ところで、独立前のアメリカで、政治家として活躍したフランクリン(100ドル紙幣に肖像が描かれている)は、若い頃は印刷屋の職工として身を立てていました。いまではなくなってしまった「植字」という作業がとても早く、文章に習熟して文字も良く知っていたので、とても優秀な職工でした。さらに、大変な倹約家であり勤勉な性質であったために、どんどん出世をしていくのです。 そしてフランクリンは、51歳になる1857年まで、25年間も暦を発行していたのです。当時、暦を出すということは、自然科学や数学にも通じていなければならず、またそれなりの社会的地位も必要だったことでしょう。フランクリンは、その暦に「格言」をつけることにしていました。タイトルは「貧しいリチャードの格言」といいます。フランクリンは、この暦を「リチャード・ソーンダース」という偽名で出版しておりました。それなので、暦につける格言も、自分のものとしてではなく「貧しいリチャード」が言ったものとしておいたのです。そうしておきながら、自分でそれを引用したりして涼しい顔。 それというのも、フランクリンが自伝の中で述べているように「人にものを教えるのには、教えているような風をしてはならない、その人の知らぬことでも、忘れたことのように言い出さねばならない」から。フランクリンは自分ではものを知らないふりをするために、こんな手の込んだことをしたのでしょう。しかも、自分自身はかなりの資産家になってしまったので、反感を買わないようにして「貧しいリチャード」の格言ということにしたのですね。