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Showing posts from January, 2012

智名無く勇功無し

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動物の毛先を持ち上げたからって「力持ち」とは誰も言わない。 太陽や月が見えたからって「眼が良い」とも言われない。 雷鳴の大きな音が聞こえても「耳が良い」とは、誰も思わない。(☆1) 兵法の書「孫子」にある言葉。第4編にあたる「形篇」の途中から出てくるくだりです。これは別に「小さな手柄を自慢してはいけない」と言っているのではないのです。勝負の達人というものは、このように「力もいらない簡単な方法で勝つものだ」という教えなのです。 大騒ぎをし、大勝利をあげて、皆から喝采を受けるような勝ち方は、最善の勝ち方ではない。むしろ、誰にも気づかれずに、何の功績も努力もないような形で勝つ勝ち方がすばらしいのだ。こう言っているのです。 誰だって、目立った活躍をとげてまわりからの喝采をうけたい。大々的勝利を得て、その功績を認められたい。ヒーローになって目立ちたい。人情としては当然。しかし、本当の勝利者というのは、そういう「大騒ぎ」はしないんだよ。「孫子」は、そう教えています。

降りられないゲーム

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人生は降りる事の出来ないゲーム。 こう考えると恐ろしい。僕たちは生まれた時から死ぬまで、世界の生存競争というレースに参加させられて、走り通す運命と言われる。でも、そうではない人生というのはあり得ないのでしょうか。昔は高校生の必読書であった(今は知りません)バートランド・ラッセルの(☆1)「幸福論」に、「競争」という章があります。第三章です。それを読んでみたいと思います。 「誰でもいい、アメリカ人や、イギリス人のビジネスマンに向かって、生活の楽しみを一番じゃまするのは何かと聞いてみるとよい。彼は『生存競争だ』と答えるだろう」(『ラッセル幸福論」pp.48 ) 欧米人というのは、もともと「生存競争」で闘うのが好きだったのではないのかしら。狩猟民族だったのですから。ローマでは健闘士がライオンと闘ったりしたでしょ。現代における経済市場での闘いだって「生存競争」ですよね。それなのに、やはり「生存競争」というのは、彼らにとってもストレスなのでしょうか。実は好きでやってるんじゃないんですか。

スター・チャイルド

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今日はこの方のお誕生日。1月8日(1942年)の生まれ。著名な理論物理学者、スティーブン・ホーキング博士。ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病と闘いながらも、精力的な活動を続けています。(☆1 ) 「宇宙にはじまりがあるかぎり、宇宙には創造主がいると想定することができる。だがもし、宇宙が本当にまったく自己完結的であり、境界や縁をもたないとすれば、はじまりも終わりもないことになる。宇宙はただ単に存在するのである。だとすると?創造主の出番はどこにあるのだろう?」( 『ホーキング 宇宙を語る』 林一訳 早川書房) 創造主のことを考えるということはとても非日常的で超絶的なこと。僕なんか、神社にお参りしたり、お寺に行ったりするたびに、手を合わせて神様を拝むわけだけど、だいたい思い浮かべる方というのは、自分が昔お世話になった、いまはこの世に居ない優しい人たちのイメージ。本当にこの宇宙をつくり、僕たちの存在を支えていてくれる全能の存在というのは、一体どのような姿をしているのか、まったく想像もつかない。

天使の夢

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「そこにはふたたびわたしを絶望の底無し沼に引きずり込む、まだ力が残っているのではないか」(☆1) ハリウッドで成功を遂げ、ロンドンに凱旋帰国したチャップリン。熱狂的な歓迎を受けた後で、幼少期を過ごしたケニントン・ロードの街々を訪ねる。そこで母ハンナ、兄シドニイと過ごした日々を回想し、名声と富を手にした現在と、過去を照らし合わせた。その時ふと、この街が、再び自分を不幸のどん底に引きずり込むような、不安にかられたという。 それほど、チャップリンの幼少期は貧困と苦悩の極限だった。ある時から喉をわずらった母ハンナは、舞台女優としての仕事を失う。チャップリン兄弟は貧民院に収容されて、母とは引き離されてしまう。極貧の中を逞しく生き抜き、舞台役者としてなんとか成功への糸口をつかむ兄弟。だがそれはすでに遅かった。あまりの心痛と栄養出張のために、愛する母は発狂してしまっていた。 1921年公開の「キッド」は、こうした極貧の記憶から作られた。路上に捨てられた孤児は、少年時代のチャップリンそのものなのだ。その証拠に、主人公の浮浪者と少年が暮らす、汚れたアパートの屋根裏部屋のつくりは、自伝に書かれた寂しい家とそっくりだ。

言いたいことは明日言え

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アメリカ資本主義の父 「言いたいことは明日言え」 元旦に私が、トイレに取り付けたカレンダー。第一週のページにこう書いてありました。誰の格言なのか知りません。でもありがたい教えです。自分の意見を否定されてムカついた。誰かに思いっきり反論したくなった。どうしても自分の考えを押し通したい。ひとこと言いたい。すぐに言いたい。でもちょっと待て。結局は「言わなきゃ良かった」と猛省することになるんじゃないの? 宴会の席での言い争いなら、うまい解決方法もありますよ。言った方も、言われたほうも、忘れたふりをすればいい。大人ですからね。しかしそのような大人の処世術も通じないのが、メールやソーシャル・ネットワーク。とにかく消えないのですから。上の格言を今風に言いかえてみると、こうでしょうか。 「送信したいことは明日送信せよ」

最初の一日

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今日は、これからの人生の最初の一日。 映画「アメリカン・ビューティー」のクライマックスは、こんなナレーションから始まる。主人公レスター・バーナム(ケヴィン・スペイシー)は、新しいジョギングウェアで、その最初の一日を軽やかに走り出す。そうそう、今日は僕にとって、新しい人生の最初の一日さ。気分は最高。しかしそれはとんでもない一日の始まり。彼にとっての「最後の一日」の始まりだったのだ。(☆1) レスターは、リストラ寸前の職場から法外な退職金をせしめて、自暴自棄な生活を享受する。いまや人生の意味を完全に見失ったクソ親父。倦怠感ただよう家庭は言い争いが絶えない。こともあろうに、娘の同級生に年甲斐も無く心奪われてしまうレスター。多感期の娘は、この父親を完全に見限っている。なにごとにも完璧を求める妻キャロリンは、不動産業での成功を夢見るあまり、同業者との浮気に走る。隣家に住む堅物の退役軍人、フランク・フィッツ大佐(クリス・クーパー)は筋金入りの右翼。その息子リッキーは、麻薬の売人をやりながらビデオ撮影にふけるサイコパス。

苦悩する天才

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1918年くらいの写真らしい。ハリウッドで、チャールズ・チャップリンが自分自身のために建てた映画スタジオ。おそらく「犬の生活」などの短編を制作しているころの、撮影セットでのスナップだろう。スクリーンで見る、ドタバタ喜劇のチャップリンとは違って、深い思索に沈んだような表情をしている。 この時代のチャップリンは、ラ・ブレア通りのこのスタジオで、時間も予算も、好きなだけかけて、「自由な映画制作」に没頭できるようになった。カーノウ劇団の一員として渡ったアメリカで、成功のきっかけをつかんだチャップリンは、この頃は、まさに破竹の勢いで、映画界の成功の階段を駆け上がっていた。ミューチュアル・フィルム社との、週給1万ドルにボーナス15万ドルという契約を終えたばかり。今は、ファースト・ナショナル社との間で、年間100万ドルの大芸術家として、名を馳せていた。世界中がチャップリンの喜劇に酔いしれていた頃だ。 しかし、こうした大成功の裏で、チャップリンは常に「芸術家としてのカベ」と闘っていたのだった。この頃になると、彼は単なるドタバタ喜劇役者の役割を超えて、監督、演出家、脚本家といった仕事も兼ねるようになった。まさに映画の全責任者である。年間100万ドルは、前もって契約されていたとはいえ、出す映画はすべて成功させなければならない。時には、このスナップのように深く思索に沈むこともあったという。ひどい時にはアイデアがまとまるまで、2〜3日もの間、撮影が中断する事もあった。

富に至る道

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貧しいリチャードの暦 我が家では、新年になってからカレンダーを取り替えます。 元旦の本日は家中のカレンダーが新しくなりました。家長である我輩は、今年は二階のトイレのカレンダーを替える栄誉を与えられました。二階のトイレに掛けられるカレンダーは 「こどものべんぞうさま(便蔵さま)」カレンダー と言って、トイレの中で、ゆっくりとクイズに答えて頭が良くなるというもの。名前からいって、運勢が上向きになりそうなもの。新潟の「ぴいくらぶ」という、とてもユニークな企画集団によるものなのです。よかったら、一度ご覧下さい。 ところで、独立前のアメリカで、政治家として活躍したフランクリン(100ドル紙幣に肖像が描かれている)は、若い頃は印刷屋の職工として身を立てていました。いまではなくなってしまった「植字」という作業がとても早く、文章に習熟して文字も良く知っていたので、とても優秀な職工でした。さらに、大変な倹約家であり勤勉な性質であったために、どんどん出世をしていくのです。 そしてフランクリンは、51歳になる1857年まで、25年間も暦を発行していたのです。当時、暦を出すということは、自然科学や数学にも通じていなければならず、またそれなりの社会的地位も必要だったことでしょう。フランクリンは、その暦に「格言」をつけることにしていました。タイトルは「貧しいリチャードの格言」といいます。フランクリンは、この暦を「リチャード・ソーンダース」という偽名で出版しておりました。それなので、暦につける格言も、自分のものとしてではなく「貧しいリチャード」が言ったものとしておいたのです。そうしておきながら、自分でそれを引用したりして涼しい顔。 それというのも、フランクリンが自伝の中で述べているように「人にものを教えるのには、教えているような風をしてはならない、その人の知らぬことでも、忘れたことのように言い出さねばならない」から。フランクリンは自分ではものを知らないふりをするために、こんな手の込んだことをしたのでしょう。しかも、自分自身はかなりの資産家になってしまったので、反感を買わないようにして「貧しいリチャード」の格言ということにしたのですね。