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Showing posts from 2014

海を見つめて並んでる

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ワインを飲みつつ紅白も見ながら、ポルトガルの風景を描く年越しとなった。ちょうど0時になる頃に描き終わりました。よかった。ここは、北大西洋に面した海岸で、ポルト・デ・アブリーゴ・ダ・トレイラという港に面したエリア。(グーグルですからね)きれいな海岸に面したリゾート地のようです。 世界のどこにいっても、うつくしい海岸沿いには、このように家がひしめきあって並んでいる。オーストラリアに仕事で出張していた時、ラッキーなことに「マンリービーチ」という砂浜に面したコンドミニアムに住んだことがある。この時は目覚めて窓の外をみると青い海、仕事から帰ると夕焼けの海、休日となればひたすら波を見つめるという生活だったが、とにかく人間として生まれ変わったような気分になったものだ。 こんなに色とりどりで、デザインもまちまちな家並み。家の形などはバラバラに主張しているけれど、海を眺める一番いい場所にいたい、という気持ちは一緒なのだ。仲良くならんで「海を見る」という共同体になっている。人間という生物は陸上生活になる前に、海に棲んでいた記憶があるから、海にあこがれる。 世界中の国々も、こんなふうに一つの共通のあこがれを持って、なかよく並んで暮らすことができればいいのに。暮らし方、生活のデザイン、色彩などはみな違ってもいい。海に憧れて並ぶこの家並みのように、共同体としてともに生きていく。そんな世界になればいいのにと思う。 さて、いよいよ年越しです。2015年。みなさま、良いお年をお迎えください(=゚ω゚)ノ 新年もなにとぞよろしくお願いいたします!

年越しのユリ

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先日のクリスマス・パーティ用に活けられたユリです。なんでいまごろユリが元気に咲いているのだろうか。冬にこんなにも花の生命力を感じられるというのは、やはり現代のテクノロジーのおかげでしょうか。みなさんはどのように年の瀬をお過ごしでしょうか。 そろそろ2015年という年について考え始めました。21世紀の初頭にしてすでに、なにか新しい動乱の兆しを感じるような気もしています。ローマ法王もそのインタビューで、この世界はいま第三次世界大戦のさなかにあるとも述べています。考えようによっては、本当にそのようにも思えます。しかし私としてはこれからの新しい未来が、なんとかかんとか、平和で穏やかな時代として続いてほしいものだと思っております。 ひとつの鉢に植えられたユリやスターチス、スプレー菊、カーネイション、ガーベラがみんな顔を揃えて並んでいるような光景をずっと見ていたいものだと思います。万物合い並びて合い悖らず。別になにも争う理由はないのではないでしょうか? フェスブックで、トラフィックのデイブ・メイスンさんが紹介していた、ブッダのことばを思い出します。本当に良いことばです。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - In the end, only three things matter. How much you loved, How gently you lived, How gracefully you let go of things not meant for you. 最期となって問われるのは三つだけ あなたがどれだけ多くを愛したのか いかに穏やかに人生を過ごしたのか 関係ないことを静かに見送れたのか - - - - - - - - - - - - - - - - - -

オレンジのマイクロバス

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映画をはじめて観たあとで、すぐにもう一度観たい、あるいはもう2〜3回は繰り返し観てみたいと思うものがある。「もう一度観たい」という理由は映画によってさまざまだ。スペクタル感あふれる特撮シーンのすごさをもう一度味わいたいという場合もあれば、特撮などとは関係なく、ただただ俳優たちの演技の細々としたニュアンスを味わいたいという場合もある。 「スター・ウォーズ」は前者の第一であって、これまで何度繰り返し観たか知れない。後者の第一は「ミッドナイト・ラン」である。「リトル・ミス・サンシャイン」という映画も僕に取っては後者に属する映画なのだけど、こんなにも繰り返して観るほどとは思わなかった。意外にブラックなところもあるし、ちょっと定番すぎる家族愛ストーリーが甘すぎるようにも思えた。 しかし、先日乗った飛行機の映画プログラムでたまたま再会して、改めてこの映画の良さをストレートに味わった。一人としてまっとうな(欠点の無いという意味で)キャラクターがいないフーヴァー家の家族。 やや太めで食欲旺盛。でもミスコンを目指している主人公のオリーヴ。厭世家の兄ドゥエイン。重度の鬱病の叔父のフランク。すれ違いと喧嘩ばかりの両親。身勝手で下品な祖父。 でも、このメンバーがこのぼろぼろの「フォルクスワーゲン・タイプ2 マイクロバス」に乗って旅をはじめる時、映画のマジックが人生の一瞬のマジックに重なる。うまくエンジンもかからないこの車の存在は、この家族そのものなのだ。ドアもはずれて転げ落ちそうな状態だけど、なんとかかんとかしがみついて走っていくしかない。 この劇用車。撮影では同じ型のものが5台も使われたそうだ。もしろん脚本も素晴らしく、俳優の演技も素晴らしいこの映画。しかし最後に魔法のスパイスをかけたのは、オレンジのこの愛らしいマイクロバスだ。それは間違いないと思うのである。

地球の裏側のスケッチ紀行

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だんだんブログのタイトルがいい加減になってきた。昨日と同じポルトガルの田舎道でみかけた(グーグル・ストリートビューです)家の前でスケッチしているのだ。夜になって、ひとり静かに地球の反対側の昼の景色を描いていると不思議な心地がする。心がひとりでに瞑想状態のようなものに近づいていくようだ。 このところずっと読み続けている横尾忠則氏の著書によると、横尾氏にとって絵を描く事はは、大人になるよりも、子供に戻ることに近いように思うと言っている。この「子供に戻る」という話は思いのほか深い話であって、良く言う「子供のように純真な気持ちで素直な絵を描く」といった単純なことではないのだ。 横尾氏はテレビにでていた天才的な子供たちが、みな図抜けた才能を発揮しているのを見て、そこにある種の共通点を見たという。まさに子供だからできる、自分を信頼しきった状態、あるいは自分の感じることを信じる状態のようだ。ここで言う「子供のように」というのは、近代的な知性の入る余地のない状態のことをさしているのだ。 近代によって築かれた「自我」に頼ることなく、東洋的な「無我」の態度になりきることなのだ。横尾氏は、これは人類にとって未知の段階であるが、そこに人類の未来を感じないわけにはいかない。そう言っている。最新の心理学に置ける「自己意識」に関する見地と一致していると思う。 「自己意識」というものは、実は人間の思考や行動をコントロールしているものではなくて、単に情報の要点だけをモニターしているものなのかもしれないのだ。それを「自己」だと信じるきるということは、人間が自分の能力のほんの少ししかを信じていないことに等しい。人間の能力というものは「自己意識」の知らない、広大なマインド全体に広がっているのかもしれない。

カンポ通り

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冬休みにはいってから暇があるとポルトガルのある町をうろうろしている。カンポ通りという田舎道なのだが、色合いのきれいな瀟洒な外見の家が並んでいて散歩していて飽きない。散歩といっても勿論ほんとうの散歩ではない。グーグル・ストリートビューである。 iPhoneをあたらしくして記憶容量が以前の4倍になり、これまで我慢していたアプリのダウンロードができるようになった。グーグル・ストリートビューをひと味違う形で楽しめるアプリがいろいろとあって、試しているところである。今のところのお気に入りは「iMaps」というもので、ストリートビューで移動しながら、地図上のポイントを確認できる。 グーグルでスケッチポイントを探すのが目的なので「これは」と思った場所を、そこにまた来れるようにメモする機能がほしかった。これまでに何度も、素晴らしいスケッチポイントを見失ったことか。良いところが見つかって付近をうろうろしているうちに、うっかり操作を間違えると、もう二度と同じ場所には戻れなかったりするのだ。「iMaps」と「Google Map」の連携のおかげで、やっとその心配がなくなった。 ポルトガルの風景をスケッチしつつ、最近はずっと横尾忠則さんの本を読んでいる。前々からそうは思っていたのだが、改めて気づかされる天才ぶりである。やはり横尾忠則さんこそは、生まれながらの芸術家だ。こんな人はそうそういない。グラフィックデザインや画家としての才能はもちろんだけど、やはり神に選ばれた天才なのだろう。とてもじゃないが、こんな考え方や発想はできないという話がずらずらと出てくるのだ。この本を読みながら、僕はとんてもないことを思いついてしまった。

クリスマスに間に合った

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盲腸手術の快気祝いにかわいいワインをいただきました。グリーンと赤のリボンを首にまいて、クリスマスバージョンで袋から出てきました。飲むのがもったいなくて、まだ飾ってます。実際にいま飲んでいるのは、コンビニで買ってきた、ビニャ・マイポです。 今月初旬に入院したものの、病院での的確な診断と迅速な手術をしていただいて、ほぼ最短時間にて職場復帰することができました。今日のクリスマスに、ワインをいただくことができるのは本当に嬉しいです。「間に合った!」という気分です。 キリスト教徒でもない僕自身でも、クリスマスは特別な日。この世に生きている幸せを分かち合う。いいじゃないかと思います。日本のクリスマス。灯りをつけて、心の中でクリスマスソングを口ずさんで、ひとときの平和を分かち合いましょう。 メリー・クリスマス(=゚ω゚)ノ

大きな魚をつかまえよう

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トウガラシってクリスマス色だ ディビッド・リンチ監督といえば、どこか夢を見ているような不思議な映画を作る作家だ。先日、ある美術書専門店で監督の面白そうな著作を見つけた。「大きな魚をつかまえよう」という本だった。そのタイトルからは、本の内容の真意を汲み取ることも出来ないまま。不可思議な雰囲気につられて買ってしまっていた。 ぱらぱらと少し読んだまま、しばらく机に置きっぱなしになっていたのだが、今日なにげなく取り出して、少し読み進めてみた。すると、どういうわけか、昨日このブログで書いた「意識的ではない」プロセスについて語っているページに出会った。とても素敵な表現なので、少し引用させていただく。 「小さな魚は浅瀬を泳いでいるが、大きな魚は水底にいる。釣りをするコンテナ - 君の意識 - が広ければ広いほど、より大きな魚をつかまえることができる。その方法とはこうだ。どんな人間であれ、その内側は純粋な生気あふれる意識の大海だ。超越瞑想をして『超え』れば、この純粋意識の大海へ急降下する」 深く大きな意識の大海に(おそらくそれは無意識のこと)飛び込んでいくためには、普段つかっている、僕たちの表面的で小さな「意識」は、忘れてしまわなければならないのだ。このように「意識」の問題について、沢山のクリエイターたちが述べている。驚くと同時に、それはきわめて当然のことなのかとも思える。 今日はクリスマス・イブ。多少は「意識」から解放された、大きな魚の夢でも見られるだろうか。みなさまへ、メリー・クリスマス。

精神を停止状態に置く

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だれかが無心で食べたカップケーキ 昨夜は、キューブリックのような巨匠の映画に出演する俳優が「意識を捨てて本人になりきる」ことを求められるということを書いた。優れた映画に現れる優れた演技というものは、意識的な演技ではなく、無我の境地の「演技を捨てた演技」でなければならないということ。なにか禅問答のような話である。 横尾忠則氏も著書「絵画の向こう側、ぼくの内側」で、画家も無我の境地で描くことが重要であると述べている。以下、少しだけ引用させていただく。 「絵の制作は、文章を書く時とは違って無心になることができる。精神を停止状態に置くことができるので、時間からも解放されて自由になれる <中略> こうした無心状態の時、肉体は精神と繋がっているのではなく、むしろ魂と繋がっていることが知覚できる」 横尾忠則さんは、「精神」と「魂」を別のものとしてとらえている。僕たちが普段「精神」としてとらえているものとは「意識的なもの」のことである。人間の存在そのものとしての総体とは違うものなのだ。それなのに、僕たちの日常では、この「意識的なもの」を強く感じるあまり、より重要であるはずの「魂」を、その支配下置いてしまう。 「精神を停止状態に置く」というのは、思ったほど簡単ではないのだ。そしてまた、これは、日本の古武道にも通じている。  

まるで水の中の魚のように

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映像関係の授業の準備で、スタンリー・キューブリックの伝記などをいろいろと読んでいる。完璧主義者と言われるキューブリックは、撮影現場での逸話にことかかない。その中で、特にどの作品にも共通して言い伝えられている話はこういうもの。何度撮影が進んでも、キューブリックは同じ事を繰り返し言う。「OK。それではもう一度」つまり、もういちど撮り直しという指示だ。 俳優が渾身の演技を終え、あるテイクの撮影が終わったところで、こう言われる。一度、完全な演技が行われて、それが完璧に撮影されても「もう一度やりましょう」ということになるらしい。それが積み重なって、ついには60テイク以上も撮影が続けられることも、ざらにあったとか。 演技するほうの俳優としては、たまったものではない。別に何が悪いわけでもない。何か修正の指示があるわけでもない。それでも、ただただ繰り返して撮り直しをする。このように、映画の撮影の現場で、ひたすら俳優を追い込んでいく話。溝口健二監督についても、そいういう逸話が沢山残っている。 ここで監督は、いったい何を意図しているのだろうか? どんなベテラン俳優も、演技を仕始めた段階では、どこか「意識」が先攻する。台本の台詞を頭にいれて演技をする以上、そこにははある程度の「作為」が出るだろう。どこかに「こういう風に演技をしよう」という意識、それが頭のどこかに生まれる。キューブリックや溝口健二のような巨匠は、それを許さない。俳優が「演技しようとする意識」を捨てて、真実の行動をするひとりの人間になりきったところを撮影したのであろう。 まるで自転車をこいでいるときのように、まるで水の中の魚のように、ピアニストが没我の境地で演奏しているように。俳優が登場人物そのものになりきり、お腹のそこから、その存在になりきる瞬間を待っているのだろう。

日記の人生

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入院している間も、まじめに日記をつけていた。いろいろとこまごまと書いた。だから、入院中の思い出が、沢山残った。いや、入院する以前から日記はつけていたのだ。「DayOne」というアプリがあって、好きな時に好きなだけ書き込める。この3年間ほど、そのアプリにのせられる形で書き続けている。 横尾忠則氏の著書「絵画の向こう側・ぼくの内側」に、日記についての面白い話がある。横尾氏はなんと40年以上も毎日日記をつけ続けているという。やはり、40年前に大病をしたのがきっかけとか。それだけ日記を書き続けていると、日記と人生の間にある種の化学反応のようなものが起きるらしい。内容の良い日記を書くために、より活発で能動的な人生の活動をする。そういうことが起きるらしい。 Facebookも、同じことかな。一日の終わりに、書き込んで知人に読んでもらうため、ちょっとだけ背伸びした一日を送る。その一日を写真におさめる。ちょっと贅沢なご飯をたべる。ご飯の写真をのせる。 嵐の大野君も、長い間、かかさず日記をつけていると聞いた。しかもその日記のつけかたがとてもいいなと思った。曰く、「どんな一日でも、どこか嬉しかったり、良かったりしたことがあるはず。日記には、そういう「良かった」と思えることだけを書く。そうすると、あとで日記を読んで振り返ったときに、素晴らしい記憶だけがよみがえるのだ。 よく「年をとるほど、時間が早く過ぎる」という話を聞く。もしかするとそれは、日記のようなものをつけないせいなのではないだろうか。日記をつけて、沢山のことを思い出すようになれば、いくつになったって、充実した長い長い時間の積み重ねを感じることができるのではないだろうか。

心のベルが鳴っている

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まるまる一週間のあいだお世話になった病室。その入り口の僕の名札には、こんなクリスマスの飾りがつけられていた。こういうちいさな思いやり、とてもうれしい。突然の疾患で入院した身としては、それなりに傷ついている。そこに、こういうプラス・ワンの暖かみをいただく。看護婦さんのちょっとした心遣いが、ゆったりとした癒しとなって伝わる。 クリスマス。 日本人にとっては、宗教的上の風習でもなく歴史的慣習でもない、イベントなのだけど、どこかまわりをいたわり、同胞、親戚みんなが幸せだろうか?と心配し合い、きづなを確かめるシーズンになっている。なにか、胸の真ん中あたりが、ぽかぽかと暖かくなる日々。 赤く反射する丸いボール。グリーンのリボン。小さな黄金のベル。 その小さなベルが、心の中で鳴っている。なぜなのだろう。このベルが、友人のことを思い出させてくれたり、家族のことを思い浮かべさせてくれたり。僕の心に、ただ、懐かしい思いを沢山つめこんでくれる。ちいさなベルが心で鳴っている。 みなさまへ、メリー・クリスマス(=゚ω゚)ノ

ベッドの上で一つ歳をとりました

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退院後にいただきました! あまりに忙しすぎて自分の誕生日を忘れていたということが、確か一度だけあったと思う。僕が30代後半あたりの頃。周りも見えていなかったし、自分がやってることも見えなかった、そんながむしゃらでオバカな時代のこと。 50代になって、今度は入院で誕生日を過ごすことになろうとは夢にも思わなかった。誕生日のほぼ一週間前のこと、急な腹痛で薬をもらいに病院にいった。ところがそれは明らかな虫垂炎との診断。即日入院、即日手術ということになった。その日は金曜日であったため、もしその日の手術を逃すと、月曜日まで二日間も待たなければならなかったので、不幸中の幸いであった。 もしかすると「誕生日に退院」という偶然もあったのだが、抜糸などのタイミングもあって、退院は誕生日の翌日となった。つまり今年の誕生日は、病院のベッドで「独りでスゴした」のである。 いろんなことを考えた。考えるしかないもんね。入院して、村上春樹訳、レイモンド・チャンドラー著「ロング・グッドバイ」も読んだのでなおさらであった。頭の中が、ちょっとだけ、ハード・ボイルドな感じになっていて、思考がドライな文体になってしまった。ベッドの上で独りで面白がっていた。 このへんのことは、後ほど詳しく書きたいと思う。村上春樹氏がいう、小説の文体における「自己意識の不在」って本当に示唆に富んでいる。この話は、意外にもさまざまなことに繋がっているのだ。たとえば、映画のシーンで演技する役者の没我的状態。個人的体験を言語を使って共有するということの難しさ。だって言葉というものは、僕たちの経験していることのほんの一部だって表現できない。 だから、レイモンド・チャンドラーは、言葉以前の体験に基づいて文章を書いているんだって。こういう文体を読むということは、無意識に演技している役者の演技を見るとか、完全に没入した状態で演奏しているピアニストの音楽を聴いているのに近い。そういうことなのだと思う。また、キューブリックの映画などでは、非言語的表現によって、これを実現している。 「意識」というものと、「意識」が感ずることすらできない「自分」という存在について。とにかく考えさせられた。

世界ルールのはずだったのに

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オーストラリアの腕利き大工 / ボブとゴードン 日本の「尺」と、イギリスで使われている「フィート」がどれだけ近いかというと、どちらも見事に「ほぼ30cm」なのです。1尺は30.33センチメートル、1フィートは30.48センチメートル。ね、大雑把に寸法を考えるときには、そのまま使えそうでしょう。 僕がはじめて海外のスタジオで働いた時、わからないことばかりで不安だらけでした。フィルム・オーストラリアという会社との共同制作。オーストラリアはイギリスから独立した国なので、いろいろなことがイギリス流。このとき、この「寸法の共通点」に気づいた時は本当に嬉しかったのです。 「もしかすると、寸法の打ち合わせからして、ぜんぜん話が通じないのでは…」と心配していたのです。ところが、実際にオーストラリアの大工さんたちと話初めて見ると、見事に「尺」が通じたのです。すでに10年以上、日本のテレビ美術の世界で働いていた僕のアタマは「尺寸」に適応しています。僕としては、「尺」を「フィート」に置き換えて言えばそれでいいのです。 「この廊下の幅は、シックス・フィートでね  (=゚ω゚)ノ」 「オーケー、カズ、(`_´)ゞ」 「やった通じる! これなら、なんとかなるじゃん」

巻き尺に気をつけろ

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でんでんむしではありません。テープ・メジャーといいます。つまり巻き尺です。こんな便利なもの、いったい誰が発明したんだろう。 僕は以前、テレビ局でスタジオセットのデザインの仕事をしていました。スタジオセットといってもいろいろあって、大河ドラマなどの巨大で重厚なセットから、天才テレビ君みたいに子供向けにカラフルなものまで、幅広いものがあります。デザイナーそれぞれに得意分野があるので、人によって、報道番組の専門家とか、ドラマの専門家などに分かれます。 専門が違っていても、共通の概念として最も重要なものは「寸法」です。どんな大きさのセットを作るかは、そのスタジオの大きさ、天井までの高さ、撮影したい映像のイメージによって決まります。それから、もっと大事なことは、出演者の大きさにあわせることです。巨大なテーブルを作って、これはカッコいいなんて思っても、実際に出演者が座ってみて、変な感じだったり、大きすぎて顔も見えないような状態ではどうしようもありません。

月と地球の天国への階段

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月と地球って、惑星と衛星としてはかなり特殊な関係にあるらしい。 ここは地球です 地球を除いた惑星の場合は、従える衛星の大きさや軌道の距離などは、ほどほどの数値があってすべてそれに当てはまっている。しかし、月と地球の関係ではすべてが異常。むしろ、ふたつの惑星が、ともに並んでお互いを回りながら太陽を回っている、というのがふさわしいような状況だとか。ふーん、どっちも惑星と言えるのね。 アーサー・C・クラークさんの本を久々に読んで知った。月というものは、「なんだってそんなところにいるのだ!」というような場所に「居る」らしいのだ。 広い大宇宙を見回してみたら、こんな風な、似たもの同士の惑星ががいくつも見つかるかもしれない。そうすると、その両方に似たような生命体が生まれる可能性がある。しかしクラーク先生は、地球側にしか生命がいなくてホント良かったね、と述べている。

ためこんでどうするの

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フェイスブックかなんかで紹介されていたのだけど、リスがクルミの実なんかを一生懸命に口の中にためこんでる映像が面白い。そんなにパンパンにためてどうするの? 自然界に生きる彼らの場合、一度出会った食料は、極力溜め込んでおく必要があるのだ。次にいつ食べ物に出会えるのか分からない。しょうがないね、はははは っと笑ってから気がついた。 思えば、人間の僕達も似たようなことをしている。

インドカレーの食べ方

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インドは神秘の国。人々はガンジス川で身を清め、来世の存在を信じる。しかし一方でITパワーも高まり、若者たちは向上心とバイタリティーに溢れている。 「嵐にしやがれ」で、ムンバイのカレーの味を探して、銀座にあるカレー専門店を三カ所巡っていた。先日そのうちの一軒の「オールド・デリー」に行ってみた。バターチキン・カレー、多彩なスパイスが素晴らしかった。これはインドだー。 こういう食べ物を食べていると、気持ちがゆったりとして、悠久の時に身を委ねているような気分になる。じっくりと煮込まれたスープには、時のかけらも一緒に溶け込んでいるような気がする。そんな気分でいたところ、せわしそうな感じのビジネスマンが、突然隣りにやってきた。

改良してはいけない

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近所を散歩していると、紅色のカンナよりも黄色のカンナの方が何故かよく目につく。群生しているのは、ほとんどが黄色だ。 自然界のカンナは、紅色よりも黄色の方が優勢なのだろうか。それとも、紅色のやつは、綺麗なので人間が採取してしまうのだろうか。この絵のカンナもひとりぼっちだった。 千葉市の中央公園で大人気となっているハス池のことで、びっくりするような話を聞いた。あれだけ沢山咲いていたハスも、冬には全て取り去られて、さら地ならぬ「さら池」になってしまうのだとか。

地獄のドキュメンタリー

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ビデオが出来て以来、家族の記録を撮ることは当たり前なこと。でも、自分の夫が破産寸前で発狂しそうなところを記録するとなると話は別だ。 映画史に残る大作「地獄の黙示録」をフィリピンで撮影する際に、コッポラ監督は、現地で家族とともに暮らす決断をした。「学校に預けたままにしたら、子供たちが凡庸な人間に育ってしまう」というのがその理由。 そのため、奥様のエレノア・コッポラも、300日にも及ぶ苦難の撮影の日々をともにした。撮影については完全なシロウトだった、エレノア夫人は、ひょんなことから、16ミリカメラを持たされて、本作のメイキング・ドキュメンタリーを撮影することにもなった。 そのフィルムは、たった数分間のメイキング映像として使われるだけの予定だった。しかし撮影の12年後に、それは驚異のドキュメンタリー映画「闇の奥(Heart of Darkness)☆1」として注目を集めることになる。夫のフランシスが恐怖とプレッシャーに襲われ、苦難に満ちた撮影の日々につぶされそうになる姿を、淡々と16ミリフィルムに収めた。 そのままであれば、ただの映像メモの切れ端になっていた、その映像が、ハリウッド映画製作の真実の姿を伝える傑作ドキュメンタリーに化けたのはなぜか。

時代錯誤もいいかもしれない

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もしもこの世界が、食べ物やワインで満たされていたならば。 トルクメニスタンという国は、そのように豊かな国なのだとか。 この国について、なにも知らなかった私。佐藤優氏の「インテリジェンス人間論」を読んでいたら、初代大統領ニャゾフについての興味深い文章の中で、この不思議な国について考えさせられた。 ニャゾフの政府は、国民に対して、食料やウォトカなどが豊富に供給されるように計らった。国民ひとりあたりのGDPは低くとも、生活の満足度は高いのだという。独裁制に近かったものの、国民からの政府の支持率は高かった。

ウォーター・ワールド

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NASAのホームページを見ると、いまも宇宙人探しは続いているようだ。 宇宙人探しといっても、地球防衛網を突破してくるUFOを探知しているとか、MIBのように、一般市民に紛れて地球征服の陰謀を働いているET を捕まえるとか、そういうことでは無いらしい。 地球から見ると針の先のような狭いエリアでも、実は何千という銀河がひしめき合っているらしい。ハッブル宇宙望遠鏡などが持つ超高性能な眼で見ると、その針の先のどこかに、地球とよく似た環境の惑星がいくつも発見できるかもしれないのだ。

さよならヒマワリさよならロビン

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江戸川の土手に向かういつもの散歩道。群生したヒマワリが秋を夕暮れの空に向かって背伸びしていた。そろそろ、ヒマワリともさよならかな。 昨日は、男性アカペラグループ、 ジョリー・ラジャーズ の年に一度のコンサートに行った。NHKの番組の音楽も担当するなど、どんどんメジャーになっている。 後半第三部に、ルネサンス時代の、ものすごく古い宗教曲(☆1)があって、それに引き込まれた。僕の頭の中になぜか映画のシーンがいくつもいくつも現れてきた。それは、いつの間にかロビン・ウィリアムスのヒマワリのような笑顔のイメージにいきついた。 あの笑顔は、おそらく、映画「フィッシャー・キング」でのパリーだな。精神を病んだ大学教授の役。あまりに辛い体験のために精神を病んだ彼は、自分の使命が「失われた聖杯を探すこと」だと信じている設定だった。それが、昨日の宗教曲的なサウンドに触発されて思い浮かんだのだと思う。 現実世界で傷ついたエリートが、無垢な心を持つ道化者に救われる。本物の救済は、無名で無力な者が行う。また、どんな者でも、誰かの救済に身を捧げた時に、自分自身が救済されるのだ。そういうメッセージだったと思う。信じられないほど美しいストーリーなので、この映画が大好きだ。 ロビン・ウィリアムスとジェフ・ブリッジスという、若く才能溢れる二人の演技が素晴らしかった。その無上のストーリーが最高のリアリティで迫ってくるのだ。路上生活をしながら、聖杯を探し続けるパリーの笑顔は、本当にヒマワリのように輝いていた。 もう、二人そろっての演技は見られない。 あなたのいない映画は寂しくなります。 さよならロビン。いい映画をたくさん残してくれてありがとう。 - - - - - - - - - - - - - - - - - -  ☆1: Con Amores, La Mi Madre という曲でした。スペインの作曲家ファン・デ・アンチエタの四声部の曲。邦題は「母さま、私は恋を抱いて」だそうです。

この線を描くのに何年かかったか

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30年前に大流行した「ビックリマンシール」が復刻されて人気を集めているそうだ。 渋谷で「ビックリマン原画展」が開かれて、平日の初日にも行列になったらしい。  当時、ビックリマンシールのキャラクターデザインを手がけていた、大坂のデザイン会社「グリーンハウス」のデザイナーさん。当時は当然ながら「手描き」だった。キャラクター太い線を、使い込んだペンで描いた。「この線を描くのに何年かかったか」というコメントが泣ける。  いま、大学で学生さんたちにデザインを教えたりしてるのだが、手描きに挑戦しようというのは、ほとんどいない。よくてもタブレットペン。ガシガシ塗ったり消したりは、まだいいとして、ガシガシとコピペしたり回転したりレイアウトしたり。色だって、一気に変えてしまうこともできる。  反則じゃんね。  そう思うけど、それはそう思う僕が時代遅れ。手描きの時代にはもう戻れない。すべては、タッチパネルやペンタブレットから生み出される。そういう時代になってしまったのだし、もう昔に戻る予感はこれっぽっちも無い。 まもなく、ハサミものりも、ペンも鉛筆も使わない子供たちが育っていくのだろうか。

コップのバジル地球温暖化と闘う

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コップの中のバジル。 ちょっとだけかもしれないが、地球温暖化と闘っている。 アマゾンの中心に325メートルの巨大タワーが建設される。そんなニュースを新聞で読んだ。アマゾン・トール・タワー観測所(ATTO)と言って、その周辺の数百キロの範囲についてあらゆる気象データや、二酸化炭素の吸収量などを測定するのだそうだ。 ブラジルを中心にしたアマゾン川流域の熱帯雨林は、地球全体の気象変動に大きな影響を与えるほど巨大。しかし、そのアマゾンの熱帯雨林の年間消失面積は増加し続けている。うーん、とても心配だ。どうすれば、地球を温暖化の一途から救うことが出来るのか。 うちのテーブルに載って、葉っぱを広げているバジル君。この小さな葉っぱも、一生懸命に、二酸化炭素を取り込んで、光のエネルギーを定着してくれている。こんな芸当ができるのは植物だけ。人間は、まだその一部をちょっと真似できるだけ。 今日、僕がはきだした分の二酸化炭素も取り込んでくれるかな。 こんなに働き者なのに、ちぎってパスタに乗せたりしてごめん。

ケヤキの一生と超新星

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ケヤキの樹というものは千年以上生きることがある。 大学キャンパスにあるこのケヤキも、僕よりもずっと長生きするはず。ちょっとだけくやしい。 昨日の朝日の「科学の扉」で、一千年前に現れた超新星が、藤原定家の「明月記」に正確に記録されていたという話が紹介されていた。 現在観測されている、かに星雲の愛称で呼ばれるSN1054など、三つの超新星爆発のデータと一致するんだって。陰陽師の安倍家の記録を再録したものや、定家自身が観測したことが書かれている。とつぜん現れるので「客星」と呼ばれた。 一千年の時を越えて伝えられたって、何か超人的。地球から肉眼で見える明るさの超新星というのは、年間で数個程度しかない。定家が見たような、火星並に明るいものは滅多に出現しないそうだ。 残念ながら、これから残りの人生で、僕が超新星のに出会う可能性はとても低いのかと思う。でもケヤキ君、君なら見ることが出来るだろうね。超新星爆発。

マスカット・グリーン

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お隣からのいただいた、マスカットです。 自動車や家電にも鮮やかなマスカット・グリーンが使われるようになりました。グリーンという色は、僕たち人間を惹きつけて癒やしてくれる色ですね。 大学のキャンパスにも、沢山の樹木があるのですが、その中でもダントツの存在感があるのは、僕の居る建物の目の前の、三本のメタセコイヤです。20メートル近くあり、建物の8階の窓からその先端が見えます。 このメタセコイヤが、そろそろ葉を落とし始めました。冬に向けてエネルギーを作り出すよりも、寒さから身を守ることを優先する作戦ですね。足元に落ちているグリーンの葉を見ると、このひとつひとつが、エネルギー発生装置であることに改めて気づきます。 人間が地球上で使っている化石燃料の大半は、こうして樹木たちが何億年もかけて作ってくれたもの。このグリーンという色が自然界にあるかぎり、太陽の恩恵をエネルギーとして利用することができるのですね。僕たちがあまり欲張りなことをしなければですが。

リンゴの時計

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アップルです。でもこれは「和りんご」といって、りんごの原種みたいなものだそうです。友人が東宮御所で撮影して送ってくれました。 Apple Watch の発表のあと、いろいろとネットを見ていますと、この新製品の歴史的な価値や売れ行きの見通しなど、さまざまな議論がありますね。 僕自身は、とにかく「文字盤から、針もデジタル数字も消えた」時計であるということが、とても気になります。僕たちの生活をなんらかの形で変えてくれないか、ちょっと期待しています。 ウォッチというからには、あくまで「時計」であるのはずなのに、本来「時計」であることを示していた主要な部品がなくなっている。あるのはフラットなタッチスクリーンだけ。そこに、何か矛盾も感じるし、何か可能性も感じます。小さなiPhoneにベルトがついただけではないはず。

ロストした時間

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日記アプリのデータ同期事件、大変でした。 いやー、昨日はこのことだけで、3時間くらい無駄にしてしまったかも。 心理的にえらく消耗しました。そしてなぜか、そのロストした3時間がとても早く感じられました。時間が丸ごとどこかへ連れ去られてしまったような感じです。 本当に時間というものは不思議です。昨日のように、なにか非日常的な状態に巻き込まれ、自分の心が動転してしまっていると、あっというまに時間がたってしまう。ドキドキハラハラした心の状態では、そもそも時間の感覚というものがなくなってしまう。

同期ができない

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ドロップボックスを使って、日記アプリを同期していたら大変なことになりました。 iPhoneと、PCの両方に同じ「Day One」というアプリを入れて、データを同期させて使っているのです。とても便利で気に入ってました。しかしあるときに、妙なことに気づきました。iPhone側でのエントリー数は1,933。それなのに、PC側では、3,233になっているぞ。 双方で数が全然合わない。なにこれ?それで、PC側のエントリーを、過去にさかのぼって調べてみました。すると出てくる出てくる、同期時の衝突によって生まれた不要なファイルがぞろぞろと。まったく同じタイトル、同じ内容のエントリーが山ほどある!

もとには戻れない未来がやってきた

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テニスに続いて、昨日も寝不足の方が多かったようです。けさほどのアップル社新製品発表会。[ iWatch ]の姿が明らかになりました。正しくは [ AppleWatch ] というのだそうです。 あくまでアップル信者向けの高級商品にすぎないという人もいるようで、ヒット商品になるかどうかはわからない。それに、老眼の人にはどうもね。 それでも、やはり「時代を変えてしまうもの」であることは間違いないでしょう。大げさに言うと、今日という日に「時計」というジャンルのボーダーラインが変わってしまった。もう私たちは「AppleWatch」以前には戻れない。

サクランボの季節よさようなら

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サクランボのシーズンも終わりました。いよいよ、本格的な秋の到来でしょうか。今朝の錦織選手の試合が、ちょうど今年の夏のおわりを告げているような気がします。 もとの会社の同僚が、FBで彼岸花の最速開花レポートをあげてくれました。 自然界は、着実に季節をはこんでいるのですね。 新聞によると、大阪道頓堀の界隈では、江崎グリコ大看板が改修中だそうです。いままでの五代目看板にあった通天閣が、六代目の新しいデザインにも残るのかどうか、注目が集まっているようです。グリコ側は、そのデザインの全貌を、まだ明らかにしていないらしい。

メロンの快進撃

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錦織選手のUSオープン快進撃、凄かったですね。この数日間、ほんとに楽しませていただきました。放送権料が高騰しているためか、NHKのBSでも放送してもらえなかったのは残念でした。 価値あるものには高値がついて、一般市民の手から離れていく。 マスクメロンも一般市民からは遠いです。頭に一本だけ茎をつけて「僕、大事に育てられました」という顔をしてます。果物売り場の最上段が似合う果物界のプリンスと言えます。 数日前に、金魚と人間が共存繁栄しているのでは、といことを書きました。マスクメロンの運命も同じようなことが言えるのかもしれません。彼らの種の繁栄も、あくまで人類との一蓮托生である可能性があります。これは彼らにとって良いことなのかどうか。

締めに何かいただきましょうか

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仲間と楽しいディナー。一通り料理がおわり、もう結構お腹いっぱいなのに、「締めに何かいただきましょうか」となることがありますね。スィーツ類やコーヒーなどが、そこらの出番を狙ってます。 この「締め」っていったい何でしょうか。 例の「締め切り」ともなにか関係あるのでしょうか。 広辞苑によると「締め」という言葉には、「決着」「しめくくること」「数の合計」、あるいは「束ねたものを数える語」などの意味があるそうです。集めたものをひもなどで締めて束ねるというところから始まった言葉のように思われます。

重要なタイミング

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昨日のブログで、「バラには締め切りがないのに、季節がくればきちんと花を咲かせます」という話を書いたところ、FBのほうで「自己管理できてますね」というコメントをいただきました。まったくですね。 自然界に生きるものは、自分が生存し続けるのはもちろんのこと、種全体が生き延びていくために、ベストの方法、ベストのタイミングを守って、ものごとを進めなければならない。 ハスの花の場合、一個一個の花で観ていると、だいたい四日間咲き続けるのだそうだ。それも、ずっと咲いているのではなく、だいたい前日の深夜から花が開き始め、午前中には一度閉じてしまう。早朝に開いて、9時くらいから閉じるということを繰り返し、その後「蜂の巣(ハチス)」のような花托を残して枯れるのだそうです。

バラの締め切り

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バラには「締め切り」などというものはありません。 「今年の開花締め切りは、5月18日と早めになっておりますので、つぼみのご用意は4月中にはお忘れなく」なんて聞いたことないです。 それでも、いつのまにかちゃんと、それなりの季節にきちんと花を揃えている。一年間かけてじっくりと用意した成果を、満を持して開かせる感じ。急かされることなく、しかも仲間みんなと揃って咲かせる。これが自然界の摂理というものでしょうか。 「締め切り」というのは人間界だけの決まりごと。自然の摂理にはそぐわない。そもそもその語感が嫌です。目の前でぴしゃりと扉を閉められてしまう感じ。取りつく島もないというか、こちらを締め出そうとする隠れた悪意すら感じます。

スケジュールの無い町

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いわゆるウィンナコーヒー的な どうして寅さんはウィーンに行ったのだろう? このところBS-JAPANで、映画「男はつらいよ」シリーズ全作品を一挙に放送しています。毎週土曜日の録画を観るのがとても楽しみであります。 先月は、私の大好きな第41作、「寅次郎心の旅路」が放送されました。寅さんがついに海外へ、しかも音楽の都ウィーンへ出かける回ですね。これがシリーズで唯一の海外旅行なのですが、超ニッポン・ドメスティック人間、寅さんがウィーンに行くなんて、いったいどうして?

ゆらゆらの存在価値

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三郷公園近くの金魚園で、まるまると育ったリュウキン。リボン結びみたいな体型、目も大きくて、まるでアニメキャラみたい。可愛いけどちょっと泳ぎづらそうですね。人間が品種改良を重ねた結果、このようなゆるいお姿に相成られたのですね。 金魚という種にとって、これもひとつの有利な進化なのでしょう。 保護者である人間が絶滅してしまったら、彼らはすぐに自然淘汰されてしまうでしょう。猫よけのネットで覆われた金魚池を見ることがありますが、自然界で生きていこうとしても、無駄に目立つ色なので、まっさきに捕食者に見つかってしまう。 人間が彼らを無理やりに進化させたとも言える。 彼らが人間を使って、自分たちを進化させようとさせたとも言える。 人間と金魚の相互依存関係を考えると面白いです。 でも人間は、金魚の持っている「なに」に依存しているのでしょうか? 投機的価値?お金儲け?

新種のアップル

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今年のアップル新製品発表会は、9月9日に決まったとか。  iPhone6が楽しみとか、アイ・ウォッチ欲しい!とか言って、みんなと一緒に盛り上がりたいところですが... 僕としてはどちらかというと「あまりいろいろな変更しないでね」というのがホンネ。いま享受している、素晴らしい環境をこのまま使わせてね!という、超保守的ニンゲンとなりました。それくらい、いまのマックやiPhoneを中心とした、コミュニケータの性能はすごいと思うのです。 ところで、アップル=林檎というものは、どうしてこう、素晴らしく面白いことのアイコンになるのでしょう。

残念ではございますが...

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BBCではデビッド・ボウイが... 今日は、卒研ゼミで中間発表の練習会。 ある学生さんに、エントリー先の企業から「お祈りメール」がとどいた。ゼミ中に来るなんてタイミングが良すぎる。でもまあ、めげないで頑張ろうね。 ここ数年の就職活動というのは、とにかく過酷です。みんなが一線にならんで、まるで大学受験の延長のように繰り広げられる、まさに「戦線」の様相。なにかもう少し、人間的で穏やかな斡旋方式とか、昔の「口入れ屋」的な紹介方法はないのだろうかね? 人が人を選ぶ。人に人が選ばれる。 難しいことです。

グランドホッグ・デイ

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毎朝6時になると... テレビ関係の集まりがありまして、久しぶりに赤坂のTBSにお邪魔してきました。 テレビ美術の古くからの友人が、おしゃべりにおつきあいしてくれました。 それで、このブログにこのあいだ書いた話をした。 「毎年4月になると、大学はリセットされて一年前の状態に戻るんです」 「高校野球の監督も同じこと言ってるね。でもさ、それが面白いらしいよ」 なるほどー。 われわれ大学教員といのは、高校野球の監督に似ているのだ。どんだけ手塩にかけて(古い表現!)学生を育てあげても、4月になれば卒業していなくなってしまう。そして、手元に残るのは、下級生と、ただただフレッシュな新入生だけ。1年が振り出しに戻る。 しかし、彼曰く「それが面白い」のだと。高校野球の監督のみなさんは、それを何年も何年も続けている。そしてある時に、素晴らしい条件が揃った年、全国に打って出るチャンスを得る。なるほど、そういうことなのだ。ちょっと目が覚めました。

4月はちょっと嫌いです

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このベンチに、フレッシュな新入生が座る… この仕事(大学の教員)になってから、4月がちょっとだけ嫌いになりました。 年度の始めだから?それは、そのとおり。仕事が始まるっていうのは、気が重い。日本ならばどこでも4月は仕事始めなので同じこと。前の仕事では、とにかく4月には新しい番組シリーズが始まるので猛烈に忙しかった。どこも同じなのに、なぜ? 4月とは、私にとってタイム・パラドックスだから。 時間が、「ふりだしに戻る」からです。

人がどう思っているかなんて

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今日、森鴎外の「阿部一族」を読んだ。 高校の教科書で知って以来、何度めかと思うのだけど、まるで初めて読んだように面白かった。自分が老境に近くなったので、同じ小説を読んでも、以前とは感じかたが違うのかもしれない。 この小説に出てくる人々にとって、名誉ある殉死を遂げるということは、どういうことだったのか。この小説では登場人物の心情が細やかに表現されていて、実に同情させられる。

これも進化のひとつということで

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エビネの花・大竹さんのFBから 産業革命は、好ましくないものをたくさん生み出してしまった。自然環境は破壊され森林は伐採されて、工場からは有害な煤煙が吐き出されるようになった。 僕たちがいま享受している、生活はさらにその上に作り上げられた。今日スケッチした「エビネ」という花が絶滅危惧となっているのも、地球温暖化が進んでいるのにも、僕自身ちょっとだけ責任がある。 GW中、家の書斎コーナーの掃除を命じられている。掃除できる休暇なんて久しぶりなのだ。これで三日目だけどまだまだ片付かない。どれだけほったらかしだったのだろう。自分でもあきれながら、昔のソフトウェアの箱などをたたんでいます。

お店でいえばスナック紫蘭

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紫蘭です。亀戸天神近くの、老舗菓子屋「船橋屋」の庭で咲いていました。ちょっとピークが過ぎた「藤祭」よりも、なぜかこちらの紫蘭のほうがインパクトありました。 花というのは、次世代に送る種を包むパッケージ。寄ってくる虫たちから見て、魅力的な形と色が魅力的になるように、カンペキなデザインになっている。

雨に負けぬ花

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大学の一年間は4月がはじまり。このゴールデン・ウィークというものは、スタートダッシュした直後、いきなりの小休止という感じ。準備不足のままスタートした仕事をリカバリーするチャンス。また、この一年間について考えるひと時。 いつもここで考えるのは、卒業して行った学生さん達のこと。ついに社会人となり、きびしい世間の波にもまれていることだろう。世間というところには、風も吹けば雨も降る。ときには、大嵐もやってくるだろう。みんな負けないでガンバレー。

伝えてあげたいこと

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メンデルが住んでいたブルノ(現在はチェコ) メンデルの法則というのは、確か中学校で習う遺伝の仕組みでしたね。そんなにも有名な法則なのに、その論文自体は当時、誰も見向きもしなかったのだそうだ。 グレゴール・ヨハン・メンデルは、エンドウ豆栽培などの園芸と、統計学の両方を趣味にしていて、そのふたつがこの世紀の大発見を可能にした。でも、登場の遺伝学の世界では統計的な表現が理解されにくかった。またメンデルの科学者としての知名度も低く、誰の注意を引くことも出来なかった。

ちっちゃくまとまるなよ

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桜、咲きました 今月のナショナル・ジオグラフィックの記事を読んで、ちょっと気宇壮大な心持ちになりました。 アンデスの山が連なる高地に作られたアルマ望遠鏡の記事です。砂漠のような土地に巨大なパラボラ型アンテナが66基も並んでいる。たくさんの眼で同じエリアを見つめ、お互いの画像を重ね合わせることで宇宙の深淵をクリアな映像に描き出すそうです。20年もの月日と、1300億以上の費用を投入した国際プロジェクトなのです。

二卵を以て千城の将を棄てる

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イノダコーヒーの中庭 イノダコーヒーでのモーニング。 トーストに乗ってきた目玉焼きを食べつつ考えた。 人事評価的について「減点評価ではなく加点評価」でという話がでることがある。つまり人を評価するのに、失敗したことを減点するのではなく、プラスになったところだけ前向きに評価しましょう。ここで言いたいことは「失敗をおそれずにみなさん勇気を持ってチャレンジしよう」ということである。

明治44年に大学は出たけれど

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熟成18年 夏目漱石は、小説のみならす、講演の名手でもあったそうだ。明治44年に明石で開かれた講演会の内容が「道楽と職業」というタイトルで出版されている。 その中で、大卒者の就職難に触れている。当時の大卒者の数たるや、現在とはまるで違うだろうし、社会における職業のあり方も全く異なったはずた。しかし大卒者にとって、就職というものが簡単ではなかった。この点だけは、現代と似た状況であったようだ。 漱石は「最高等の教育の府を出」た若者たちが、「何か糊口の口がないか何か生活の手蔓はないかと朝から晩まで捜して歩いている」。「三ヶ月も四ヶ月もボンヤリして下宿に入ってなすこともなく」しているものや、ひどい場合、「一年以上も下宿に立て籠って」いるものもいる、と嘆いている。 「職業の種類が何百とおりもあるのだから」どこかに決まりそうなものだが、「ちょうど嫁を貰うようなもので」、「いくら秀才でも職業に打付からなければしようがないのでしょう」。もっともな話である。

アイラ島のボウモア18年

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ボウモアの港 仙台から高校の同級生のE教授が上京してきた。そうだな、彼と僕との共通点といえば、高校の卓球部で、いつもラリーの練習をしていて、同じ頃に辞めたことかな。専門領域も学力レベルもまるで違うのだ。僕は放送局出身のエンタメ系。彼はいまや日本の物理学を背負って立つくらいの先端的研究者。 彼の研究は先日の日経サイエンスでも紹介されていて、海外の科学誌にも掲載されている。そういう世界的レベルの方。せっかくそういう本人が目の前にいても、研究の内容について、僕は理解するどころか、質問することすら出来ない。歯がゆい。