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Showing posts from January, 2010

バートン・フィンク

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ブロードウェイでの成功を夢見ていた脚本家が、映画会社社長に見込まれて、ハリウッドに進出する。映画会社で出会う社長も、プロデューサーも、かつて尊敬していた脚本家も、人格崩壊寸前のストレス人間ばかり。宿泊した安ホテルには、とびぬけて「キレた」キャラクター、謎の保険勧誘員が泊まっていた。いつの間にか狂気の都ハリウッドに渦巻く、毒気あふれる乱気流に飲み込まれ、脚本家本人も、ついに抜き差しならない悲劇のまっただ中に放り出される。 コーエン兄弟作品に共通するテーマとは何か。「理不尽におそいかかる運命と闘うおろかなる人間」の姿を描くことではないだろうか。そしてその「おろかなる人間」を、映像を通して造形していく腕前が素晴らしく、「理不尽な運命が」哲学的なメッセージを含んだ、鮮やかな語り口の脚本に託されると、彼らの作品はひとつのマスターピースへと結晶する。スクリーンに不思議な後味を残して。 コーエン兄弟作品は、つねに神の視点のような「高み」から、クールに語られる。神の視点から見れば、一般庶民が生活の中で体験する、悪夢のような出来事も、まるでデパートのカタログの1ページのようなもの。複雑に絡み合った事件、わけのわからない取引、意味不明な人間関係。そうしたものも、神から見ればすべては「はじめから決まった運命」の展開に過ぎないのだろうから。しかも、コーエン兄弟の映画の視点は、同時に映画のキャラクターへの愛情あふれるまなざしでもある。まるで、神がわれわれの愚行を許してくれるように、カメラはどんな悲劇も喜劇も、ただただ冷静に見つめるだけだ。 つづきを読む>>>

不動智神妙録

江戸前期、徳川家に兵法指南役として重用された柳生但馬宗炬。柳生一族の中興の祖ともいえる、この剣豪には、実は精神面で彼を支える師匠とも言える人物がいた。テレビドラマなどでは、宮本武蔵の指導者としても描かれる「沢庵和尚」こと澤庵宗彭(たくあん そうほう)である。(沢庵と武蔵との関係は、吉川英治氏も認めているように、根拠のない創作) この沢庵が、柳生但馬守にむけて送った書簡をまとめたものが「不動智神妙録」で、禅の教えを通じて武道の極意を説いた最初の書物であると言われる。 ____________________ とらわれた心は動けない 「不動智神妙録」には、命を賭けた勝負を前提とした、剣術師の心得となるような精神論が展開されている。ここに述べられている内容は、現代の勝負師である大相撲の力士だけでなく、日常の世界に生きるものにも、平常心を持つことの重要さ有用さを教えてくれるものである。以下「不動智神妙録」より「動かないことによって動ける」という、心のありかたに関して一部紹介する。 「不動明王とは、人の心の動かぬさま、物ごとに止まらぬことを表しているのです。何かを一目見て、心がとらわれると、いろいろな気持ちや考えが胸の中に沸き起こります。胸の中で、あれこれと思いわずらうわけです。こうして、何かにつけて心がとらわれるということは、一方では心を動かそうとしても動かないということなのです。自由自在に動かすことができないのです。 つづきを読む>>>

柳生家の家伝書

限定した心を戒める「兵法家伝書」 江戸前期、徳川家康から家光の時代にかけて、幕府の剣術指南役であった、柳生但馬守宗炬(むねのり)が、柳生家のために書き残した「兵法家伝書」には、人間の日常からの心得や、生死を分ける勝負における精神の持ち方について、具体的に書き記された「戒め」が書き残されている。これは、柳生但馬守が、臨済宗の名僧、沢庵から直接学んだ教えを伝えたものでもある。以下一部引用する。 「かたんと一筋におもふも病也(やまいなり)。兵法つかはむと一筋におもふも病也。習いのたけを出さんと一筋におもふも病、かからんと一筋におもふも病也。またんとばかりおもふも病也。病をさらんと一筋に、おもひかたまりたるも病也。何事も心の一すぢに、とどまりたるを病とする也。此様々の病、皆心にあるなれば、此等の病をさって心を調る事也(ととのうことなり)」。 つづきを読む>>>

勝敗の念を度外に置く

精神上の作用を悟了 一たび勝たんとすると急なる。忽(たちま)ち頭熱し胸躍り、措置かへって顚倒(てんとう)し、進退度を失するの患(うれい)を免れることは出来ない。もし或は遁れて防禦の地位に立たんと欲す、忽ち退縮の気を生じ来たりて相手に乗ぜられる。事、大小となくこの規則に支配せらるのだ。 「おれはこの人間精神上の作用を悟了して、いつもまづ勝敗の念を度外に置き、虚心坦懐、事変に処した。それで小にして刺客、乱暴人の厄を免れ、大にして瓦解前後の難局に処して、綽々として余地を有(たも)った。これ畢竟、剣術と禅学の二道より得来(きた)った賜であった」。 維新前夜の日本は、国中が争乱状態であり、いわば現代における「テロ戦争」が国内で起きている内戦状態に近かった。勝海舟は、国家の大事を背負い、敵方からも味方からも、大変な期待とプレッシャーを受けながらの大任を果たし、近代国家としての日本の礎を作り上げた。その人生は、日常的な戦いの連続であり、精神の鍛錬なしには生き残ることは出来ないような、危険との隣り合わせでああった。現代に生きる我々の日常には、さすがに命をつけ狙われるような危険はないかもしれない。しかし、社会で起きているものごとや、人間関係の裏側には、むしろ精神面そのものの危機が潜んでいる。 つづきを読む>>>

ワレイマダモッケイタリエズ

昭和の名力士、双葉山は69連勝の大記録を作ったのち敗れた。70勝を賭けた大勝負に敗れた夜に、双葉山が尊敬する先輩にあてて打った電報の文字が「ワレイマダモッケイタリエズ」だ。「モッケイ」とは「木鶏」、つまり木でできたつくりもののニワトリのことだ。「自分はまだ木鶏のようになれない」という言葉には、双葉山のどんな気持ちがこめられていたのだろうか。 木鶏の逸話は、「荘子」外篇・達生と、「列子」黄帝篇で語られている。闘鶏でつかう鶏を鍛える話だ。相手の鶏が出てきて興奮したり、カラ元気を出したりするようでは強い闘鶏にはならない。どんなに相手が挑発してこようとも、まるで木鶏のように、相手のことなどにかまわず平気にしている。そうまでなれば、どんな鶏でも応戦するものなんかなくなり、相手はみな恐れて退却するようになる。双葉山は、道場に木鶏の扁額を掲げて、ひそかにこの木鶏の工夫を積んでいた。[*1] 双葉山は69連勝までの記録を残し、名横綱としての名を不動のものとしても「自分はまだまだ修行の途中である」と語っているのだ。なんという向上心、成長を願う強い意志。 強い力士には「心の工夫」がある。命を賭けた決闘に向かう武士。先物取引市場での巨額取引に身を投じるトレーダー。難手術に挑戦する心臓外科医。こうした仕事では一瞬の判断ミスが命取りとなる。瞬間的重要な判断を行う仕事には、相撲取りと同様に「木鶏のような心」が必要。

MUSIC FOR THE FUTURE 2010

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本日、原宿の[FAB]というライブハウスで、学生の運営によるチャリティーコンサートが催されました。タイトルは「Music For The Future」と言って、ベトナムのガオ村での教育事業への支援を目的としたものでした。出演者は、東京工科大学の出身アーティストもふくめて6組。夜7時から10時過ぎまで、それぞれ大熱演でした。 ____________________ [Music For The Future] 2009年1月16日(土) 原宿FAB ____________________ [出演者] 黒倉由美子 / fuu / 乱舞虎(らぶとら) 玉城ちはる / ダイスケ / HoLYWooD ____________________ [主催・運営] 東京工科大学 TUT Music Support つづきを読む>>>

バーン・アフター・リーディング

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離婚訴訟を扱う法律事務所で働く「コニー」というおばさん。彼女が通う"HARDBODIES"というスポーツジムのロッカールームでうっかり忘れたCDディスク。このCDには、依頼人の夫が書きかけていた「暴露もの自伝」のデータが含まれていた。このCDが拾われたことが原因で、関係者のうち三人が人生の破滅に追い込まれる。 いつものように、コーエン兄弟の脚色が冴える本作。偶然と必然の網にかかった「関係者」が、運命の糸を引っ張り合いもつれあい、はては拳銃や手斧を振り回して大乱闘。そんな姿に引き込まれているうちに、あっという間に悲劇の終幕へと大疾走。最後は神の視点のような俯瞰ショット。地上遙か天上からの視点で、この映画は観客に語りかける。「あなたも気をつけて。あなたの人生は大丈夫?」 この映画に登場するのは、以下の四人の壊れたキャラクター。コーエン兄弟は、この四人のキャラクターは、それぞれ別々脚本のために考えられたと言っている。しかもこの四人は、もともと別々のストーリーのための役を組み合わせて作られたキャラクターだという。このように、まったく脈絡のない取り合わせが、結合することによって、観客にも(おそらく原作者本人にも)分からない、予想不能なストーリー展開が可能になるのかもしれない。 つづきを読む>>>

グラン・トリノ

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上り坂と下り坂は、ひとつの同じ坂 ギリシャ時代の哲学者、ヘラクレイトスの言葉だ。坂道というものは、それを登る者にとっては難儀なものだが、下るものにとっては都合がよい。同じ坂道を行き来するのに、登るときには文句を言い、下るときには涼しい顔をする。人間とはそういうものだ。自分の置かれた状況を、よくよく考えてから文句を言いなさいよという警句だ。また、この言葉にはこういう意味もあるだろう。上り調子でうまくいっているときは、そうは続かない。今はうまくいっていても、いつかは下り調子になっちゃいますよ。いつまでも調子に乗ってちゃあかんよ。 ____________________ ヒーロー像は不滅 主人公、ウォルト・コワルスキーは、ポーランド移民という設定だが、まるで、荒野の用心棒のように、アメリカン・ヒーローのシルエットを形作っていく。ストーリーラインは、同じクリント・イーストウッド監督主演の「許されざる者」と同様。戦いの一線を退いたはずの孤独のアウトローが、思わぬなりゆきから、愛する者への敵討ちに乗り出さざるを得なくなるという筋立てだ。この辺の作りは、見る者に十分な感情的カタルシスを与えるので、見終わったときの満足感も大きい。 舞台が西部劇の荒野であろうが、犯罪にまみれた現代社会であろうが、ヒーローの役割はひとつだ。悪い奴らにお仕置きをして、この世にある「正義」をたたきつけるのだ。相手は悪い奴ほど良い。そしてその悪い奴がやったことが憎らしいほど、ストーリーは盛り上がる。正義の鉄拳をたたきつけるのが「ヒーローの役割」で、憎たらしい奴がやらかす悪事の数々こそが「ヒーローの存在理由」だ。 つづきを読む>>>

心の分子

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NHK「プロフェッショナル・仕事の流儀」で、10代目・柳屋 小三治 師匠を紹介していた。平成の名人の高座での孤高の姿をとらえた素晴らしい番組だった。 番組中小三治師匠が、脳科学者の茂木健一郎氏に質問が興味深い。「稽古をして覚えた演目が、百数十はあったはずなのに、今はそのうち、数十しか覚えていない。その消えた演目はどこへいったのでしょうか?」この質問に茂木氏は、「繰り返し練習による記憶の強化」や「体で覚えたものは忘れない」といった、きわめて表面的な答えしか返せなかった。そこで、小三治師匠はこう言った。 「やはり先生は、脳の弁護をしていますね」。 名人の域にまで達する人、特に小三治師匠のように、修行僧の荒行のような稽古を繰り返している人は、脳や記憶というものを越えた、ある状態を掴もうとまでしているのかもしれない。つまり、人間の体を、電線や歯車のような部品としてではなく、ひとつの統合された何かに持って行くということ。精神というものが高まることで、機械やコンピュータを動かすのとは根本的に違う何かの状態に持って行く、そういう状態。特に今の小三治師匠のように、リュウマチに冒されている体を酷使してまで、闘っている人にとって、その何かとは、我々のような凡人とは、まるで別次元のところにあるのだろう。 つづきを読む>>>

コミュニケーションの森

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「ある森にある音声の周波数は、すべての帯域が各種の生命によって埋め尽くされている」という考え方がライアル・ワトソン著 「エレファントム」  の中で紹介されている。正確を期すために、以下一部引用させていただく。 「生態が安定したところでは、生物音が切れ目なく全体を満たしている。あらゆる周波数のスペクトルがきちんと埋められているので、音が一つの完全な状態を保っているのだ。それぞれの地域で、生物たちは互いに穴埋めをするように音を出している」 そして、その音のコミュニケーション全体の底辺で、長く遠くまで届く、超低周波の音域を使っていたのが象であったという。ワトソン氏は、その象が絶滅に瀕している南アメリカ大陸では、「象が占めていた重要な場所(音声帯域)には音の穴があいている」と述べる。 象たちは、それぞれの個体が、信じられないほどの広大な行動範囲を持ち、そしてお互いに遠距離の通信手段(低周波帯域の音声コミュニケーション)をしている。したがって、象がいる地域には、象社会による通信ネットワークが形成されていた。象たちは、人間社会よりもずっと早く、ワールド・ワイド・ウェブによる社会コミュニケーションを作り上げていた。 それが、象たちの信じられないような行動(ばらばらの個体が同時期に一斉に水場に集まる、離れた場所の象同士が平行線を引くように移動していく、広い地域に点在している雄と雌が、一年のある時期にだけ出会うなど)を可能としていたのだ。その素晴らしいネットワークが、いまや人間による乱獲によって分断され、消えていこうとしている。 つづきを読む>>>

映画という生命体

生命は単なる分子なのか。原理的には説明できるが、おそろしいほどの複雑さで協調して働く分子なのか。それとも、さらに何かが含まれるのか。われわれにはまったくわからない。(中略)生命体は分子とそれらの相互関係にほかならないとされる可能性がある。分子の謀叛が「リア王」を想像したとすれば、それはこの世界を魅惑的なところにする可能性のあかしだからだ。 (フィリップ・ボール著「生命をみる」 p.40) 生命とは、各レベルに分かれた様々な現象が、複雑にからみあい協調しながら実現しているものだ。臓器レベルでみれば、まるで各器官が、自動車や電機製品の部品のように働いて見える。それをタンパク質レベルにまで拡大して見れば、まるで、巨大部品工場のラインのようでもある。遺伝子、DNAレベルで見れば、それは、インターネット空間を走り回るデータの渦だ。しかし、これらのどのレベルで観察してみても、それは生命という複雑な現象の一断面を見たにすぎない。 つづきを読む>>>

心のポテンシャル

通常ダムに溜まった水は,社会に大きく貢献する。田畑を潤し,水不足を解消する。高地に蓄積された水は、それ自体がポテンシャル・エネルギーを持っているので、水力発電に利用することもできる。ダムに水が溜まるということは、それだけで人間社会のインフラとして、重要なエネルギーと資源が溜まると言うことである。 ダムに溜まった大量の水が漏っているエネルギーの状態は「準安定」という状態だ。[*1] 水門を閉めた状態では、水はしっかりとダムに閉じこめられていているのだが、一旦水門を開け放てば、そこから斜面を下り落ちる水は、多量のエネルギーを一気に放出する。それに比較して、地中深くに蓄えられた地下水の場合「安定」しているために、そのエネルギーを取り出すことが出来ない。 [*1] ジョージ・ガモフ全集 5 「原子力の話」 p.25より ____________________ 人間にも、ダムのようにいろいろと溜め込むタイプの人がいる。日々のストレスにしても、勉強の積み重ねによる教養にしても、何らかの形でそれは、一人の人間の中にため込まれていく。それが、その人の人格であり、人生であろう。 人間の一生のうちにため込まれた、エネルギーは時として、いつか巨大な力を持つようになることがある。ヒトラーのような怪物は、まったく異常な形で「人生のエネルギーが蓄積した人間」なのかもしれない。ユダヤ人に対する嫌悪、自分を阻害した社会に対する復讐心、嫉妬、怨念。こうしたエネルギーは、巨大ダムのように溜まってしまっては迷惑だ。迷惑どころか人類全体に対する脅威にすらなる。 人間の場合もダムと同様、内部にためられた「エネルギー」は「準安定」の状態にある。一見おとなしそうな性格の人でも、ひとたび「キレる」と何をやりだすか分からないという場合がある。巨大ダムのように、満々と水を蓄えながらも、ひたすら静かな湖面のみを見せて「安定」状態を続けられる人間を、偉人というのかもしれない。 九州にある「大蘇ダム」の場合、ダムの底の土壌が火山灰質であるためか、工事が完成しても一向に水がたまらないそうである。「大蘇ダム」の場合も、おそらくいつまでたっても、解き放つべきエネルギーはたまらないことだろう。私自身も、内部にはたいした量のエネルギーもたまらない。毎日適度に飲んだり愚痴ったり、ほとんど「水漏れダム」に近い状態

象のインターネット

象たちはインターネット網でつながっている。 2004年12月26日のスマトラ沖地震で、津波がタイ南部の町カオラックを襲った。ここでは象が人間を救った。カオラックで飼われていたゾウ8頭は、スマトラ沖で地震が起きたころ、突然鳴き始めた約1時間後、再び鳴き、客を乗せていた複数のゾウが突然丘に向かってダッシュ。客なしのゾウもつながれていた鎖を引きちぎって後に続いた。当時ビーチにいた、外国人観光客ら少なくとも3800人は逃げ遅れ、津波にのみ込まれた。(当時のロイター伝より抜粋) ライアル・ワトソン著「エレファントム」には、この話のような象についての信じられないようなエピソードが満載だった。(スマトラ沖地震での津波の話は無い)昨年末に手にした「エレファントム」は、早速私のお気に入りの一冊となった。しかし、残念なことにワトソン氏は、この本ともう一冊の「思考する豚」を残して、2008年にこの世を去ってしまった。 つづきを読む>>>

ザトウクジラの歌

1980年代に、バーミューダ諸島でザトウクジラの行動を研究していた、ペイン夫妻(ケイティー・ペインと夫のロジャー・ペイン)は、水中で、人間の耳では聞き取れない、超低周波、超高周波の音を録音して分析した。そしてその中から、ある種の複雑で洗練されたコミュニケーション言語のような音響パターンを発見した。(参考: wiki クジラの歌 ) 続いてケイティーは同じ手法を使って、動物園にいる象たちの言葉を分析した。なんと象舎の中は、超低周波の音に満ちていたという。この象舎にいた二頭の象は、人間の耳で知覚できる音の3オクターブも低い音を出しながら、1メートル近い壁を隔てて、じっと向かい合っていたという。おそらく、分厚い壁を通り抜ける会話をしていたのではないだろうか。 ケニアでは、象の雄と雌が、五年ごとに遠く離れたお互いを、難なく見つけ出す。またジンバブエでは、数マイルも離れた所にいる象たちが、正確に動きを合わせている。また、ボツワナの象たちがチョベ川に向かう足跡を調べると、それは定規で引いたような直線であるだけでなく、それぞれ等間隔の平行線になっていた。また、象たちは、何週間も会わずにいた相手と同じタイミングで、別々の方向から泉にやってくる。 つづきを読む>>>

インコのケンカ

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うちで同居している二羽のボタンインコ。この二羽は、なかなか親密な関係にはならないが、時に機嫌がよい時には、軽やかに鳴き合って睦まじくしている。そうかと思えば、金切り声を上げてとっくみあいもする。二羽の間の感情の変化は鳴き声を聞いていればわかる。つまり、私には、この二羽の間の会話の様空気が読める。 私が帰宅し、玄関の鍵をガチャリと開けたときの「おかえりー!」という元気な呼び声。朝起き出したときの「おお、一日はじまるなー」というときのペチャペチャ言うおしゃべり。そして午後のご機嫌な時間には、このペチャペチャしゃべりが最高潮になって、まるで電車の中のおばさん集団のよう。二羽がばらばらに行動しているときは、時々「ぴっ」「ぴぴっ」と短く呼び合って何かを確認している。 動物は言葉を持たない。少なくとも人間社会における言語のように、はっきりと文法構造を持っていたり、ものに名前をつけたり、紙に書いて記録としたりする言語は持たない。概念の表象といった機能や、意味伝達のための構造を持った、そういう言語は持たないということだろうか。しかし私は、自分の家で同居中の、この二羽のボタンインコを見ているだけでも(いや、聞いているだけでも)そうは思えなくなってくる。 つづきを読む>>>

野蛮な言葉

人間社会のインターネット網。いよいよ、本格的な大容量通信時代となり、またクラウドとモバイルのパワーによって、移動中の人間も結ばれる。人間の個体同士のコミュニケーションや、データ移動が、猛烈な勢いで増大することだろう。 人間が使うインターネットには、野蛮なコミュニケーションが溢れている。人間は、地球上で最も野蛮な言葉を使う生命体として、地球を覆い尽くそうとしているのかもしれない。ちょっとした油断からの失言も、ネット上で無限増幅、ターゲットとなった人物に、激しく跳ね返って来るのかも。