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Showing posts from January, 2015

マニュアル化できない

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ポルトガルの麦畑と農場 北海道十勝にある「共働学舎新得農場」は障害者の自立支援のための農場だ。チーズ作りは、本場のフランス仕込み。仏AOCチーズ協会のユベール会長自身が、この農場を経営する宮嶋望さんの考えに共感して教えてくれた。いまでは、チーズ作りの国際コンクールでグランプリを獲得するほどになったという。(☆1) チーズを育てる菌の働きはその日の天候で違う。経験で培った勘がすべて。このように、簡単にはマニュアル化できない知恵が、本物のチーズ作りを支えているのだろう。あらゆる食品の生産や農作物の育成には、経験から自分で学び取るしかない知恵が必要。これは、ものづくりのすべての現場や、人間が働く社会のどこにでもあてはまることだ。 マニュアル化できない知恵。 昨年秋、中央教育審議会は、大学入試改革の答申案を示した。それは、日本の高等教育における価値観の大転換を要求するものである。「1点刻みのペーパーテストで問う評価」や「画一化された条件で、数値で結果を出せる問題の点数」などで学生を選抜することをやめるという。 「覚える」から「考える」へ。 答申によると、2020年には「生きる力をみる入試」を実施していくということだ。現在の受験システムでは、高校の3年間は「点数による選別への準備」だけになりがち。そこに人間的な経験や、人生について自分で考えるなどするとしたら、これほど素晴らしいことはない。 でも、今の日本の教育で出来るのだろうか。 また、どのように進めるべきなのだろうか? - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:2014年11月29日(土)朝日新聞 be 「世界が認める和のチーズ」より

すべては月の下

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ポルトガルのコスタ通り / つきあたりが海です ほんの数日前の宵の口に、空を見上げると月が双子座あたりで輝いていた。ちょうど木星とオリオン座と一直線に並ぶかたちになっていて、不思議な美しい配置になっていた。その月も、今夜あたりは獅子座と乙女座のあいだくらいまで進んでしまい、夜中にならないと見えない。 人間が暮らす地上の灯り。 夜空に輝く月と比べると小さなものだ。 崔洋一監督の「月はどっちに出ている」がいつのまにかDVD化されていた。さっそくAmazon で注文しまして正座して見ました。(ウソ。リラックスして見ました。)いいなあ、やっぱし、この映画。いまでは、日本におけるこうした微妙な状況をこんなにワイルドに描く事は難しくなってしまったと思う。このかっとばしたような表現。突き抜ける思い。90年代には残っていた、日本の映像のバイタリティーと表現への挑戦。 崔監督の解説による発見もあった。中盤に出てくる立ち飲み屋のシーンには、鈴木清順監督や、原作者の梁石日氏まで出ていたのか。もう、可笑しくてお腹が痛くなりました。飲み屋で思い思いの時間を過ごすひとびととして見ると、みんなただの人間なんだ、という思いになる。みんなそれぞれ生きている。 この映画の正しい楽しみ方が分かったような気がする。「こういう迷惑な奴っているよね」とか「そうそう、所詮僕たちってこういうもんだよね」と、自然に思えばいいのだ。そこに映画のリアリティがあるのだし、映画の世界観への共感がある。考えてみれば、映画を見る楽しみというものは、そういうものではないだろうか。崔監督自身もそう語っているし。 夜空の月を見上げるたびに、こう思うことにしよう。「すべては月の下のちっぽけな営み」月から見下ろしてみれば、地上の人間がいがみ合ったりぶつかり合ったりしているのも、ほんの一瞬のちいさなちいさなできごと。

モンブラン

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モンブランというケーキは、ケーキのスポンジ生地に、クリのクリームをかぶせたもの。二つのお菓子素材を組み合わせたもので、いわば異種混合タイプのアイデア商品だ。茶色いクリクリームを生地の外側に塗っているうち、それが峻険な山肌のように見えてきた。そのようにしてこのお菓子は「モンブラン」という新しい次元に進んだのではないだろうか。 いま大学は、学期末の繁忙期に突入しており、卒業を控えた大学院の修士二年生にとっては、本当に大詰めのシーズン。どちらかというと、普段は学生の自主性にまかせる自由放任主義の研究室だが、いまだけは教員も学生も顔色を変えて完全臨戦モードにならざるを得ない。 今日もある留学生の学生と長時間のミーティングをしていた。その学生さんは、これまで二つのテーマを別々に進めていて、どちらも中途半端のままになっていた。これでは、どちらのテーマで行っても完成度が足りないな、ということで頭を抱えてしまった。しかし、ふたりで二時間ほどうんうん唸っているうちに、妙案が浮かんだ。 モンブラン! ふたつの素材を組み合わせて、新しいものを作る。これだ! これまで別々に進めてきたふたつのテーマを合体させて、ある別次元の結果を引き出すのだ。これならなんとかなりそうだ。本日の仕事の終わりに、モンブランに感謝する私であった。これも、おとといの晩に、夏休み中に食べたこのケーキを水彩画に描いてみた効能なのだろうか。 しかしこの研究、最後の最後まで気は抜けない。

いつアートを発明したのか

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ナショナルジオグラフィックの2015年1月号の特集は「人類はいつアートを発明したか?」である。驚くなかれ、その最古のものは10万年も前の洞窟にのこされた抽象表現ということだ。驚くなかれと言っておきながら無責任だが、僕自身はいったいどのように驚くべきかもわからないほど驚いている。なんじゃこれ? 僕たちがこのように、水彩画などを描いたりするのは、どちらかというと、中学や高校で習った美術や図工の時間の延長のようなもので、いわゆる一般市民の「趣味」という行為の中でやっているに過ぎないのかもしれない。僕自身、絵を描くのは好きなのだが「内側からこみ上げてくる創作意欲をおさえきれず...」というほどの欲求があるわけではない。 その点で、10万年もの前の洞窟で、土の壁にあるパターンを塗りあげた人や、数万年前に動物の骨からオブジェをつくりあげた人、土をこねあげて塑像を作った人たちは、どれだけのチャレンジ、どれだけの精神的飛躍をなしとげたことだろうか。 こうやって、画材屋さんで買い求めた水彩絵の具を、水道水で溶いて、純白の水彩用紙に塗る事ができる僕なんて、なんと恵まれた境遇にあることか。現代文明にお膳立てされている。その分だけ、描くという行為のポテンシャルは低いのかもしれない。あんまりやる気がないってこと?やっぱ、日常の「感動」ってやつを敏感にすくいあげるようにしなければいけませんな。 今日はおそろしいほど大きな満月がのぼるのを見た。こういう感動を洞窟の土壁に塗りたくる、そんな創作というものをしなければならないのだろうな、と、ぼんやり思う。いや、すべて僕たち現代人の生活というものは、原初的感動とは無縁の、文明の習慣によってつくられたパターンにしたがっているだけなのかもしれない。でも、まっいいか。楽しめてればね。

インランド・エンパイア

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アンティークのジョウロ デビッド・リンチ監督に「インランド・エンパイア」という作品がある。実はまだ見た事がない。しかし監督の著書に、その製作過程のいきさつや撮影途中の裏話などがたくさん載っていて、それがまた実に面白いので、なんだか既に見た映画のような気がしている。変な話だけど、僕はただこの映画の内容を勝手に創造して楽しんでいる。 いずれ、アマゾンからDVDが届いたら、それを見なければならない。おそらくこれまでと同様に、こちらが見る前に勝手に想像した映画と実際の映画との間で、揺さぶられるのだろう。監督の場合、これはすごい!という時と、なんじゃこれという時の落差がすごいのだ。「マルホランド・ドライブ」の時は、映画館を出るときにはほとんど乗り物酔いの状態で這い出るようだったぞ。 そもそも「インランド・エンパイア」というタイトルは、主演のローラ・ダンのご主人の出身地とのこと。本来全く意味をなさないこの地名から霊感を受けた監督は、この映画を作るべき使命に目覚めたのだという。まったく訳が分からない。映画の宣伝も牛を連れていたりして謎だ。 いつも、デビッド・リンチ監督には一方的にやられている。今日はこちらから勝手に攻めることにしても良いだろうか。新年だしね。 王陽明の「良知を詠ず四首」の詩の中に「自家の無尽蔵を抛却し(うちすてて)門に沿い鉢を持して貧児に倣う」という言葉がある。自分の心のうちに「良知」という。つきることのない宝庫を有しているのに、それを知らず、家々を廻って物乞いするように外物をもとめることを現している。(安岡正篤 人生信條より) 「インランド・エンパイア」という地名は「うちなる心の世界」を喚起させるものがある。僕の勝手な解釈では、自分の心の中にこそ、豊穣なメッセージにあふれる内的世界があるのだということを伝えているような気がする。デビッド・リンチ監督の映画はおそらく、ぜんぜん違うんだろうけどね。

今年から改めましょう

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大晦日に低気圧が通過した関東は強い風が吹いていて、夜中に初詣で並んだひとたちも寒そうでしたね。紅白歌合戦を楽しく鑑賞したあとの夜更かしで寝不足の僕も、この海の幸づくしのおせち料理を見て、正月を実感しました。これみんな人形町の市場で買ったものだそうです。 みなさま新年あけましておめでとうございます。 このところずっと横尾忠則氏の著書を読んでいて(あまりに面白くてもったいなくて、毎日少しづつしか読まない)だんだん僕の頭もすこしづつ現実から離れて、へんてこな芸術家的な考え方に染められていくような気がする。 時に、どきっとするほど勉強になる話もある。瀬戸内寂聴さんとの連載「奇縁まんだら」の話。この仕事に限らずだが、横尾氏は、〆切よりもかなり早く作品を完成させるのだという。「締め切りぎりぎりに描くといかにも『お仕事』という感じがするけど、締め切りよりもうんと早く描くと、自分の仕事という感じ」になるというのだ。なるほどー!なんとシンプルで、説得力のある話だろうか。 僕はいつも逆をやっていた。浅はかだった。「なるべく締め切りぎりぎりまでやらない」という方針だった。しかもそれには「ぎりぎりまでねばることで、最高のものが出来る可能性をすべて拾うのだ」という丁寧な言い訳までついていた。締め切りの日の朝に、仕事を完成させるのを美学としていた。 君子豹変す。今年から改めましょう。(半分は無理な感じがしているけど)締め切りよりもずっと先に仕事を片付けましょう。とすると、何か? 今月中旬に予定されている、高校での講義についても、早速内容をかためて、ストーリーを決めてしまわなければならないのだな。うわー、それは大変だ。