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Showing posts from 2015

おいしいコーヒーはあるのに

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HDDデッキに「ブラタモリ」が録画されていると嬉しい。今日は小樽の街の回を見た。急速に発展する港町に日本全国から集まる人々。仕事のある場所には人が集まり経済が発達するところには銀行が出来る。しかしある時突然すべてが一転し、あらゆる活動が失速して街が衰退したのだという。 カフェ・パウリスタという、銀座のカフェでコーヒーをいただいた。ブラジルを新天地として旅立った移民のみなさんの行く手にはさまざまな運命が待っていた。コーヒー農園で大成功する人。思いがけない天災でサトウキビ農園を失った人。誰も先のことは知らず、あるときに熱狂が生まれそして去っていく。 いま、日本は若者たちが希望を持てない時代だと言われている。すべてがある国なのに、なぜか「希望」だけが無いのだそうだ。おいしいコーヒーがいつでも飲める幸せな国なのに、情熱は生まれにくい。そういう時代もあるのか。

適応する

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気まぐれにホームセンターから買われてきたサンスベリア。間に合わせのガラスカップにすっかり適応してくれた。もともと日陰が好みらしく、北側の窓辺に置かれて満足そうである。計画性もなく連れてこられたのだが、いまのところ幸せそうだ。 久しぶりに銀座の七丁目のほうへ出かけた。大学の先輩の水彩画展の素晴らしい作品を観たあとで、やはり先輩方にさそわれて、カフェ・パウリスタという老舗のコーヒーを楽しんで、帰り道には陽も暮れていた。 マツザカヤが解体されていたのにも驚いたが、もっと驚いたのは、銀座の中央通りにラオックスが二軒も出現していたこと。なんでこんなところに大型電気店があるのだろう? あたりを見渡して即納得。ラオックスの周りには、大きな観光バスが数台停まっていて、中国語が聞こえてくる。海外からの買い物客が、銀座でブランド品などを買ったついでに、そのまま電気店にも寄れるという仕掛けだ。買い手のあるところに店を出す。 銀座という街も、アジア経済に適応していかなければならないのだ。

書き写す

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文章を書き写す、ということを滅多にしなくなった。 映画「活きる」の原作者、余華(ユイ・ホア)は、少年期にはほとんど本を読んだことがない。当時の中国では外国の書物などが手に入りにくかった。やっとの思いで借りることができたデュマの「椿姫」。たくさんの人の手をわたってボロボロだった。読みたくて読みたくて、丸ごとノートに書き写した。たった一日しか借りることができなかったので、それを友達と交代で、ふらふらになりながら徹夜で書き写した。 勝海舟も「氷川清話」で同じような思い出話を語っている。どうしても手に入れたかったオランダ語の辞書。あまりに高価で金策が追いつかずにいる間に、他人が先に買ってしまった。それを頼み込んで、夜の間だけ借りて丸ごと書き写した。朝には返却し夜にまた借りる。それを繰り返しながら、ついに二冊分コピーを作ってしまった。一冊は売却して、その辞書の借賃にあてた。 今や、たとえコピー機でコピーしていても「遅いー」などとイラつくことがある僕たち。その後、中国を代表する作家となった余華氏。オランダ語を駆使して世界を相手にした勝海舟先生。彼らの方が、作品をずっと深く理解し、その滋養を身に浸透させていたのは間違いない。

カフェモカ イン北京

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先日の北京出張のおり、ホテルのそばにあったマクドナルドに入ってみた。いわゆるハンバーガーを売るマクドナルドのコーナーと別に、コーヒーやマフィンなどを専門で扱う、マックカフェのエリアがあった。同じ店の中にふたつのカウンターが別々にあって、テーブルもそれとなく区別されていたようだ。 空港のカフェでは、普通のコーヒーを倍のお湯で薄めたものが出てきたりした。(実際目の前でお湯で薄めてましたよ...)だからここでカフェモカをたのんでも、ちょっと警戒していた。なかなか出てこなかったしね。どこかに先入観があってドキドキしてしまう。けれども、意外においしく飲めた。 今回は、このカフェモカの他にも、ドンキーハンバーグ(本当に驢馬の肉らしい)や、羊肉の火鍋など、美味しいものに出会うことだできた。いずれも地元の人の案内があったからこそ。 北京には北京のおいしいものがあり、日本には日本のおいしいものがある。当然なことなのだけれども、やはり情報のカベや習慣のカベというものがあって、お互いに慣れないものだ。日中間の隔たりを越えるには、やはりおいしい食べ物の相互理解あたりが、よろしいのではないかと、ちょっと思った。

縁結びのアレンジメント

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秋の草花があしらわれたフラワーアレンジメント。先日訪れた「東京大神宮」のラウンジのテーブルに飾られていました。ここでこの草花をながめながらいただいた紅茶の美味しかったこと。外は小雨でしたが、「縁結びの神さま」として人気の大神宮の境内には、参詣客が絶えませんでした。 東京大神宮は、伊勢神宮の神様を東京まで招いた神社で、飯田橋にありながら森のような静けさにつつまれていました。伊勢神宮といえば、2013年には遷宮が行われたばかり。新しい御座所はいまもかぐわしい木の光に溢れているのでしょうか。

サンスベリアは生きていた

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今年の夏、家族とホームセンターに寄った折に、このサンスベリアの小鉢を買った。ガラスのコップに植えてしばらくたった。一週に一度くらい、適量の水をあげていたら、なんと根元から芽が出てきた。ちょっと驚いた。どうせ安物の小鉢なので、また枯らしてしまうのが関の山かと思っていたのだが、なんと我が家の環境になじんでくれたのだ。 今月の初旬に一週間の出張があったのだが、出発前にパキラの鉢を剪定した。伸びすぎていた枝をバッサリやったので、出張中もちょっと心配していたのだけれど、戻ってみるとちゃんと小さな葉っぱの芽が顔を出していた。ほっとした。 ほんの小さなことだけれども、生命というものは、本当にすごい。今年のノーベル生理学賞を受賞した大村先生の研究は、ゴルフ場で採取した微生物から薬品を作り出したんだって。 ほんとに? 生き物を助け、生かしていくのも、やはり生き物なのだ。あたりまえのことだけど、生命というものの素晴らしさを改めて感じる。

真っ赤なトマト

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トマトほど「赤い」食べ物があるだろうか。サクランボも赤いけれども、水彩画にする時の印象がちょっと違う。可愛らしいサクランボに比べて、トマトの赤のほうはズカリと座った存在感があり、赤い絵の具を塗っていて爽快である。 原産地は南米ということだ。アンデスの山の澄んだ空気と太陽で育つ。船に乗ったスペイン人たちがヨーロッパに持ち帰り、品種改良の結果食用となったらしいが、はじめは「こんな赤い物は気味が悪い」と誰も食べようとはしなかったとか。 それでも、いまや栄養豊富な食材として欠かせない。どんなに見た目が奇抜で異様だったとしても、中味が滋味に溢れていて、誰をも癒し育むものであれば、いずれ必ず万人に愛されるようになるということか。

まるで宝石の浜辺

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「サイバー・ワールド2015」という、そのまま未来世界のような学会に参加してまいりました。世界から集まった面白い研究者との交流が楽しかったです。スェーデンのウプサラ大学・ゴットランド校が会場でした。この大学は、ゴットランド島のヴィスビーという世界遺産の街の突端に位置しております。古きヨーロッパの気品に溢れた、色鮮やかな街で、「魔女の宅急便」の舞台であるというのもうなずけます。 大学のキャンパス自体が、まるごと中世の遺跡であるゴツイ城壁に囲まれているという信じられないようなロケーション。そしてその大学のすぐ裏はバルト海に面する浜辺なのです。夏のシーズンには、避暑の観光客でにぎわうというこのあたりも、今は閑散として冬の気配が漂っていました。下の写真をご覧ください。こんな風景なら気宇壮大なる研究も出来そう。ノーベル財団もすぐ隣だし。 この海岸、遠浅なのになぜか砂浜ではないのです。そのかわり、河原にあるような丸石が敷き詰められていました。しかも色とりどりの宝石のよう。ここは、荒波の打ち寄せない内海だからでしょうか。 いまでこそ、白鳥や渡り鳥たちが羽を休める平和な海岸ではありますが、ひと昔前は、刀を振り回すバイキングが跋扈し、十字軍の精鋭部隊が蹂躙するバルト海における軍事的要衝。血で血を洗う激戦の跡地であったらしいのです。夏草や。松尾芭蕉の気分にもなりました。 いまは平穏。ヴィスビーの夕景

知らないほうがよかったかも

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カンナ、怪獣みたい? “Old Science Fiction Films“というフェイスブックのサイトがある。そこに週一くらいで、昔のSF映画の写真やポスターが投稿される。あの頃のSF映画というのは、金星から怪獣が襲来したり、猿が人類を支配したり、荒唐無稽なストーリーとトンデモ科学理論が売り物。「フィクション」なんだから何でもあり。「サイエンス」のほうは二の次だった。 巨大化したフランケンシュタインに人間が食われてしまう話なんてほんとに怖かった。それを白黒テレビの画面で見たりするからか、トラウマになるほど恐ろしいものに思えた。しかしその後、科学の時代となってくると、怖さの感じ方も変わってくる。「フランケンがあんなに巨大化したら、脚が地面にめり込んで歩けない」とか、科学的根拠の細部に突っ込みたくなってしまい、せっかくの娯楽作品が楽しめない。 SF映画を作るほうだって、それだけ窮屈になってきたのでは。昨年のヒット作「インターステラー」でも、細かい科学的根拠を説明するのに苦労していたように思う。一方で、現代科学がどれだけ万能かというと、本当にそうなのかは怪しい。科学が宇宙の真理をすべて解き明かすなど、まだまだずっと先のことのようだ。 だったらむしろ、心の中だけでも原始人に戻っても良いじゃないか。地球が丸いことを知らなかった時代の人類の気持ちで想像力を解き放とう。そして大胆でぶっ飛ぶような、夢のようなホラ話を作れたらいいのにな。

道に迷った時には

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こんなとこなら迷っても当然 慣れない駅のホームで電車から降りたとき、僕は右左どちらの階段に向かうべきなのか分からなくなる。それはまあ仕方ないことだ。駅の改札を出てから目的地に向かう時にも、方向が分からない。これも仕方ないかも。深刻なのは、良く知っている場所でも、ちょいちょい迷子になることだ。以前働いていた会社の社屋内ですら迷ったことがある。 僕はこれを「生まれつきの方向音痴だから」ということにしている。しかし一方で、それがただの言い訳に過ぎないことも知っている。人間には方位を感じる感覚器官など無いではないか。感覚の問題ではなく、そもそも地理的情報が欠落しているだけなのだ。地図を整理して頭に入れようと努力せずに、「勘」で方向決めている僕は音痴ではないのだ。きっと、ただの怠け者なのだ。 大学で若い世代の人たちと接していると「人生で進みたい方向がわからなくなった」という悩みを聞くこともある。そんな時は、彼らにこんな風に話をする。「君は社会とい地図を知らないだけなんだよ。道に迷わば木を切りてその年輪を見よ(☆1)と言うしかからね」 偉そうな言い方ですが、僕自身が痛い目に合って、身に沁みていることですからね。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1: 道に迷わば木を切りて年輪を見よ 「木を切って年輪を見る」とは「歴史を学んで進むべき方向を知る」という意味なのだそうです。 寺島実郎さんの著書「歴史を深く吸い込み、未来を想う」で紹介されていました。

養老先生のブルースカイ

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朝日新聞の「人生の贈りもの・わたしの半生」は僕の大好きなコラム。いまは養老孟司先生が登場されていて、毎晩帰宅後に読むのが至福の数日であった。たくさんの名著を残し、本業の解剖学者としても趣味の昆虫学者としてもすばらしい先生の半世記を、こうした簡潔なインタビューで読めるのはうれしい。 昔NHKの番組取材で、東大の養老先生の研究室にお邪魔した。解剖学の研究室なので、物凄い標本類の数々が置かれていてビビったのを覚えている。僕なんぞ、取材チームの末席の初年兵に過ぎないのに、そんな僕のシロウト質問にも、先生はにこやかに丁寧に対応してくださった。あの時、瞬時に、穏やかで優しい養老先生のファンになった。 定年前の55歳で東大を辞めた日の朝、養老先生には「空が青くきれいに見えた」そうだ。勤め人としての責任から解き放たれて、本当の感性が解放されたのだ。養老先生いわく、人は外部からのイメージに合わせようとして生きている間は、青空を美しいと感じる余裕もないということらしい。うーん、どうしよう。明日キャンパスで、空を見上げてみよっと。

原始力復興委員

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いろいろのせました おいしそうに描けてるでしょうか。先日もご紹介した「プティ アクィーユ」のシャルキュトリーをいただいているところ。フランスパンに「パテ ド カンパーニュ」を乗せて、いろいろなお野菜やピクルスも。もちろん赤ワインも一緒である。 あまりにおいしくて、ふと変なことを考えた。これだけの食材だが、これをぜんぶ自分で揃えるとしたらどれだけ大変か。トマトを育て、小麦を挽いてパンを焼く。鶏を育てパテに仕上げる。ぶどうからワイン? いや無理無理。スーパーやネットですべてをまかなう僕の生活は、もう現代社会の流通機構にフルに依存している。恵まれ過ぎで、罪悪感さえ感じるほど... こんな僕が、 ビッグイシュー9月号 (☆1)の「原始力復興委員」という記事を読んだ。新潟県糸魚川市で古代人の生活を実践している山田修さん。彼は、磨製石器に木製の柄をつけて斧を作る。その斧で肉を切り丸太舟を作る。丸太舟で青森までの780キロの航海に出る。「縄文人の見習い」として生きることが、底抜けに楽しいのだそうだ。こういう山田さんの生き方、軟弱な僕には真似出来ない。だけど、いつかは僕もこういうことを、真剣に考えなければならない日がくるだろう。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1: ビッグイシュー日本版 2015年9月号 奈良美智さんの巻頭インタビューもすごくよかったです。今回は、ものすごく暑い夏の日に八王子駅前の販売員さんから買いました。その直後にゲリラ豪雨が来たのを覚えています。

僕とアルフォンゾ先生

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僕とアルフォンゾ先生 アルフォンゾ先生は、インドネシアのバンドン工科大学で美術やデザインを教えている。JICAの招きでこのたび来日。日本の大学を見学しにいらしたのだ。近藤先生の案内で、私の研究室にも遊びにきてくださった。私も美術デザイン担当なので、いろいろ楽しくお話させていただいた。 特に盛り上がったのが、いまどきの学生の作品についての話だ。デジタルツールの発達のおかげで、学生が「手抜き」をするようになってしまった。これは由々しき事だ。と、そういう話。オリンピックの騒動じゃないけれども、ひとのものをそのままコピーしたり、既存のテンプレート(☆1)を使って簡単に済まそうとしたり。 どんなツールを使っても、学生が作品に真剣に取り組むならそれでいい。しかしツールによって仕事が簡単になると、人間というものは「怠け者」になる。デジタルペイントは、もともとは「絵の具」の代用品ではないか。さんざん「絵の具」と格闘した人がこれを使うぶんにはいいのだ。しかし、デザインを勉強中の学生がいきなりこれを使い始めると、どこかいい加減になってどこか真剣味に欠けた作品づくりになる。 「まずいっすよねー」 「ほんと、まずいっす」 インドネシアの先生と、こんな会話をするとは。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:テンプレート すでに出来上がっているフォーマットに、きまった数値や文字、画像などをいれるだけで作品ができてしまうという便利な仕組み。学生だけじゃなくて、オトナだって結構使ってますからね、これ。

プティ アクイーユ

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長年お世話になっている高校の先輩が岩手県で、 「プティ アクイーユ」 というシャルキュトリー(☆1)のお店を始めた。フランス料理シェフの息子さんのために製造しているのだけど、レストランへの卸し以外にもネットでの販売もしているとのこと。早速お試しセットを送っていただいた。この絵は「鳥レバーのムース」の瓶詰めです。 先輩に聞いたところ、防腐剤は使っておらず、岩塩や天然の発色剤に、もともと含まれる防腐効果だけで製品化しているとのことで、瓶詰めにする行程の管理は大変なものだと聞いた。それに材料も各地から新鮮で良質なものが入った時に作るということであった。 ふだん僕たちがコンビニなどで買っている食品の多くには防腐剤が使われている。広域での大量消費社会の宿命で、長時間保存できる食品だけが長距離の運搬に耐える。ほんとうは、この先輩のお店のようにな手作りで純粋な食べ物を、地元で消費するというのが理想なのだ。岩手県に住みたくなった。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:シャルキュトリー 細かく刻んだ肉類などを練り上げて成型したパテやテリーヌなど、赤ワインとの相性が良いおつまみとして、レストランやカジュアルな飲食店に並ぶメニューです。

カバの神殿

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信仰の形としてのカバ 偶然だが、国立新美術館で開催中の 「ニキ・ド・サンファル回顧展」 を見た。素晴らしかった。やはりアーティストというものは、これくらい精進しなければならないという見本のようなものかな。精進というとちょっと違うのだが、若くして芸術家を志した頃から徹底的に自分を精神的に追い込んで、そのギリギリのところで炸裂する創作活動。その軌跡がそのまま残されているような、すごい回顧展だと思った。 会場でおゆるしを得て、数枚ほどスケッチをさせていたいた。さすがにインクのとぶペンは使えないので、ひさびさにエンピツを握ってスケッチをした。なんだか美大生になったみたいで、新鮮だった。今回の展示では、のびやかで陽性な「ナナ」シリーズのコーナーがもちろんメインなのだけど、それに続く「ブッダ」のコーナーのエネルギーも凄い。 前半で、ニキの若い頃の鬱屈した想念が画面にこびりついたような作品群を見たあとだけに、この最終コーナーの底抜けの明るさと、色彩の輝かしさは、泉の湧き出るオアシスのように感じられた。このアーティストの晩年のクライマックスなのだけど、日本人である私にもとても親近感が感じられた。 エジプトの神殿から抜け出てきたようなカバの彫像。からまってエネルギーを放出するヘビの樹木。インドのゾウ神のように踊る立像。そして、大仏を表現した巨大な「ブッダ」の座像。この世界になると、もう「宗教」的なイコンである以前に、アートとして自立した存在感に溢れていて、見るものとしては、自分の精神まで解き放たれたような気分になる。 こういうのを「多神教的」というのだろうか。そういえば台湾で見た寺院でも同じような感覚を持った。見知らぬ神様たちが鎮座しておられるのだが、なぜか自然な親近感がある。日本と同様に、多種多様な神がさまざまな形で奉られている。日本の神々よりもカラフルでエネルギーに溢れているが、それも大して気にならず、僕自身も手を合わせて拝むのが自然に感じられた。 台湾にしても日本にしても、寺院の祭壇に飾られている姿は違っても、そのむこうにあると信じられているものは同じなのではないかと感じた。僕たちは、それぞれ自分たちが理解できる形でしか信仰心というものを表現することができない。ニキ・ド・サンファルの作品もそのとおりで、彼女がその「造形的表象」の向こうに見ていたもの

30年ぶりの市長就任

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市長就任祝い! 参院でついに安保法案が可決されようとするその時に、まったくどうでもいい話で申し訳ない。珍しくあるゲームにはまった。 [ SIMCITY BUILDIT ] といい、伝説のゲーム「シムシティ」の最新版らしい。 「シムシティ」は、それを遊ぶためだけに、当時20万以上円もしたマッキントッシュを買いたいと思うほど、素敵なゲームだった。アップルⅡで、ウィザードリーなどロールプレイングの洗礼を受けた僕たち世代が、次に出会ってびっくりしたのがこの「シムシティ」だった。 その後ゲームは、フォミコンからプレステなどへ進化してリビングのテレビを占領していったが、この頃に登場したゲームのエッセンスやアイデアは、いまも全てのゲームにひきつがれているように思う。 仕事も忙しくなってきた僕は、ゲームを手にする時間がなくなっていった。だが、このエレクトリック・アーツ社によるシムシテイのシリーズだけは、常に視野のどこかで気になる光を放つ存在であった。 その後何回か、後継シリーズに触れてはみたが、そのいずれも初代バージョンに匹敵する高揚感感覚は得られなかったのだ。だから今回も、半信半疑で「とりあえず」という感じで、ダウンロードしてみただけだったのだ。グラフィックがすごいのに、動きにストレスもない。都市計画の数字を微妙に調整するスリルが、初代「シムシティ」に似ているぞ。市長に就任して、すぐに30年前の興奮を思い出してしまった。 しかし、何か?が違う。 「父さん、アプリ内課金は払っちゃだめだよ。きりないから」ダウンロードしてからすぐに息子から注意された。 「カキン?」 「まさかそんなワタシがそんな手に乗るもんかい。シムシティならお手のもんだから課金なんか使わなくともぜんぜんオーケーだよ」 ところが。ところがである。 やはり、最近のアプリというものは凄い。 市長就任後の顛末は次回またご報告(๑•̀ㅂ•́)و✧ 真上からのビューは初代シムシティとそっくり!

せこくなっても当然だ

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なんぞ人の非にかかわらん 昨晩のブログで、うっかりいまどきの高校生に苦言を呈するようなことを書いてしまったところ、FBのお友達諸子よりさっそく冷静なるコメントをいただいた。 「いまどきの高校生がもし、こころざしが低く、夢もちいさいというならば、それはまさにいまの大人(つまり僕のこと)のせこい生き方を真似しているだけなのではないか」 たしかにそうだった! 子は親の鏡というではないですか。いまの高校生とは、まさに僕たち大人を映す鏡だったのか。まったくそのとおりだ。オトナがせこいんだから、高校生がせこくなっても当然だ。やっちまった。 それでは、と考える。 僕たち大人は、いつからこんなに保身的でせこい生き物になったのだ? やはり思い出すのは構造改革と自由化の時代。生産性とか効率化とか言っているうちに、終身雇用や年功序列といった古い秩序が消えていった。心安かった社内がいつのまにかギスギスしてきた。雇用の自由とかいっているうちに、正規雇用からあふれて沢山の若者がフリーターとなるようになった。競争社会、格差社会という状態が定常化していった。 うっかりすると、落ちこぼれてしまう社会。そういう社会では誰もが、生き残りのために慎重にならざるを得ない。バブル期に至る高度成長期に、みんなが大きなことを言っていられたのは、実は社会が安定して将来の心配が少なかったからなのかもしれない。将来が保証されていたから、誰だって無責任にでかいことも言えた。 誰もが先行き不安な現代。将来の夢がせこく小さくなって当然。ああ、だんだん考えるのが嫌になってきた。そういう時代だけど、僕たち老人はあくまで元気にいきたい。こんな言葉もある。 「老い去れば、自ずから万縁すべて尽きる」 「なんぞ人の是、人の非にかかわらん」(☆1) 中国の古い教えです。おじいちゃんになったら、こういう世間の考え方とは別に、自由闊達に生きることができるっていうんですね。老人の特権ということだそうです。せいぜい自由で元気で無茶やって、若者への手本となるジジイになるのだ。よっしゃー。(๑•̀ㅂ•́)و✧ - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:酔古堂劍掃(すいこどうけんそう)巻五 「老い去れば、自ずから万縁す

大丈夫か高校生

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大象は無形なり 職業柄高校の教室にお邪魔して高校生とお話することがある。大学の先生の「出張講義」というものである。その際には、せっかくなので「将来はなにになりたいですか?」とか、「そろそろ進路は考えていますか?」などと、高校生に聞いて見ることにしている。 しかし最近は、彼らの答えには「ん?」と、ひっくり返りそうになることがある。分をわきまえた答えというのだろうか。夢のない、ちいさく現実的な答えばかり。 君たちって、まだ高校生だよね...  高校生というのは、もっといい加減というか、適当でいいから、大きな夢を追いかけていても許される年代ではないの? 「医療に携わって人を助けたい」とか、「芸術に関わりたい」あるいは「世界の紛争地で平和のための活動をしたい」など、僕としては「お前そんなこと言ってるけど、そんなんで本当にやれると思ってんのか?」みたいに突っ込んでみたい。こっちが突っ込める、そんな無謀な夢を聞いてみたいのだ。 それが、返ってくる答えというのは「とりあえず進学したいと思います」「公務員ならば安定していると思います」「やはり資格をとったほうがいいと思います」みたいな、つまりちゃんと食べていけるかどうか、そこを気にしているような、突っ込むどころか、フォローのしようもない、そんな答えが返ってくることが多い。 君たち、一体いつからそうなったの?夢を追いかけていた子どもたちが、突然に現実を知ってしまった小さな大人のようにになってしまうのはなぜ。いったいどこの誰が、彼らの夢を消しているというのだろうか。 大象は無形なり。ほんとうに大きな人間の偉大さというものは、簡単には知る事はできないものだ。老子の教えです。「量ることができないくらい大きな人間になる」ということ。それは、いまの教育では、子どもたちの目標としてはもう意味をなさないのだろうか。

伯楽を待ちて後に至る

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大谷池でしずかに花を準備する このハスの花は、大谷池(おおやち)という、草津の遊歩道の脇にある池に咲いていた。オフシーズンには誰も通らないような場所なのだ。夏になるまで誰にも気づかれずに、静かに開花のための準備をしていたのだろう。 騎は自ら千里に至る者ならず(きはみずからせんりにいたるものならず) 伯楽を待ちて後に至るなり(はくらくをまちてのちにいたるものなり)☆1 どんなにすぐれた駿馬でも、自分でひとりでに千里を走るようになるものではない。伯楽のような人物がそれを見いだすからこそ、そういうことができるのである。すばらしい才能というものは、それを発見してくれる人物がいなければ発揮できないのだ。 先日、 NHK・Eテレの「ようこそ先輩 課外授業」 で、お笑い芸人の鉄拳さんが出演していた。パラパラ漫画は、「ふだんは気づかないようなものごとのウラ側」を知ることに通じる。それを優しいまなざしで子どもたちに教える鉄拳さん。ほんといい番組でした。 鉄拳さんはいま、パラパラ漫画の作品で世界的に評価されるクリエイターとなった。でも、これまでの鉄拳さんのキャリアは挫折の連続であった。もう、お笑い芸人をあきらめようとした時に、やっとのことでその才能を見いだしてくれるプロデューサーに出会ったそうだ。 この話は一見、偶然のことのように言われている。しかし僕は、偶然ではなく必然のことなのだと信じたい。鉄拳さんは「いつか見いだされるために」ずっとそこにいたのだし、大変な修行時代をくぐり抜けたときにには「誰かに見いだされる」ことが約束されていたのだと。 しずかに努力を続けた人を見いだす。 それが伯楽の役目なのですから。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:説苑(ぜいえん) 尊賢篇より 説苑は前漢に編まれた説話集。 書名は、人を説得するための話をまとめたものの意。

なぜ世界を目指さないのか

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Mr.Woof Woof learning Oversea ちかごろの学生さんたちからは、「海外に出て仕事がしたい」という話をなかなか聞かない。「海外へのあこがれている」という程度のことですらあまり聞かない。ましてや、「いつか海外で役立てようと英語だけは勉強してます」なんていう子にもなかなか出会わない。寂しい。 彼らにとって「海外」というものは「格安ツアーで、いつでも遊びに行けるところ」であって、「夢」や「あこがれ」という言葉を使う対象ではなくなったのか。 テレビをつければCNNのニュース。PCを開けば海外の有名人のゴシップも読める。洋楽なんかいくらでもダウンロード可能。海外ドラマだってすぐ録画。だけどね。ちょっと待ってね。言っておくけどね、こうして君がモニターを通して見ているものが「世界」だなんて、それはとんでもない話だと思うよ。 イラストは台北の国際空港のアート・オブジェです。タイトルは「Woof Woof Boy」(☆1)というのですが、その説明プレートによると、彼は、台湾から海外に出て勉強している学生らしい。夏休みに台湾に戻ってくると、こうして懐かしいフルーツを一杯食べたくなるんだって。顔がギラギラしてるでしょ。世界に出よう!という気概がある。 実際に、台湾の学生と会ってみると、日本人の学生にはない「覇気」というものをとても感じる。「世界に出る!」という情熱があたりまえで、当然英語も勉強している。みなとても大人の顔つきをしている。いました、いました。やるきがあって。世界を目指す学生が、ここ台湾に! 今夜のNHKで、八木沼純子さんが出演する「フォミリー・ヒストリー」を見た。彼女のお祖母さんは、世界史のただ中で活躍した外交官の妻。そのご主人を、病気で亡くした後も、女手ひとつで育てた子どもたちに海外で勉強させる機会を与えた。お金もない中で大きな借金をして。子どもたちにとって、日本を離れ世界を見る事の大事さを知っておられたから。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1: タイトル  Woof Woof Boy 作者 Hung Yi  制作年:2011 設置場所: Taiwann Taoyuan International Airport

海を渡った高木先生

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Mrs. Meow Meow at Taipei Airport 台湾の玄関口である桃園国際空港には、現代アートが其処此処に配置されていて、訪問者を楽しませてくれる。ターミナルには巨大なおもちゃの飛行機がぶら下がっていたり、若手アーティストのギャラリーもあった。 イラストにしたのは、空港からバスターミナルにつながる出口で待ち構える「猫猫小姐」という作品。ちょっとブキミですが、台湾にあふれるエネルギーの化身が笑っているようで、僕はいっぺんで友達になりたくなった。 日本による50年もの統治時代があった台湾。その時代に作られた建造物はいまも沢山残っていて、いまにつながる歴史を深く感じさせられる。 台湾農業の父といわれる八田與一による烏頭山ダムのように、今もなお台湾の社会基盤を支えているものも少なくないのだ。 最近、日台の間でとても感動的な再会のドラマが実現した話を朝日新聞の記事で読んだ。1939年までの12年間台湾の烏日公学校(現小学校)で1、2年生を教えていた高木波恵先生が、二度と会うこともできないと思っていた当時の教え子たちと再会できたのだ。 先生は106歳の高齢で、教え子たちも80代後半という。 今年公開された映画「KANO」(☆1)を見て、台湾のことがたまらなく懐かしくなった高木先生は、かつて文通をしていた教え子の楊さんに手紙を出した。ところがそこはもう新しい住所に変わっていて、楊さんの居場所がわからない。あやうく返送されてしまうところだった。しかしその分厚い封筒を「何か大事な手紙に違いない」と、若い郵便局員が訪ね歩いて宛先をさがしてくれたのだ。これをきっかけに、楊さんは当時の同級生たちをさがしはじめて、20人ほどを突き止めた。 高齢の高木先生は、実際に台湾まで出かけることはかなわない。台湾の同窓生たちはネットによるテレビ会議などで対面できないかと行政当局などに支援を求めていた。そこに手を差し伸べたのが、ネット会議サービスの 「ブイキューブ社」 の間下社長で、日台双方で技術や機材を提供してくれた。こうして、この9月8日に、台中市の烏日小学校の講堂で、高木先生と教え子たちの約80年ぶりの再会が実現したとのこと。ほんとにいい話ですね。(☆2) - - - - - - - - - - - - - - -

国王は法よりもエラいのか

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歴史の小道には、道端にめだたない草花が咲いている。そして時には、こういう小さな草花みたいな話が世界史の真実を語ってくれることがあるらしい。 たとえば、「国王は法よりもエラいのか」という疑問に答えるひとつの裁判記録があるのだそうだ。 封建時代なので法どころかすべては王族や教会の権力者たちの問答無用で決められていたのでは。ところが、14世紀のエドワードⅢ世の治世の時代ともなると、そうでもない事例が現れる。 ある州長官が、高等法院の法廷に、国王の印が押された新書をたずさえて出廷し、被告はすでに王の赦免を得ており事件は却下すべきであると申し立てた。ところが裁判所は、この申し立てを却下して、裁判所は国王の個人的な書簡を提示されただけで判決を下すことはできないと通告した。つまり、イギリス国王エドワードⅢ世は、被告を赦免することは出来ても、法を無視する事はできなかったのである。 このエピソードは、ハーバート・ノーマンの「クリオの顔」(☆1)に紹介されている。クリオというのは、歴史をつかさどる女神の名前である。彼女のひかえめで皮肉な性格は「歴史」そのものの本質を現しているのだ。「クリオの顔」は歴史の真の姿というものは道ばたの草のようなエピソードや目立たない登場人物が語るものということを教えてくれている。 学校で学ぶ世界史では、つい「勇敢な行動、軍隊の進撃と対抗、政治家の演説」など、わかりやすく派手な話ばかりが強調される。高校生が授業中に寝ないようにね。しかし、こうしたものは、どういうものかクリオの心を動かさない。エドワードⅢ世のエピソードもそうであるように、史実は退屈で目立たない資料に埋もれて読み解く人を待っている。そして、歴史に謙遜に学ぶことで偏見から解放されたものにのみ、クリオはその素顔と微笑みを見せるという。 とにかく、14世紀のイギリスの王様でさえ、法律をまげることは出来なかったのだ。ましてや現代の日本において、法律をまげて解釈するような独断専行の為政者があれば、いずれ歴史の女神クリオの不興を買ってしまうのではないだろうか。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1: クリオの顔 「世界」1950年1月号に掲載された、ハーバート・ノーマンの書き下ろし論文。彼は戦

良賈は深く蔵めて

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いつもの通勤路を歩いていると、 あれ?こんな深紅のハイビスカスが咲いてる。 いつのまに? ハイビスカスに限らず、花というものはすこしづつ蕾をつけておおきくなって、そしてさっと開くもの。そのプロセスでは、一番きれいな花は最後の最後まで、目立たないように隠している。だからこっちは、なかなか気づかない。 孔子という偉い人が、まだ若い頃。老子に会ってたずねたことがあるそうです。(歴史上は、本当は老子のほうが後世の人なんじゃないのとの説もあるようですが...まあ、言い伝えとして)「自分にはこれから何が必要ですか?」 老子はこう言ったそうです。 「まず、君はスタンドプレーが目立つし、欲も多すぎだね」 「ジェスチャーも派手。何にでも手を出したい淫気過ぎる」 とまあ、こういう徹底的な駄目だしを受けたということです。 老子はさらに追い打ちをかけ、かの有名な格言を孔子に伝えた。 「吾れ聞く、良賈(りょうこ)は深く蔵(おさ)めて虚しきがごとく」(☆1) 良き商人というものは、店構えはなどは貧しく見せておいて、本当の宝物のような商品は、その店の奥深くにしまっておくものだ。あなたのように、店先に見せびらかしているようではね、まあ、見込みはないね! 才能あふれる作家やデザイナーが、焦って早過ぎる成果の発表に走る。するとそれが世の中のひんしゅくを買ってしまうこともある。若い時には「良賈は深く蔵めて虚しきがごとく」あるほうがよい。自分の自慢したいようなものは、時が至まで隠しておいた方がよいのだ。 孔子は老子のこの教えを聞いて素直に深く反省をしたので、あのような大聖人になったのでしょう。 僕なんか結構いい年になってしまいましたが、良賈どころか、いまだにお店にならべる品物もなにもなくあたふたしているばかりの毎日です。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -  ☆1: PHP文庫 現代活学講話集 十八史略 上巻 第二章 中国思想の源泉 「孔子の章」より

カオスな朝

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みなさんの、毎朝の出勤前の支度って、どんな感じですか? 歯を磨いて、朝ごはんを食べて、ヒゲを剃って、カバンの中身を確認して、また歯を磨いて... あっと、インコの水を替えて、おっとハンカチハンカチ...  僕の場合、自分で笑ってしまうくらい手際が悪い。 これがNASAの宇宙飛行士ならば、朝起きてからその日のミッションに移るまでのプロシージャーというものがあって、それも合理的で安全性にかなったもなのだと思う。歯磨きのキャップとドッキングハッチを間違って捻ったりしたらタイヘンだ。 朝の電車でメイクをする女性もビシッとしている。窮屈な場所なのに、バックから道具を次々と取り出してはどんどん仕上げていく。片目だけ忘れたりしないように、きっちりと手順ができているのだろう。唖然とするほどの手際の良さ。 その点で、僕はというと、何か持ち物を忘れたり、靴下が片方だけ違ってたりとか。それでもまあ命には別状ないことをいいことに、カオスな朝のドタバタを何年も続けている。 それでもこんな朝だけど、余裕がある時にはいいこともある。歯ブラシを手にして「あ、あの会議の資料まだだった。危ない危ない」と気づいたり、インコの水を替えながら「あの映像はカットした方がいい」なんて思いついたりする。時には、自分でも惚れ惚れするようなアイデアが浮かんだり( あとでそうでもないことに気づくけど )、昨日までの判断の間違いに気がついたり、そういう結構ラッキーなことも、ちょいちょい起きる。 カオスな朝だからそういうことになるのか、そういう風に上の空だからカオスなのか。どちらか良く分からないけど、カオスも悪くない。 習慣というものはそうは変わらないので、しばらくはこういう朝が続くのだろう。迷惑をこうむっていると言えばまわりにいる家族だけか。毎朝、無駄にウロウロしててごめん。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆イラストは、八王子駅前にある「リストランテ BUONO 」のスパゲティセットです。とてもおいしいお店です。ぜひお試しをー\(゚ω゚=)

レイチェル・リンド

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宝石のようなカップ / 小伝馬町のカフェ華月で レイチェル・リンドというおばさんのことを覚えていますか? 「赤毛のアン」に登場する、わりと重要なキャラクターですよね。アンが住むグリーンゲーブルスから丘を下っていったあたりに住んでいました。だから、アンの養父母である、マリラやマシューが街へ向かう時には、どうしてもこのレイチェル・リンドさんの家の前を通ることになります。 家事全般を完ぺきにこなす主婦であり、人の行動倫理を極める教育者でもある。こういう人だから、マリラのアンに対する教育方針にもなにかと口を出す。悪い人ではないんだけど、真面目過ぎてちょっと困った人です。 彼女は、自分の家の周囲で何か変わったことがあると、それが何なのかが理解できるまで、徹底的に調べないと気がすみません。マシューがちょっと正装して通っただけで落ち着かなくなってしまう。 「ああ、これで私の一日は台無しだわ」 いったい何があったのだろうと、行き先をあれこれ詮索しないではいられません。家事も、なにも手につかなくなってしまう。 カナダの田舎アボンリーに住むレイチェル・リンドですが、SNSに時間を費やす僕たちによく似てませんか。 誰がいま何をやっているのか、どこへ行っているのか、何をつぶやいているのか。仕事をしているのか、休暇をとっているのか、誰と食事しているのか、タイムラインをチェックせずにはいられない。 まわりが何をやっているのかいつも気になる。 でもそのくせまわりと同じ事はやりたくない。 みんなそういうものですよね僕たち人間って。

費やした時間

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手っ取り早く仕上げた仕事というものは 崩れ去るのもあっという間なのですかね 昨年の6月、東京で開催された「台湾国立故宮博物館展」には、中国の名工たちの作品が並んで話題となった。ミクロコスモスのような翡翠工芸品に残された精緻な技を見ようと、会場の東京国立博物館には、炎天下に長蛇の列ができた。 博物館を訪れた人たちがため息を漏らして見つめたのは、名も無き職人たちがつぎこんだ長い時間の苦行と鍛錬。長い時間を経ても、変わらず人びとから賞賛されるもの。それは、きっと費やされた時間そのものなのだ。 これらの工芸品が作られた当時、世間に聞こえていたのは、これらを所有していた権力者や金持ちの名前ばかりだったのだろう。肝心の芸術品の作者名など、誰も気にしなかったに違いない。 しかし、何百年もの長い時を経て、いま現代に残っているのは、そうした無名の職人たちの技の跡だけなのだ。彼らが無心で成し遂げたこと、そしてそれに費やした時間が、その結晶となって残っているのだ。作品に刻まれて今に残る彼らの魂が。

カニをいただく

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フェイスブックの動物動画には気をつけよう。そう知っていながらも、ついつい再生しては思考停止になっています。今日もうっかり、ナマケモノの変な動画を見てしまい、さきほどまでお腹をかかえて笑い苦しんでいました。 寝転んだまま仰向けでエサを食べている、すべてを超越したその姿。エサはニンジンとタマネギの二種類あるんですが、お気に入りはニンジンだけのようです。間違ってタマネギを掴むと、面倒くさそうに皿に戻します。皿の方を見てちゃんと確かめればいいのにね。それさえしないのが、さすがはナマケモノ。 しかしまあ、こんなに無防備な状態でエサを食べていて、よくもまあ自然界で生き抜いているものですね。樹上生活のために外敵が少ないというのは分かるし、最終的にはするどい爪で闘うこともするのだろうけれども、こいつは、まったく徹底した平和主義、不戦主義のシンボルのような生き物ではないでしょうか。 僕たち人間がカニをいただくときの姿は、専用のハサミや搔き出し棒のような道具も使うしお金も払うし、ナマケモノよりはずっと文明的で洗練されています。でも森へ狩りに行くでもなく、海へ漁に繰り出すのでもなく、こうして皿の上のカニを一心不乱にいただいている僕は、少しだけナマケモノに似ているかもしれないと思うのです。 ナマケモノのように寝転んでまでご飯を食べたいとまではいいませんが、こうしてゆっくりとカニをいただける世の中があるというのは、本当に有り難いものです。それもこれも70年もの長い間、平和が続いた日本だからこそのこと。こうしていつまでもゆったりと過ごせる国であってほしいものです。

スタバのカフェモカ

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ASIAGRAPH主催のCGのコンテストに参加するために、台湾の元智大学まで行って参りました。元智大学は台北から東に電車で50分ほどの「内壢」という街にある、工学系の私大です。南国の樹木に囲まれたモダンなキャンパス。大学も綺麗だし、街もエネルギーに溢れていて、私はいっぺんでにわか台湾ファンとなりました。 残念ながらいまひとつ馴染めなかったのは現地のご飯。コンテストで用意されたお弁当、近所の夜店で出される皿料理。せっかくの「ザ・台湾料理」なのですが、香辛料もきつめなので、私の胃腸にはちょっとボリューム感ありすぎでした。日本での台湾料理は大好きなのにね。本場についていけないなんて。 空港で学生さんたちの到着を待っている時間。ふらふら吸い寄せられるようにはいったスタバ。そこにはいつもの「カフェ・モカ」がある!(当たり前ですね)それを一口飲んで感激。その味は東京駅や八王子駅で注文する、あの「カフェ・モカ」そのものではないか。 こうして旅行者を喜ばせてくれる「カフェ・モカ」の味。世界中どこでも、スタンダードな味として楽しむ事ができるんですね。材料とレシピさえ揃えば、同じものが出来上がる。そういう時代なのですね。ネット上での情報ならさらに簡単。一瞬にして、どこにでも同じテイスト、同じコンセプト、同じデザイン、同じ考えが、広がっていく。 どうせ世界のスタンダードになるのなら、「カフェ・モカ」のように甘くてほっこりするようなものがいいね。辛口の評論や容赦ないつっこみ、言い争いや炎上ばかりではどんなもんかね。なんか落ち着かない。世界中が住みにくくなります。

キャラクターになる

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僕たちは自分の人生で、どれだけの「キャラクター」を演じるのか。 社会的に「先生」と呼ばれる医者や弁護士の先生だって、それを演じ続けるのは大儀なこと。時には自由な自然児に戻ったり、中学生のような郷愁に浸りたくもなるだろう。会社の社長だってそうだ。時には「世捨て人」となって放浪してみたくなったりするのではないだろうか。一国の総理大臣だって...時には? 一方で、世界的に有名にな「キャラクター」を、長く演じる人もいる。 キャロル・スピニーという方(☆1)は、46年間もの間、セサミ・ストリートのビッグバードを演じ続けてきた。今年なんと81歳。これまで、マイケル・ジャクソン、ジョニー・キャッシュ、ミシェル・オバマ米大統領夫人などと競演してきたが、まだまだ意気軒昂。身長2メートル50センチの巨大なカナリアのキャラクターは、いまやファンタジーを超えた存在(設定はなんと6歳のまま?)として、世界中の子どもたちの「実在の友達」となってしまったのだ。

いつでもどんなものにでも

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「いつでもどんなものでも宇宙につながっている」詩人の故まどみちおさんは、生前のインタビューで、繰り返し話されていた。誰でも、じっとちいさなものたちを見つめると何かが見えてくる。心を静めて耳を澄ませば、何かが聞こえてくる。 サンティアゴ巡礼の旅に出た、ハーペイ・カーケティング氏も、そんな体験をたくさんしたようだ。「神に出会う」というほど大げさなものかどうかは、わからないが、「普段は知らない何かを感じ取る」ことには、何度も出会ったようだ。 一体、どんなふうに? 険難な峠を越え、灼熱の道を渡っているうちに、だんだんと「考えることをやめる」ようになってくる。するとついには「ものごとの印象」というものが根本的に変わってきて、「ものごとを感じる」こと自体が変質してくるらしい。そうすると、自然に宇宙との会話が可能になるのだ。実際に彼は、道中なんども「宇宙さんにお願い」している。そして、しっかり「宇宙さん」から返事をもらってる。

サンティアゴへの道

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レオンの案内所 今年もポケモン・スタンプラリーが始まったようだ。夏休みなんだからしかたないけど、猛暑の中、子どもにお供して駅を回る親御さんはほんとに大変だろう。うちの子が小さい時は、インドアでのゲーム専門だったので助かった。 しかし、スタンプラリーというものは、大変であればあるほど、その達成感は大きいよね。親子ともに歩いた時間も、苦労が多いほど後で貴重な記憶になるかもしれないでしょ。ポケモンといえど、あなどれない。一種の「巡礼」のようなものだと思う。 今日「巡礼コメディ旅日記 - 僕のサンティアゴ巡礼の道」(☆1)という本を読みおえた。著者のハーペイ・カーケティングは、ドイツではとても有名なコメディアン。キャリア途中での病気などもあり、この巡礼を思い立って約800kmの道を踏破した。ドイツでは、発刊翌年に巡礼者が倍増した大ベストセラーらしい。さすがコメディアンなので、旅日記そのものが笑えるエピソードに満ちている。しかしそれだけかと思っていると、思わずはっとさせられる、示唆に富んだ本だった。

人間でなくていいの

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「シンサツジカンガ、チカヅキマシタ」 「シンサツケンヲモッテ、マドグチマデオイデダサイ」 喫茶店で時間をつぶしていた僕の携帯が鳴った。 待っている病院の診察時間が近づいたことを、機械が教えてくれているのだ。 実に便利な世の中です。薬をもらうために病院の待合室で待たなくても大丈夫。スマホから予約しておけば、こうしてちゃんと時間を教えてくれるのだ。そういえば、別の病院ではこんなこともあった。自販機に診察券をかざすだけで、医療費の支払いもできた。医療の現場ではこのように、日々、機械化による環境改善が行われているのだ。 でもね。と僕は思う。たとえお金がかかったとしても、機械よりも人間が良いのではないでしょうか。患者の待ち時間の整理だけでなくて、待合室のお掃除をしたり、患者さんにお声がけしたり、そういう仕事だって、あるんじゃないんでしょうか。 ディープ・ラーニングというものがあるらしい。さまざまなデータ、情報を溜め込むことで、コンピュータが非常に賢くなる。それによって人間を凌駕するような仕事をするようになるという。チェスや将棋の世界では、すでに人間よりも優秀になるのですね。 でも、その仕事、ほんとうに人間でなくていいの。一度よく考えなくていいのかな。

王様じゃなかったの

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豊かな自然と資源に恵まれた王国・ザムンダに君臨するジョフィ・ジャファ国王。(☆1)この国のすべては、彼の意のままに決められている。ひとり息子であるアキームが二十歳になった日、国王はアキームの結婚相手を、隣国の王女とすることを勝手に決めてしまう。当然である。ザムンダ国の法律には「王子の妃は国王が選ぶ」と、ちゃんと書いてあるのだから。 コメディ映画「星の王子ニューヨークへ行く(☆2)」は、アフリカのロイヤルファミリーの話だ。ロイヤルファミリーと言っても、親子関係の問題は世間と同じ。普通の恋愛をしたい王子の気持ちは、伝統を重んじる王様の考えとは違う。王様の帝王学に従いたくない王子は、自由の国アメリカへと飛び立つ。 王子アキームと、いい加減な従者のセミが、ニューヨークのクイーンズを舞台に繰り広げる、お妃探しのドタバタは最高に可笑しい。放埓で自己中心的な人間ばかりの現代アメリカで、清純な王妃を探すアキームの奮闘は、大騒動を巻き起こす。ついに二人の暴走に気づいたジョフィ・ジャファ王は、ニューヨークまで乗り出して強権発動。アキームを無理やりに連れ帰ろうとする。

ダブルであれば

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ふと研究室の洗面所を見て気づいた。同じシェービングクリームの瓶が2本並んでいるじゃないか。まだ一本目に残りがあるのに、2本目を買ってしまったようだ。あわてて無駄な買い物をした。いったいいつのことだ? しかし待てよ。考えてみれば、同じものが2本あるというのも、あながち無駄ばかりでもない。どちらかが空になっても1本は残る。これならば、ある朝になって突然、「ひげが剃れない」ということもない。 いまどきは、公共のトイレでも、トイレットペーパーが2つ置かれているのが普通ではないか。いつごろからそうなったのか知らないが、おかげで昔のように「紙が無い!」とパニックになる心配が減ったと思う。必須のものがダブルであるということの効能は大きいのだ。 僕たち人間の身体だって、まさにそのように出来ている。肺、腎臓、手足も脳も、左右に2つづつある。病気や怪我で片方に支障をきたしても、どちらかがバックアップになるようにつくられている。なんとありがたいことか。 それならば、心も2つあればよかったな。ストレスの多い現代に生きる僕たちにとって、心はいつも故障の危機に晒されている。それがひとつしかないというのは、どうしたことか。心にもバックアップがあれば、仮に一個が凹んで使えない時にも、残りの一個で元気にやっていけるのにね。

草鞋をつくる人

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列車強盗といえば、西部劇の定番である。しかし、強盗団に「列車から降りろ」と呼ばれて出てきたのが、刀を差して、草履(ぞうり)をはいた侍だったら。それは西武の強者ゴロツキどもも腰を抜かすだろう。 三船敏郎が出演した西部劇映画「レッド・サン」のワン・シーンである。大陸横断鉄道がまっすぐに伸びる荒野に立った姿はなかなかのもの。競演の二大スター、アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンに少しも負けていない。いま改めて観ると、この映画なかなかたいした娯楽大作ではないか。テレンス・ヤング監督は、心から三船敏郎を尊敬していたに違いない。 「かごにのるひとかつぐひとそのまたわらじをつくるひと」(☆1)ということわざがある。 先日の大学院のゼミで、修士課程一年生の映像チームが浅草の 「東京銀器」 のお店のドキュメンタリーを発表してくれた。学生が「銀器作り」を体験しながら、銀器に対するご主人の思いをお聞きした。この仕事をはじめたばかりのころのご主人は、銀器というのは「裕福な人たちの嗜好品にすぎないのではないか」と考え、この仕事への熱意を失いかけたことがあるという。その時にお母様から聞かされたのがこのことわざだった。 世の中はさまざまな境遇の人たちが持ちつ持たれつして成り立っている。どんな仕事もそれぞれに意味深く、一生懸命打ち込む価値を持っている。そういうことを教えてくれる言葉だ。就職活動で、会社選びに逡巡している若者の背中も押してくれるだろう。 ところで、ドキュメンタリーを制作した当の学生君たちはどのように理解したのだろう。ちょっと心配。まさにいまどき人たちである。彼らの顔を観ていると「駕籠に乗る人じゃなきゃ嫌だー」とか思っている節もあるので。それはそれで、たいへん若者らしい、とも言えるが。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草鞋を作る人

ネガポジ変換

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太平洋戦争の戦記を読んでいると、所属していた部隊によって運命が大きく変わったという話に出会うことがある。ほぼ同じ苦しい戦況においても、ほんの少しの運命の分かれ道によって生還できた話とそうでない話がある。 今日、映画「アポロ13」を改めて観て、危機的状況下でのリーダーの存在について考えさせられた。月へのミッションの途上で、司令船が制御不能となる最悪の事故が起こった。この事故を乗り越えて奇跡の生還をなしとげた、ジム・ラヴェル船長は天性の前向きな人だった。 彼の役を演じたトム・ハンクスそのままに、不屈の精神と、溢れるほどポジティブな精神の持ち主であるということがわかる。彼の口からネガティブな言葉はひとつも出てこない。危機的状況が深まるほど、彼のユーモアが光る。 このミッションで飛行管制主任だった、ジーン・クランツ(☆1)も実に前向きだ。部下思いの信念の人で、決して後ろ向きの発言はしない。どんな過酷な状況でも部下に「やれる」というポジティブなイメージを与えることができる。 「NASAが迎えた最大の危機だ」 「いや、お言葉を返すようだが、NASAの栄光の時だ」 部下の悲観的な言葉を聞いて、このように諌めた。 見事なネガポジ変換である。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:エド・ハリスが本人そのままに熱演してくれてます。これぞリーダーの鑑という演技です。 ジーン・クランツの10か条 というものも見つけましたので転載させていただきます。 これは、あらゆる現場の危機管理に役立ちますね。 1. Be Proactive (先を見越して動け)  2. Take Responsibility (自ら責任をもて)  3. Play Flat-out (全力でやれ)  4. Ask Questions  (質問せよ)  5. Test and Validate All Assumption (すべてテストし確認せよ)  6. Write it Down (すべて書きだせ)  7. Don’t hide mistakes (ミスを隠すな)  8. Know your system thoroughly (システム全体を掌握せよ)  9.

あなたは柔軟ではない

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このところ本を読むのがシンドくなってきた。 しかたなく読書用に眼鏡を新調した。近距離でも文字が見えるようになった。別に近視や老眼が進んだわけではないのというのだ。事実はもっと恐ろしかった。眼鏡店の方は、こともなげにこう言った。 「眼のレンズの柔軟性がなくなったのです」 若い人は、幅広い距離に応じて眼のレンズを調節できる。僕の眼には、もうその能力がなくなってしまった。だから、用途(距離)に応じていくつもの眼鏡が必要なのだ。柔軟性が無い、と言われるのは「時代遅れである」ということ同義のように感じてしまう。 老人とは柔軟性に欠ける人間のこと。人生経験だけは豊富なため、姑息な掛け引き、阿諛追従、面従腹背、世の荒波を生き抜くことだけは巧みである。若い人たちの上にたって説教をし、体制を支配するだけの知恵がある。だから、組織でも社会でも、体制を支配するのは老人である。 処世術や駆け引きばかりの老人に、未来を創る力はあるのだろうか。過去の価値観によって老人たちが決断した結果、それが歴史的な過ちを繰り返すのかもしれない。これはある意味で当然の摂理だろう。未熟な若者が創りだす無謀な未来よりは、老人たちの判断のほうがまだマシ。いつの世でも誰もがそう考えて当然なのだ。 僕の柔軟でない頭で考えても、答えは出ないむずかしい問題だ。

今日はほんとにツいてない

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甘すぎた? 「今日はほんとにツいてない」 一杯のコーヒーがまずいとか甘すぎるとかを問題にする。電車が遅れたとか、タクシーがなかなか来ないとかで悪態をつく。ガサガサした現代に生きる僕たちは、何かというと「今日はツいていない」とか「運が悪い」「うまくいかない」とか文句を言ってしまうものだ。ものごとがうまくいかないのを他人のせいにしたり、世の中のせいにしたり。そんなふうな毎日だ。 そんなある日ワイルド・スワンという本を読んだ。「読んだ」などと生易しいものでは無かったかもしれない。これまでこの本を読み始めたことは三回ほどあるのに、いつも途中で投げ出す。それくらい僕には読むエネルギーが必要な本なのだった。今回は、やっと上下巻を通して一気に読み終えた。読んでいる間は、常に心をかき乱され続けた。 著者のユン・チアン(張戎)は、1950年の生まれ。この本は著者の母から祖母の三代に連なるひとつの家族の物語である。著者の家族に次から次へと襲いかかる悲劇。体制を批判した父親は迫害を受け、家族は離散となり地域での労働を強いられる。この悲劇を乗り切れたのは家族の強い絆と深い愛情があったから。この家族の物語を通して、筆者は中国全土を覆いつくした恐怖と混乱の近代史を鮮烈に描き、近代中国史の謎に迫っている。1991年に出版されると、たちまち世界的なベストセラーとなった。 ワイルド・スワンというのは、「鴻(野生の白鳥)」のこと。著者の本名である「二鴻」と母の名前にちなんだものだ。激動の社会に翻弄されながらも、たくましく生き抜いた著者の母。それは、まさに荒れ野の空を駆け抜ける野生の白鳥だ。著者の家族が、関東軍の支配から国民党支配へ、共産党の躍進から文化大革命へと翻弄されていく。泥水や火炎に飲まれながらも、真っ白な心で家族を守っていく。 この家族の物語を知ったおかげで、僕にとって「ツいていない」という言葉は ほとんど意味をなさなくなったみたいだ。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - こんな話を書いたあとで... 実は僕の身の上に、ものすごく「ツいていること」が起こってしまった。 うっかり屋の僕は、このブログを書いていた電車から、椅子にスマホを置いたまま降りてしまったようなのだ。降

本当に本と言えるのか

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これは本当にお茶と言えるのか 僕は電子書籍は嫌いなのだ。これを言い出すと、またもや古い人間のカテゴリーに入れられそうなので、周りの人にはあまり話さないようにしているが、僕は電子書籍にはなにか重大な欠陥があるとずっと感じている。紙に印刷されていないものは本として認めたくない。あくまで感覚的なものなのだが。 電子書籍はエコです。紙の節約はエコです。あなたは本の内容を検索しないのですか。情報を大量に持ち運ぶ時代なのです。時代には逆行できません。あなたの考え方は単に過ぎ去った過去の習慣です。旧弊です過去の幻想です。古いのです。 わかっています。 でも釈然としない。ああモヤモヤする。 こういうモヤモヤは、長く抱えているとある日突然、手品のように答えが出る事がある。今回、鮮やかな答えを出してくれたのは、6月18日(木)放送の「あさイチ」だった。さすがはNHKの情報番組だ。受信料は払っておくものだ。 正確には「あさイチ」そのものではなく、それに出演していた谷川俊太郎さんが、答えを出してくれたのだ。生放送で谷川さんが自作の詩を朗読している。そして自作について語っている。なんて豪華で素敵な番組だったことか。いや、なんと谷川さんが素敵だったことか。僕のぼやけた記憶なので正確ではないが、こんなことを話されていたと思う。 「詩というものは、PCの画面の上にあるだけでは詩にはなりません」 「本という形に印刷されて、それで、活字になった文字や、紙や、表紙などに支えられて、そういうものの力を借りて、詩になるのです」(☆1 / ☆2) これでしばらくモヤモヤは解決。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:やはり僕の頭に残っていた番組の記憶は相当にいいかげんで、実際の谷川俊太郎さんの発言とは違っていたようです。 谷川さんの「あさイチ」出演は、あちこちで話題になっていて、 HUFFINGTON POSTの記事でも紹介されていました。 そちらから、改めて、電子書籍と紙の書籍について谷川さんが指摘していた部分を引用させていただきます。 「ただ文字データがあればいいだけじゃないんですよ。僕も電子メディアで詩を読むことがあるんですが、味気ないんですよね。意味し

TVスター

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YouTubeで、昔のテレビ番組をいくつか探していたら、いつのまにか偶然に「モンキーズ」のTVシリーズのデータに出くわした。なんとNBCで放送されていたシリーズがほとんどフルバージョンで残っているではないか。ケロッグのCMまで当時のままだ。 早速、シリーズ順に観てみる。全体のストーリーはぜんぜん覚えていないのに、なぜか映像の細部をあちらこちら覚えていた。特に、番組挿入歌の部分は、ひとつひとつのカットにまで見覚えがある。記憶ってすごいものだ。当時はビデオもなく、テレビで一回みただけだと思うけど。 当時の僕は小学2年生。田舎で育った僕には、ビートルズは遠い存在だったけど(当時はほとんど情報がなくて、僕がビートルズを発見するのは中学生になってから)モンキーズは、少ないテレビ放送網を通じて田舎の少年にまで届けられていた。 ビートルズと違って、モンキーズは「テレビによって創り上げられたバンド」と言われる。彼らは、レコーディングでは演奏することを許されず、プロのミュージシャンをバックに歌っていただけらしい。その後いくつかのアルバムが、彼ら自身によって作られたのだが、それらはあまり評価もされず、いつか彼らは忘れられていく。 この話を聞くと、いまならば「捏造のバンド」とか「テレビの嘘」とか言われそう。でも、そんなのいいんじゃないの。今見ても、十分に面白くてエネルギッシュなモンキーズ。まさにテレビが作り上げたスター。それでいいのだ。ファンが自分の夢として大事にしていればそれでいいのだ。それがTVスターというものだ。 メンバーの近況を伝えるインタビュー映像なども出てきた。一番人気だったデイビー・ジョーンズが早世してしまったのは残念だけど、ほかのメンバーはいまも元気そう。当時のゴタゴタはすっかり切り抜けて、すっかり落ち着いた初老のモンキーズ。みな、ジョークだけは健在なのが嬉しい。 ピーター・トークは「創られたバンド」であることに嫌気をさして、モンキーズを一番先に脱退した。彼のインタビューもあった。彼はこんなことを言っていた。栄華を極めたTVスターだけが味わう人生の艱難。それをくぐり抜けた彼ならではの味のある言葉だと思う。 「みんな自分自身のヒーローになれれば、それでいいんじゃない?」

イルカと話す

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梅の樹だってコミュニケーションしていると思う イルカは、シグネチャー・ホイッスルと言われる、高音の信号をだして仲間に語りかけるのだそうだ。 これは、イルカ一頭ごとに異なる「名前」のようなもので、イルカはこれをずっと覚えている。久しぶりに会った仲間でも、これで認識するという。イルカが人間と同じように「言葉」を持っていると推測される理由のひとつだ。今月のナショナルジオグラフィックの特集「イルカと話せる日は来るか」で知った。 イルカにとって、コミュニケーションツールとしての「言葉」が必要と考えられるのはなぜか。それはイルカも人間と同様に、集団で生きる社会的な動物だからだ。 社会的な動物にとって、自分が属するグループの動きと同期できるかどうかは自分の生存に関わる問題だ。家族の朝食の時間に起きられない家族メンバーは、朝食にありつくことはできない。会社の会議に出席できないメンバーは出世することはできない。

これは見せられない

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じっとタイミングを待ってるアジサイの鉢 朝日新聞の地域総合欄に「光の国から」という連載コラムが続いていて、毎回とても楽しみにしている。「光の国」というのは、あのウルトラマンの故郷のことである。 子どもたちは、それがどこか遠い銀河の向こうにある、ウルトラマンたちの国と信じているのだろうが(私も信じていた)ウルトラマンの故郷とは、実は円谷プロダクションのことにほかならない。特撮の神様、円谷英二先生のもとで育ったスタッフへのインタビューをもとにしたこの連載、実に面白い。 テレビ界に「昭和の大特撮ブーム」を湧き起こした「ウルトラQ」シリーズの制作秘話。第一話として撮影が進められて「マンモスフラワー」のこと。(☆1)この回の撮影、編集作業が終わっての「試写会」での出来事。これを僕はとても他人事とは思えない。 試写が終わって、円谷英二監督は静かに言ったという。 「これは客には見せられない」

オージーな生き方

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日本では初夏の到来。しかし南半球では秋まっさかりのはず。ある時期に仕事でシドニーに居た時、私は灼熱の太陽の下でのクリスマスというものが不思議でしかたなかった。5月には秋を迎えてそれからどんどん冬に向かうというのも、不慣れな自分にはとても違和感があった。 またオーストラリア人の「オージー」なメンタリティーにも驚かされた。日本人の精神構造とはちょっと違う、ぼやーっとしていい加減でありながら、大自然に対応するような図太さ、タフさを感じた。 仕事としてのテレビ番組制作に違いはない。オーストラリアであっても、番組づくりというものはストレスが多い。撮影スケジュールが迫ってくると、スタジオではただならぬ緊張感に覆われ、スタッフの人間関係も、プレッシャーの中でだんだんとギスギスした状態になってくる。 ところが、そこで「オージー」な精神がすべてを変える神秘の時間がやってくる。 それは、仕事の終わる夕方の5時。(☆1)

007の仕事も変わりました

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スコットランドのスカイフォール 「スカイフォール」を見るとスパイ仕事も隔世の感がありますね。この第23作でシリーズも50周年とか。Qが用意する武器類を見ても、指紋認証付きのワルサーPKK/S、サイバー戦争を戦う最新鋭のパソコン(☆1)、WiFiによる無線爆破装置など、007もITを駆使した闘いが出来なければ、現代のスパイ戦は闘えないようです。 ネット社会では「これからの世界ではコードを書けることが必須」と言われていていますが、まったくですね。次回作あたりでは囚われの身となったボンドは、脱出のためのコードを自ら書いているのかもしれない。これからスパイ活動はITによるインテリジェンスが最重要事項なのかも。私たち庶民の生活だってITを駆使しなければ世の流れにはついていけませんからね。 それに対して、悪者たちがやることの基本は変わっていませんね。2010年にパリで盗難にあった、モディリアニの「扇を持つ女」が、上海のアジトで競売にかけられていました。(☆2)ただし、そこで行われる殺人の舞台は、まるでプロジェクション・マッピングさながらにCGの光の洪水に彩られていました。