Posts

Showing posts from 2009

火水未済

今日は2009年の大晦日。「易経・一日一言」から31日のページをめくってみた。易経六十四卦の最終にある「火水未済(かすいびせい)」が載っていた。未完成の時を説く卦(か)である。その説くところは以下の通り。 完成を終わりと満足しては、発展がない。自分が未完成であるということに気づくことで、人間は謙虚になり、努力成長しようと思うのだ。科学技術の発展も、ひとりの人間の成長と同様、終わることのない失敗と挑戦の繰り返しにならざるを得ない。

水がたまらないダム

日本の農業ダムの実態についての記事。 大分県との県境、熊本県・産山(うぶやま)村に建設中の「大蘇ダム」。(事業費593億円)火山灰質の土壌を甘く見た結果,水がしみ出て溜まらない珍しい「水漏れダム」となった。いまや30年の建設工程が無駄になろうとしている。(2009年7月6日 日経新聞朝刊より抜粋) 北海道富良野市には東郷ダム。本来430万トンの貯水量があるはずだが、ダム底には冬も夏も水は一滴もたまらないそうだ。国と道が379億円を投じて93年に本体工事を終えたが、間もなく水漏れが判明。ダム底の地質が火山灰性のため水を通しやすいとの説もあるが、漏水の根本的な原因はいまだ不明という。(2009年12月28日  読売新聞より抜粋) なるほどそういうことか。ダムというものは、川下の谷を堰き止めさえすれば、いずれ水が自然に貯まるものと思っていた。しかしダムの底にあたる、谷底の土壌によっては、水は漏れていくのだ。むしろどんな土地であろうと、水というものは土壌にしみこんでいくものであろうから、どんなダムだって少しは水を失っていると考える方が自然なのだろう。 人間社会は21世紀に到達して、いよいよ科学技術による高度な文明を享受している。しかし、この水の漏れるダムの例のように「先端科学技術」の実力にも、ちょっと不安な部分があるということが分かる。

宇宙のわすれもの

スペースシャトルでの船外活動などの際に、乗組員がうっかり無くしてしまったスパナなどの工具。これらはスペースデブリ(宇宙ゴミ)となる。スペースデブリは一見すると、ふわふわと浮いて、のんびり宇宙空間を漂って、ゆっくりと宇宙の彼方に消えてゆくように思える。しかしスペースシャトルや宇宙ステーションなどは、地球を周回する高度400kmの軌道を秒速7.9lm(時速2万8440km)で飛んでいるのだ。ふわふわ浮かんだスパナのように見えるが、その実は、超スピードで飛んでいる、大変な破壊力を持った凶器なのだという。 地上400kmで地球を周回する数センチメートル以上の大きさの物体は、数十年間は落ちてこないで独自の軌道を持ち飛び続ける。乗組員がうっかり無くした工具などのほかに、寿命を終えた人工衛星や、ロケットの下段部分など、地球の周りには総重量にして4500トンものスペースデブリが存在するという。(池田圭一著「失敗の科学」p.181より抜粋) 現代文明を享受する私たちは、いろいろな意味で、便利さや快適さを手にしてきた。人類は、これからも様々な科学技術開発を推し進め、地球の周りの空間に影響を及ぼし続けるのだろう。だけど、それは決して、ひとつの文明の完成形でもなく、完全に成熟した技術体系でもないという事を、いつも意識し続けなければならないのだろう。 つづきを読む>>>

大晦日(おおつごもり)

世の定めとて大晦日(おおつごもり)は闇なる事、天の岩戸の神代このかた、しれたる事なるに、人みな常に渡世を油断して、毎年ひとつの胸算用ちがひ、節季を仕廻(しまい)かね迷惑するは、面々覚悟あしき故なり。 井原西鶴 「問屋の寛闊女(かんかつおんな)」 ____________________ 明治6年(1873年)の1月1日より、明治政府はそれまでの太陰太陽暦(旧暦)を改めて、太陽暦(新暦)を採用した。この前日は明治5年12月2日だったという。当時明治政府は、文明開化で財政難に苦しんでおり、役人の給与が払えなくなっていた。この年の改暦は、明治政府にとって窮余の財政改革でもあった。旧暦のままでは、閏月があって13ヶ月分の給料を払わなければならないが、新暦では12ヶ月分で済む。しかもこの年(明治5年)は、12月が1日と2日だけしかないから、この月の給料も払わないで済む。太陰暦では、大晦日はもちろんすべての晦日(月の最終日)は月のない闇夜と決まっていた。太陽暦となると、月の出る晦日もあれば、月のない十五夜も起こることになる。 真説の日本史365日事典 p.7 ____________________ この改暦の詔書が発せられたのは、明治5年(1872年)の11月9日。毎日新聞の前身にあたる「東京日日新聞」はこう書いた。「さすれば朔日の日食、望月の月食も之を必ずと期し難し。いわんや晦日の月出るに至りては晦の晦たる、その名にそわず、十五夜かえって闇夜の如きは望の望たるその実を失わん」。つまり、旧暦であれば、晦日は、当然新月であり、闇夜にちがいない。日食はこの日に起こる。また望月(15日)は当然満月であり、月食もこの日に起こるのが当然であった。しかし太陽暦となれば、この習慣は無くなり、庶民は混乱するであろうという批判である。 毎日新聞 12月30日 朝刊「余録」より ____________________ なんと今年の大晦日は満月。そして元旦にかけての夜中には月食も起きるという。 これが吉祥であることを祈りたい。 WORLD

アバター、3D映画の未来を考える

Image
デジタルシネマや3D映画の現状に詳しい、北谷賢司先生が、10月頃に「アバターが試金石となるでしょうね」というふうにおっしゃっていた。私はそのお話を聞いて、やや3D映画ブームの到来に期待しつつも、ちょっと懐疑的なニュアンスも感じたものだ。 立体映画は、1950年代「恐怖の街」「肉の蝋人形」など、長編や短編をあわせて100本以上の立体映画が作られたらしい。しかし、数年のうちに、その流行は急速に衰退する。当時の立体映画が作られた理由は、テレビ受像機の普及による、観客動員数減への対向のためという消極的なものであったせいだろうか。あるいは、まっとうな演出による作品が少なかったため? ____________________ さて、今回の「3D映画ブーム」なのだが、ハリウッドでは、すでに数多くの新作が「3D」方式で撮影され、また旧作のデジタル処理による「3D変換」によるリバイバル企画も、沢山生まれつつあるということだ。本当にこのまま、3Dムービー時代が到来するのだろうか? 本日、TOHOシネマ 六本木ヒルズで「アバター」を観た限りで言うと、正直なところは「ムリではないか?」という感じがある。実のところ、3時間近くある上映時間のうち、後半の1時間しか観ていないので、全くあてにはならないのだが、とりあえず本日時点では「3D映画が本格潮流になるのはムリではないか?」正直な感想である。この感想には、おそらく私という個人の、視力そのものや、立体視処理能力(脳力?)など、体力的な限界が影響しているには違いないのだけれども。 つづきを読む>>>

言葉を持った人間

普段はすっかり忘れてしまっているのだが、人間が言葉を持っているということは、本当に素晴らしいことだ。もしも人間社会に「言葉」という道具がなかったならば、本当に大変なことになる。手紙どころか、メールも打てないし、本も読めないので、なんの知識を得ることもできないだろう。自分の生活の範囲で得られる情報だけにかこまれて、他国のことも知らず、過去の歴史も知らずに生きていくことになる。 だけど、この21世紀初めのような、不景気で殺伐とした世相になってくると、人間が「言葉」を持っていることで起きる厄災の方が目立ってきて、もしかしたら「言葉」なんてものが無かった方が、世の中は平和だったのではないか、なんて思えてくるのだ。 政治家がうっかり漏らした「言葉」。だれかがうっかりブログに書き込んだ「言葉」。いままでは、特に新聞やテレビといった、大メディアが取り上げなかったような「言葉」は、現代の拡声装置であるネットに乗って、思いも寄らない規模で拡散していく。すると、これがまた思いも寄らないトラブルになって、名誉毀損やらなんやら、無くてもよかったような騒動に発展していく。 つづきを読む>>>

人物を見る

レッド・ツェッペリンがデビューした当時は、まだまだラジオ番組の権威というものが存在したのだろう。今でこそ伝説的ロック・バンドと言われるレッド・ツェッペリンも、ラジオ番組出演のためのオーディションを受けたらしい。当時のプロデューサーによるオーディション・コメントが残されていた。なんとそれは「このバンドのやっている音楽は、時代遅れである」という評価であった。同じくオーディションを受けた、デビット・ボウイは「個性がない歌手」、Tレックスは「思い上がったクズ」という評価に終わったらしい。(12月18日 毎日新聞夕刊より) NHKの同僚だったTディレクターから、以前これと似たような話を聞いたことがある。たしか札幌放送局でのことだが、当時無名だった、ドリーム・カムズ・トゥルーのメンバーが、NHKドラマの主題歌オーディションに応募してきたらしい。テープ審査であったが、Tディレクターは、そのブルーノートを使った斬新なメロディーに驚いたとのことだが、結果のところ、あえなく落選。 やはり、NHKのディレクターであろうが、BBCのプロデューサーであろうが、本当のスターを見いだして、未来へと送り出すなんてことは、実は至難の業ということなのだろう。だって、おそらく未来のスターとはいえ、最初はみんな、ただの田舎ものみたいな風情で現れることだろうから。人間の才能や、将来の可能性なんて、目に見えるものではないのだから。 一方で、以下のように素晴らしい話も存在する。 ____________________ 名人佳話 宮本武蔵に関する逸話の一つであるが、武蔵がある日名古屋で尾州藩の槍術指南役であった田辺長常を訪ねた。その時たまたま玄関に居あわせた長常は、佇立する武蔵を見て、これはみごとと嘆じ、しばし見つめていたという。(これは、安岡正篤先生が、尾州柳生の直系である柳生巌長氏から聞かれた話である) 安岡正篤著「人間を磨く」より p.105 -

九方皐

馬が特に重要な国力の一つである秦国の穆(ぼく)公の時のこと、ある日、公は名馬を見抜く名人である伯楽を呼んで「お前も年をとった。お前の一門に馬を相(み)させられる者があるか」と聞いた。 伯楽は「自分の子供はみな下才なので、良馬程度ならば見方を教えられるのですが、天下の名馬となると、これの見方を教えることは口ではできません。そのかわりに、私の貧乏仲間に九方皐(きゅうほうこう)という者がおります」と答えた。 そこで、穆公は九方皐を引見して馬を求めさせた。三ヶ月たったある日、彼は「見つけました。沙丘におります。牝の黄毛でございます」と報告した。穆公は早速引き取らせに使者を遣ったところ、それは牡の黒駒であった。「だめだ。お前の推薦した九方皐というやつは、馬の毛色や牝牡さえわからぬ奴ではないか」と伯楽を叱った。 伯楽は、逆に感じ入った様子で、こう言った。「そうですか、九方皐はそのレベルにまで達しておりましたか。彼が観るのは天機というべきもので、その精を得て、その粗を忘れ、その内に在って、その外を忘れ、その見るべき所を見て、その見ないでもいい所を見ず、そんな所にかまっていません。彼が馬を相する段になると、馬なんてものを見ていません、馬よりも貴いものがあるのでございます」。 安岡正篤著「老荘のこころ」より p.72 原典は「列子」説符、「淮南子」道応訓 つづきを読む>>>

進化は予想外に起きる

携帯電話、テレビ放送網、自動車、発電技術、上下水道、こうした現代的技術にかこまれて、僕たちは暮らしている。そして、これらの技術の無い社会など創造することも出来ないくらい、こうした環境に依存して生きている。しかし、こうした技術が、つい最近生まれたばかりのものにすぎず、いずれすぐに、何かもっと優れたものに置きかわられていくことを、忘れている。 人間社会が享受する科学技術の進化と、自然界における生命の進化とは、非常に似た道筋をとおる。どちらも「いきあたりばったり」である。決して予定通りには進まない。進化は予定外に起きるのである。動物が持っている「眼」は、生物の進化のハイライトといえようが、その「眼」が出来上がった過程もかなり「でたらめ」である。その事実は、動物の「眼」を構成している部品が、どのように作られてきたかを見ることで分かる。 例えば、人間の眼が使っている「水晶体」は、最初バクテリアが、自分の体を温度変化から守るために生み出したものだ。 / ネコの眼が暗闇で輝いて見えるのは、ネコの網膜の裏側に、光を集めるための反射膜があるからだ。この反射膜は、はじめ魚類が使っていた浮き袋として生まれた。 / 昆虫の眼にある赤と黄色の色素は、蝶の羽も飾っているものだ。 / 網膜の桿体細胞をつないでいる繊維は、ミドリムシの尻尾と同じ構成である。眼には少なくとも5億3800万年の歴史がある。しかし、その構成要素はそれよりもはるかに古い。 ( サイモン・イングスの著「見る」 p.127) つづきを読む>>>

デーヴと影武者

Image
アイヴァン・ライトマンの映画「デーヴ」を観ているうちに気づいた。黒澤明監督の影武者にそっくりだ。といっても、この映画の製作チームのみなさんは大好きなので、別にむっとした訳ではありません。むしろ、その共通性に非常に興味を持ったので、すこし立ち入って考えてみる。 「そっくりさん同士が入れ替わり、それぞれの真逆の人生を体験する」というストーリーが「そっくり」だ。こういうストーリーを何というのか。とりあえず「 王子と乞食 」にも似ているので「王子と乞食」型とでも名付けておこう。(おそらくすでに誰かが名付けているのだろうが、まあ、かわまず)最近では、父親と娘が入れ替わってしまうとか、男の子と女の子が入れ替わってしまうという、メンタルでSFチックな入れ替わりものもあるが、これはちょっと複雑すぎなので除外。この「王子と乞食」型は、以下の単純なルールに従うものとしよう。 1:実際に生きているそっくりさんが二人いる 2:その二人はお互いに全く反対の人生を送っている 3:その人生が入れ替わってしまいもとに戻れなくなる このルールに照らし合わせると「デーヴ」と「影武者」とはやはり、どちらも「王子と乞食」型であり、かなり似通った兄弟分の映画だということが分かる。先に進む。 つづきを読む>>>

敵を欺くには身内から

引き続き「デーヴ」と「影武者」を比べてみたい。 <キャスティング> 「デーブ」で主人公を演ずるのは、 ケヴィン・クライン 。「影武者」は 仲代達矢 。どちらも「ひとり二役」という難行を演ずるとしたらうってつけの名役者だ。ちなみに、ケヴィン・クラインは、「ワイルド・ワイルド・ウェスト」というおバカなSF映画でも、大統領との二役をやっていた(替え玉ではなく純粋にひとり二役)。仲代さんもどこかで、二役やってないかなあ。そういえば、NHKの大河ドラマ「風林火山」では、武田信虎役もやり、名優仲代さんは、冷血漢の役から情熱溢れる正義感まで、なんでも出来るスターだもの。二役どころか、どんな役でもこなすマルチプレーヤーだ。 <見抜くのはやはり奥様たち> 「デーヴ」の奥様つまりファースト・レディであるエレン・ミッチェル(シガニー・ウィーヴァー)は、はじめ意外にあっさりと欺されてしまう。デーヴが大統領の不倫事件について、素直に謝ったのでうっかりという設定。だがその後、デーヴのほんのちょっとした動作で、異変に気づいてしまう。「影武者」でも、替え玉の機転とユーモアに笑わされているうちに、欺されてしまった奥方たち(倍賞美津子、桃井かおり)だったが、愛馬から落馬という思わぬ事態で、偽物であることをするどく見抜く。やはり、夫の異変に気づくのは奥様でしょう、という点も、ふたつの映画には共通している。 つづきを読む>>>

映画のユートピア

脚本家、君塚良一さんの著書「脚本(シナリオ)通りにはいかない!」の映画評を読んでいるうちに、映画「デーヴ」が観たくてたまらなくなった。大好きな アイヴァン・ライトマン 作品なのに、観ていなかったというのも悔しかったし、 ケビン・クライン による、ひとり二役の怪演が見物だろうと思った。そして、非常に面白かった。感動的でもあった。 主人公のデーヴ・コーヴィックは、現大統領ビル・ミッチェルに瓜二つ。そのことをネタにしていたところ、なんと本当に大統領の替え玉として登用されてしまうのだ。その上本物のビル・ミッチェルが脳卒中で倒れてしまい、本格的に大統領を演ずる生活が始まる。デーヴは善玉、ビルは悪玉。見た目はそっくりだが、性格も価値観も正反対である。大統領の影武者となったデーヴは、その明るく正しい性格のままに、次々と善政を打ち立てて、病めるアメリカに、ひとときのユートピアを実現していく。 最高のエピソードは、替え玉大統領のデーヴが、あわや廃止となる孤児院の運営予算を救うところ。本物の大統領補佐官を出し抜き、国家予算にメスを入れ、無駄な防衛費などを削りまくっては、孤児院の運営予算の維持を閣議決定する。まずはあり得ないストーリーだが、こんなことが「実現」できるのがコメディ映画の素晴らしいところだ。シリアスな映画では浮いてしまう話だが、コメディでは「笑い」という特効薬により「実話」に仕立て上げられるのだ。 つづきを読む>>>

ネットによる価格破壊

9月25日の日経朝刊から、3つ別々の記事を拾ってみる。いずれも「ネットによる流通」が原因となって起こった「物価下落」に関するものだった。その要旨をまとめて並べてみよう。 その1「価格破壊-新たな潮流-ネット・PBが主役」 景気は最悪期を脱したが、物価下落は止まらない。需要ギャップの拡大に加え、プライベート・ブランド(PB=自主企画)やインターネットの普及といった構造変化が新たな価格破壊を起こしている。 その2「パソコン勢力図に変化-ネットブック-低価格・小型」 小型のノートパソコン「ネット・ブック」がパソコン市場の牽引役となっている。安く、持ち運びやすい点が消費者に受け入れられ、瞬く間に世界的なヒットとなった。市場を活性化する一方で、パソコン価格の低下を促し、業界の勢力図にも影響を及ぼしている。 その3「東京ゲームショーきょう開幕-ネットが主戦場」 ソニー・コンピュータ・エンタテインメントの目玉は「PSP go」で、ゲームソフトはすべてネットから取り込む。パッケージにして店頭などで販売する従来の仕組みを根底から覆す。販売店側からは「ソフトで稼ぐ仕組みが崩れかねない」と懸念が広がる。

アリの多数決

Image
蟻と蟻 うなづきあひて 何か事 ありげに奔る 西へ東へ 橘 曙覧 蟻というものは、とびぬけて統制のとれた群行動をする動物だ。複雑な居住システムを完備した巣穴を、組織的な行動で作る。種類によっては、巣穴の温度調節まで行うそうだ。女王を守り、その子孫である卵や蛹を世話する。もちろん、食物を集めハンティングも統制のとれたグループ行動によって行う。 何年か前に、お台場の科学未来館を見学した際に、ミュージアム・ショップで、まさに「未来的」な「蟻の飼育セット」を購入した。NASAがスペースシャトル内での、蟻の飼育用に開発した特殊な土壌のはいった、透明ケースに、別容器にはいった生きた蟻が5匹ついててきた。そのNASA開発の土壌というのは、透明な水色をしたゼリー状のもので、それ自体が蟻のエサであるために、特別のエサやり不要という、いたれりつくせりの飼育セットである。 その飼育セットには、飼育観察のための解説書もついていた。そして、その解説書にはこんな気になることが書いてあったのだ。「蟻をケース内に放してみましょう、するとまず蟻たちは、どんな巣を作るか、ミーティングを始めることでしょう」 まさかね。 おそるおそる、別容器にはいっていた蟻たちを、水色の新居へと放してみた。しばらく息をつめて観察していたところ、驚くべき事に蟻たちは本当にミーティングを始めたのだ。上の写真のように、顔をつきあわせて、おそらくは30分ほどは、なにやら話し合いをしているように見えた。おたがいの触覚を触れあわせて、確かに何かの情報交換をしているように見えたのだ。 つづきを読む>>>

アリの行軍

Image
アリの集団は、一個の個体はそれほど賢くなくて、その行動も単純なものだとしても、集団全体としては、恐ろしいほど複雑で高度な社会的行動を実現すると書いた。それは事実である。しかし、その逆にアリの集団全体が、アホらしい自滅的行動に追い込まれるケースについての記述を見つけたので採録させていただく。ジェームズ・スロウィッキー著/小高尚子訳「 みんなの意見は案外正しい ( The Wisdom of Crowds )」より。P.59 ____________________ 二十世紀初頭、アメリカの生物学者ウィリアム・ビーブは、ガイアナのジャングルで奇妙な光景に出くわした。それは巨大な環状に動く兵隊アリの大群だった。アリ一匹が一周するのに二時間半かかる円周が360メートルはあろうかという環で、アリは二日間にわたってぐるぐるぐるぐる回り続け、最後には大半が死んでしまった。 ビーブが目撃したのは、兵隊アリが自分のコロニーに戻れなくなった状態である。兵隊アリは一度迷うと、自分の前のアリに続くという単純なルールに従う。その結果生まれた環は、たまたま何匹か違う方向に逸れて、ほかのアリもそれに続いた場合にしか終わらない。 つづきを読む>>>

ロスアラモスのマニアック

ふと本棚から「ガモフ全集」を取り出してみた。この全集には、別巻として「現代物理科学の世界」上中下の3冊がついている。いままで気づかなかったが、この別巻3冊にも、ほかのガモフの著作同様しゃれたタイトルがついていた。" Matter, Earth, and Sky ” 「ものごと、地球、そして空」ね。まるで、いまどきの写真集のようなおもむきのタイトルですね。いいなあ、これ。 大学の帰り、眠い電車の中で拾い読みをはじめる。英語版オリジナルの出版は1958年とある。なんと私の生まれた年だ。第5章「電磁気学」に「電子計算機」という一段があり、そこに当時の最高クラスの電子計算機「マニアック」に関する記述を見つけた。 「たとえば、ロスアラモス研究所にある”マニアック”という名の古強者の計算機は、3,000本の真空管を持ち、10進法で12ケタの2つの数を約10万分の2秒で加えることができ、同様な数を1,000分の1秒以下で、掛けたり割ったりできる。こういう高速なので、電子計算機は、人間がやれば100人で100年かかる仕事を数日間でやることができる」 「ロスアラモスのマニアックは、彼の”数学の先生” S.ウラム氏からチェスの基本ルールを教えてもらって、”並の能力とすでに10局か20局の経験を持つ10歳の子どもと同様に”チェスを指すことができた。チェス指し用に特殊な設計をされた電子機械は、やがてはどんな世界選手権保持者をも負かすことができるようになると思われる。しかしウラム氏が著者に語ったところによれば、 ”電子計算機が人間のチェス名人を負かすようになるのは数十年先のことだろう” という」 実際に「電子計算機が人間のチェス名人を負かす」ことができたのは、1997年の5月のこと。この本が書かれてから約40年後だ。 つづきを読む>>>

自動翻訳の不思議

引き続き「ガモフ全集・別冊1」より 「去る者日々に疎し」という文章を、電子計算機で自動翻訳した結果が面白い。 かなり昔のことだが、あるひとが行った実験。電子計算機の黎明期に、自動翻訳(英語→ロシア後→英語という翻訳)を試みた結果、以下のような深淵な答えが得られたという。 初期値:「去る者日々に疎し( Out of Sight, Out of Mind )」 最終値:「見えない気ちがい( Invisible Maniac )」 私は自動翻訳の専門家ではないので正しい実験はできないが、とりあえずもっとも手近なところでひとつやってみることにした。お世話になったのは 「excite翻訳」 というサイトである。 ____________________ まず英語から日本語へ。 " Out of Sight, Out of Mind "は、ちゃんと「去る者日々に疎し」になった。 それでは日本語から英語へ。 「去る者日々に疎し」は、” It is ignorant of the person date that leaves. ”となる。なるほど。英語では、こういうふうに言えばいいのか!意外と変わった言い回しだ。 よし、ではもういちど、英語から日本語へ。 あらら、” It is ignorant of the person date that leaves. ”は、” It is ignorant of the person date that leaves. ”のままだ。変換されないぞ。簡単すぎて翻訳拒否なのか、難しいのか。 つづきを読む>>>

モラルハザード

先日、JDC(ジャパン・デジタルコンテンツ)信託の「信託免許取り消し」について感想を書いた。 その後、ある記事を思い出したぞ。10日前の9月7日日経朝刊に、ファンドマネージャーのモラルハザード行為についての解説が載っていた。これは、今回のJDC信託の件とは無関係ではある。しかし思い出したついでのメモとして、ならべて書いておきたい。ところで、こういうのはまさに「経済学的」な分析だなあ、と思いますね。 ファンドマネージャーは、顧客の資産を運営してそれが成功すれば、巨額の報酬を受け取ることができる。しかし逆に、損失を出したからと言って、それを補填する義務はない。何億円もの資金が失われたからといって、ファンドマネージャーが受ける罰は、せいぜい「解雇」くらいのものだ。自分が損失を引き受けることはないし、もし頼まれてもそれは出来ない相談だ。失われたんだから。 すなわち、ファンドマネージャーは、損失の大半を出資者に押しつける余地を持っている 。 出資者というものは、通常自分では、割高のものは購入しない。自分の持っている資金の価値に比べて「価値が割高の物件」を購入する理由は存在しない。別の言い方をすれば、損を承知の賭けはしないはずだ。 ところが、ファンドマネージャー側には、これをやる理由がある。危ない取引であっても、少しでも「価値がふくれあがる」可能性さえあれば、割高の物件を購入する理由はあるのだ。物件の価値が、万が一にでも膨れあがりさえすれば、その報酬は巨大だ。膨れあがらなかったら、負債だけ出資者に返せばいいのだ。「残念ながらダメでした」と一言添えるのを忘れずに。 「バブル」という経済用語は「資産価値のファンダメンタル価値からの乖離」を意味するそうだ。資産価値が、ファンダメンタル価値と比べて、大きく膨らんでも、小さく縮んでも、ファンドマネージャーにとっては「人ごと」で、出資者本人にとっては「自分のこと」。大きく膨らめば、両者に利益がある。小さくなった場合は後者のみが損害をこうむる。 ____________________ 映画ファンドの仕組みと、一般ファンドのメカニズムとを比べてみよう。 言い換えれば、映画プロデューサーと、ファンドマネージャーの立場を比べてみることになるか。 出資者から資金を集め、それを「映画製作とその興行」につぎ込む。興行成績も良く、DVD

グーグル頭脳流出

グーグルを今月4日に退社した、大物技術者、李開復(カイフー・リー)氏は、第二のジョブスになるのか? 李氏は、もともとマイクロソフト社の副社長だったのを、グーグルが2005年に無理矢理引き抜いたという経緯もある。こうして4年で退社となった流れを考えれば、グーグル内部に何か問題があるのではないかとも勘ぐりたくなる。各紙紙面の内容も、グーグルにおける企業内統治に欠陥ありとの論調のものが多い。 李氏以外にも、グーグルではこの1〜2年の間、人材流出が止まらない。以前も引用したが、本社・広報幹部のティム・アームストロング氏は、AOLへと引き抜かれた。世界最大のSNS「フェースブック」は、幹部から末端まで、グーグル出身者がたくさんいる。ツィッターの創業者も同様にグーグルからの人材が流入しているようだ。 きわめて短期間に急成長を遂げてきたグーグルは、他のIT巨大企業の例と同じように、早くも衰退への道を転がり始めたのだろうか?こうした人材の連鎖反応的な流出は、マイクロソフト社でも見られた現象であり、同社におけるその後の開発力の低下や、企業ビジョンの不明瞭化の原因になったことは否めない。まるで、その領土拡大を際限なく続けるローマ帝国のように、グーグルはYouTubeを買収し、Bloggerを買い取り、さまざまなIT物件を買収しては、企業規模の拡大を重ねてきた。 領主の欲望のままに拡大された領土は、果てしなく続く国境線という防衛ラインで囲まれる。領土の守備は、防衛ラインが伸びれば伸びるほど難しくなる。無敵のローマ騎馬兵軍団をひきいての、適地略奪は簡単だ。しかし、手にした領土の守備は、いつかは金銭と食料の空費をまねく。グーグルもいつしか、領土の略奪者から、防衛に心を悩ませる巨大な領主へと変貌してしまったのかもしれない。 9/14・日経朝刊の記事では、グーグル人材流出の原因を、巨大化した企業の「成長の鈍化」と指摘する。企業の新規上場における上場益こそが、ストック・オプションを莫大な富に蛙チャンスであって、その後「もう急上昇はしない」株を保有し続ける理由は薄れる。彼らグーグルを支えた人材たちは「安定成長の中のグーグルによる世界革命」に参加することよりも、「次の新興企業でのギャンブルと爆発的な上場益」を得ることのほうが魅力的である。 情報源の定かでない記事で、5日、香港紙サウスチャイ

グーグルのスローガン

以前日経新聞で、「大転換」というなかなか素晴らしいシリーズが連載された。2009年6月だったと思う。その第3部「揺らぐCEO神話」の中で、古いタイプの企業統治者がによる失敗事例がいくつか挙げられていた。 カリスマによる企業統治というスタイルは、現代社会においてはもう機能しない。2000年ビル・ゲイツ氏MS退任、2001年ジャック・ウェルチ会長GE退任、2002年ルイス・ガースナー氏IBM退任。ジェフリー・イメルト会長などの、有能な実務家タイプの社長が現実と向き合う経営を行い、GEは堅実さを増したが、カリスマ経営を続けたAIGやリーマン・ブラザーズは崩れ去った。重圧に苦しむハワード・ストリンガー ソニー会長兼CEOは、ついに「ソニーに社長は必要か?」と発言。 現代における巨大企業の経営者は「みな一様に病んでいるのでは?」というような内容だ。しかしその後、このシリーズ記事は、グーグルだけは別格扱いをする。以下のような美しい文章が印象的だった。この記事は、切り抜いて手元にある。それくらい感動的な内容だ。 ____________________ Google社員のモチベーションを支えているのは,天才創業者と世界規模の「情報の革新」プロジェクトに参加する権利だ。ストックオプション(株式購入券)や報酬ではない。 ____________________ ラリー・ペイジ氏やセルゲイ・ブリン氏のような経営者は天才技術者であると同時に、ITの伝道師でもある。こうした創業者に率いられたグーグルは、つまり「利益などは目じゃ」なくて「革新的プロジェクトの誇り」がすべてという、現世においては奇特な求道者。慈善団体のように無欲な天才集団がグーグルなのである。彼らウルトラ情報革命の先導者による、組織ガバナンスは、以下のような悩みとは無縁。企業統治に苦しむ以下のような経営者の悩みは皆「過去の遺物」のような統治理念に起因する。 しかし、本当にそんなうまい話はあるものか?ハワード・ストリンガー氏がうまくいっていない人で、セルゲイ・ブリン氏や、森田昭夫氏はうまくいった人と簡単に分類するのも、どうかなーと、思いませんか?経営というのは、うまくいくときはうまくいって、うまくいかないときはうまくいかない、というだけじゃないのかな。 そして、この1年間続いている、グーグルの人材流出現象。グーグ

JDC信託

金融庁は9月15日に、JDC(ジャパン・デジタル・コンテンツ)信託の信託免許を同日付で取り消したと発表した。法令上必要な純資産額(1億円)を下回ったうえ、顧客財産を適切に管理する内部管理体制の構築が難しいと判断した。(9/16日経朝刊より) 金融庁は15日、知的財産権信託会社「JDC信託」の信託免許を取り消す方針を固めた。同社は、04年の信託業務法改正で一般事業会社として初めて信託業務免許を取得。「シネマ信託方式」で、映画「 フラガール 」の製作資金を支援した。だがその後ヒット作に恵まれず経営が悪化。(9/15毎日夕刊より) この「JDC信託」の設立の経緯については、岩崎明彦著「 『フラガール』を支えた映画ファンドのスゴい仕組み 」に詳しい。岩崎氏のこの著作によれば「フラガール」より前には通常の独立系制作会社として映画製作をおこなっていた、 シネ・カノン が、この映画からファンド方式に切り替えたのは、岩崎氏による粘り強い説得の成果。シネ・カノン代表の李鳳宇(リ・ボンウ)氏は、当初はこの方式には疑問を持っていたというが、より資金集めも容易で、制作者にとっても投資家にとってもリスクの少ないというファンド方式について、熟考の上で、採用に踏み切ったようだ。 映画「フラガール」は、2006年日本アカデミー賞において、作品賞、最優秀脚本賞、最優秀監督賞、最優秀助演女優賞などを総ナメにした。独立系映画としては異例のことであった。日本中を感動の渦に巻き込み、あちらこちらで「フラガール」現象をひきおこした。舞台となった福島県への経済効果もだいぶあるのではないだろうか。私自身、作品の内容が素晴らしいだけでなく、映画製作の過程そのものが感動的な、この映画が大好きだ。 この映画の製作過程については、李鳳宇(リ・ボンウ)氏が、著作「パッチギ!的 - 世界は映画で変えられる -」に詳しく書いている。福島県の炭坑町における「ハワイアンセンター」(現 スパ・リゾート・ハワイアン )を舞台にした人間物語。それは、本作におけるアシスタント・プロデューサー石原仁美氏が、地道に現地を歩き回って、掘り起こしていった歴史的真実の集大成である。それを感動的なヒューマンドラマに編み上げた、李相日(リ・サンイル)監督の執念の演出。そして渾身の演技で応えた俳優陣。この奇跡のような映画は、私にとっては、映画製作

許されざる者

Image
クリント・イーストウッド監督が「最後の西部劇」として撮った、渾身の一作と言われる「許されざる者」。19世紀末のワイオミングを舞台にした、この作品の映像は、たしかに美しく、荒野に広がる光は伸びやかで、世界は印象派の水彩画のようだ。しかし、登場人物がみな、どこかうつろで陰鬱な雰囲気をたたえたこの映画は、単純な西部劇ではない。「殺し合い」が見せ場のはずの西部劇で「殺し」が哲学的問題となっていて、見る者に考えることを強要する。しかし、だからといって、この映画が面白くないわけではない。少なくともエンド・クレジットの10分前までは。 「 許されざる者 」( UNFORGIVEN )というタイトルが示すように、この映画のテーマは「憤怒による復習、そして当然の報いとしての死」だ。理由は何であれ、他人を傷つけたり殺したりしてしまった者は、決して「許されることは無い」というのが、この映画の世界における究極のルールだ。このメッセージは明快だ。この映画でも、悪いことをした連中は、ちゃんとストーリーの中で、みなしっかりと罰を受けることになる。 リチャード・ハリス演じる、イギリス人賞金稼ぎのイングリッシュ・ボブ(リチャード・ハリスの存在感は圧倒的)は、とりあえずの罪としては、イギリス女王とアメリカ大統領を比較して大統領をコケにするだけというものだが、おそらくはこれまで散々と殺人を犯したであろうことから、登場からたった数分後には滅茶苦茶な目に遭わされることになる。 つづきを読む>>>

見つめる

Image
「蛇ににらまれた蛙」というが、誰もが、ふと気「誰かに見られている」と感じた経験があるはずだ。程度の差はあれ「他人の視線が気になる」という感覚は、むしろ人間にとって日常的な感覚としてあると思う。人間だけではなく、この世界を動き回って活動「動物」すべてが、この「誰かに見られている」という感覚に動かされて行動しているという。 サイモン・イングス氏は、近著「見る」の中で、こう指摘している。以下のような、わたしたちの言葉のさりげない表現が、眼の社会的重要性を物語っていると。 「彼の視線でわたしは溶けた」 「彼らの視線はナイフのように私の胸に突き刺さった」 「彼女は例の目つきでわたしを見た」 「見る」(P.231) 集団生活を送る動物は、それが鳥であれネズミであれ、何らかの形で「序列」を決めている。それはたいがいは、日常的な力比べ(食べ物の取り合い、寝心地の良い寝床の争い、配偶者の奪い合いなど)という形で現れる。人間社会も、典型的な集団社会であり、そこでの生活は「序列」による秩序が重要なキーとなる。集団の構成メンバーは、誰もが誰に対しても正しくふるまわらなければならない。そして、人間など霊長類の場合、そのコミュニケーションにおいてきわめて重要な役割を果たすのが「眼」である。かくして、人間はきわめて正確かつ敏速に「眼」の表情を読み取ることができるようになった。 ____________________ イングス氏は、1879年にカナダの無神論者グラント・アレンが生態学につて書いた以下の文章を引用している。視覚の出現が、自然界の多様性の引き金になったということを、非常に良く説明しているから。 昆虫が花を生み出す。花が昆虫の色彩感覚を生み出す。 色彩感覚が色に対する好みを生み出す。 色に対する好みが、コガネムシや輝くチョウを生み出す。 小鳥と哺乳類が果実を生み出す。 果実が小鳥や哺乳類の色の好みを生み出す。 色に対する好みがハチドリやオウムやサルの体色を生み出す。 果実食の人間の祖先にも同じ好みが生まれる。 その好みが結果として、さまざまな色彩アートを生み出す。 「見る」(P.163) ____________________ 進化論にもとづいて考えれば、私たち人間や動物の行っていることは、すべて「種」の生存競争、生き残りの

花が見ている

なるほど。人が寄りつかなくなった公園や空き地は、いつか、ゴミが散乱する不法投棄の場となり、不審者が潜む危険地帯となり、それによって近隣には空き巣や傷害事件などの犯罪が頻発する。かつて、そのような危険地域となってしまった、宮崎県祇園4丁目の住宅街からのレポートだ。 日経新聞 9/7夕刊 2004年から、この地域に引っ越してきたOさんは、散乱するゴミを見かねて、雑草を刈り始めた。さらに「花を咲かせれば、ゴミも消え、不審者も寄りつかなくなるのでは」とと考えて、所有者の市から許可を取り、公園作りを始めたという。子どもたちが「怖いから通らない」といっていた敷地は、小学生の待ち合わせの場所となったという。花を育てることで、多くの人の「目を集めることができる」だけでなく、実際に近隣の住民が、花の手入れのために出る機会も増える。人の目があり、人の行き来があるということが、基本的な犯罪抑止につながるということだ。「花が見張っている」とは、これまで気づかなかった。監視カメラよりもよほど効果があるのかもしれない。 ____________________ ドロボウですら、こうして「花を見に来る人の視線」を気にするのだ。一般人にとってもやはり「他人の視線」は気になるもの。最近、大学での授業で学生はなかなか質問をしない。これは偏差値などにかかわらず、日本全国共通の現象のようだ。せっかく授業料をはらっているのだから、少しでも多く質問でもして「割り勘負けしないように」授業の時間を独占すればいいのに、などという考えはまるで無い。むしろ、他人の時間を邪魔しないように気をつかっているようにも思える。 実際に「質問して聴きたいことが無い」ということではないようだ。それが証拠に「それでは質問も無いようなので、これで授業は終わります」と言うと、今度は教壇に寄ってきて質問をする学生が必ずいる。また、メールやメッセといった、非対面式のコミュニケーションでは、人が変わったようにドハデな会話をする。要するに「他人の前では」質問したくないだけなのだ。まわりの人間から「あんな質問するなんて」などと誹りを受けることをおそれているだけなのだろう。その気持ちも分からないでもないが、他人の視線を必要以上に意識しているのではないか。 これは、近年の若者の間だけでなく、一般的な風潮として存在する現象のようだ。「ある特定集団

グラフェン

Image
未来を開く材料 「グラフェン」 炭素原子が六角形の「ハチの巣」のように広がった平面状の材料である。電子を流しやすく、大電流にも耐える。さらに高強度であるなどの特徴があり、今後様々な分野での電気製品への活用が見込まれる。日本も世界におくれまじと各企業での開発参加のかけ声が。 オバマ大統領、異例の議会演説 9日からの米議会冒頭で、オバマ大統領は異例とも言える議会演説を行う。今期の議会で最大のテーマとなる「医療保険改革法案」成立へのなみなみならぬ決意の表れ。 中小企業の広告はネットへ流れる 米調査会社「ケルジー・グループ」によれば、2009年8月の、アメリカにおける中小企業の、ネット広告利用が、既存メディアの利用を上回った。不況下での宣伝広告費の切り詰めの影響か?あるいは本格的なネット広告の時代到来か。 パナソニック王者に 調査「働きやすい会社2009」において、パナソニックが総合1位。2位は凸版印刷。調査項目は以下の4点。「社員の意欲を向上させる精度」「人材の採用、育成と評価」「働く側に配慮があるか」「子育てに配慮があるか」 2009年9月7日(月)日経新聞朝刊より

サビルロウ

Image
世界不況にも踏ん張るロンドンの老舗 ロンドンの老舗テーラー街「サビルロウ(savile row)」は、高級洋装品というこの世界不況下では、苦戦が当然の業種にもかかわらず、売り上げを堅持する踏ん張りを見せる。この商店街にある「ギープス&ホークス Gieves & Hakes 」などの著名店の店主たちが、世界各地での展示会などでの積極的な受注活動を展開。20世紀の世界恐慌でも負けなかった、伝統のテーラー街の意地を見せる。(ちなみに、この街の名前サビルロウは、日本語の「背広」の語源とのこと) 2009年9月6日(日) 日経新聞朝刊より by Google Earth

GDEX09 美大の出展

Image
今年のグッドデザイン・エキスポでは「 デザイン・コミュニケーション 」という企画提案型の展示会場において、6つの美術系大学の展示が行われていた。参加大学・学科は以下のとおり。それぞのブースを巡って、今年の展示の特徴を見てみた。 大阪芸術大学・デザイン学科 / 京都精華大学 / 多摩美術大学 / 東北芸術工科大学 デザイン工学部・プロダクトデザイン学科 / 日本大学藝術学部 / 武蔵野美術大学 [多摩美術大学] まず開場の左端にあったのは、多摩美術大学。アクリルを主体とした展示は、ややイメージ優先の印象があって、ちょっと内容がわかりにくいように感じた。しかし展示の奥のほうに設けられた「産学共同研究」のコーナーの充実ぶりは圧倒的。 各種テーマで、様々な企業との間での共同研究の成果があり、それらのひとつひとつが立派な印刷の報告書になって積まれていた。前回は閲覧のみの展示だったが、今年は無償での配布もあり、思わず沢山いただいてくることになった。入り口付近で、学生さんが手に提げているのは、パンフレットの入った手提げ袋。昨年同様、ホスピタリティもばっちりの多摩美ブースだった。 [京都精華大学] その隣は、関西からの出展、京都精華大学。京都精華といえば、 マンガ学部 が有名だ。しかし今回の展示では、どちらかというと京都ならではの「伝統的な手仕事」を全面に出していた。美術大学の募集競争の中で、芸術文化の街・京都という立地を強調する作戦のようだった。なぜか、唯一撮影禁止となっていたのが疑問だった。 [大阪芸術大学] 喜多俊之先生がデザイン学科長を務める、大阪芸術大学ブース。並んだ作品は、往年のシド・ミード作品を思わせるような曲線の美しい、正当派プロダクトが多かった。未来的なような、なつかしいような印象である。伝統的なインダストリアル・デザイン手法を守っているように思える。大阪芸術大学には、 映像系コース も新設になったはずだが、特に展示はなかったようだ。 [武蔵野美術大学] こちらも、流線型の未来型デザインの展示が多かった。 [日藝デザイン] 昨年は展示が見られなかった、日藝デザイン。展示ブース外見も非常に力の入ったもので、その意気込みを感じさせた。日藝には映画学科などの、 映像関連の学科 もあり、CGアニメ映像の展示もあった。プロダクトデザインと映像表

グッドデザインEXPO 1

Image
スティッカムの ライブストリーミング機能を使って、スタジオと展示会場を生中継でつないで、番組を制作しました。会場の無線LAN環境が、比較的快調なので、映像と音声のタイムラグも少なく、ほぼ生中継の状態で収録することが出来ました。 今年のグッドデザインにおける、intebro の映像配信の企画の中で、なかなかの新機軸番組になったと思います。次回は、さらにこれを進化させて、会場多元中継などにもチャレンジしてみたいものです。1台のカメラは、会場の外から( fon さんの無線が普及したりすれば)なんてことも、いずれは可能になるでしょう。 ズームイン・スティッカム収録風景 今年のグッドデザインにおける、インテブロの活動のキーワードは「編集しない!=Edit-less」と言うことかと思います。撮影後に、映像素材を取り込んだり、編集したりしている時間が無くなった分だけ、作業に余裕が出たのと、放送までのタイムラグが格段に減りました。また「編集」→「素材出し」→「収録」→「編集」→「配信」といった段取りが減った分、放送に「即応性」「即時性」がもたらされました。 このへんの効率性は、昨年も参加した三年生のみなさんしか分からないかもしれません。一年生のみなさんにも、こうした「新しい技術を導入すること」でシステムを見直すと、「放送するコンテンツ」までが変化するということを感じ取っていただければと思いますー。(≧▽≦)ゞ ブログチーム 調整卓チーム デザインステーションの様子 スティッカム中継チーム Eye-Fi レポート

グッドデザインEXPO 2

Image
東京ビッグサイトにて、昨日より「 グッドデザイン・エキスポ2009 」が開催となりました。今年も、東京工科大学のintebroは、公式ネット放送局「 デザインステーション 」を担当しています。下の写真は、エキスポに出展中の企業ブースのお客様を、スタジオに招いてのトーク番組「DDD(ドリーム・デザイン・ディスカッション」の収録風景。 当日収録された映像は、 スティッカム を通じて、 ライブストリーミング 配信されるほか、その後はアーカイブ映像として、GDEX09サイトおよび、intebroサイトから オンデマンド配信 されます。下の写真は、GDEX09サイトのアーカイブメニューになります。このように「撮影」→「ライブ配信」→「ブログで紹介 / Twitterでつぶやき」→「オンデマンド配信」→といった映像配信のサイクルで広がっていきます。 昨年のグッドデザインでも活動に比べて、格段に映像配信作業の効率が上がりました。それは、会場に無線LAN(今年はfonさんによるフリー無線)が配備されたこともありますが、Youtubeだけでなく、様々な映像配信サービスの選択肢が広がり、スティッカムさんの協力を得られたことが大きいと思います。 大きな放送局のような映像伝送のインフラが無くとも、公共映像サービスを市民レベルでおこなう可能性が、広まっています。こうなると、学生放送局intebroも、配信インフラで売る放送局ではなく、放送コンテンツの内容で勝負する方向への転換が必要かな。 Eye-Fiレポート撮影風景ビデオ

GDEX09 セッテイング

Image
グッドデザイン2009 有明の東京ビッグサイトにおいて、今年もGDEX09 こと、グッドデザイン・エキスポが開催になります。今日はその搬入日。 昨年に引き続き東京工科大学intebroは、会場でのオフィシャル放送局「 デザインステーション 」を担当し、会期中は ライブストリーミング を行います。本日は、元気なメンバーが揃って機材の搬入とセッテイングを行いました。 [写真] デザインステーション・調整卓のセッテイング中 今年は、ビッグサイト会場(東5〜6)に、 fon さんのご協力で全域にフリー無線LANが導入されました。これを最大限にいかして、ふたつのチャレンジ企画を行いたいと考えています。さて、うまくいくでしょうか? 1: Eye-Fiレポート Eye-Fi カードをいれた、小型ビデオカメラ(サンヨー製: Xacti-CA9 )を5台配備して、会場内を撮影(静止画・動画とりまぜて)します。その映像は、即座に会場内のWiFiを通じて、Eye-Fiサーバーから、デザインステーションのiMacに転送されます。デザインステーションでは、この映像データを即時に再生して、番組を制作します。 2: ズームイン・スティッカム スティッカム さんの全面協力のもと、会期中は特別に、太い映像回線をご用意いただきました。これを活用して、 会場内 での「映像生中継」に挑戦します。intebro初体験の、無線Live中継となります。本日実験したところ、映像転送のスピードも速く、ほぼリアルタイムでの中継が可能となりそうです。 下の映像は、昨日の実験の様子です。この企画は、非常に楽しみです。 それでは、本番(8月29日〜8月30日)のデザインステーションを、是非お楽しみに! エキスポ会場 にもいらしてください。 GDEX09-ムービーアーカイブ GDEX09-ライブストリーミング http://kazuosasaki.blogspot.com/2009/08/gdex09_4174.html

ネット授業実験

Image
多数の遠隔地同士をむすんでの「音楽授業」を実現するための通信実験を行った。東京工科大学にも音楽の授業(作曲,DAWによる打ち込み)があるが、教室内で30人近くの学生の作品を聴いたり評価したりというのは意外にさばきが難しい。また、通常の音楽スクールにおいても、教室だけでの授業には、一度に教えられる学生数にも限界がある。 ネット回線を使って、遠隔地にいる学生と間で授業が出来れば、学生と先生のやりとりを、もっと柔軟で簡単なものにすることができるだろう。学生にとっても、自分の時間を有効に活用しながら、ポイントを絞った授業を受けられるようになるだろう。学生も先生も、それぞれ自分の空いた時間を活用しながら、効率的に授業に参加できるようになる。 こうしたニーズに応えるために、現在のネットインフラを使ってどれだけのことが可能なのか?「ネットによる遠隔地授業」の可能性をさぐるため、関連技術を持ったプロフェッショナルに集まっていただき、実証実験を行った。 ビデオカメラ(SONY / HDV-FX-7)を繋いでのセッティング 本日の参加者と実験シナリオ 株式会社アストラ から川村社長はじめ、技術部門のみなさん / 山中さん / 株式会社コンテンツキッズ から竹下さん / 東京工科大学→:吉岡先生、コーちゃん、マッキー、モックン、タイガー、カワイ君(みなさん長時間、ご協力ありがとうございました) 今回の実証実験では、作詞作曲をテーマにした仮想授業をベースとして、以下のようなシナリオで進めた。 [ A 基本授業と、作詞を想定したシナリオ ] 1:授業開始。先生と生徒のカメラ/音声コミュニケーションを確認。 2:生徒から、パワポデータ(作詞宿題)を提出。 3:先生が、その中からデータを選び、生徒全員に解説、添削。 4:生徒も、自分のパワポデータを修正して、再提出。 5:先生と生徒で、マンツーマンの授業、添削。 6:次回への宿題の説明、授業の終了挨拶。 [ B 作曲を想定したシナリオ ] 1:授業開始。先生と生徒のカメラ/音声コミュニケーションを確認。 2:「Soba」システムから「音ライン」WEBサイトを動かしてみる。 3:生徒がそれぞれ、作曲宿題を「音ライン」にアップロード提出。 4:先生が、その中からデータを選び、生徒全員に解説、演奏実演。

AKB48

Image
「去者日々疎、生者日々親」(去るもの日々に疎し〔うとし〕、生きるもの日々に親し) この言葉は中国の古典「文選」雑部の中にある詩の冒頭の句である。「人生は、常に新陳代謝して、少しも定まることなく、古きは忘れられ、新しきがこれに代わり親しくなる。」という意味である。英語訳はこうだ。" The departed become distant over time, while those who come become familiar over time." 平易と言えば平易な言葉だが、その平易さの奥に、深い意味が隠されている。「去る者」は「旅立つ人」だけでなく「死んでしまった人」や「時代遅れになったものごと」も意味する。過去のものはみな忘れ去られていく、というさびしさは、一方で、新しいものを受け入れる、喜びと活力に変わる。転変を繰り返していく自然界の冷徹な摂理を表している。 田安門付近から見たお堀「牛ヶ淵」 WRO( レゴを使ったロボコン )の日本大会会場である、科学技術館に向かう途中、皇居に残る重厚な田安門をくぐり 武道館 にいたる道が、若い男の子たちの行列で埋め尽くされていた。列の最後尾あたり、係員らしき男性が掲げる文字に「グッズ最後尾」とある。アニメのフェアかプロレスかな? その後、武道館の入り口の表示を見ると「AKB48」とある。やっぱプロレスじゃん。ん?さらに見ると「選抜メンバー組閣祭り」ともある。これは衆院選の演説会。いやいや、それにしては、飾り付けが派手すぎる。芸能界著名人からの花輪が林立している。 後で芸能ニュースを見て知った。「 AKB48 」とは、プロレスリーグでも演説会でもアニメのフェアでもない。新手のアイドルグループである。それにしても苔むす石垣に囲まれた、北の丸公園。しかもつい先日の15日には、戦没者追悼式が行われたばかりこの場所で、美少女集団による公演と、グッズにならぶ男の子たち。戦没者慰霊墓園のある 千鳥ヶ淵 も目の前だ。まさに「去るもの日々に疎し」。戦後は遠くなりにけりだな。それよりまず、こんなことを思う私自身が「日々に疎し」だ。 世間の流れが大きく変わり、人々の価値観も変わっていく。昔のものは忘れられ勢いを失う。新しいものは増長し大きな顔をしている。大企業といえど、有名人といえども、時代に取り残されるもの

レゴ・ロボット対決 1

Image
今年で6回目の開催となる「おもちゃのレゴ」を使ったロボコン「 WROロボコン2009 」の日本決勝大会が、 科学技術館 で開催。今年の夏の暑さもふっとぶような「熱い闘い」がくり広げられました。昨年につづき、東京工科大学のインターネット放送局「 intebro 」が、この大会での映像撮影と配信を受け持つことになり、その引率として会場に行ってきました。 (WRO:World Robot Olympiad) WROロボコンとは? WROは自律型ロボットによるコンテストです。 世界中の子どもたちが、各々ロボットを製作しプログラムにより自動制御する技術を競うコンテストで、市販ロボットキットを利用することで、参加しやすく、科学技術を身近に体験できる場を提供するとともに、国際交流も行われます。 ( WROオフィシャルサイトより ) 子どもたちに大人気のロボコンこと、ロボットコンテスト。NHKロボコンが有名ですが、実はロボコンには、全世界にさまざまな種類の大会があります。その中でも、この「WROロボコン」がユニークなのは、おもちゃの「 LEGO 」を使った競技であるというところ。そもそも玩具なんですから、男の子たちを引きつけるのは当たり前。(小学校の部では女の子の出場も意外と多い!) この競技に使われる「 MINDSTORM 」というシリーズは、もともとレゴ社とマサチューセッツ工科大学の共同開発になるもので、1980年代より教育用コンピュータ玩具として研究されてきたものなのです。中央にはプログラム可能なCPU搭載の「インテリジェントブロックNXT」を乗せて、それに「サーボモーター」や「タッチセンサー」「光センサー」などのハイテク部品をつなぐという本格ロボットが作れるすぐれものなのです。筆者自身も学生のころからあこがれていた玩具なので、目の前の小学生がうらやましい! 真剣な表情で組み立て中 競技のルール ざっとですが、小学生の部に限って説明します。 [組み立てとテストラン] まず競技参加選手(1チーム、2〜3人)は規定時間内(120分)以内に、完全にバラバラな状態の部品からロボットを組み上げなければなりません。大会当日になって発表される「サプライズルール」もありますから、選手たちは部品の組み合わせや、プログラムを変更してロボットをチューニングする必要もあります。

レゴ・ロボット対決 2

Image
「おもちゃのレゴ」を使ったロボコン、WRO JAPANについてのレポート第二弾です。今回は、東京工科大学のインターネット放送局「 intebro 」の活動を中心にお伝えします。今回、WRO事務局から依頼された, intebroの役割は以下の3ポイントになります。(インテブロの技術参加は今年で3回目) 1:WRO JAPAN大会の会場での映像中継 2:大会全体の映像記録(後にDVD化しWRO普及に使用) 3:インターネットでの映像配信 今回、科学技術館1階に設営された会場では、上の写真のように放送卓を設け、ここをインテブロの本部基地としました。放送卓では、会場内に配置された2台のカメラを使って、実況中継を行いました。その映像はスクリーンに映し出されて、ロボコンに参加している選手だけでなく、応援の先生や家族に対して、競技全体の様子を伝え、また競技の「残り時間」を表示する機能も果たします。 [ 今回使用した機材類 ] 放送卓まわり:ビデオスィチャー × 2(EDIROL : LVS-400、V-4)/ SONY製マスモニ × 3 / ノートPC(競技残時間表示用) / ビデオエンコーダ 撮影用カメラ:会場中継用カメラ × 2 ( SONY: HDV-Z1J)/ 映像記録用カメラ × 3( SONY: HDV-A1J) / SONY製三脚 × 2 [写真]上:大きなカメラ(HDV-Z1J)は、会場中継用。会場全体の雰囲気を伝えました。主に三脚に載せて使用しましたが、競技が白熱してからは、手持ち中心での撮影になりました。下:小さなカメラ(HDV-A1J)では、競技に熱中する子どもたちの表情や手元を中心に、迫力ある映像をねらって撮影しました。小学生の真剣な表情と白熱する競技内容に、ついつい撮影する側も引き込まれてしまいます。 WRO大会のように、広い会場で行われるイベントは、参加する選手や観客にとって、全体の進行状況が意外と分かりにくいという問題があります。それは、グッドデザイン・エキスポなどのコンベンションにおいても同様です。会場に来ているすべての人に、わかりやすく情報を伝え、イベント全体の内容と雰囲気をしっかり伝えるということが、イベントの成功の鍵になると思います。「会場で何が行われているかさっぱり分からなかった」では、せっかく来場したお客さんは、満足でき

ゆるがじぇっと

Image
今年もGDEX09(グッドデザイン・エキスポ)が近づいてきた。展示公開を前に、六本木ミッドタウン「A971」にてプレス・リリースを兼ねたキックオフイベントが催された。 この日は、東京工科大学のintebro(インテブロ)の活動として、キックオフイベントの撮影と、映像配信のために学生11名とともに参加した。また、会場にいらした出展者の方々に、ショートインタビューも試みた。( GDEXサイト および、 intebro特設サイト にて公開予定) このイベントのタイトル「ゆるがじぇっとないと」が示す「ゆるいガジェット」とは何か。インターネットのゆるいコミュニケーションを使った、新しくて可愛らしい道具たちのことである。Poken(ポーケン) / Fon(フォン) / Eye-Fi(アイファイ) / Chumby(チャンビー) / Anobar(アノバー)そして、Stickam(スティッカム)といった、最近いつの間にか登場してインターネット世代の心を掴んだ「ゆるいお友達」の面々である。 2ちゃんねるの「テレビ実況サイト」書き込みを、電光掲示板で流し続ける「アノバー」や、小型テレビ型で、ネットコンテンツを適当にひろいあげる「チャンビー」は、いわばテレビコンテンツのスピンアウト製品か。「アイファイ」によるワイヤレス・アップロード機能と「フォン」による公衆無線LAN環境の組み合わせは、無線インターネットの無限の便利さを感じさせてくれるが、どこか「ほどほど」というゆるさが残る。学生に大人気だった「ポーケン」は、無線による名刺データの交換ツール。これも現在のところは、ビジネスの現場で使われるとも思えず、とりあえずは、ハイテクなパーティ・グッズというところか。 携帯電話やPCといった、これまでの「大まじめ」なインターネットツールに比べると、これらの「ゆるい」ガジェットは、いずれも「Twitter」の流れを汲む、脱力系イノベーションに属する。いずれも、特段には肩肘はらず、その製品開発を楽しんでいるような雰囲気が楽しい。 これら「ゆるがじぇっと」プロダクツの特徴をまとめるとこんな感じか?  1:他人のコンテンツ、他人のインフラを流用している 2:単機能でシンプルなインターフェース  3:あっても無くても良いが、あると楽しい存在 4:既存のキャラや、既存アートシーンの路線踏襲 5:ちょっ