Posts

Showing posts from 2018

ホモ・ルーデンスのアミューズ

Image
ささやかなアミューズ ちょっとした料理のメニューで「季節のアミューズ」というものが出されることがある。 実際は、フルーツゼリーだったり、ヨーグルトのお菓子などお馴染みの食べものであるが、「アミューズ」と言われるとありがたいものだ。「お口を楽しませるオードブル」あるいは日本料理でいう「口直し」のような一品のことなのだ。 最近は、遊園地のことも「アミューズメント・パーク」と呼ぶようだ。そう言われると、それなりに身なりに気を配り、インスタ映えする家族であらねばならぬ場所に思える。それどころか、私などはうっかりするとチップとデールと並んで、「夢の国で遊ぶ住人」の役を一途に演じている。 でもなぜ「エンタテインメント・パーク」とは言わないのだろう。エンタテインメントというと、もっと「喧騒と興奮のある」場所を連想するのかもしれない。逆にライブ・コンサートは「ライブ・アミューズメント」とは言わない。そういえばクラシック・コンサートは、エンタテインメントでもアミューズメントでもありませんね。 さて、われわれ「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」にとって「楽しみごと」は不可欠なもの。いまの世の中が、アミューズメントで溢れているのも、そもそも人間が「遊び」や「楽しみ」を渇望する生き物だからなのだろう。お金さえあれば、産まれてから死ぬまで、アミューズしてもらうことが可能な世の中になってきた。 だが、ときどき 人生の楽しみってなんだったんだろう? そんな本質的な疑問も浮かんでくる。 余計なアミューズのために稼ぐのなら しなくていい苦労をしているのかも。

電気スタンド

Image
爆笑王と言われた桂枝雀師匠に「道具屋」という落語がある。 ズブの素人の男がにわか古物商となって縁日に露店を出す。扱っている商品はみな怪しげなものばかりなのだが、寄って来る客はそれなりに玄人で真剣顔。そこからの男と客との攻防が抱腹絶倒に面白い。この面白さは、電車の中で聞くのが危険なほど。 切れないノコギリ、抜けない短刀、擬物の掛け軸、二本足の電気スタンド。並べた商品は、どれもこれも使い物にならない半端もの。男自身は骨董品の価値などわかっていないのだが、シロウトだけに真剣に商売をする。 電気スタンドは、本来は脚が三本なければ立たない。男はそれを「塀さえあれば寄りかかって立ちまっせ。あんさんの家には塀がありまっか?」と無茶苦茶な理屈で売りつけようとする。インチキの押し売りだ。 だが待てよ、この男の商売、 やってはいけないことなのだろうか。 彼は傷のあるものや立場の弱いものたちを、一生懸命にカバーしようとしているだけではないか。店の商品たちすべてに、分け隔てなく愛情を注いでいる。考えてみれば、商売人として当然なことだ。 最近は、ちょっとした傷のある野菜も果物も売れない。何かにつけ、相手のミスや問題につけ込んで非難の応酬となる世情も息苦しい。枝雀師匠の話から、この男が飛び出して来てくれたら、世の中変わるかもしれない。 「ハート印のついたニンジンね、買いなはったら幸せになりまっせ」 「お尻のヘコんだ桃ね、めっちゃ甘いで。今だけでっせ買いなはれ」 こんな感じで、なんでも売りさばいてくれるかも。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 水彩画:ポーランド南西の街チェシンの商店街

二足のわらじ

Image
スーパーマリオブラザーズのマリオは、なぜ配管工をやっているのかと、息子に聞いたところ、それは土管に潜ったり出たりする職業だからだという。でも、以前ドンキーゴングに出ていた頃は大工だったそうだ。 ということは、マリオは転職組ですか。今でも時々はドンキーゴングの仕事にも呼ばれることを考えると、むしろ配管工と大工の「二足のわらじ」というべきであろうか。 静謐で緊張感のあるミニマル音楽の作曲家、フィリップ・グラスの仕事ぶりについて、 面白い記事を読んだ。 彼は作曲家としての活動のかたわら、配管工としても働くのだという。配管工と現代作曲家の二足のわらじである。 ある日、注文先の食洗機を取り付ける作業に出かけた。その家はなんと音楽評論家ロバート・ヒューズ氏の家であった。自分の家で著名作曲家がスパナを持って働いているのを見て、ヒューズ氏は腰を抜かさんばかりに驚いたという。 常人には理解できないことだが、フィリップ・グラスにとって、本業の作曲に集中している時間以外に何をしていても問題ではないらしい。ニューヨークで作曲活動を始めたばかりの頃は、タクシードライバーをやっていた。 ほかにも沢山の芸術家たちが、小説や詩の執筆の合間に、税理士や地下鉄の車掌などの仕事をしていることが紹介されていた。芸術家といえば、ペントハウスにこもって創作三昧というイメージだが、それは間違っている。彼らは昼間は巷にあって仕事に没頭、夜には創作の海に漕ぎ出す。 彼らにとって、日常的な仕事とは想像の世界に浮かぶ自分をこの世に結びつけるアンカーポイントなのだ。そして、コミュニティへの参加によって得られる体験は、尽きせぬインスピレーションの源となるということだ。 これからの仕事観が変わりそうです。

得した気持ち

Image
先日、久々に10人前以上のカレーを作った。ジャガイモも大量に皮むきをした。ボールに積まれたジャガイモをみると、まるで映画「オデッセイ」のシーンのようだと思った。 火星探査のミッションの途中で、突然の嵐に吹き飛ばされたマーク・ワトニーは、致命傷を負ったものと勘違いされて、ただ一人火星に取り残される。 植物学者だったワトニーは、火星探査の次のミッションが到来するまで、自分を延命するために全力を尽くす。その命の綱となるのがジャガイモ。火星の土を水とバクテリアで耕して栽培するのだ。 その後、ジャガイモを食べて生き延びているワトニーの存在に気づいたNASAは、総力を挙げて彼の救出作戦を始める。いったい彼一人のために、何億円注ぎ込むのか。このへんが感動の物語だ。 映画の結末はともかくとして、ワトニーが地球に戻って、普通に空気を吸い食料を食べて、地球人として暮らすということに、かくも大きな価値があるものかと気付かされる。 この私はというと、いまもこうして普通に息をして、地球の上で無事に生きている。NASAに救出されないまでも、それだけで何億円もの価値があるというものではないか。 このように考えてみれば、 かなり得をした気持ちになる。

後ろ向き

Image
ボートは、急な「あと戻り」はしない。後ろを目指すとしても方向転換して前向きに進む。 最近、原稿をたくさん書く仕事があって、本を山ほど並べて広げては、調べものをしている。すると、時々あるべき本が見つからないことがある。その後で、それが非常に気になってしまう。 ものを失くしたり、どこかに忘れたりすると、気になってしまうものだ。たとえ、手元には、他にも良いものが沢山あるとしても、なぜか失ったものばかりが、気になるのだ。 「出来なかったこと」も同じだ。出来たことも沢山あるのに、今日までに予定通り出来なかったものばかり気になる。何かの〆切前は、こういう気持ちになりがち。 しかしこれは、あまりに後ろ向きな考えかたかも。いままで出来なかったことではなく、これから出来ること、出来る時間をありがたがって楽しみたい。ボートみたいに、前だけ向いていきたいものだ。 やはり〆切のせいでしょうか。 珍しく殊勝なことを考えました。

見果てぬ夢

Image
睡眠は短ければ短いほど良い。 だってそうでしょう。睡眠とは仕事をするための充電時間にすぎない。前日の疲れは、最短の睡眠でリカバリーするもの。現代のビジネス戦士たるもの急速チャージで再稼働。無駄に寝ていては時間が勿体無い。 私も、放送局勤務の頃は同僚と仕事の量を競い合い、睡眠不足を自慢したりしてました。徹夜の翌日に、元気を装ってプレゼンしたり、威勢を張ってスーパーマンぶりを披露して悦にいってました。 しかし、もう無理です。還暦も近くなり、いまは、とにかく眠らないとなにもでけまへん。どこでもすぐに寝ます。ほんまです。本音では「寝ることが大好き」なのです。 今やこんなダメダメな私ですが、 今月の「ナショジオ日本版」を読んでびっくりしました。いくらでも眠りたい、私には朗報です... なんとまあ。これまでの「睡眠に関する常識はかなり間違っていた」と言うのです。「睡眠不足」は、人間をイライラ顔にして、エラーを多発させ、めんどくさい性質に変えるだけでなく、数々の病気を引き起こし、うつ病、肥満、糖尿病、認知症などのリスクを高める。そして現代人の大多数は慢性的な「睡眠障害」にさらされている。 さらに、 特集「睡眠」は締めくくりで、こう問いかける。 ーなぜ人間は眠るかではなく、これほど素晴らしい、もう一つの状態があるのに、よりによってなぜ人間は起きているのか。 そんな問いかけも成り立つ。 ーそしてその問いには、こう答えられそうだ。起きているのは、食べる、子孫を残す、天敵と戦うといった、生存に必要な務めをさっさと済ませて、ぐっすり眠るためだと。 やった! 今夜は、安心してぐっすり眠りますよー。たっぷり寝ます。今日の仕事の時間、生存のためになすべきことは終わりましたので... 見果てぬ夢を見るために。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆水彩画は、ポーランドからのお土産の 「蜂蜜酒」 です。 人類最古のお酒の部類だそうです。ハネムーン「蜜月」の語源は、花嫁が結婚の後でこのお酒を作る期間のことだそうです。ふーむ。

大きなやかん

Image
甲子園シーズンが近づいた。各チームでスローガンを掲げていて、仙台育英などでは「大機大用」と言う難しい言葉を使っている。野球では「大きなチャンスを大きく活かす」あるいは「チャンスが来たならばしっかり工夫してそれを活かそう」という意味で使われているようだ。 本来は仏教用語で「大乗の教えを受けてそれを実践する資質」のこと。 一度このブログでも書いたが 、柳生宗矩が残した「兵法家伝書」の「無刀の巻」でも解説されている。それによれば「大機大用」の意味とは以下のようになるのだが、読んでもなかなかわからない。 人間も内に構えた「機」があるためにそれが外へ現れる。外に現れたものを「用」というのである。内に蓄えた「機」が大きければ大きいほど、外にでる「用」も大きくなる。 最近、これを簡単に説明しているのではないか、と思える「ある落語」に出会った。桂枝雀落語大全・第十一集収録の「ちしゃ医者」である。 この医者にかかったら、治るべき患者ですら命が危ないという、超ヤブ医者の話。主人であるこのヤブ医者について、従者の久がこんなことを言う。 「しかし、(うちの先生は)人間は大きいね。確かに大きいね。うん、人間ちゅうものは何やね、大きなやかんに水を入れてそれが沸くんやね。だからちっちゃいやかんすぐ沸くけどね、大きなやかんに水入れてもなかなか沸かん。そのかわり沸いたらものすごい力でるっちゅうこと言うけどね」 一旦沸いたらすごいことになるが、大きいやかんは沸くのに時間がかかる。 ところで、この落語はこう続いていく... 「終生沸かん場合もあるそうなけどな」 「うちの先生やみなそれに近いように思うけどね」 あ、そうですか 終生沸かない、ということもありますか。 こう言われるとまあ、気も楽になりますね。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆水彩画は、仏教の国タイ バンコックに保存されている「ジム・トンプソンの家」

ハスの花

Image
知り合いの外国人が日本に来たときは、できるだけお寺を案内することにしている。仏教的な考え方を知ることが、日本人の世界観を理解するのに早道だと思うから。 特に、お寺の庭に見られる、ハスやスイレンの花は、汚れた現生での生活と仏教の精神世界の関係を例えるのにぴったりである。「これが仏教のシンボルだ」というと外国人の彼らも、物知り顔に頷いてくれる。 ドブに落ちても 根のある奴は いつかは 蓮の花と咲く 意地は張っても心の中じゃ 泣いているんだ兄さんは 「男はつらいよ」シリーズ主題歌。どんなに頑張っても世間並みの人間になれない寅次郎の悔しさが滲みでる名曲(☆1)。教育がないために損ばかりしているけれども、ただただ他人のために奔走する。良かれと思ってやったことが裏目にでる。そんな寅次郎はドブに咲くハスの花。実は仏様の化身なのかもしれない。 試みに、今どきの学生さんたちに「男はつらいよ」の世界について説明してみる。しかし残念なことに、まずまともな反応は帰ってこない。ネットフリックスでも全シリーズの視聴が可能だというのに。去る者日々に疎し。じつにもったいない話だ。 ☆1:男はつらいよ 作詞:星野哲郎、作曲:山本直純 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 水彩画はバンコクのお寺で見たスイレンの花

時代が濾過するもの

Image
ポーランド出張で最初の食事は、イタリアンのスパゲティ・ボロネーゼでした。チャンスを逃しているというか、自分で状況がわかっていないというか、ちょっと残念ですよね。ピエロぎ食べればよかったのに... だって世界中どこへ出かけても、イタリアン料理は盤石で美味しいんです。そういえば、昨年の出張で、何時間も待たされた香港の空港ターミナルで食べたのもボロネーゼでした。とにかく疲れていたりするときは安心なのです。 ところで、我が家のトイレのカレンダー。今月の格言は高村光太郎先生の 「時代は去る。しかし時代が濾過した人類への寄与は永久に死なない」という言葉でした。 イタリアが産んだボロネーゼ・スパゲティは、時代が濾過したもの、時代が選択した美味しい料理ということで、世界に広まって行ったのだ。美味しいものは永遠になくならない。未来に残るのものなのだ。 それでは、日本発のものの中からは、何が生き残るのだろうか。 時代の濾過に耐え、日本から世界に広がって行くものって? アニメ文化。モッタイナイの心。  それともタクシーの自動ドア?  やはり観光客に大人気の回転寿司? ポケモンGo? 意外と思い浮かばない... なんでもいいけど、とにかく、 数百年後に日本が尊敬されるものがいいですね。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 友人からコメントいただいたので、以下追記します...  なんと、スパゲティ・ボロネーゼの発祥の地、イタリアのボローニャでは、ボロネーゼにトマトは使わないとのこと。コロンブスがトマトを見つけてくる以前からあるのだから、間違いないとのことです。 これも時代に濾過された結果なのですね。 肉とスパゲティの料理だったボロネーゼに、いつかトマトが加わって、世界に広まったということでしょうか。長い時間をかけて。

素晴らしい人たち

Image
たいへんな大雨がつづく中、研修で関西に出張してきました。交通機関の乱れを心配したけれど、新幹線はなんとか動いていて無事に帰宅できました。新大阪駅のコンコースは、払い戻しや乗車変更の人たちが長蛇の列で並んでいましたが、特に殺気立つようなこともなく、みな整然と順番を待っていて、なんの混乱も感じられませんでした。さすがは日本。 大阪より戻って市川駅のホーム。そこにお腹を抱えてうずくまる人がいた。気にしながらも立ち去る乗客が多い中で、一人の女性が声をかけていた。その女性は少し話をすると、そのまま駅のコンビニで水を買って戻ってきて、うずくまっている人に飲ませてあげていた。貧血のようだ。私も何かしなければ。ホームの事務所で駅員さんを呼ぶなどお手伝いたしました。 その後ホームでの女性は、何もなかったように立ち去りましたが、世の中に真に良い人とはいるものです。 先日、麻布のツタヤでこんなことがありました。うっかり2階フロアのトイレに携帯をおいたまま売り場に戻った私。しばらくDVDコーナーを徘徊して、気づいた時にはだいぶ時間も経っていた。焦ってトイレにダッシュで戻りました。 すると驚いたことに、ある長身の男性が、私の携帯を持ったままトイレ前に立っていた。なんと私のこと、あるいは電話がかかってくるのを待っていてくれたのだ。なんていい人なのだろう。どこにも届けずに私のことを待っていた。こんな良い人がいるのか。 初めて訪れたポーランド。彼の地でもあちらこちらで親切にしてもらう体験をしました。良い人たち、素晴らしい人たちというのはどこにもいて、そういう方に出会うことが本当の幸せだな。と、そのように思うのでした。

戻ってこれないかも

Image
記録的に早い梅雨明けとのことですが、あまりの気温上昇に口あんぐり。この絵のワンちゃんは、ご馳走にペロペロしているのですが、ベロで汗をかいているようにも見えます。ポーランドで有名なゲーム・クリエイターの方が連れてきていた可愛いワンちゃんは、みんなの人気者でした。(なぜか私だけ吠えられましたけど...) 何かと物議をかもしたポーランド戦でしたが、私としては、ポーランドも勝ち試合になって良かったんじゃないかなと、勝手に思っています。 話は変わりますが、最近、[ Oculus Go (オキュラス・ゴー)]に夢中です。ケーブルもなくなったし、360度アプリの完成度が高いので、その没入感とリアリティに圧倒されています。 フェルメールの絵画の中に入って窓の外を眺めたり (Art Plunge)、宇宙戦争のファイターになったり、AIにこき使われる労働者になったり( Virtual Virtual Relity というらしい )すごく面白いですね。 サッカー・W杯も、次回の大会あたりでは、VRで試合を見ることになるのでしょうね。ゴール前から見て、ルカクとかロナウドのシュートが超高速で向かってくるなんて! 怖すぎぎるでしょう。でもいっぺん見てみたいかも?あまりの臨場感に興奮して、もう現実には戻ってこれないかもしれない。 しかし問題もありますよ。 VRの問題を発見しました。 ゴーグルをかけていたら、みんなで盛り上がれないでしょ。 ゴールシーンでも、乾杯とかできませんね。所詮。ははは。 あ、 いや、VR室内でVRビールでVR仲間とVR乾杯すればいいって? あ、なるほどね...

360度のファンタジー

Image
カトビツェという街は、かつてはポーランド随一の工業都市だった。当時の面影を残すレンガづくりの重厚な建物が、炭鉱の街だった当時の雰囲気を伝えている。今は、博物館や公共施設などとして再利用されている。夕闇に浮かぶ城塞のような建物が、何かを語りかけてくるようだ。 異国の地を訪れて初めて見た景色は、あとになって360度VR動画のように記憶に蘇ってくることがある。こういう時にジャーナリストならば、こうした記憶を鮮明な言葉にして書き残すことができるのだろう。 ラフカディオ・ハーン (小泉八雲 1850 - 1904)は、ギリシャ生まれのイギリス人。ジャーナリストとして世界を巡る。明治23年に来日。英語教師として日本に暮らしながら、当時の日本文化を捉えた素晴らしい本の数々を残した。当時の日本人の生活の素晴らしさ、風景の美しさだけでなく、不思議な伝承や怪異の物語も収集し紹介した。 アクセル・ハッケ も1956年生まれのジャーナリストである。新聞社でのスポーツ記事編集、ルポライターを経験したのちに物語作家となった。彼の絵本作品は独特の世界観とユーモアがあって日本でも人気だ。いつもコンビを組むミヒャエル ゾーヴァの挿画が幻想的で素晴らしい。 幻想的なファンタジーを書く二人が、ともに通信社に勤めるジャーナリストであったとは面白い。ジャーナリストには鋭い観察力と映像のように鮮明な文章表現力がある。彼らの言葉には、360度VR動画のような没入感と現場レポのような迫真性がある。それはおそらく、彼らが現実世界をまさにそのように享受しているからなのだろう。

選択できるものならば

Image
ポーランドの西南にあるカトビツェという街を訪れた。炭田があり鉱物資源が豊かなため、かつて重工業の中心地だった。東京工科大学との提携校である、シレジア大学で開かれた アートとゲームのフェスティバル [ LAG ] に参加させていただいた。 今はEUの一員となったポーランド。カトビツェには、真新しい コンサートホール(日本人も設計に参加)も生まれ 、シレジア大学にも、 放送映画学科のキャンパス が開校準備中と、新しい時代に生まれ変わろうとするエネルギーを、街のいたるところに感じた。 民主化運動の後に、資本主義経済への舵を切ることで、急激な変化を体験しているポーランド。全体的には経済も立ち直り人々の生活もどんどん豊かになっていると聞く。しかし一方で、社会主義時代にはあり得なかった若者の失業問題も生まれた。個人収入の格差も広がる。 多少は過去を懐かしむ声も出ているという。歴史を逆戻りするようなことはないにしても、いま選択できるものならば、どちらに行こうか? という重要なポイントまできているのかもしれない。 シレジア大学教員で友人のパウエルは大の親日家で、彼から見ると日本は理想的な国なのだそうだ。治安もよく人々は礼儀正しい。国境で接する隣国との紛争がない。(そもそも陸地に国境ないもんね)経済も豊かで給与水準も高い。教育レベルも高く人々は希望に溢れている。 褒められると嬉しいけれど どれだけ当たってますかね? 日本だって、これから未来を選択する重要課題ばかりなんですけどね。親日家のポーランドの友人に説明するのは難しいし、ネガティブな面ばかりを話すのも申し訳ないし。今度、彼が日本に来た時には、どんな話をしたらいいかな?

人工的幸福感

Image
人間誰しも、ひとりでに幸福感を感じることはできず、 ほっておくと自然と心が落ち込んでしまうものらしい。 そのせいだろう。昔から「幸福論」にはいろいろなものがあって、どの時代にも「積極的に幸せになろう」という本が出版される。 TEDのスピーカーの中にも、ミハイ・チクセントミハイ先生のように「現代における人間の幸せ」を研究する心理学者が登場する。ミハイ先生の場合、過酷な現代社会で生きる若者が、いかにしたら幸せになれるかを具体的かつ実践的に教えてくれている。まるでお坊さんのありがたい説教のように響く、とても人助けな話だ。→ TED「フロー体験」 もうお一人、現代人のための「幸福の研究」をされているのが、ハーバード大、人気教授のダン・ギルバート先生。その幸福理論とは?(むしろ、不幸理論かな...) 人間は、いまの自分よりも「もっといい自分」を想像する。たくさんの選択肢を前にして「あれがいいかこれがいいか」シミュレーションして悩む。(脳に前頭葉があるからこんな芸当ができる)しかし、理想的な結果が自然発生的に得られることなどあり得ない。だから人間は高確率で不幸になる。 ギルバート先生の理論に照らし合わせると、日本の学生たちの「就職シーズン」は最悪だ。まさに「不幸製造装置」ではないか。あれやこれや自分の将来を想像し、どれが最高なのかを思い悩む。しかもそれはなかなか実現しないので、幸福にはならない。 幸せになるために必要なのは「人工的幸福感」というまっすぐな自己肯定力。 つまり、ありのままの自分を受け入れなさい、ということかな。 うーむ、当たり前だけど難しい、あの結論に至る、か。 人工的幸福感 = Synthetic Happiness それでは、最後に、 ギルバート先生のTED講義のハイライト部分を、 抜き書きさせていただきますね。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ダン・ギルバート「私たちが幸せを感じる理由」パート2より 望みは限られたものならば楽しむことができます。 けれども、望みが制限なしだと、 我々は嘘をつき人を騙しものを盗み、他人を傷つけ 我々は向こう見ずで臆病になります。

潜在自然植生

Image
日本の都市に見られる公園の多くは、西洋の公園のモダンな佇まいを再現した芝生公園が多い。背の高い樹木の下に丈の低い草地が広がる景観は、訪れる人に潤いと安らぎを与えてくれる。 ところがこうした景観は、生態学的にいうと人類によって破壊されてしまった結果の「荒れ野景観」に当たるのだそうだ。長期間にわたり、ヒツジ、ヤギ、牛などの大型獣を放牧した結果、森林の低層植物が食い尽くされて、「本当の森」では無くなってしまった結果だという。 長年、盲目的にヨーロッパの風景に憧れていた私にはショックな話である。新宿御苑のような広々として安らぐ景観が、実は人類の営みによってもたらされた人口的自然にすぎず、むしろ自然破壊の結果だとは。 「本来の森」とは、背の高い樹木の下に、一見すると邪魔者に見えるような下草や低木などが茂る森である。日本でいえば、各地に残る「鎮守の森」のような森のこと。そういう意味で、明治神宮の森は、80年かけて理想的な自然の森となるように設計された、完全なる都市公園林。 これを「潜在自然植生」という。人間の活動を完全にストップした時に、その土地の自然環境が究極的に支えうる状態。明治神宮の森はその状態に向かって進んでいる。 ヨーロッパや中国の森林、アマゾンの熱帯雨林の再生プロジェクトを手がける、 宮脇昭 先生が、数十年間取り組んだ研究から導き出された理論。私はもっと早くに勉強すべきだったと後悔しております。

あそびの発明

Image
子供に「オモチャ」を与えすぎるのは良くない。 そういう話をどこかで聞いたことがある。ルールや遊び方が決まったオモチャでばかり遊んでいると、子供の創造性が伸びない。そういう話だったように思う。 子供というものは、本来自分で「遊び」を発明するもの。あえて大人からオモチャを与えなくとも、自然を相手に自分で遊びかたを考える。その過程でたくさんの大事なことをおぼえる。自然科学への興味や、芸術的な感性もそこで磨かれる。 今の子供たちは、オンラインゲームやゲームアプリをこなしていくだけで、どれだけのエネルギーを使わなければならないのか。彼らが大人になっても状況は同じ。テレビ、ゲーム、音楽、旅行、グルメ。生涯にわたってこれら消費し続けることになる。 私たち日本人、かくも多種多様な娯楽を与えられる必要があるのだろうか。もしかして、娯楽を消費するために、余計なエネルギーやお金を使わされているのでは。 GWになって、何もすることがない暇な私が言うのもなんですな。 でも、まあ、ちょっと考え直してみてはどうだろうか。そう思った次第です。

未来が来た

Image
今年はスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」製作50周年ということで、カンヌ映画祭を皮切りに70ミリのオリジナルネガからのプリントでの上映イベントが行われるそうです。いまだに色あせることないSFの金字塔。CGもパソコンも何もない1968年に生み出されたということが信じらません。 目をみはるような映像のクオリティに加えて、キューブリック自身とアーサー・C・クラークの精神世界の奥深さがこの作品の骨格となっているのでしょう。この作品は50年もの時を超えてなお、「宇宙的存在」としての人間への疑問を突きつけて来ます。その問題はいまもなお未解決のままそこに横たわっているし、宇宙科学が進めば進むほど、むしろ謎は深まるばかりのようです。 ボーマン船長はじめ乗組員の生命を脅かす人口知能「HAL」は、グーグルホームやアマゾンエコーの大先輩にあたるのですね。人間との共存を楽しみ、人間をサポートすることに誇りを感じていたはずの「HAL」。しかし彼はほんの少しの論理矛盾に出くわしただけで精神を病んでしまった。「AIによる狂気」「人類に敵対するAI」といったテーマは、今や現実の問題となりました。IOTについて一考する上で、もう一度この映画を見直すのも無駄ではないかもしれません。

季節の先取り

Image
フレッシュネスバーガーのパンジーは涼しげ まだ4月だというのに今日は本当に暑くなりました。我が家は大掃除でちょうど良かったんだけど、ちょっとこれは気温が上がりすぎでは? ロンドンでも4月の観測史上初めて27度を記録したとかで、ちょっと異常かもということになっているらしい。 毎年この時期は大学のメタセコイヤの大木の写真を撮っています。今年はメタセコイヤの葉っぱも猛烈な勢いで育っていて、昨年よりも10日くらいは先取りしている感じがします。新緑が美しく、樹々が生き生きしているのは嬉しいのですが、これはなんだか心配にもなってきます。いずれ日本も熱帯になってしまうのでは? 先日、FaceBookでの紹介で、NASAが発表したビデオクリップを見ました。なんと、ここ30年ほどで、北極にある「古い時代の氷」がどんどん溶けて流れ出てしまっていて、いまは「最近の氷」の割合が増えているとのことです。 あらー、ですね。地球が暑くなっているのは本当のようです。 それも、僕たちが文明を享受しすぎているからですか? Older Arctic Sea Ice Disappearing by NASA

ジョンの生き写し

Image
長くて大変なプロジェクトが一つ山場を超えました。描きかけだった水彩画をやっと完成させる時間ができました。水彩画に関してまだまだの私ですが、最近やっとあることに気づきました。「絵を描く」ということは、目の前に見えているものを描き写すだけではだめで、そのものの「本質」を写し取ることが大事なのではないだろうか。 これは、おそらく絵の世界だけでなく、小説、俳句、音楽などの表現芸術の何にでも当てはまることなのかもしれません。漫画やアニメも、物事の本質を「ごくごくシンプル」に描き起こすところに妙味があるのではないでしょうか。いまさらですけどね。 世の中には、ビートルズをコピーする「ビートルズ・トリビュート」バンドがたくさんあります。最近、その中でも飛び抜けてすごいグループを発見しました。「ファブ・フォー (Fab Four)」というバンドですが、彼らにはビートルズの「本質」を再現するというもの凄い意気込みを感じます。 よかったら、文末に載せたYoutube映像をご覧ください。傑作アルバム「サージェント・ペパーズ」のハイライトです。ライブでは再現不可能と言われたこのアルバムのサウンドを、四人だけのステージで再現しています。当時の四人がそのまま蘇ったようですね。特に後半の「A Day in the Life」には鳥肌が立つほどの迫真性!(文末のYoutube映像は、そのあたりから始まるようにしました..) このバンドの中心メンバーは、ロン・マクニール(Ron McNeil)という方です。担当はジョン・レノンなのですが、これが演奏中はまさに生き写し。見ているとジョンが生き返ったみたいで涙が出てくるほど。ご本人は、ジョン・レノンとは顔つきも違うし、体格もちょっと違う。ところがメイクを決めて歌い始めると、これがジョンの生き写しとなるのです。 ロン・マクニールさんのインタビューの入った素敵なドキュメンタリーもあります。ジョンの生い立ちから、ジョンの作品の本質まで、研究して研鑽をんだ末の「生き写し」であることがわかります。まさに「本質を掴む」努力の賜物なのでしょうか。 ジョンもジョージも生きている。そんな幻想を味あわせてくれるファブ・フォーのライブが見たいですね!また日本に来てくれないかなー。

AIに恐怖心はあるか

Image
「棋士とAI」という本を読んでみた。さすが敬愛するF先生が、フェイスブックで紹介されていた本だけあって、とても面白かったです。 イ・セドルとの闘いで有名になった「アルファ碁」など、囲碁AIソフトを通して、人間とAIの違いや、囲碁の世界の魅力についてわかり易く語られている。囲碁音痴の私でも、その奥深さの一端がわかったような気がする。 人間とAI。 その違いはいろいろあるが、大きな違いは「恐怖心」があるかどうか。人間の棋士の心には、「もしかして負けるのではないか」とか「ここまでの手順が無駄になるのでは」などという「心配」や「恐れ」がどうしても生まれる。こうした心理は、棋士の「次の一手」に大きな影響を及ぼす。 その点でAI側には、こうした心理がない。全ての判断は試合の各局面ごとの単純な確率計算に過ぎない。人間ならばこだわるはずの「駆け引き」や「因果関係」もない。先が見えない時に人間が頼る「大局観」や「希望的観測」もない。こうした心理的プロセスがないから、迷いも生まれない。 そういえば、スター・ウォーズのようなSF映画で、C3POなどのドロイドは良く確率論を持ちだしますよね。「この作戦が成功する確率は、0.000003です」とか、「我々の生存率は、1/64000です」とか言ってます。彼らが拠り所にするのはやはり確率だけなのか。 映画では、そこにハン・ソロのような「感覚人間」が出てくるから面白くなる。「確率とかウダウダ言うな」という感じで、ドロイドをどついて暴走するのがいい。このあたりがSF映画の醍醐味だし、いまのところ映画の世界では、人間の方ががAIより元気がいい。 今日の絵は、緑に囲まれたマレーシアのホテルのプール。確率論などとは無縁の楽天でした。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 

ジンジャーとレモンマートル

Image
生姜(ジンジャー)といえば、日本ではカツオ刺身、冷奴やソーメンの薬味として使われますね。中国では健胃の生薬として古代から使われてきたそうですし、欧米では乾燥させたドライジンジャーとして焼き菓子などに入れる。生姜の活用法は国によってさまざまです。 昨年の学会で訪れたバンコクでも、生姜はあらゆる料理に使われていました。ココナッツのスープでも、底の方から強烈パンチを繰り出してくるのが生姜のスライス片。パクチーやレモングラスなどの陰に隠れているようで「スープの底の実力者」と言った風格がありました。 この年末年始に飲み続けていたためか、「 ジンジャー・アンド・レモンマートル 」というハーブティーがお気に入りになりました。レモンマートルとは、オーストラリアでアボリジニが料理や薬草に使ってきた植物で、レモングラスを超える強い清涼感があります。それがジンジャーの刺激と混じることで、とてもリフレッシュする香りのお茶に仕上がっています。 ジンジャーとレモンマートル。 いい組み合わせです。 人間で言えば、ビートルズのジョンとポールのようなものでしょうか。ジョンのように天才肌で強烈なジンジャー人間と、ポールのような甘い清涼感のレモン人間が一体となった奇跡。さらにはルイボスのようなジョージと、ハニーブッシュのようなリンゴが加わり助け合ったから、ビートルズは世界最高のハーモニーグループとなったのかと思います。 もしも、世の中がジンジャー人間ばかりだったとしたら、ちょっと疲れる。逆に爽やかなレモン人間ばかりというのもつまらない。いろいろなタイプの人間が組み合わされることで変化が生まれるのが面白い。ハーブティーの香りと一緒です。

待たされる時間

Image
今年の大学の授業で、黒澤明監督の「赤ひげ」を取り上げました。準備のために原作の「赤ひげ診療譚」を読み直したところ、そのあまりの面白さに驚き山本周五郎ファンとなりました。「樅の木は残った」や「山彦乙女」など、順不同に読み漁っています。 読んでいて、あることに気づきました。 山本作品の主人公たちは、とにかく良く「待たされる」のです。 職場の上役や敵に談判に行く。しかし面会がかなうまでには2〜3時間は待たされる。友人との食事ではその前に風呂を沸かして汗を流す。そして酒の燗が着くまでを待たされる。仇討ちの前にはじっくりと身支度をする。そんな時でもまずは昼寝までする。 何をするにしても下準備があり待ち時間があり、その間に本人の心が落ち着き、想いが形になり、そして決心が固まる。昔の人には心を熟成させる時間があったのですね。 短編集「日々平安」の中に「橋の下」という物語があります。早朝の決闘に出かける主人公は、緊張のあまり2時間も早く出かけてしまう。しかしその「待ち時間」おかげで、自分過ちに気づき難を逃れることができた。 植物たちも「待ち時間」を気にしない。忙しい生活でこちらがバタバタしている間にも、地味にしっかりと成長している。我が家の庭先の「カネノナルキ(ほんとうは花月というらしい )」 も、数週間の「待ち時間」の間に大きくなりました。

シースルーになってる

Image
ハンバーガー・フリークの私が一番好きなのは、フレッシュネスバーガー。お店のテーブルに、必ずシースルーの花瓶が置いてあるのがお気に入りです。 1990年くらいだったか、iMacのデザインがシースルーだった時期がありました。本体もマウスも透明なプラスチック。しかもそれがミントグリーンやスカイブルーなどのポップな色彩だったので、iMacが沢山並んだオフィスは、遊び心とクリエイティブな空気に満ちていたものです。 近所の病院の待合室には面白いコーヒー自動販売機があります。内部に小さなカメラが設置されているらしく、コーヒーの製造工程をモニターに映しだすのです。 1;豆を挽く工程 2:お湯を注ぐ抽出工程 3:最後にフタを取り付けて取り出し口まで運ばれる工程 この全てがカメラで映像中継されるのです。その中で白眉といえば、それはやはり「抽出工程」。挽いたばかりの豆にお湯が注がれる重要なシーン。そしてその20秒間のショットには、こういう文字プレートが映りこみます。 「あなたのために一生懸命抽出中」 なんと嬉しいセリフ。お客への感謝の気持ちをストレートに伝えてくれる自販機。普通よりも倍くらい高いけど、ほっこり嬉しい気持ちになるではないですか。実際にコーヒーも美味しく感じます。スタバなどでも、店員さんに「あなたのために一生懸命抽出中」って言われたら、それは嬉しいですよね。 人間もこんな風にシースルーならばわかりやすいのにね。ご機嫌だったはずの人が急に怒り出すとか、怒っているようで実は誘って欲しいとか。人間というものは表面からは中身がわかりません。シースルーの自販機に比べても、だいぶめんどくさいものですよね

AIにはできない(その2)

Image
ネットフリックスのおかげで、スタンダードな映画はいつでも気軽に見られるようになりました。山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズなんかは、48作全部続けて見ることすらできるんです。 「男はつらいよ」第18作の「寅次郎恋歌」。寅次郎は旅先で義弟博の父、諏訪飈一郎(志村喬)と出会います。例によって酒の席で失敗したあとで、人間の生き方についてとくとくと教わるのです。 そこで飈一郎が寅次郎に語って聞かせるのは、なんとフローベールの姪が書き残した文章なのです。「リンドウの花がいっぱい咲いている庭で、農家の主婦が子供たちを叱りながらご飯を食べている。ご覧、あれが本当の人間だよ」フローベールが、姪にこう言ったのだそうです。 一体、誰がこんな脚本を書いたのでしょうか。 それは、山田洋次監督の共同脚家の浅間義隆さん。脚本に詰まった時に、山田監督が本当に頼りにしていた浅間さん。大変な勉強家、読書家なのです。「男はつらいよ」シリーズの随所に、可笑しみのあるエピソードやペーソス溢れたフレーズが登場するのは、博覧強記のこの方のおかげなのですね。 こんな芸当は、AIにはまずできないと思いますね。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆「AIにはできない」(その1)

二セットある

Image
ホットコーヒーが飲みたくて、大学のロビーにある自動販売機に110円入れました。コーヒーが出てくるのを待つあいだ自動販売機のパネルを見ながら変なことに気がつきました。 「同じキリマンジャロのボタンが二セットある!」 「キリマンジャロのブラック」「キリマンジャロの砂糖入り」「キリマンジャロのミルク入り」「キリマンジャロのミルク砂糖入り」 これら4つのボタンが、まるまる二セット(つまりぜんぶで8ボタン)あるのだ。一体なんのためだろう? 右の「キリマンジャロ」と左の「キリマンジャロ」とでは、豆の種類がちょっとだけ違うのか? それとも、コーヒーの豆が別々のケースに入っていて、片方が売り切れてももう片方のボタンを押したら出てくるようになっている? 片方は、急いでいる人用の「早出し」ボタンとかだったりしたらすごいかも。 今度、自動販売機のメンテナンスでドアが開いている間に、のぞいて確かめて見たいと思います。 中はどうなっているのかちょっとワクワクします。まあ、おそらくボタンが余ったので、人気ありそうな「キリマンジャロ」に二セットのボタンを割り当てただけでしょうが... 話は違いますが、シクラメンの花鉢も、 違う種類を二セット並べておくと可愛いですよね。 最近はトイレットペーパーも二セットある場合が多いようです。どちらかが無くなったときの用心でしょうが、これも二種類おいてあったら楽しいですね。色違いとか。 新年早々、暇な話で失礼いたしました。 まだ、頭がお正月モードですね。

あけましておめでとうございます

Image
新年となりました。今年は戊戌の年で私は歳男です。改めてみなさまよろしくお願いいたします。