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器を選ぶ

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NHK時代からの恩師であるH先生は、なかなかの食通であり、全国各地の老舗料亭をご存知である。ある時私は、同僚とともに京都の下鴨茶寮に連れていっていただいた。人生で初めてご馳走になった本格的な懐石料理のことは忘れられないが、その時に女将から聴いた話が、とても味わい深く思い出される。 「うちでは、板前さんたちには、いつも美術館などで勉強させてます」 「なるほど、料理は具材の配色やバランスが大事だからですか?」と軽く返してしまった私を諭すように、女将はさらに話を続けた。 「いいえ、料理の配色も大事ですが、それよりもっと大事なのが器を選ぶ感性なんです。料理を引き立てるだけでなく、お膳の組み合わせや順番で、お皿やお椀を選ぶ眼を養って欲しいのです」 当時NHKで、映像デザインの仕事に携わっていた私にとって、まさに「眼から鱗」であった。お客様に食べていただく料理そのものも大事だが、それを載せてお出しする器を選ぶこともさらに大事。テレビ番組の内容が料理だとすれば、私が担当する「デザイン」はそれを載せる器のひとつではないか。「あんたはんは器を観る眼を待ってはりますか?」と聞かれているようで、恥ずかしい気持ちになったものだ。 京都という古都には、古くから伝わる伝統があり、それはまさに生きた教科書なのだ。まさか、これがH先生の策略であったとは思わないが、美味しい料理を味わいつつも、テレビ局デザイナーとしての自分を振り返り、勉強させていただく機会となったのである。

一本道の向こうに

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中央本線は新宿から塩尻まで伸びる長い鉄道である。千葉県から八王子まで通う私だが、八王子から先はなかなか行かない。ときどき「動物と衝突したため遅延」という表示が出る。遠く信濃の国まで繋がっているのだ。だが普段はその実感はない。 しかしある時、それが実証された。新宿から「あずさ号」に乗り、八王子で下車した私は、うっかり隣の席にジャケットを置き忘れてしまった。主人に見捨てられた彼は、その後一人で松本駅まで到達したらしい。親切な駅員さんの手で紙袋にいれられて、数日後に彼は、うかつな主人の元に戻ってきた。確かにこの長い線路は信濃の国まで繋がっている。 遠く伸びる一本道を見ると誰もがその先の世界を想う。 一本道は未来や過去といった時間のイメージにも繋がる。 この「長い一本道」の心理的効果を見事に使った映画がある。「第三の男」と「ペーパームーン」である。どちらもそのエンディングに印象的な「一本道」が登場する。(いずれも珠玉のモノクロ映像です。)前者は、ウィーン郊外にある墓地の枯葉舞う並木道。後者はアメリカ中部ミズーリ州の茫漠とした原野を横切る曲がりくねった道。 いずれのシーンも、物語のドンデン返しの最後に忽然と登場するところが実に効果的。あまりの展開に心を揺さぶられて我を忘れていた観客は、最後にもう一度、ここでじっくりと物語を振り返り、主人公たちの行末を想う。監督が最後に用意してくれた、とても贅沢な時間だと思う。映画はこうでなくちゃね。 私も時には、想像上の一本道をみつめて自分の人生という物語を振り返ってみよう。その一本道のずっと向こうにいつか、もう一度会いたい人たちの姿が見えるかもしれない。

素晴らしい世界へ

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この古い建物はポーランド南端のチェシンという街にありました。「聖ニコラス ロタンダ教会」といって、ポーランドの円形建築で最も古い教会です。20ズォチ紙幣(600円くらい)の裏面に印刷されています。12世紀くらいのものといいますので、ちょうどポーランド民族がキリスト教に改宗して、ヨーロッパ文化圏の仲間入りした頃のものです。 その頃、ポーランドという国は、強力な統治者の登場によって、一気に大国へと統一されていったそうです。それまで沢山の部族に分かれていた人々は、民族同士が混じり合ったり競い合ったりする時代に翻弄されたことでしょう。いまこうして、小高い丘に静かにたたずんでいる丸い建物は、黙ってその当時のことを思い浮かべているようです。 いま、私たちもいわゆるコロナ禍に巻き込まれて、大変な変動の波に揉まれています。この秋の大学も、いわゆる通常の授業への復帰とオンラインとの間で揺れ続けることでしょう。ポーランド民族が知らず知らず、大国が武力で覇権を争いあう時代に巻き込まれていったように、私たちもなにか未知の時代に押し流されているのでしょうか。 いまから1000年後。私の子孫は2020年を振り返って何を見つけるのでしょうか? ヨーロッパのキリスト教徒は、この石造りの建物に彼らの痕跡を残しました。私たちが現代に築き上げた財産といえばどうでしょうか。YouTubeもzoomもNetFlixもブログもオンラインゲームもAI将棋も、えーと、そしてGAFAも?... すべてがデジタルデータです。 トーク履歴を引き継げなかったLINEみたいに消えていたらどうしましょう。 でもまあいいか1000年後のことは。ただ、できることならば、信じられないほど素晴らしい世界へ進化していてほしいものですね。

前にも来たことがある

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  一昨年の秋にある学会で訪れた台南の商店街です。水彩と色鉛筆で描いてみました。こうして見ていると「ここに、もう一度行きたい」という気持ちが湧いてきます。そして、いつか必ず行ってしまうと思います。 きままな旅が好きな私ですが、旅の歩き方に変な癖があります。二回以上訪れた街で、前に行ったことのある場所に行ってしまう。せっかくの二回目なんだから、新しい場所を開拓して、見聞を広めればいいものを、わざわざ行ったことのある場所に行く。なんなら、ホテルもわざわざ同じところに泊まったりします。 京都もプライベートや仕事でずいぶん行きましたが、ひらがなのお稽古のように同じ場所をなぞることがあります。どこからスタートしても、結局は木屋町通りにたどり着き、一条から五条まで歩いてしまう。せっかくロンドンに行っても、もったいないことに同じところばかり行ってしまいます。「そこが以前と変わらずにいまもそこなのか」点検しているみたいです。ときどき「自分は何をやってるんだろう」と思います。 「デジャヴ」という経験ありますよね。あの感覚が好きなのかもしれません。 老境に近づいてきて想うのですが、もしかすると私は、人生でも同じことをしているのかもしれない。そこそこ長い時間生きてくると「人生のどこかで見た景色」に出会うことがちょくちょくあるのです。「これって前にやったよね 」という感覚です。 そんなことをぼんやり考えていたある日、高水裕一先生の「時間は逆戻りするのか」という本を読みました。基本的には宇宙物理学の本なので、わからないところも多かったのですが、「ほんとその通りだよー!」と思う箇所もたくさんありました。特に気に入ったのはこの話です。最新の物理学の理論によると、私たちが生きているこの宇宙は、既にこれまで「49回」も繰り返されてきた可能性があるというのです。 ほらね。やっぱり、また同じところに来てたんです。

二番目は必要ですか

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「二番ではダメなんですか?」というフレーズが、一時期流行となりました。私の答えは「二番も大事」と決まっています。特に、映画の撮影では絶対にそうなのです。 映画のオープニングタイトルで、クレジットされるのは、監督、カメラマン、編集マン、作曲家、キャスティングディレクターなど「一番メインのスタッフ」と決まっています。ところがエンド・クレジットをよく見ると「二番目」の人たちの名前も載っているのです。お気づきだったでしょうか? その二番目の人たちは「セカンド・ユニット( 第二班 )」と言って、メインのスタッフが撮影する余裕の無いシーンを担当するのです。遠方の海外ロケや、俳優が登場しない情景シーンなどを担当することが多いです。 ジョージ・ロイ・ヒル監督の名作「明日に向かって撃て」でも、その第二班が活躍しました。第二の監督の名前は、ニッキー・ムーア、第二のカメラマンは、ハロルド・ウェルマンと言って、メインのカメラマンである、コンラッド・L・ホールの親友です。 この映画で彼らが担当した仕事が、実はまさにオープニングタイトルの映像だったのです。ブッチ・キャッシデイとサンダンス・キッドが活躍した時代の列車強盗のシーンを、古びたクラシック映画のテイストで撮影しました。悲しげなトーンのピアノと、この映像の組み合わせがあまりに良くて、肝心のメインスタッフのクレジットが頭に入らないくらいです。 私自身は、実はこのオープニングタイトルは、何か昔の映画のフィルムを拝借して作ったものとばかり思っていたのですが、最近これが、セカンド・ユニットによって新たに撮影された映像であったと知りました。騙されるほど、よくできたクラシック映画のシーンですし、メイン監督のジョージ・ロイ・ヒル監督もとても気に入っていたとか。 「明日に向かって撃て」では、このように本編とテイストを別にする挿入シーンがいくつかあって、それが映画全体を引き締めて、いい意味での気分転換となっています。「雨にぬれても」の挿入歌で有名な自転車シーンもその一つで、ともすれば悲劇的なトーンになりそうなこの作品に、永遠に消えない明かりを一点灯しています。「第二のチーム」が残した映像も、あちらこちらでこの映画を引き締める役割を果たしています。 撮影賞も含めて、アカデミー賞を三つも受賞したこの作

時代に取り残される

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「取り残される」 実に人を不安にする言葉ですね。周囲の仲間や家族がどこかに行ってしまって、たった一人になってしまうイメージ。子供の頃に何度か見た怖い夢。現代社会のストレスの中にも、何かに取り残されてしまう恐怖のようなものがあるのではないでしょうか。 現代社会では、常にどこかで何かが取り残されていきますよね。私たちの生活を便利で快適なものにする技術進歩が、常に何かを追い越し、何かを過去のものとして捨て去っています。 スマホが全世界に普及して、電話ボックスも公衆電話もいつのまにかどこかへ消えてしまった。カメラもデジタルになってフィルムも入手できなくなりました。ラジオやテレビもいずれはネット配信にその座を明け渡し、貨幣ですら姿を消してしまうのかもしれませんね。 うかうかしていたら「あなたのやり方は古い」とか「あなたの価値観は現代には通用しない」とか言われて、私自身も時代に取り残されてしまいそうです。バージョンアップを忘れたアプリみたいに。 でもよく考えてみたい。このような技術進歩に伴う変化や、価値観の転換というものは、結局は人間社会の勝手な都合で起きているに過ぎないのかもしれない。 その証拠に、目を上げて野原を見れば、そこには昨年と変わらず、黄金色の落ち葉が秋の陽を受けて輝いています。青い空をバックに白い雲が流れていきます。季節によって変転しつつも自然界の営みと本質は、何も変わっていないのです。 時代に取り残されると言っても、人間が自分で自分を追い越し、過去の自分を否定しているだけ。思えば、人間は勝手に苦労を背負いこんで、それと闘っているだけなのかもしれません。 もっと気楽にのんびりと、バージョンアップもほどほどではいかがでしょうか。人類が地球の上で何を成し遂げたところで、大宇宙に流れる悠久の時の前では、ちょっとした誤差程度なのかもしれないし。

ショーウィンドウ

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ショーウィンドウというものは「ショー」というくらいだから、お店の品物を展示して見せるためのもの。でもこの絵のように「これでもか」と品物を詰めて並べたウィンドウには時々驚かされます。 古い石造りの建物にむりやり開けたようなドアとウィンドウ。しかたなく、こんな詰め込みになってしまうのでしょう。ヨーロッパの古い街角で、よく見かけるスタイルですが、日本で見たらこれは質屋さんかな。 このお店はいわゆる金物屋。時計やら工具やら小物がいっぱい並んでいるだけなのですが、遠くから見るとなんだか博物館のようです。前を通るたびに、ついつい惹かれて近寄って見るのですが、結局一度も中には入りませんでした。 でも、外から見ただけでこのお店の「気持ち」がわかったような気もします。 人間にもこんなウィンドウがあったらいいかもしれない。通りすがりの人から「いい心がけですね」とか「すごいもの持ってますね」とか覗いてもらえます。 (挿絵は、ポーランドの小都市チェシンの裏通り)

楽しきと思うのが

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うちのトイレにかかっている「べんぞうさまカレンダー」には、毎週ひとつだれかの金言が載せられています。それを見るのが楽しみですが、ときどき「おやっ?」と思うことがあります。例えば、寛政の改革で有名な松平定信の言葉。  楽しきと思うのが  楽きの基なり  松平定信 こんなのは、ちょっと意表をつかれた気がします。腐敗した賄賂政治を立て直した堅物政治家かと思いきや、粋な言葉を残されたものです。なにごとも楽しんでやらなければいけない。そうですよね、むしろ、こういう考え方ができたからこそ、天明の大飢饉から藩政を立て直す難事業をやりとげられたのですね。 一方で、先週のNHKラジオ講座では、こんな言葉が紹介されていました。「ピーターパン」の原作者でもある、 J.M.バリイ 氏 が残された言葉です。  できれば何かほかのことをしたいと思わない仕事は、本当の仕事ではない。  Nothing is really work unless you would rather be doing something else.  James Matthew Barrie 「家に帰って寝てたほうがまし」とか「こんなの早く終わってゲームしたい」とか思うくらい大変でないと、それは本物の仕事ではない。仕事はツラくて当然ということですね。現代にも通じるポイントを押さえた、いい言葉ですね。 でも、このふたつの金言格言を並べてみると、おたがいに矛盾して聞こえます。はたして仕事というものは、楽しいものなのか? 辛いものなのか? わからなくなってきたので、無作法ながら、ふたつの言葉を足し算してみますね。  本当の仕事というものは「早く終わって別のことしたい」と思うほどツラい。  しかし、それでもそれを楽しんでやることが大事である。 あら? なんだか自虐的な話になってしまいました。これではまるで企業戦士向けの標語ですね。 失礼いたしました。この問題はまだまだ考え続けなければならないようです。

時間が存在しない場所

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寺院の庭。ここには動くものがほとんど無い。すべててが静かに佇んでいる。動きといえば時々訪れる小鳥たちか池の鯉の影ぐらい。響きといえばは水のせせらぎか鹿威しの音。石も草木も苔むした門もただ静かに黙っている。そもそも、まるでここには「時間」そのものが存在しないようだ。 アクションと喧騒のアミューズメント・パークとは別世界。映像と音響が五感をゆさぶる映画館とも対局の空間である。過剰な表現で描かれた想像世界にひたるのも楽しい。しかし興奮の記憶や感情も、いつかははかなく消えていく。 カルロ・ロベッリという物理学者の「時間は存在しない」という本によると、この宇宙には、そもそも時間など無いのかもしれないとのこと。すべては、物質世界に生きる私たち人間が感じているものに過ぎない。つまり気のせいだと。 寺院の庭のような場所が素晴らしいのは、私達をいつのまにか深い内省に導いてくれること。難しい理屈を知らなくとも、先端的な物理学者の理論に匹敵する真実に、私たちを近づけてくれる力を持っているのだ。 (挿絵は、北鎌倉の円覚寺の境内です)