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Showing posts from March, 2013

勉強の逆回しをしなければならないのだ

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学校で学んだことをそのまま学術的に復唱するというのはただの「ラーニング(Learning)」であって、あまり価値が無い。本当は「アンラーニング(Unlearning)」して、学んだことを自由自在に使いこなすことが大切です。(☆1) 鶴見俊輔さんのお話の概要です。とても面白いので、本に赤線をひっぱっておいたものです。この「アンラーニング」という発想は、実は鶴見さんのオリジナルではなく、ヘレン・ケラーさんからじきじきにお聞きした話なんですって。 鶴見先生が、18歳のときにニューヨークの図書館で本の運搬のアルバイトをしていた。するとそこに、ヘレン・ケラーが来た。さっそく彼女を囲む懇談会となって、この貴重なお話を直接お聞きになったのだそうです。うらやましいです。

大機大用

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大機大用。こう書いて「たいきたいゆう」と読みます。柳生宗矩が残した「兵法家伝書」の「無刀の巻」にある一章のタイトルです。 ものごとには「体用(たいゆう)」というものがある。たとえば、弓は「体(たい)」である。引くぞ、射るぞ、当るぞ、というのは弓の「用(ゆう)」である。灯火は「体」である。光は「用」である。水は「体」である。うるおいは水の「用」である。梅は「体」である。香や色は「用」である。梅の体があるからこと、体から花が咲いて色香が現れ、匂いが起こるように、機が内にあって、その用が外にはたらき、付け、懸け、表裏、懸待、さまざまな誘いを仕掛けなどする。このように内に構えた機があるために、外へ現れることを用というのである。(☆1) うーん、むずかしい。 どういうことでしょうか。 人間の働きが出るのも、人間の内側に「機」というものがあるから。その「機」がちいさくて、せせこましいものでは、そこから生まれる言動や働きも、小さくて効力のないものになってしまう。だから、人間は日頃から自分の内側にある「機」を、おおきく育てて、常に大きく構えていることが重要である。自然と「機」が外へ出てくるように、精神を自在のコントロールのもとに置かなければならない。そういう教えかと思います。

ラッキー・マン

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人気絶頂だったキャリアさなかに、若年性パーキンソン病という重い病気を発症してしまった、マイケル・J・フォックスによる自伝です。「ラッキー・マン」という、この本の楽観的タイトルには、読む者を深く考えさせる何かがある。 十代から出演していたテレビ番組で磨かれた、コミカルな演技が素晴らしい、マイケル・J・フォックス。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で大人気となった。そんな彼を襲った病魔。はじめは右手の指の痙攣だけだったものが次第に広がっていった。その症状を薬で抑えながら、かなり長い時間、俳優の仕事を続けることができたという。この本には、彼の幼少期における父親との思い出から、この病気と闘った2003年までの体験が綴られている。 スクリーンに登場する、さまざまなキャラクターに変身しなければならない俳優には、「ほんとうは自分は何者なのか」という不安がつきまとうものだという。彼の場合も、それはどんどん増していったらしい。ごくごく普通の幼少期を過ごし、決して裕福ではなかった修業時代を過ごした彼にとって、ハリウッドでの成功は、常にどこか「はかない」一瞬の輝きのように思えていたのだという。

夢を見るための時間

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グミベア:ちいさな王様のたべもの 夢なのに現実のような気がする。夢のほうが現実なのか、起きて見ている現実が現実なのか区別がつかない。自分がどこに寝ていたのか分からない。自分の人生の記憶が消えてしまったみたい。特に昼寝から目覚めた時など、そういうことありませんか? ドイツの政治記者が書いた童話「ちいさなちいさな王様(☆1)」というお話を読んでわかった。人間にとって「夢を見る」ことは素晴らしいことなのです。現実と見分けのつかないような「夢」を見るべきなのです。 このお話の王様は、だんだんちいさくなっています。そして、少しづつ記憶も失っているのです。王様の背丈は、いまやコーヒーカップくらい。王様の国では、子供は大きな体で成熟した状態で生まれてくる。人々は、年をとるとともに、いろいろなことを忘れて、なにもわからなくなっていく。 体も少しずつ縮んでいって、いつか見えなくなってしまう。王様のお父さんもおじいさんも、ちいさくなっていつか見えなくなってしまった。大人になるほど知識と記憶が消えて、体も縮んでいく。そのかわり「夢」の世界は広がっていくのです。

夢みたいなこと言ってんじゃないよ

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リストラを生き残ってほしかった 「あんたの存在分だけ、コストが減るんですから、お引き取りください」 生存競争をしているのは、サツマイモや人間だけではない。映画の撮影に使われる「フィルム」も、いま大変な生存競争の中にある。しかも、かなり分が悪い。「フィルム」が戦っている相手は「デジタルシネマ」である。闘うもなにも、相手は「フィルムレス」なんだから、どうしようもない。より優秀なフィルムが出た、というならば、「よし、こっちももう少し改良してみるか」と腕まくりするだろうけど、そもそも「フィルムさん、あんたはもういらないんですよ」と来るわけだから、戦いようもない。 こう言われては、フィルムの立場はないです。フィルムにとって、なんとも辛い時代だろう。「あんたの存在分だけ、コストが減るんですから、お引き取りください」と言われては、もうおしまいだ。 すでに家庭でも、デジタル化の波は、たくさんのものを「絶滅」させている。35ミリカメラ用フィルムはもちろん、ビデオテープ、カセットテープなど、みんなすでに社会的立場を失っている。これから生まれてくる子供達は、ビデオテープを見てなんと思うのだろう。「お父さん、このセロテープ、糊がついてないよーっ」 とか言うのでしょうね。そもそもセロテープもあまり見ませんね。だいたい、切ったり貼ったりする「紙」が減ってるんだもん。これからは、小学校の図工の時間なんかも、PC画面でやるようになるのかね。そうすると、ハサミもセロテープも廃業ですね。

サツマイモ界にも生存競争があるのだろうか

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生き残りました 高級デパートの地下食料品売り場でも、平気な顔で高級スィーツとして並んでいたりする。その一方で、享保の飢饉の時などは沢山のひとびとの命をつなぎ、その栽培の容易さや栄養価の高さから「有用な食品」として認められてもいる。サツマイモは、イモ界のスーパースターではないだろうか。1597年に(1618年という説もあるそうです)中国を経て種子島に伝来して以来のロングセラーを誇る大人気商品といえよう。 日常とてもお世話になっているサツマイモです。これだけ大げさに褒めてもバチは当たらないだろう。飢饉はおいておいても、とにかく、誰もがほっくり笑顔になる、あの「甘み」だけでも賞賛に値する。嫌いな人はまずいない、というのはサツマイモの人徳である。 しかし、サツマイモがこれだけの地位を獲得するまでには、いろいろと大変だったのではないだろうか。イモの中でも「よりおいしい品種」「より売れる品種」というものが、選別されて繁栄するようになっているはず。(私の推測です)だとすれば、おそらく「選別されなかった品種」は、消えていくのか、あるいは他の用途に使われるようになって、「表舞台」から姿を消したのだろう。イモ界にも生存競争があり、サツマイモはその勝利者のひとりなのだ。

このチーズ誰のおかげで食えると思っとるんじゃ

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誰のおかげで? 今朝、こんなCMを見て爆笑してしまった。 庶民的なキッチンで、すき焼きの鍋を囲む4人家族。久しぶりの牛肉を目の前にした緊張のあまり、その食卓には一触即発の不穏な空気が流れる。 「お父さん。自分の箸で、つつき回すのやめてよ」(お母さん) それでなくとも日々の生活に疲れ果てたお父さん。 家族の目の前で、あからさまに傷つけられてしまった尊厳。 それを取り戻すべく、テーブルをたたいて立ち上がる。 「この肉誰のおかげで食えると思っとるんじゃ!」(お父さん) 「SEIYU じゃね?」(長女) その先は言わないでいいよ。どうせこんなこと考えてんでしょ。お父さんの稼ぎでは普通は牛肉なんて食べられない。でもこうしてすき焼きを囲めるのは、安売りをしてくれた「SEIYU」のおかげ。そういうことね?直感的にそんなこと言うなんて、あなたすごいわ。

遠くまで旅をしなければならない理由

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ロバート・デニーロ演じる、ジャック・ウォルシュ 男の子は遠くまで旅しなければならない。 様々なことを経験して、強くなるためだ。 旅にはそれぞれの理由があるものなのだ。 ジャック・ウォルシュも、長い長い旅をしました。しかし、彼の旅には理由などなかったのです。ただの番狂わせ。プロの賞金稼ぎとして、本当はチョロイ仕事のはずだった。ニューヨークからロサンゼルスまで 横領会計士を 護送するだけのこと。それがなぜか、人生最悪のアメリカ大陸横断旅行になってしまいました。 実はそこが、監督のマーティン・ブレストや脚本家ジョージ・ギャロの腕の見せどころ。 観客には想像もつかない方法や手順で、主人公たちを、どんどん「悪夢のクロスカントリー」に追いやっていく。はじめから分かりきった旅の予定があっても、見ている方はつまらないですからね。予想外のアクシデントの連続が面白い。 シカゴのギャングの親分とか、ロサンゼルスの保釈金融のオヤジなど、一癖も二癖もある連中がそろって「旅の理由」を作ります。 ちょっと抜けたFBI捜査官(以前このブログで紹介したあのひと) やら、昔の家族も出てきて大騒動。そして何よりも怪しいのが、護送しなければならない横領会計士の行動。これらのおかしな人々が、へんてこな「理由」を自然に作り出し、ジャック・ウォルシュを必然的な「悪夢の旅」に巻き込んでいく。