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Showing posts from 2011

幸運の逆ギレ

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若き日のムツゴロウ先生 朝日新聞の夕刊で読んだ愉快なお話。(☆1) 若きムツゴロウ(畑正憲)先生は、就職した会社を7年で退職する。自然科学を追求して映像化する仕事を、一生懸命やっていたのです。しかしなぜか「勤務態度に問題がある」とクビになったのだそうです。のちのムツゴロウ先生の、破天荒な活動ぶりを知る私たちとしては「さもありなん」という気もしますが、お気の毒です。 その後、五反田の職業安定所をたずねる。そこで、受付の男の人に書類を書き直すよう怒鳴られた。そこでムツゴロウ先生は、キレてしまった。何でこいつにそんな口をきかれなければならないのか、頭にきたのだそうです。書類を破って、男の人に投げつけて飛び出しました。 ところが、この「逆ギレ」が幸運を呼んだのです。

就職を決める魔法

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チャーリー・チャップリン チャップリンが就職活動で使った魔法の話である。 1908年、チャーリー・チャップリンは、ロンドンの名門喜劇「フレッド・カルノー劇団」の面接を受けた。彼はまだ17歳だった。この一座に入れれば、一定の収入を得て、名声を高める事が出来るかもしれない。彼にとって、まさに千載一遇のチャンス。 「『フットボール試合』でハリイ・ウェルドンの相手役がやれるかね?」(☆1)とカルノー氏。 「ええ、わたしに必要なのはチャンスだけです」と自信たっぷり答えるチャップリン。 「17歳。ずいぶん若いな。それに、年よりも若く見える」 当時のチャーリーは、実際の年齢よりもずっと年寄りに見えるメーキャップで舞台にたっていた。カルノーはチャップリンがやるべき役の年齢を高めに見ていたのだ。年齢が問題で、せっかくの話がおじゃんになるかもしれない。チャップリンは一瞬ひるんだ。 ひるんだチャップリンは、無意識に「ぴくりと肩すくめ」をしたのだ。

芸術家は食えない

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アマディのカマキリ わたくしはアーティストを無条件で尊敬いたします。 アーティストといえば、芸術家。芸術家というものは、社会的地位や収入、名声などとは関係なく、自分自身の芸術の道を極めるもの。ゴッホにしろ、モジリアニにしろ、制作に没頭していた生前は、自分の作品が何億円という価格で取引されるなど、夢にも思わなかったはず。 判っていても、そう出来ないのが現代。ついつい、手近なところで成果を挙げて、ちょっと有名になろうとか、ちょっと儲けてやろうとか、ベリー・ショートサイトな(超短視眼的)欲求に走ろうとする。私自身が、とても怪しい。いまどきの学生も、とても怪しい。芸術をやりたいのか、有名になりたいのか。結局は「芸術家として有名になって、お金持ちになりたい」というのが、いまの私たちの「本音」なのですよ。 とても心配なのが、美術大学の男女比です。ものすごく女子が多いんですよ、いまの美大。どこでも大体そうです。いまの男の子たちは「芸術」を目指さなくなったんだろうね。やはり「芸術家では食えない」という現実を知っているからでしょうか。いまや日本男子は美大を目指さないのか。 そんなことを考えつつ、 NHK・BSの「たけしアート☆ビート」 を見ました。(☆1)

退屈しよう

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あまりの忙しさに心も体もつかれた時。 そんな時に、疲労で固まった頭をときほぐして、「ほーっ」とできる本があります。 水木しげる大先生の「のんのんばあとオレ」です。どのページから開いて読み始めてもOK。どこを開いても笑えます。僕は、水木ワールドにしばらく触れないと禁断症状が出るので、定期的に「水木文献」に接するようにしていますが、数ある「水木文献」の中でも、最大の解毒と癒しの力をもつのが、この「のんのんばあとオレ」なのです。 昨夜も、なにげなくそのページをめくりました。 少年時代の水木先生がやっていた、大事業の数々が書いてありました。ガキ大将になり、子分をこき使って収集した大昆虫標本。300を超えたという新聞の題字収集。立体地形地図。ミカン箱に針金を張って作ったギター。小学校のコンクールで佳作をとった油絵。ご幼少の頃の水木先生は、当時有名になりつつあった、山下清画伯とならび称されるほどの神童だったのですよ。

なぜ出来ない

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黒澤映画だと思った。 ちょっと誉め過ぎかもしれない。でもそう感じたのです。この「JSA」という映画は黒澤監督の血を引いていると。 冒頭から一気に中心テーマに向かう、無駄の無いアプローチ。本格的な社会派ドラマ。妥協せずに一直線にひっぱるプロット。なによりもインパクトある音と映像、力強い演出。これは「黒澤明監督が現代に解き放った新作ではっ!」という錯覚に陥るほどだった。(☆1) やはり、誉め過ぎですかね? 誉めすぎと言われてもいい。私はこの映画を賞賛したい。現在の日本映画に これだけ力強く、社会的テーマを最後まで描ききったものがあるだろうか?今の日本映画は、興業成績ばかり気にして、一般受けしそうなプライベートなテーマばかり。恋愛コメディもの、アクション刑事もの、難病もの、動物もの、下級武士ホームドラマなど、繊細なテーマで涙をさそおうとするばかり。このJSAのように、社会に挑戦するような映画制作は、日本では出来ない。 なぜ出来ないのか?

見える人には見える

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エドモンド・ハレー (1656 - 1742) 見える人には見える。 エドモンド・ハレー。かのハレー彗星が75.3年周期で太陽を回っていることを予言した人。ニュートンに「プリンキピア」の出版を勧めた大科学者。彼は、インド大陸に吹く「モンスーン」の仕組みも明らかにした。そういうことが「見える人には見える」のだ。 インドだけでなく赤道一帯に位置する国は、夏と冬に「モンスーン」と呼ばれる季節風が吹く。この風がいつどのように吹くかを予想するのは、インドを統治するイギリスにとっては重大事。貿易船はこのモンスーンに乗って、西へ東へ運航していた。また夏のモンスーンが吹かなければ、インド内陸部に飢饉が起きる。(☆1) ハレーは、この「モンスーン」の原因を、太陽光がもたらす熱エネルギーがであることを明らかにした。インド大陸の陸地における温度上昇と、インド洋海面の温度上昇の差が、大気運動を作り出す要因であるという説をまとめた。(☆2)すごい人ですね。私のような凡人なら、天を見上げて「今年は雨が多いね〜」とか「蒸しますね〜」などと言うのだけのこと。

二度と言わない

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ロンドンのスピーカーズコーナーでの独演会 「同じ事は二度と言わないから」 こう言って始まったお説教は、たいがい繰り返し聞かされる。 「二度と言わないから」というのは、「これ聞かなかったら大変なことになるからね。あんた」という、いわば脅しにすぎない。「ねえ聞いてくれよ」とか「よく聞いてちょうだい」と下手に出ても良いのだが、上の立場にいる人間としては言いにくい。「同じ事は二度言わないから、耳の穴かっぽじって良く聞け」と高飛車に言う。その上で、同じ事を何度も何度も言う。大学の先生などがよく使う手である。 NHKのアナウンサーもよくこれをやる。さすがに「同じ事は二度言わないので、よく聞いてください」とは言わない。そのかわり、ただただ何回も言う。「ギリシャで内閣信任案が可決されました。繰り返しお伝えします。ギリシャで内閣不信任案が可決されました。ただいま入ったニュースです。ギリシャで...」こんな風に、臨時ニュースになるような大事な話は「何度も」伝える。

テンプレ人間

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てんぷら、ではない 最近の学生はよく、「テンプレありますか?」と聞いてくる。 「てんぷら」ではない。研究室に「てんぷら」はない。そば屋ではないのだ。彼らの言う「テンプレ」というのは、いわゆる見本(テンプレート=定規)のこと。つまり彼らは自分がこれから書くべき申請書や、依頼文、はたまたレポートや卒論などの文章の「すでに出来上がった」良き見本はないのかしら。そう言っているのだ。 一見立派な話でしょ。自分の文章には自信がないので、より良い見本があれば参考にしたい。できれば先生のお書きになった、理想的なものを見せて下さい。そのように考えているならば立派な話だ。受けて立とうじゃないか。

希望にも格差があるのか

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ロバート・ライシュ 恐ろしい本を手にしてしまったよ。 その本のタイトルは「希望格差社会」という。なんと残酷なタイトルなのだろう。これからの日本は、希望を持てる者と、持てない者とが差別されるようになるということだ。たった二割の成功者以外は、大卒であろうが高卒であろうが「希望」とは無縁の人生を歩む事になる。そんなきびしい現実。今の学生たちのことを思うと胸が苦しくなってくる。 しかし、著者の山田昌弘氏の本意はそれではない。少子化とグローバリゼーションに流される、日本社会の構造変化への警句だ。この流れに抗するのは容易ではない。しかし、我々自身がこの奔流に流されているという自覚を持つ事で、崩壊する労働環境にある日本社会の脱却点をみつけることができるかもしれない。そう望むからこそ、このような恐ろしい本を書いたのだと思う。

奇跡のミステイク

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ノーベル賞受賞者らしからぬ、この優しい笑顔。 北大名誉教授の鈴木章先生。おだやかで謙虚な「いい人」なのだろうな。漠然とそう思っていた。 北海道大学総合博物館で、 鈴木-宮浦「クロスカップリング」 の展示コーナーを見て、その印象はさらに深まった。在任当時の先生の研究室を再現したコーナー。実物の机や研究室備品が展示されていた。どれも、先生の飾らない質素な研究生活ぶりを示している。手回し式計算機、時計、ペン立て、どれもこれも全く普通のものばかり。高級品や贅沢な嗜好品などは何もない。 「鈴木章・ノーベル化学賞への道」(北海道大学出版)を買って読みました。「クロスカップリング」についてわかりやすい解説が載っているし、この研究がどのように進んで来たのか、面白いエピソードが満載。 この本の中で注目したいのは、鈴木先生に起きた「偶然のミステイク」の話だ。

安全運転

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盛大に黄色く染まったイチョウ並木。出張先の札幌で、空き時間に北大のキャンパスを歩いた。土曜日なので、明らかに学生ではない(観光客)みなんさんが、思い思いにカメラを構えていた。 北大の前身である、札幌農学校の基礎を作ったクラーク博士。いつかクラーク先生の胸像にお目にかかりたいと思っていたが、ついにそれが今日かなった。感激。それに、この胸像のあるあたりの環境がすばらしいサクシュコトニ川が流れる広場がバックにあって、博士の遠大なる理想の大きさを語っているようだ。ボーイズ・ビー・アンビシャス。クラーク博士が日本の若者に残した言葉。ボーイズ・ビー・アンビシャス。少年よ大志を抱け。 ところでこの言葉、いまの学生諸君はどう受け取っているのか。

リアル・ヒーロー

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自然エネルギーヒーロー「ウサンクス・ジョーンズ」 スーパーヒーロー逮捕される。 新聞でこんな見出しを見たのは10月10日。「んん?」っと思わずズーム・イン。シアトルの街をパトロールするヒーロー「フェニックス・ジョーンズ」の話でした。彼はテレビや映画の主人公ではなく、ベンジャミン・ジョン・フランシス・フォーダーさん(23)という実在の人物。運転手を職業とする普通の青年なのです。自分の車が車上荒らしに合ったことがきっかけになり、自主的パトロールをはじめた。(☆1)毎夜、自主的に夜のシアトルの街を見回り、暴力に合う人を助け、犯罪につながりそうなトラブルを解決している。 その彼になにがあったのか?事件のいきさつを、昨日の サンケイEX で読んで納得。いつものようにパトロールする「フェニックス・ジョーンズ」は、10月9日未明、ケンカをしていた男女に催涙スプレーを吹き付けた。しかしケンカは彼の誤解で、女性を含む4人が手当を受け、ジョーンズは逮捕された。その後彼は不起訴となり、今ではパトロールも再会。よかったよかった。ヒーローにも勘違いはあるよね。ウルトラマンだって時々やってたよ。変身用のベータカプセルが逆さだったり。

Wドンキー両面作戦

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3D画像で見る >>> 左の方は、城田正孝(しろたまさたか)といいます。草食系男子。きれいずきで家事万能。児童相談所の仕事を天職と信じ、可哀想な家庭環境の子供の面倒を見ている。松田翔太さんが演じています。なぜか「ドンキ・ホーテ」の扮装。[☆1] 右、鯖島仁(さばしまじん)さんです。泣く子も黙る、鯖島組の組長。考えるよりも手が早い、古典的な武闘派。義理と人情で組をまとめ、一族の跡目争いのトップを走る。高橋克実さんが演じる。 このふたりが、天の意思による突然の超常現象によって入れ替わる。[☆2] 中身の入れ替わった二人が、それぞれ、慣れない「職場」で、新境地を発見していく。自分が「苦手」だと思っていた「職場」でも、意外にパワーを発揮してしまう。そこがこのドラマ「ドンキホーテ(NTV)」の面白さです。

生き残るヤツら

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3DFlashで見る >>> 最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き残るのでもない。 唯一生き残るのは変化する者である。(ダーウィン『種の起原』より ☆1) 環境の変化に適応できた種のみが生き残る。これが「進化論」の中心理論だ。地球上で現在繁栄している生物種は、いずれもなんらかの形で、そのサバイバルに成功して来たものたちである。人間はその頂点に立つ。一方で恐竜のように、ある時期に繁栄を極めても、その後の急激な環境変動についていくことができずに絶滅してしまったものもある。 環境に対して適応して生きる能力のことを、システム工学では、「ロバストネス」というそうだ。生物の世界でも、シロクマは極寒の環境に対して「ロバストネス」がある、というように使う。台風でも倒れないヤシの樹は、強風に対して「ロバスト」である、といった使い方もする。癌細胞はさまざまな薬に対して「ロバスト」である。生物は自分が生きている環境に対して何か「ロバストネス」を持っている。(☆2)

ロボット対決・U18だ!

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本日、東京工科大学のインテブロは「WRO JAPAN 2011 (☆1)」の映像配信を行いました。「WRO」とは、子供達による、自律型ロボットのコンクール。このコンクール本当に面白いんですよ。観戦する大人達も夢中になるほどです。 何が素晴らしいって、このコンクールは小学生や中学生が頑張る姿が素晴らしい。しかもグループで力を合わせて戦う姿がとてもいいんです。いまどきの子供は、なかなか友達どうしで協力し合う機会が少ないかもしれない。でも、このコンテストでは、なによりチームワークが大事なんですね。

めかたで売るな

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めかた〜でオトコが売れるなら、こーんな苦労も。 こーんな苦労もかけまいに。 映画「男はつらいよ」のオープニングで、私が思い出すのはこのフレーズ。作詞した星野哲郎さんが、この曲にこめた「男のつらさ」が凝縮されているような気がするから。「どーぶに落ちぃてーも、根のあるやつは」とか「今日も涙の陽が落ちる」など、他にも名フレーズがあるけれど、なぜかこの「めかた」の歌詞が好きです。 もちろん、寅さんの本当のメッセージは逆でしょう。「めかたで売っちゃダメ。男の価値はココだぜ(といって、胸をたたく)」というのが本心。売りたいのは「男の心意気」ですよ。男がめかたで売れるなら私も楽です。この数年はメタボ街道まっしぐら。「めかた」だけは、売るほどあります。キロ10万円とかマグロ並みに売れたら楽ですよ。でも、それでいいものか。現代社会は、男をめかたで売っていいのか。

三角定規は永遠に

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3D画像で見る >>> 「ゴモラ商事さんのパンフ原稿ですが、さきほど完成いたしました」 上司のカワサキ部長に、あなたはこう報告します。明日完成予定の、ゴモラ商事のデザインが、一日早めに仕上がったのです。徹夜で頑張ったんだから、大変でした。ちょっとドヤ顔のあなたに、部長はなんと言うでしょうか。 「ふむふむ。早いね。さすがはハヤタ君だね。明日は休暇を取って、温泉にでも行ってきたまえ。いつもご苦労様」

恐怖のネジ工場

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3D画像で見る >>> デザイナーの仕事って不思議だ。デジタル・ツールのおかげで、作業が大幅にスピードアップし、作品のクオリティも上がった。それなのに仕事の量は減らない。給料も上がらなかった。それはなぜなのか不思議だ。 前回の投稿でそんなことを書きました。 その後、フェースブックの友人から「早く、その先の答えをのべよ」と激励されました。僕はいろいろと考えをめぐらしました。 例えばあなたは、一流デザイン事務所「ウルトラ企画」で働くハヤタ・デザイナー。売れっ子なので、毎日沢山の仕事を抱えています。しかし、徹夜でがんばった結果、予定よりも早くデザインが仕上がりました。そして、部長にこう報告します。 「カワサキ部長。ゴモラ商事さんのパンフ原稿ですが、さきほど完成いたしました! 明日が締め切りだったのですが、一日早く終わらせました」 「ふむふむ。早いね。さすがはハヤタ君だ」と部長。 このあと部長は、どんな言葉を続けるるでしょうか。 ( つづく )

なぜ給料は上がらない?

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先日のブログで「僕たちは、もうデジタルの便利さを手放すことは出来ない」 と書きました。すると、大阪の古い友人から、さっそくのつっこみ。 「デジタルで便利になったのに、なんで僕たちデザイナーの仕事は楽にならないんですか?デジタルで浮いた時間はどこへいったのでしょうか」 そうそう。それそれ。まったくこれが、大きな謎なのだ。デジタル技術が発達して、我々の仕事がものすごくスピードアップしているのに、なぜ、デザイナーの仕事は楽にならないのか。もっとはっきり言うと、なぜデザイナーの給料は上がらなかったのか? むしろ「下がった」と断言する人すらいる。 今日から、この謎にちょっとだけせまってみたい。

本物の花火大会

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3D画像で見る >>> 8月17日は、横浜の花火大会でした。 それで思い出しました。15年前、1997年の花火大会を。そのとき僕たちは、横浜大桟橋のビル屋上にいた。花火が大きくきれいに見えました。でもそれは、花火鑑賞会ではありませn。あるドラマの撮影だったのです。花火大会をバックにドラマの撮影というと優雅に聞こえますか? でも実際の撮影というものは、そんな悠長ものではなく、どちらかというと怒号の飛び交う修羅場に近かったと思います。 なぜ花火大会での撮影を決行したのか。そのドラマの主人公は、薬師丸ひろ子さん演じる女性気象予報士。(☆1) 花火大会が開催できるかどうかを「予報」するのが彼女の仕事。もし予報を間違えば、主催者に大損害を与える。迫り来る嵐の予感で中で彼女は決断をしなければならない。「花火決行か、中止か」 彼女は悩んだ末に「今夜は晴れる!花火大会は決行」と断言します。ぎりぎりまで開催が危ぶまれる花火大会。主催者のオヤジどもが、みなストレス顔でやきもきイライラしています。「おいっ!いったい、どうなんだ!ほんとに大丈夫なのか?」そして迫り来る、打ち上げ時刻。

文明の境界線

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3D画像で見る >>> 1974年、セブンイレブン1号店がオープン。1985年、エアコン普及率が50%を超えた。1995年には携帯電話の普及率が50%超え、2000年にはネット普及率も50%に達した。日本はどんどん便利な国になってます。 でもたしかにありましたね。コンビニもエアコンもない、携帯もネットもなにもない時代。僕の学生時代がそうでした。ついこの間のことです。別に誰も、不満はなかった。コンビニなんて知らなければ知らないで、それで別にかまわなかったんですよね。学生時代の一人暮らしはちょっと寂しかったけど。 これまで現代文明との接触を拒絶し続けて来た、南米の先住民族「ヤノマミ」。彼らはつい最近まで、原初以来変わらない、森の民としての生活を守り続けて来た。シャーマンである、シャボリ・バタは遠い世界に住む精霊と語り合う。人々は森との共生を続け、狩猟による生活の掟を厳しく守る。誰も富を蓄えることはせず、必要なだけの食物を集めてそれで満足する。なにも背伸びをせず自然と共生し、家族や仲間と暮らす、ありのままの生活。

大きすぎる靴

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「あまりに大きすぎる靴に足を入れるな」とは、わたしの思いちがいでなければ、たしかアラビアのことわざであった。これはよくある失敗の生活の説明である。高い地位においてさえこれはありうる。それは、このことわざのような事態から不確かな歩き方が生じ、それに気づいたひとびとにたえず信用の欠如が増して行くからである。( カール・ヒルティ ☆1 「眠られぬ夜のために」 より )

オフになりました

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ほんとうにオフになってしまった〜。 僕の今日の予定も「オフ」だったのですが、そのことではありません。テレビのアナログ放送が、永遠にオフになってしまったのです。終了したのです。1953年2月1日に、NHKによるはじめての放送実験が行われてから58年間。一度も止まらなかったテレビが、ついに止まりました。(東北三県は延期) この目でしっかり見ました。今日の正午。フジテレビの27時間放送の真っ最中です。「笑っていいとも」の放送前リハーサル中という設定? 出演者が全員ハケて、ナイナイ岡本さんが残ります。そして最後のカウントダウン。「ゼロ!」のところで、オープニングテーマがスタート。しかしこれが、アナログ放送では、突然すべてが止まる。 そしてテロップ静止画面にアナウンス。「ご覧のアナログ放送は終了いたしました」 ぜーんぶ、ブルーの静止画になっちゃった。ぜーんぶです。民法連とNHKとで「ブルーの画面にする」ということだけは、決めてたんだろうね。でもなんだか各チャンネルを見ると、内容やレイアウトがバラバラ。ちょっと残念。24時までは各チャンネルの放送なので、まだ個性を競ってる。でも、統一メッセージでも良かったのではないかしら。 それで24時にはどうなるのか。各局一斉に「砂嵐」となります。(電波の返上)日本テレビは、その直前の23:58から、なつかしの「ハトがはばたくロゴ(通称:鳩の休日 / ヤキトリ)」を流すのだそうです!さきほど、日テレのお友達が、FBで教えてくださいました。楽しみだ。

幸せの法則

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「幸せになる○○の法則」とか、「幸せの方程式」とかって、よく人生の教科書みたいな本に書いてありますよね。 「んん?しあわせっ」って読んでみたくなるもんです。でも、だいたいが「人に優しくしましょう」とか「部屋を掃除しましょう」とか、「お金をだいじにしましょう」とかって、考えてみれば当たり前の話ばっかだったりする。それができれば、とっくに幸せになってる。まずは「部屋を掃除するようになる法則」を教えてくれ。 いままでも何度か書かせていただいた、吉田兼好先生の日本最古のブログ「徒然草」。この本には「幸せなひとたち」がたくさん登場します。この人たちが、どのような人たちだったかを見ると、そこに、吉田兼好先生流の「幸せの法則」が見えてくるはずだ。例えばどんなひとたち?

58年エンドマーク

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あ、テレビが映らない 今日は7月10日の日曜日です。二週間後、7月24日の日曜日には、テレビのアナログ放送が終了します。その日がどんな日になるのか、まだ分かりませんが、NHKにとっても民放各社にとっても特別な日になることはまちがいありませんね。 とにかく1953年2月1日にはじまった、アナログ放送が、58年の時を経て幕を閉じるんですから。58年のジ・エンド。フジテレビは、中居正弘とナインティナインによる、27時間番組をかまえて祝賀ムードを盛り上げると聞いてます。(☆1) でも、だいじょうぶかな〜。この番組を見ている途中で、アナログ放送波が止まるわけですが、アナログ放送そのものを見ている人にとっては、途中ですべてが消えてしまうんですよね。残るのは吹き荒れる砂嵐。直前に大きくエンドマークの「終」を出してほしいな。主役を降り、ついに引退するアナログ放送への思いを込めて。

砂嵐の日まで19日

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先週あたりから、ついにアナログテレビの画面内に(☆1)「このテレビはまもなく映らなくなります」というメッセージがはいるようになった。画面の左下に、結構おっきく出るので、もともとの画面にスーパーがはいってるときは、すごく見づらい。 DPA(☆2)にいるの友人の話では、これはもともとの計画どおりのことで、アナログ放送終了にむけて、どんどんエスカレートしていくように決まっていたということなのだ。 でも、これは東日本大震災の前に決めていたことでしょう。日本全体が、なかなか進まない復興に苦しんでいているこの時にこれかねー。被災地や全国各地(☆3)で、アナログテレビしか持っていなく人もまだ多いなかで「このテレビは映らなくなります」って、ちょっと、メッセージの出し方がきつすぎませんでしょうか。

クレイジーな時間

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私のiPhone4が「クレイジーな時間」を表示しています。いま、9時25分なのですが、文字盤はこんな感じ。なんか変ですけど、これが良いんですよ。フランク・ミュラーのトータリー・クレイジーの文字盤なのですから。時針がとびとびに飛ぶんです。 もしこれが、トノウ・カーヴェックスの本物ならば435万円です。それが、iPhoneアプリでは無料。嬉しいなー。 「時間」というものは不思議。川の流れのように存在するようでありながら、それがどこを流れているのか分からない。「時間」というものが流れているところを見たものは、誰もいない。時計の文字盤を見れば、確かにそこには秒針が回っています。けれどもそれは、ただそこを回っているだけなのかもしれない。時計の針が「時の流れ」を計測しているという証拠は無いのです。

乗ずるに如かず

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智慧ありといえども勢いに乗ずるに如かず 今、大学4年生や大学院2年生は、就職活動まっただ中だ。大変な逆風にみな苦労をしている。みなそれぞれに優秀な学生がなかなか「流れ」に乗りきれない。エントリーシートを書いては面接というサイクルが、だんだんルーティン化して、闘うエネルギーを枯渇させてしまう子も少なくない。 リーマンショックから立ち直らない日本経済を大震災が襲った。経済産業界すべてに不安要素が満ちている状況で、さらに年金制度の行き先不透明なことが、労働者の平均年齢を押し上げる。つまり会社の上のほうが目詰まりしているのだ。 本来ならば、企業は設備投資や新人の採用で将来に備えたいところ。しかし現状の雇用を維持することで手一杯。就職活動をする若者に、明るいきざしが見えないのは当然だろう。なにか、こうした雇用の流れに変化が起きないものだろうか。

世紀の奇人

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トマス・エドワード・ロレンス。この方も世紀の奇人のひとりと言われているようです。アインシュタイン同様、wikipediaにある「奇人コーナー」に分類されている。 ロレンスさんといえば、デビッド・リーン監督の名作映画「アラビアのロレンス」のモデルとなった方。私にとっては、スクリーン上の憧れの人。ロレンス役のピーター・オトゥールがかっこ良かったもの。ところでこの人、なんで「奇人」に分類されているのだろうか? 「アラビアのロレンス」を観ても、確かに十分に「変わった人」ではあります。そもそも映画の冒頭、ひとことのセリフも言わずにバイク事故で死んじゃう。変わった登場のしかただ。ただの中尉なのに、将校達が出入りするラウンジのビリヤード台にいたずら。「権力嫌い」の変な人ですね。マッチの火を指でつかんで消す。「無謀な行動家」なんですね。「イギリス人なのに砂漠が大好き」で、その理由も「清潔だから」という。「変わったユーモアのセンス」の持ち主なのですね。

私は変人

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いますよね。ちょっと「変な人」や「変わった」人たち。いますいます。そどこにでもいます。落ち着いて、じーっと見回してみると、まわりの人間が、どいつもこいつも、みんな「変人」に見えてきたりするし。 でも不思議です。自分のことを「変人」だと認識している人は少ないです。少ないというより、まず、ありえません。これはありえません。自分で「わたし変人です」と言う人、これまで一度も会ったことありまへん。誰でも自分自身のことは、きわめて「まとも」だと信じているのですよね? それはそうですよ。 誰かが仮に、自分のことを「私は変人です」と言ったとします。でも「変人」の発言とは「変な発言」でしょ。「変人」が、「私は変人です」と言ったというのは、「私は変人ではない」と言ったのに等しい。あるいは「私は変な変人です」と、二重に否定したことになる。つまりそのひとは「変人ではない」ということ。結論として彼は「とてもまともな人」ということになるである。なんかおかしいですか?

ゲームの未来をさがせ!

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セッティング中の水口哲也さん ゲーム界のスーパースターが、東京工科大学にやってきました。 学生や高校生のみんなが待っていたミスター・テツヤ・ミズグチ! 世界で活躍するゲーム・クリエイター水口哲也さんです。今日の「スペシャル・トークショー」は「未来のゲームはどこに向かうのか?」というタイトルで、これまで常にゲーム制作の第一線で活躍してきた水口さんが、これからのゲームについて語ってくださるものです。メディア学部でゲーム・プロデューシングを担当する三上浩司先生も、対談で参加しました。 実は、いままさに水口さんのプレゼンテーションが進行中! ますは、30年間のゲームの歴史をふりかえりつつ、ゲームというものが人間に与える力、影響力を考察しています。水口さんの代表作のひとつ「Rez」は、音楽とリズムがもつ根源的な力を、活用して、プレイヤーの感性に直接働きかけるものだったそうです。このゲームは、世界的なヒットとなりました。

強欲は合法だ

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(C) 2010 TWENTIETH CENTURY FOX ゴードン・ゲッコー。彼はかつて「強欲は良いことだ!( Greed is Good )」と叫び、金を儲けまくり金融界で暴れ回った。 世界中のトレーダーが、映画「ウォール街(1987)」に登場したこのカルト・キャラに強く共感した。ゲッコーの生き様は、その話し方からファッションまで、彼ら金融街の男達の手本となった。日本でも、ゲッコーの生まれ変わりみたいな有名人が出現した。 「皮肉なものだ」と、ゲッコー役のマイケル・ダグラスは言う。 ゲッコーとは、憎むべき悪役だったはず。主人公、バド・フォックス(チャーリー・シーン)親子を罠におとしいれ、金を儲ける。しかし映画を見た人は、なぜかこの悪玉キャラのほうに惹かれた。手段を選ばず敵を葬る。弱肉強食の世界を生き抜く守銭奴。「金と力」を信じて生きる彼こそが、現代のヒーローだった。

金魚池のベビーブーム

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こんなきれいな池で暮らすなんて幸せな金魚ですね。☆1 さてこの金魚池。この池の金魚の個体数は、この後どうなっていくのでしょうか?  この池の中で、金魚たちはエサを食べて生活していく。病気になるかもしれないし、ご主人がエサを忘れるかもしれない。猫に襲われるかもしれない。 でも逆に、子供を山ほど産むかもしれない。こうした変化は、どのようにしたら予想できるのか。その答えを出せる数式が「ロジスティック写像」です。金魚の個体数という「初期値」をもとに、つぎつぎとその後の値を決めて行くので、「方程式」ではなくて「写像」と呼ばれるそうです。

先義後利

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先日の出張の帰り道、京麩の老舗、半兵衛麩(はんべいふ)に寄りました。半兵衛麩は、日経新聞の「200年企業」でも取り上げられた長寿企業。元禄時代の創業から太平洋戦争の動乱を生き残った。五条界隈で異彩を放つ石造りの建物は、軽やかな京麩のイメージとは違い、質実剛健そのもの。 半兵衛麩の家訓は「先義後利( せんぎごり )」だそうです。正しい人の道を先にして利益は後にする。江戸期に「石門心学」をとなえた石田梅岩の影響だそうだ。商売を支えるのは、あくまで人間の信用、すなわち道徳であると教える。 半兵衛麩を守り続ける玉置家の主人。 先祖代々からの言い伝えを聞いて育ちます。 <「言う」に人( にんべん )が付いたら「信じる」になり、信じる者が横につくと「儲かる」になる。つまり「商売の基礎は"信者"」をつくること。 > いまや、大変な就職難の時代となり、大学では四年生の「就職力」が問われています。しかし「就職力」って一体なんなんだろう? まあ、いろいろとあるんですが、最近よく聞くのは、対人関係を築き、人との信頼関係を作る「人間力」です。ところがいまの「ゆとり世代」育ち学生には、これが一番の苦手らしい。 「ゆとり世代」というと、学力低下、目的意識の希薄化、モチベーション不足などと言われます。しかし、大学で実際の彼らと向き合う中では、そのような印象はありません。むしろ、若い彼らは、大人以上に勉強をしたがっており、自己改革意識や向上心を持っていると感じます。ましてや「ゆとり世代」が、他の世代よりも劣っているなどという事実はない。 私は「ゆとり教育」に問題があるとすれば、「道徳教育」の位置づけにあるのではないかと感じています。 半兵衛麩で家訓となっているのは「先義後利」でしたが、「ゆとり教育」では、それが全く逆の「先利後義」になってしまっているような気がするのです。 授業時間を減らした結果、授業内容は受験戦争の「実利優先」となる。しかし、その結果「人間として何を大切にすべきなのか」「友人関係をどう築くか」など考える時間が減ったのかもしれません。 半兵衛麩では、お買い物をするお客様に、お買い物をする前にまず、写真のような、美味しい「麩入り」のお茶を出してくれるんですよ。さらに、WEBでは、 京麩を使った料理のレシピを親切に紹介してい

竹下通りは永遠に

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千年の古都、京都の街並み。いつまでも変わらない美しさ。 しかし実際には、京都だって、常に変わっている。京都駅前に水族館が出来るのはいいとして、木屋町通りなどにも、風俗店やパチンコ店も台頭。河原町も行くたびに、店の並びが変わっている。 東京に目を向ければ、渋谷だって同じことだ。いつの間にか、大盛堂や旭屋書店も消えて、マンガとフィギュアの街になってしまった。大人の町から子供の町に変わってきた。飲食店のメニューラインナップも、低年齢化している。 こうした「街の変貌」というのは、どのようにして起きるのだろうか。その街に訪れる人、年齢層というのは、どのようにして変わっていくのだろうか。 鴨長明の名随筆「方丈記」の冒頭に、当時の京都の移り変わりを描いたくだりがあるので紹介します。 <玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。 或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。> 世代交代や、各家の興亡によって、世の中は変わっていく。それにつれて、街並みも人も変化する。この世には、何ひとつとして変わらぬものはないんだよ。 先日、久しぶりに原宿の「竹下通り」を覗いてみました。先日、 レイグループ の30周年記念展示会の際にちょっと。日本のティーンにとって、アビーロードよりも有名な「竹下通り」。ギャルのファッションストリート、健在でした。。 そこでちょっと考えてみました。 30年後、「竹下通り」はどうなっているのでしょうか。いま、ここにいる子たちは、ここでこのまま年をとって、おばあちゃんになってもここで買い物をするのか。それとも、いずれ巣鴨の「地蔵通り商店街」(☆1)に移動して、そこを新たなる活動の場とするのだろうか。ちょっと不謹慎ですが、社会学的な興味がわいてきました。この答えを知っている人はいるかしら。 どっちだろう? - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 営巣地 巣鴨に替えるや ギャルカモメ - - - - - - - - - - - - ギャル通り 30年経ったら 巣鴨かな - - - - - - - - 

兼好先生のビジネス書

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700年も前に書かれた「徒然草」を読み返してみました。自分が年をとったせいか、吉田兼好さんとの距離が年々近くなってきた気がするんです。 「徒然草」。現代のビジネス啓蒙書と考えても何の違和感もないなー。宮仕えのサラリーマンの悲哀とか、出世にからんだ男の嫉妬とか、男女問題とか、死生観とか。今も昔も変わらないんですな。ふむふむ。 昨日も、はっとさせられる話を見つけました。 こういうこと言われると、ほんとドキドキします。なんか、お祖父ちゃんに叱られているような、気がしてくるよ。 徒然草・第188段より <あるひとが、我が子を法師にした上で、「学問して因果応報の原理を習い、説教で生計を立てるように」と言ったので、親の言いつけどおり説教師になるために、まず乗馬を習った。(馬で招待された時のため)その次には法事のあとで酒などを進められたとき、芸がないのは興ざめなので、早歌を習った。やがて早歌も玄人の域に近づいた。しかし、その間、説教を勉強するはずの時間もないまま、ついに年を取ってしまった。 若い間は、あらゆる分野に関して一人前になる、その道で大成し、また芸能も習得し学問もしようなどと、遠大な計画を心に抱いているものだ。ところが、その一方で自分の人生は先が長いと、のんきに考え、なすべきことを怠り、目の前の雑事にばかり気を取られて月日を送ってしまう。だから何一つ達成できたもののないまま、年老いてしまう。> うわー。 僕なんかもう、52歳ですよ。文字通り「年老いて」しまってるではないか。ガーン。若い時にどころか、いやもう、手遅れってことかー。毎日余計なことや雑用にとりまぎれているうちに時間ばかりが過ぎていく。兼好先生の、言うとおりのパターンだわ、こりゃ。 そう言えば、巨匠ハワード・ホースも言っていたな。「すぐやれ。自分でやれ。徹底的にやれ」って。 いやもう、わかりました。わかりました。すぐやりましょう。残り少ない人生ですからね。若いひとたちとは違いますからね。彼らには時間はたっぷり。こっちはあとがない。いくぜー、やる気じじいで。そのへんの大学生には、負けられまへん。

あの彼は君ではないのか

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昨夜は、共同印刷で偉くなった友人と遅くまで飲んでいました。ネットで話題になってしまった「茗荷谷の印刷所出火」ですが、それほど大事に至らず良かったです。怪我をされた方にお見舞いを申し上げます。印刷業界では震災以降、インクや上が不足したり受注が減ったり大変ですが、これに負けずに頑張っていただきたいところです。 しかし、集英社が少年ジャンプを一週分、ネットでの無料ダウンロードにしたという話にはびっくりしました。一週たりとも遅らせることなく、被災地の読者に届けようという集英社の心意気を感じる話ですね。でもこれで、ダウンロードビジネスへの展開が早まるなんてことはないのでしょうか。NHKが地震発生後に一時期、番組をUSTREAM 配信した話に似ていますね。 ところで昨日まで、鴨長明の『方丈記』について書いてみました。そのテーマとして考えたのが「無常観」。特に、デビッド・ボウイにも登場いただいき、西洋と東洋の「無常観」のちがいなども考えました。そもそも西洋の考え方に「無常観」というものはあるのだろうか。 そこで書庫(というほどでもないけど)より一冊の本を取り出しました。ちくま学芸文庫『わが世界観』という本です。著者は、エルヴィン・シュレーディンガーというノーベル賞も受賞した物理学者。いまはなぜか「シュレーディンガーの猫」のほうが有名のようです。難解な本です。はっきり言ってかなり背伸びして読んで(ページをめくって)います。(汗) なぜシュレーディンガーか。彼は西洋の物理科学者の代表格なのですが、独自の東洋的宗教観を持っていたことで有名だからです。晩年はウパニシャッド哲学なども研究していたそうですよ。 この天才が、この世を去る一年前に、残した『わが世界観』が、面白くないわけがない。早速、一部読んでみたいと思います。まず「自分という存在」について。 「かくも突然に無から君を呼び覚まし、君になんの関係もないこの光景を、ほんのしばらくの間君に楽しむようにさせたものは、いったいなんなのだろうか。<中略> おそらく百年もまえに誰かがこの場所に座り、君と同様に敬虔な、そしてもの悲しい気持ちを心に秘めて、暮れなずむ万年雪の山頂を眺めていたことだろう。<中略>はたして彼は、君とは違う誰か他の者であったのだろうか。彼は君自身、すなわち君の自我ではなかったのか。君のその自我と

鴨長明は警告する

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枕草子とならび、日本最古の「ブログ(随筆)」などとして有名な『方丈記』。しかしこの『方丈記』をいま手にとって読んだら、その内容に誰もがびっくりすることだろう。(僕もまじめに読んだのは高校の「古文」以来です。「古文」大きらいだったし... ) だって『方丈記』の記述は多くは、火事や竜巻、そして巨大地震といった「大災害」に関するものなのだから。 鴨長明が体験した大災害として『方丈記』に書かれた災害を列記します。体験の年代順で『方丈記』での登場順ではありません。(カッコ内は、災害発生の西暦と長明の年齢) 1:安元の大火 [1177年/23歳] 2:治承の辻風(竜巻)[1180年/26歳] 3:福原遷都 [1180/26歳] 4:養和の飢饉 [1184年/31歳] 5:元暦の大地震 [1184年/31歳] [3]の「福原遷都」(治承四年)が、天災のように描かれているのが面白い。実際には「平氏政権の大失策」という「人災」だ。長明は、成り上がり貴族の平家が大嫌いで、この歴史的大失敗の遷都を徹底的に批判。実際に福原まで出向いて、その地形や経済面の不備に言及し、平家の失策を手厳しく論評している。平家の威光にすがろうと必死でしがみつく小役人もこきおろす。 災害の中で最も悲惨だったのは、[4]の「飢饉」だったという。一気に迫り来る火災などと違い、飢饉は2年も3年も続いて人が死に続けるために、その姿も苦しみもが凄惨なのだという。そして、この飢饉も、一見「天災」のようでありながら、流通経済にも起因する「都市型災害」であり「人災」でもある。 さて前回の続きです。☆1 前回は『方丈記』の出だしが、デビッド・ボウイの『チェンジズ』に通じるという話を書いた。でも、デビッド・ボウイと鴨長明では、その世界観はまるで逆だと思う。みなさんはどう思われますか? デビッド・ボウイが見る「河の流れ」とは、永遠の営みを続ける宇宙を舞台に、人間は常に変革を続けるのだというメッセージ。特に「古い世代」は「新しい世代」によって取り代わられるものだよと、オトナ社会へのプロテストでもある。そしてまた、自己変革、世代の変革。そういう前向きなメッセージなんだと思う。 < David Bowie "CHANGES" Lylics > それに対して、鴨長明が「河の

あぶくのような人生

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行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。 鴨長明「方丈記」より ☆1 iPhoneをいじっていて面白いのが「i文庫」です。とにかく著作権の切れてしまった文学作品をかたっぱしから並べてある。ある日、通勤時間のつれづれに「i文庫版・方丈記(鴨長明)」を読んでみたんです。そうか、でもこれをタダで読んでいいの? なんだか、悪いことをしているような気分なんだけど。 一体どこの誰が、これらのデータを入力してくれているのかしら。 ところで、この冒頭のくだりなんですが、どこかで聞いた感じがしませんか? 下のデビッド・ボウイの「チェンジズ」の2コーラス目の歌詞に似ていますでしょう。そんなこと言われて「あっ、なるほど」なんて言う人は相当なボウイ・フリークですけどね。いや、それは相当なオタクと言わざるを得ない。実は僕、このことには、ずーっと前から気づいていて、いつかブログに書こうと思っていたんです。 I watch the ripples change their size But never leave the stream Of warm impermanence So the days float through my eyes But still the days seem the same David Bowie [ Changes ] ☆2 デビッド・ボウイと鴨長明が同じことを考えていたなんて、ちょっと格好いい発見じゃないですか。洋の東西、800年もの時を超えて、このふたりが通じ合う。「川面に浮かぶあぶくのような人生」について歌う二人の詩人。 それが最近、「方丈記」を文庫で通して読んでみて、改めて考えました。といっても、原文ではなく、武田友宏先生による、角川ビギナーズ・クラシックスのシリーズにある、現代文訳です。( i文庫の原文でも理解できるのだけれども、やはり現代文の翻訳はありがたい。実に分かりやすいです。)この二人の考え方は、実はまるで逆だったのだと。 鴨長明とデビッド・ボウイは、非常に似た言葉を残したんだけど、実は考え方の根本はまるで違っていた。その違いについては、明日また改めて書こうと思いますが、まあ、ひとことで言えば、こういうこと。デビッド・ボウイ

オリーブの樹

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ガーデニングに詳しい友人が、遊びに来てくれたので、聞いてみた。「庭にオリーブの樹を植えたいんだけど。どうしたらいい?」 すると彼は、オリーブの樹は、2本以上一緒に植えなければだめなんだよ、と教えてくれた。 雄の樹と雌の樹があるわけではないのだけれども、オリーブは1本だけではだめなんだって。なぜか? オリーブは自家受粉しないために、DNAの違う別の樹がなければ、交配して種子を残すことができない。オリーブの実のならない、オリーブなんか育てていてもつまらないし、可哀想だということ。 そうか。オリーブの樹って、ホームセンターで見ると、1本でも結構高価なんですけどね。2本一緒に買うとなるとまた、庭にオリーブの樹を植えるという夢が遠くなる。 ついでに彼はこんなことも教えてくれました。オーストラリアには、山火事にならないと子孫を残せない「パンクシア」という樹があるのだそうだ。通常時は、ちょっとやそっとでは割れない実をつけている。山火事があって、その実がはじけるんだって。だから、友人いわく、人間が山火事を消してしまうと、その樹の種は繁殖できなくなる。 不思議な植物もあるものですね。 人間のやっていることも不思議といえば不思議だ。この世に生まれてきて、成長して、一人前となり、結局は子孫を残すことが、ひとりの人間としての仕事だ。だからみな、子孫を残すための相手探しに大変なエネルギーを注ぎ込んでいる。 ファッションも、メイクも、食事を選ぶのも、お酒を飲むのも、お金をかせぐのも、すべては、要するにこの人間としての最終目的、つまり配偶者選びのための所業かもしれない。極論すれば、人間社会における、商品経済も、生産活動も流通活動も、この目的のためにつぎ込まれる。 受験戦争をくぐりぬけて、大学での勉強。その勉強だって、最終的には、よい仕事について、よい家庭を築いて、よい子孫を残すのが目的なのではないか。つまりは、良い配偶者にめぐまれて良い子孫を残すこと。本質的には、すぐれたDNAを残すために、自然界の掟に従って人生の全精力をつぎ込んでいる。シェークスピア先生によれば、こうした配偶者獲得の争いで、でかい戦争だって起こるらしい。 だったらと、僕は思う。 なにも、こうした人生の営みを通して、人間が苦しんだり、傷ついたり、戦ったりする必要はないんじゃないのか。み

本人の問題

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マルクス・アウレリウス帝(左) リドリー・スコットは、既存の傑作映画を上回るB面的映画を作る天才です。 「エイリアン」は「スター・ウォーズ」のホラー版で、「ブラック・ホーク・ダウン」は「プライベート・ライアン」の戦争ドキュメンタリー版。そして「グラディエイター」は「ベン・ハー」や「スパルタカス」のリアリズム追求版だと言える。 でもこんなこと書いて、リドリーのことを「B級映画監督」なんて勘違いされてはいけない。上記の三作品ともに、リドリー・スコット監督の作品は映画史に残る傑作ぞろい。ある意味で彼は、すでに存在する傑作作品の軌道を辿りながら、自分なりの完成形を模索しているのかも。すでに存在する傑作をものともせず、同ジャンルに攻め込む確信的な使命感と勇気。逆に言うと、巨匠だからこそ許される本格リメイクということか。 紹介した写真は、 「グラディエイター」 の冒頭、主人公マキシマスの戦功をたたえる皇帝マルクス・アウレリウス。「ハリー・ポッター」でのダンブルドア校長先生を演じた、リチャード・ハリスが演じている。リチャード・ハリス、良かったなあ。迫る老いと戦いながらも、後継者選びに苦悩し憔悴する賢帝を演じきっていた。リドリー・スコット監督いわく、賢人皇帝も年老いて、ついには「しょうがないクソ親父」になってしまった、みたいなテイストを狙っていたそうです。渋いキャラ設定ですね。 賢帝、マルクス・アウレリウスが残した言葉です。☆1 「私は祖父から、善良な行儀と激情の抑制とを学んだ。私の父の名誉と思い出からは、謙譲と男性的気品とを学んだ。私の母からは、敬虔と仁徳と、また単に悪い行いばかりでなく、悪い考えも忌むべきこと、尚また富者の習慣とは遠く異なった素朴な生活のしかたなどを学んだ。ルウスティカスからは、私自身の性格が矯正と修養とを要するという肝銘を受けた。 <中略> 万物が互いにいかに変化するかの理を諦観することを身につけよ。 ー これのできる人は身体のことに執着せず、やがて自ら人間界を去るべきことや、一切の事物をこの世に残さなねばならぬことを覚っておるので、彼は己れのあらゆる行為を正しくすることに全身全霊を打ち込み、その他のことに関しては己れ自身を宇宙の本性に任すのである。」☆2 いい言葉ですね。さすがローマの賢人皇帝。「自省録」という立派な本も残して

四惜

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江戸川の対岸に向かって街の灯を見つめる。明け方と同じように、ヒバリが鳴いている。夕方も、鳥たちにとってはおしゃべりの時間なんですね。今日の一日にあったことを、忙しく報告しているのかな。コウモリたちは、群れをなして羽虫を追いかけて食事に夢中。 街が静かに暗闇につつまれて、川面にいくつもの灯が映る。なんだって人間は、こんな風な都会を作ってしまったのだろうか。高層マンション、街灯で照らされた道路、走り続ける自動車、眠らないコンビニ、飲み屋、歓楽街。この静かな川の向こうには、変わらない都会の喧噪が一晩中続くのだろう。 こうした都会の生活を、当たり前のこととして享受してきた。そればかりか、これからもこうした都会の生活は、日本中から若者達を吸い寄せ、さらに巨大化していくことだろう。僕自身が、かつてこの都会の明かりに吸い寄せられてきた一人なのだが。 明の末期の学者、陸世儀(りくせいぎ)は、次のような言葉を残して、後代の人間生活を戒めている。安岡正篤先生は、著書「養心養生をたのしむ」の中でこれを「四惜」として紹介しています。 昼坐まさに陰を惜しむべし。 夜坐まさに灯をおしむべし。 言に遇わばまさに口を惜しむべし。 時に遇わばまさに心を惜しむべし。 この言葉について、安岡先生の言葉を借りて解説します。 昼は光陰(時間)を惜しめ。夜はせっかく灯火をつけたら、勉強をしなさい。灯火をつけっぱなしにして遊んでおってはいけない。自由にものを言うというのは人間の特徴であり、幸福であると同時に、これは非常な災いになる。くだらないことをだらだらと述べるのはやめて言葉をつつしむべきだ。重大な時に、心を乱用してはならない。非常な重大な時こそ、我々が心を養う、心を練るのに最も必要な時である。 大震災以来、灯火の摂生は僕たちの習慣となった。 くわえて、口も心も摂生していかなければならない。 この未曾有の危機を乗り越えるため、この文明と、都市生活の習慣に生きる僕たちは、心をこそ、節していかなければならないのかもしれない。もっと、自然とともにある生活に帰るためにも。

麦の穂をゆらす風

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Ken Loach [  Ozgurgerilla  ] ケン・ローチのことを、映画監督の中の映画監督と賞賛する人は多い。ある巨匠映画監督が「ケン・ローチのためならばアシスタントでも何でも、手伝いたい」というほどの尊敬を集める映画監督である。それなのに、実際にはケン・ローチの作品を知っている人は少ない。彼の作品が好きだという人も、あまり聞いたことがない。それはなぜかというと、彼のの映画がどれも「あまりに本当のことを描いている」からなのだと思う。 「麦の穂をゆらす風」は、アイルランド闘争に身を投じる戦士たちの、悲劇的な運命を描いたもの。僕たちの日常的な皮膚感覚を破壊するほど厳粛な映画だ。アイルランドの美しい自然を背景に、進行するストーリーはおそろしいほどに厳しく冷たい。観客への優しい配慮などありません。僕は、この映画「麦の穂をゆらす風」を認めて、日本配給を行ったシネカノンの李鳳宇(イ・ボンウ)さんに感謝しています。☆1 祖国を救うという理想に燃えて立ち上がった仲間が、イギリス軍との凄惨なゲリラ戦を通じて、闘いに倒れていく。幼なじみの友人を、裏切り者として処刑しなければならない。闘争の派閥抗争の中で、兄弟同士が戦わなければならない。一体自分たちは何のためにこのような闘いを続けなければならないのか。 この映画にこめられた、人間への厳しい問いかけ。 祖国とは何か?人間とは何か? 僕たちが見慣れてきた映画とは、だいぶ違いますね。だいたい僕が好きな映画とは、手に汗握る誇大妄想的スペクタル。テーマパークで遊ぶように楽しむアクション活劇。うだつのあがらない主人公が、苦心の果てに仲間に助けられて活躍する冒険談。信じられないような美女と出会うラブ・ストーリー。笑えて泣けて、最後には予定調和のハッピーエンド映画。映画館をおとずれる観客は「現実を忘れるような楽しさ」を求めている。だから映画というものは、やはりこうあって当然ですよね。 何気ない生活の中の笑いやユーモア。どこにでもいるような人間への優しく細やかなまなざし。こうしたものも、ケン・ローチ作品の特徴です。しかし、結局は主人公たちはみな、どうしようもない問題をかかえていくだけ。最後まで家族を助けることができないアルコール中毒男(アイ・アム・ジョー)。仲間を見捨ててまで、自分たちの保身をはかる鉄道労働者た

本当のことは歌えない

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「アイルランドに平和を」という曲をご存知ですか?ポール・マッカートニー&ウィングスが1972年に発表したシングルです。当時の日本のヒット・チャートでも一位となりましたが、あっと言う間にBBCや各メディアで「放送禁止」となってしまいました。 実にポールらしい、美しいメロディとポップなサウンドの楽しげな曲。当時は無邪気な中学生だった僕は、「なんで放送禁止なの?」って不思議に思ったものだ。その後いつの間にかレコードでも聴けなくなって、iTunesで検索しても見当たらないので、もう二度と聴けないのかと残念に思っていた。 ところが先日、NHK時代の旧友から、ポール・マッカートニー・コレクションシリーズ」のCD『ワイルド・ライフ』に、ボーナストラックとして収録されている! ということを教えてもらい、無事に「20年ぶりくらいの再会」をはたしました。うれしかったー!そして感動。 このヒット曲について、皮肉屋のジョンは「歌詞が幼過ぎる」とコメントしたそうだが、いやいや、本当はその「幼さとシンプルさ」こそ素晴らしい。ジョンだって本当は、分かっていてコメントしたのに違いない。 血の日曜日という悲惨な事件を知って衝撃を受けたポールの渾身の作品。特にメロディーと歌詞が一体となって盛り上がっていくところがすごい。シンプルで幼い歌詞だからからこそ、ポールの本当の真心を感じることが出来る。感動的なプロテストソングだ。 僕たちが出来ることは、シンプルな心で純真に歌うしかないんじゃないのかな。本当に本当のことを。忌野清志郎さんがもし生きていてくれたら、いまどんな歌を作ってくれただろうか。ぜひストレートでワイルドな歌詞で歌ってほしかったな。

チェンジズ

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3月11日以来、このブログはほったらかしでした。 年度末の仕事や、映像制作のために忙しかったのだ。でも、忙しかったというよりも、なにも書きようがなかったというのが正直なところだな。茂木健一郎さんが書いているけど、 脳回路の輪番停電 になってしまったようだった。世界はすっかり変わってしまい、僕たちの生活のありようを変えてしまい、言葉の価値までが変わってしまった。もう、二度とかつてのような価値観で、ものを考えることはできない。 僕たちの世界はすべてが変わってしまった。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - チェンジズ ( デビッド・ボウイ )☆1 川に浮かあぶくはたえず変化していく だけどけして流れを離れることは無い 永遠ではないこの世界は僕の視界から こぼれ落ちるけど日々はいつも同じさ <中略> もうすぐ僕たちは年をとっていくのさ 時の流れは僕たちをみな変えてしまう でも時を遡ることなんかできないのさ (無理矢理訳したので間違ってたらごめん) - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 自然界に生きる人間としてのありようには変わりがない。でも、もう一度考え、すべてを問い直すときが来たのかもね。 たった40年間という短い時間に、僕たちが享受した、ひとときの経済的繁栄。でも、そのつけは甚大。放射性物質はこれから100年もの間、僕たちの子供たちの頭上に降り注ぐ。その罪をつぐない日本の自然をもとに戻すために、時を遡ることはできない。 雄大な時間という川の流れは変わらないけれども、僕たちというあぶくは形を変えつつ進むしかない。いつかもうひとつの別の答えを見つけるまで。チェンジしなければ。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1: Changes ( David Bowie ) I watch the ripples change their size But never leave the stream Of warm impermanence So the days float through my eyes But sti

何をあくせく

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チューインガムも携帯電話も、僕たちの生活のよき「暇つぶし」なのね。 ガムをくちゃくちゃやりながら、鼻歌まじりに携帯をいじる。おっと、お友達からフェースブックだ。コメントしなくちゃね。あいつ、いまフィレンツェにいるんだ。ちょい、くやしいけど、 イタリアから写真が見れるなんて(こんな風) 、超たのしー。 ガムも携帯も、そんな感じで気楽に遊んでいる時が一番ですね。 それがまあ、なんだって? 一台の携帯電話で、日本中の大学入試関係者が色めき立つことに。メディアもこぞって大騒ぎですね。入試会場の机の下で、左手片手だけで問題を入力できるなんて、知らなかったな。これはこれで、たいした能力だし、たいした技量ですよね。しかし、それにしても、大学入試というものは、受験生当事者にとっては、それだけ大変な負担だということですよね。 17歳から18歳ころというのは、人生で一番楽しい時期のはずだ。恋愛とは何か。人生とは何か。時間を忘れて議論したり、わけのわからない悩みにぶつかったり。親に反抗してみたり、先生に食ってかかったり。情熱をかたむけて、自分の人生と向き合う大切な時間だろう。 しかし、その時期に立ち向かわなければならないのが、大学受験。おちおち人生についてなんか考えていられないんだ、今の若者は。今回の高校生のように、大学受験のために、すべてのエネルギーを使い果たしてしまい、大学に入学したときには、惰性のような人生のスタート地点に立たされている。終わったのは、学歴社会という選別作業だけ。人生の大事な問題は、どこかに置き忘れたまま。 石火光中、長を争い短を競う。いくばくの光陰ぞ。 蝸牛角上、雌を較べ雄を論ず。誇大の世界ぞ。☆1 僕たちの人生なんていうものは、宇宙の悠久の時にくらべれば、石と石がぶつかって火花が飛ぶ、そんな瞬間にすぎないのですよ。そんなものなのに、長い短いを争っても意味がないでしょう。 僕たちの住んでいる世界などというものは、この宇宙全体にくらべれば、カタツムリの角の上のようなものですよ。そんな狭い世界で、勝った負けたと騒いでみてもなんになりましょうか。 さあて、大学受験に就職活動。めんどくさい勝負事は、ちょっと置いておいて、ガムでもほおばりながら、考えてみましょうよ。ぼんやりと。人生について。携帯電話を使って、親や友達とお話ししましょうよ。

チューインガム

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電車の中で、すごいガムの広告を見ました。 噛んでいるうちに、味が二種類に変わる革新的なガムです。最近タバコが大幅値上げになってからというもの、ガムの売れ行きは好調らしい。その新たな市場をめがけて、さまざまな新製品が投入されているんでしょう。 ところで、チューインガムというものは、そもそもなんのためにあるの?駅のホームでひとり待つ電車。意味もなく延々と続く会議。オフィスで襲われる耐えられないほどの眠気。こういう状況時、ポンっと口に放り込むためにあるのだよ。気分転換。気分転換。 しかし、こうした「気分転換」の主役は、いまやチューインガムではない。それは、携帯電話やスマホなのだ。気分を変えられるだけじゃなくて、一見仕事などしている風に見えるところが、また都合がいいよね。実際には、仕事と関係ないメールを見たりしてんだけどね。最近は「会議中に書いたなこれっ」みたいなツィートも多い。いまの若者は、机の下でブラインド・タッチしちゃうんだし。 さてこの際、改めて考えてみよう。ガムのような嗜好品というものは、人類にとってなぜ必要だったのだろうか?チューインガムが発明されなかったとしても、現在の文明社会が無かったということでもなかろう。だったら、なぜこんなものを作ったり、売ったりするんだろうか。 一方の携帯電話やスマホだってそうだよ。みな一日中いじっている割には、たいして生産的な仕事をしてそうにも見えない。暇つぶしのほうがメイン機能のような気もする。 そうか。ガムも携帯も、要するに暇つぶしの道具。ひるがえって見れば、僕たちの人生って、大半が暇つぶしの時間だっていうことなのかな? まあいいでしょうよ、それで。ガムを噛んでいる間、その時間が楽しければいいんだからさ。そうそう。僕たちが地上を去ってから、10万年もすれば、僕たちのやった業績なんて、どうせ誰も覚えてくれてなんかいないんだから。 あの方も、こう言っておられます。 人生において重要なのは生きることであって、生きた結果ではない ゲーテ

ポスト社会

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それではなぜ、企業内では「組織の階層」がへらないのだろうか? 階層がへれば、それだけ部署の数もへってしまう。部署がへれば、その部署のボスとなるポスト長のポジションもなくなってしまう。ポストがなくなれば、肩書きもなくなってしまう。「俺は部長だ」とか「俺は課長だ」などと威張ることができなくなるのだ。 巨大な組織には、それだけ膨大な数のポストが存在するんです。上級の社員が増えすぎると、彼らを処遇するだけのポストも足りなくなるので、わざわざ「肩書きのため」のようなポスト(失礼!)を作ったりもする。担当部長とか、課長代理とか、これってなんなんだろう?っていう肩書きがあります。こういう肩書きの人って、ちょっと気の毒な気がしますね。 ところで、こうした「ポスト長」って、結局は何をしているのでしょうか。ドラッカー先生は、彼ら「トップに立つ人間」の役割は、いまや、採用や解雇、効果、昇進などの人事関係のみが彼らの仕事であると述べている。つまり、仕事を遂行する上では、対して意味の無い存在だということなのです。 特に、情報やテクノロジーを扱う、現代の企業組織においては、上司が部下の仕事内容を把握することは無理なのだ。知識労働者を部下に持つ上司は、部下の仕事を代わりにやることはできない。オーケストラの指揮者が、チューバを演奏できないのと同じように。上司は、部下の仕事を管理するだけなのだ。ドラッカー氏が例示する、以下のようなチーム型の組織では、こうした形式的な上司は必要無い。 「その一例が心臓バイパス手術のための十数人からなる手術チームである。心臓バイパス手術には、主任外科医がいる。二人の補助外科医がいる。麻酔医がいる。手術前の患者の面倒を見る二、三人の看護婦がいる。手術を補佐する三人の看護婦がいる。手術後の面倒を見る二、三人の看護婦とレジデント医がいる。肺機能をみる呼吸器機の技師がいる。三、四人の電気技師がいる」 「彼らのいずれもが、それぞれ自分が担当する仕事だけをする。 <中略> しかし、彼らはみな、チームの一員であることを自覚している。 <中略> チームのなかでは、誰にも命令されることなく、手術の流れ、進行、リズムに従って、自らの仕事を自らの判断で変えて行く。」(☆1) テレビ放送局内の番組制作チームも、これとよく似ている。ディレクター、プロデューサーから始ま

ピラミッド社会

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なぜ、軍隊のような組織には、何層にも重なるタテ構造の階層が必要なのでしょうか。巨大な集団を、ひとつの目的に向かって動かすためですよね。何千人もの大集団全体に、ある命令を伝達するには、大きな集団から小さな集団へと、段階を経て伝えなければならないのです。 ピラミッド社会の上意下達というもの。社長の意識は局長へ伝えられる。そして局長から部長へ。部長から課長へ。課長から係長へ。最後に係長から平社員へと、最下層まで伝わる。でも、これはあくまで平常時のことです。会社だって、倒産しそうな瀬戸際に、のんびりと意思伝達をやってるわけにはいかない。そういうときは、全社員集会なんかをやって一気に伝える。 ここで再び、故ピーター・F・ドラッカー先生の著書、「明日を支配するもの」を紹介します。この本の冒頭に、現代における組織体のマネジメントは間違っている、という論文があります。その章にいわく、 組織体のあるべき条件とは、以下の5項目にまとめられる。 1: 組織は透明でなければならない。 2: 最終的な決定権を持つものがいなければならない。 3: 権限には責任がともなわなければならない。 4: 誰にとっても,上司はひとりでなければならない。 5: 階層は少なくしなければならない。 ドラッカー先生は続ける。 軍隊も企業も、現代社会における組織は、組織体として、あるべき条件を満たしていない。特に、5番目の「出来るだけ階層を少なく」という条件は、なかなか満たされない。情報理論から言えば、情報伝達の階層が多くなればなるほど、情報にはノイズがより多く含まれるようになる。つまり、意思伝達が不正確となる。だから、組織の階層は少ない方がよい。なのに、そうはならない。 実は、組織体の階層が簡素化されないのは、よっぽどの理由があるんです。 次回は、その理由について書いてみたいと思います。