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Showing posts from 2010

リアル落語家

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とつぜん終わらないでくださいね さびしい。 立川談四楼師匠の連載がとつぜん終わっちゃった。日経新聞の月曜夕刊の「プロムナード」のシリーズ。このところ毎回楽しみにしていたのに。 12月24日のクリスマスイブに掲載されていた「サンタクロース現る」の回を、いつものようにニタニタしながら読んでいて、最後まできてびっくり。文章のおしまいでひとこと。「私の最終回です。いずれまたどこかで」って。 さすがは落語家。話は最後に軽くまとめまるんですね。「おあとがよろしいようで」とか言ってさっと消えてしまう。まあ、せっかくの「落ち」のインパクトを消さないようにという配慮。目立たないように消えさせていただきます、という謙虚さ。これが噺家さんの身上なのでしょう。 ところで、この回の「プロムナード」には何が書いてあったのか?それは、ネタばれになっちゃうからそのまま書いてはいけないよね。でもちょっとだけ書かせてください。「サンタクロース現る」の回のサンタクロースとは、ある熱烈な落語ファンのことなのです。豪華なポチ袋を置いて姿を消してしまった、いまどき珍しい粋なお客様のこと。 今でも落語には熱烈なファンが多いのだ。談四楼師匠によれば、地方にいけばいくほど、公演を心から楽しみにしている方々が多いそうだ。そして首都圏でもなんと一日平均で20カ所で落語会が催されているとのこと。(4軒の寄席をのぞいて)こうした会場には、「落語のうるさがた」を自認するファンもやってくる。 こうした、うるさいお客を前に、芸を披露する落語というものは、演じる者にとっては本当に「おそろしい」ものらしい。亡くなった昭和の名人、古今亭志ん生師匠も桂枝雀師匠も、高座に出るときには相当プレッシャーを感じていらしたようだ。しかしそのプレッシャーを跳ね返すように、芸のパワーが高座に炸裂する。それが名演となるのだって。噺家というのは、本当に大変な仕事なのだと思う。毎日毎日はまさに、お客の目に芸がさらされる、本番と修行の連続。 人気漫才グループ爆笑問題。最近はテレビなども忙しく生の舞台に出ることが少なくなり、ホール公演も映像中継でやってしまう。しかしプロデューサーで社長の、太田光代(太田光さんの奥様)さんは、爆笑問題の芸の「きっさき」が鈍らないようにと、年に一度は必ず生のステージを組むそうだ。生のお客さんの前

追いつめてはいけない

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太平記絵巻 赤坂合戦 孫子の第八は「九変篇」だ。 以前このブログでも紹介した「火攻篇」よりもだいぶ前に位置している。攻撃に際して避けるべき九つの変法と、利益を守るべき五つの変則があると述べている。そのうちの九つの変法というのを、以下簡単に紹介しますね。 1:高地に陣取った敵を攻撃してはならぬ。敵は勢いを得て味方は労する。 2:丘を背にした敵を正面攻撃してはならぬ。 3:わざと逃げる敵を深追いしてはならぬ。敵になにか計略がある。 4:精鋭な敵を、まともに攻めてはならぬ。 5:おとりの敵兵にとびついてはならぬ。 6:帰ろうとする敵兵にとびついてはならぬ。 7:敵を包囲するときには、完全包囲してはならぬ。 8:追いつめられた敵にうかうかと近づくな。 9:本国から隔絶した敵地に長くとどまるな。 どれも、兵を率いる将の心得として重要なこと。この「九変篇」に述べられている法のうち、特に注目をひくのが、7番目の、敵を包囲するときには完全包囲してはならぬ、という教えです。原文では「囲師勿周 ( 囲地は周するなかれ )」という表現になります。 こちらが攻めている敵を包囲するときは、完全に出口をなくすのではなく、どこかに逃げ道を残しておくこと。通常の感覚だと、敵を全滅させてしまうためには、それを完全包囲して殲滅したくなるでしょう。こっちだって怖いしね。だけど孫子は、はりきりすぎてこちらの損害も多くては、仮に戦いに勝ったとしても意味が無いと教えています。 完全に包囲されてしまった敵は、死にものぐるいで抵抗してくる。それだけに、攻めて優位に立っている味方も、思わぬ損害を被る可能性がある。また、戦いというものは、要するに「勝ち」を決めれば良いのだ。逃げ道を見せれば、敵兵は逃げ道に殺到する。それで勝ちが決まればそれでいいのだ。 天正五年十月、別所長治を三木城に攻めた豊臣秀吉は、このことをよく心得ていました。秀吉勢が外まわりの塀をうちやぶって攻めこみかけたとき、城内からは笠がさし出された。(これは降参の合図です)秀吉側の寄手の兵は、これを許さず、あくまで全滅作戦を続けようとしました。 すると秀吉は、「そうはいわぬものだ。戦さは、六、七分勝てば十分なのだ。降参人を討ち取ったりすれば、敵は必死になる。相手に逃げ道を見せて、早く勝利を得るのがよい」と

ライバルと戦え

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大鵬も柏戸がいたからこそ 日本ハム・斎藤佑樹投手の経済効果がすごい。 地元札幌での観客動員数増は当然のこと。さらになんと、キャンプ予定地である名護市のホテルが、すでに女性客の予約で埋まりつつある。ファームの練習場である 千葉県の鎌ケ谷スタジアム までが、チケット予約殺到。 斎藤投手。彼の強みは、その甘いマスクだけではない。田中大将君という好敵手がいることだ。ライバルとして、ドラマチックな戦いの予感を盛り上げる。ふたりの戦いはどうなるのか?プロ野球ファンならずとも目が離せない。斎藤投手のような、スターアスリート登場のかげには、常にライバル同士の死闘がある。相撲界の大鵬と柏戸。巨人軍の王と長島。フィギュア・スケートの浅田真央とキム・ヨナ。 あのビートルズが偉大になったのも、ジョン・レノンとポール・マッカートニーという、強力なライバルが争って作曲したから。デビュー当時のふたりは、大の親友であり、いつも互いを支え合う良きパートナーだった。だがしかし、いつかビートルズは巨大な存在となり、グループに対するプレッシャーが大きくなるにつれて、ふたりの関係は劇的に変わっていく。 一発アイデアマンであり、飽きっぽい性格のジョンよりも、音楽の職人で、粘り強いタイプのポールのほうが、グループの音楽をひっぱっていくリーダーとしてはふさわしかった。だからジョンは、次第にそのリーダーシップをポールに譲るようになる。しかしジョンは、そのことを受け入れていながらも、ビートルズが、甘く優美なポール楽曲に独占されていくのを、快くは思っていなかった。 その不満は、ヨーコという援軍を得て、ジョンのリベンジの形となった。ホワイトアルバムのレコーディングの途中で、突然あらわれたヨーコは、ジョンの理解者でもあり代弁者でもあったのだろう。スタジオにベッドを持ち込んで居座るという、なかば「前衛アート」のようなパフォーマンスは、実はジョン・レノン自身のストライキだったのかもしれない。 ジョンの先鋭的楽曲は、さらにその度合いをエスカレートしていく。次第に攻撃的で気まぐれで、理解不能となるジョンの作品。ポールは、露骨に不快感を表していたようだ。ホワイトアルバムの実験作「レヴォリューション・No9」や、アビーロードA面最後の「アイ・ウォント・ユー」後半のエンドレスリフレインなどがそうだ。僕も、

怒ってはいけない

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大阪夏の陣屏風から 孫子の第十二は「火攻篇」だ。 孫子の内容は、後半になってくると、どんどん具体的になってくる。敵をどういう場所でどのようにして攻めるべきかを語る、まさに「兵法書」の面目を表す。この「火攻篇」でも、その前半にあたる第一節では、火を使って相手を攻める場合の心得を、その目的や条件などについて細かく教えている。 ところが、同じ「火攻篇」の後半にあたる、第二節になると、突然にその内容が変わる。戦争の手法ではなく、将たるものの心得についての記述となるのだ。その教えとは「将たるもの感情で動いてはならない」という教えだ。(この第一節と第二節の間のつながりは、後代の編集の誤りと解釈されている)いわゆる豪傑ほど、激して大勢を見誤ることが多い。孫子はその点を厳しく戒めている。 村山孚先生らの翻訳による、孫子「火攻篇」の一説を紹介する。 一体、戦争には勝って何かを得るという目的があるのだ。いくらよく戦ったとしても、かんじんな目的を遂げなければ、むしろ悪である。こういうのを「費留」(骨折り損のくたびれ儲け)という。<中略>不利であれば行動を開始せず、何か得るところがなければ兵を用いず、やむを得ないときでなければ戦わない。これが根本である。 <中略>君主たるものは、怒りによって兵を起こしてはならぬ。将たるものは憤りによって戦いを交えてはならぬ。一時の感情ではなく、「利に合えば動き、利に合わなければ止む」という冷静な判断が必要である。怒りは時がたてば喜びに変わることもあろうし、憤りは時がたてば嬉しさに転ずることもあろう。感情はこのように元にもどることができる。しかし感情によって兵を起した結果、国が滅びてしまえば、それでおしまい。死んだものは生き返らせることはできない。 という内容。 なんとクールで理性的なことか。孫子という本は、徹底的に合理的な価値観で貫かれた兵法書である。その内容は、現代の経営指南書としても十分通用するとされ、沢山の企業経営者が、座右の書としているのも当然である。 民主主義と平和につつまれた現代。しかし現代人の日常は、さまざまな競争や争いの連続であり、社会で活動する個人の生活は、まさに「戦国時代」とも言えるかもしれない。そしてまた、毎日がストレスと緊張の連続でもあり、怒りや憤りに心が翻弄される瞬間もある。ちょっとしたすれ

地球外生命体!

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地球外生命体と戦う大学教授 12月3日の夜は、世界中が 「地球外生命体」のニュース に沸きたつ、はずだった。ニコニコ動画でも、NASAからの発表を生中継しつつ、解説するという映像配信があり、平日の夜にもかかわらず8万6千人もの来場者があったということです。みなさんお疲れさまでした。でも実際のNASAからの重大発表を聞いて、かなりがっかりしたのだけど、みなさんそれなりに楽しまれたのではないでしょうか。 地球上の生物は、植物からミドリムシから、ネズミ、ゴキブリ、人間まで、細胞の中のDNA構造は全く同じ。だから、地球上の生命体は、たったひとつの「起源」から生まれたということになっている。そのたったひとつの起源が、どこでどう生まれたのかそれが大きな謎なのである。生命とは、地球外のどこからかやってきたものなのか、それとも地球上で生まれたものなのか。 宇宙の果てから隕石にくっついてやってきた。宇宙開発に熱心な人たちは、こういう「地球外起源説」を信じる人が多い。そうでないと、宇宙探査をやる理由がなくなっちゃうからね。でも、最近では「生命は地球上で自然に生まれた」という説が主流みたいです。原始地球の海が有機物のスープとり、そこに落雷などの電流ショックを受けているうちに、自然と高度な有機化合物が出来あがった。ちょっと、フランケンシュタインみたいでSFっぽい話なんですが、ちゃんと実験で実証もされています。 今回カリフォルニア州のモノ湖という場所で見つかった細菌は、しかし根本からおかしな生命体。地球上の生命が、体の構成物として使っている元素は、炭素(C)、水素(N)、酸素(O)、窒素(N)、硫黄(Si)、リン(P)の6つが必須。しかし、今回発見された細菌君は、リンの代わりにヒ素(As)を使う。だから、NASAは彼を「地球外生命体」と言ったのだ。「地球外生命体」というには、ちょっと無理があったけど、やはりこれはすごい発見らしい。 この話いずれ、映画に使われますよ。たとえば、地球生命の男性(リン型)と、地球外から来た女性(ヒ素型)のラブ・ストーリー。ふたりは、宇宙ツィッターを使った通信で、愛を育てていた。遠距離恋愛を光速ワープで乗り越え、人種の壁などさまざまな障碍を乗り越えて出会うふたり。そこで交わす抱擁。その時男性は、女性の細胞にふくまれるヒ素成分で中毒死してしまう

天才の試練

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大学助手になれなかった 部長の悪口を散々並べて盛り上がった飲み会の翌日に、その議事録が部長のところにとどいたようなものでしょうか。怖いですね。やっぱし、人の悪口というものは、言わないに越したことはないのですね。 私もつい先日、偉大なるチャールズ・ダーウィン卿のことを「暇な人」呼ばわりしてしまった。いけませんいけません。綸言汗の如し。気を取り直して、いやええと、気を引き締めて、書き続けます。 天才が出来上がるには時間がかかる。結論はそういうことなのでした。でも、時間をかければ、それで天才が出来上がるのかというと、まさかそんなことはない。もし、そうならば、今頃この世の中は、天才だらけになっているはず。それでは、どのような条件のもとで時間をかけた時に天才は生まれるのか?前回紹介した、竹内薫さんの「天才の時間」という本は、実にここのところを綿密に調査されているのです。実に、興味深い結果が示されているので、以下紹介します。 アインシュタインは、頭の中に物理学のアイデアがいっぱいある時に、当時な大学教授から「あんたは才能がない」と拒絶された。そして特許庁で過ごした不遇の時代に、暇な時間を手にした。この時間が、後の「特殊相対性理論」を生む。( 逆に大学に採用となったアインシュタインの友人たちは、誰も際立った業績は残していない) ニュートンは大学在籍中に、ペストの流行による大学閉鎖で、二年近い休学を余儀なくされる。しかしこの時過ごした、故郷のウールズソープで、微分積分、力学、光学など、現代物理学の基礎を、ひとりで作り上げてしまう。 グレゴリー・ペレルマンは、数学界のノーベル賞といわれるフィールズ賞を受賞。でもそれを辞退してしまう。賞金は一億円なのに。ペレルマンの場合は、数学に没頭するあまり、世間のことやお金のことは全く興味がない。だから人生そのものが常に「休暇」ということになる。竹内先生のこのまとめかた、本当に見事ですね。 そして前に紹介した、チャールズ・ダーウィン。彼はイギリスのウェッジウッド家につながる名家の出です。裕福であったために、あり余る時間があったのですが、研究に没頭する彼の努力無しには、進化論は生まれなかった。 このように、天才というものは、あたかも良いお酒が「樽の中で熟成」するような事例が、たくさん紹介されています。この他にも、

天才の休暇

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生涯休暇人? チャールズ・ダーウィン 前回、本ブログにて「遅咲きの花」について考えたみた。植物ですらひとつの花を咲かせるのに40年かけることがある。だったら人生で花を咲かせるのに、どんなに時間がかかってもいいじゃないか。と、楽観的な結論でまとめてみた。 翌朝になって再びPCに向かい、ふと足下を見ると一冊の本が目に入った。そのタイトルは「天才の時間」で、私が大好きな竹内薫さんの著書だ。身近な場所(机の下あたり)に放置されていたということは、私が結構気に入った(感動した)本だったという証拠。そうでなければ本棚のどこかに、押し込まれていた。「いつかまた読みたい」と思っていたからそこにあったのだ。 この本には「人生にとても時間をかけた人」たちの成功物語が、たくさん紹介されているんだった。なんだか「遅咲きの花」というテーマにぴったりな感じがする。久しぶりに手に取ってページを開いてみる。うんうん、そうそう。「時間がかかる」話が沢山載っているんだっけ、この本には。 そして、とびこんできたのが「生涯休暇人」の文字。 「 生・涯・休・暇・人 」つまり、人生ずっと休みだった人ってだれ? それは、チャールズ・ダーウィンさん。日曜の晩のNHK、大河ドラマ直前の科学番組枠のタイトル「ダーウィンがキタ~!」にも紹介されている人気者。この人「生涯休暇人」だったんだ。まあ、お金持ちだからできたことでもあるんだけど。とにかく、研究に時間をかけた。 ダーウィンは進化論をはじめて唱えた人。進化論とは「人間は神様が設計したものではないんだ」っていう理論ですね。ある環境が整った地球上に、原始的な植物が生まれる。そしてそれが、ミドリムシとなりオタマジャクシとなり、トカゲがネズミになって、それからサルとなり、チンパンジーが立ち上がって… ものすごく長い長い時間をかけて、変化して出来上がったんだよ、というのが「進化論」ですね。(いまの話はだいだいしか合ってませんよ) ダーウィンがこの理論をまとめて「種の起原」を出版したのは、1859年のこと。そのころのイギリスでは、当然キリスト協会の力も強くて、「人間は神様が作ったものじゃない」なんて、とても言える雰囲気じゃなかったんだ。神様に対して言いたい放題だった、ジョン・レノンも、ビートルズメンバーもまだ生まれていなかったしね。だから、

遅咲きの花

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花を咲かすまで40年 年をとってから出世した人のことを「遅咲きの花」という。50歳から画家となった、ルソーのような人のことを言うのかな。今や大人気作家の村上春樹さんだって「遅咲き」かな。「風の歌を聴け」が出るまでに、7年近くもジャズ喫茶の店長さんをやっていらした。その間に小説の構想が熟成したんだ。漢字の由来を解き明かした、白川静先生も、長年の下積みの研究を経て、えらく「遅咲き」だったと聞く。 ところで、実際にある「遅咲きの花」というのは、どんな花なんだろうか。普通は、仲間がみな散ってしまってから冬に咲くコスモスのようなものだろうと思っていた。ところがこの世には、文字通りに、ものすごい「遅咲きの花」もあると知って驚いた。この花は、30年〜40年もの年月をかけてたった一回だけの花を咲かせる。そしてその後は? なんと枯れてしまうんだって。 その花の名は、アガベ・ビクトリアエ・レギナエ。 リュウゼツランの一種だそうだ。この花、その見た目もなかなかの大物で、花茎は5メートルにも達するのだ。花というよりも、立派な庭木のようにも見える。9月3日のサンケイのEX記事で紹介されていたのだか、西インド諸島や南米に分布するこの花を、なぜか札幌市に住む大町彰さんという方が、育てあげた。大町さん自身は、60歳ということだから、この花とは、人生の半分以上の時間を過ごしてきたことになる。 今年の9月2日から咲きはじめて、中旬ごろに見ごろを迎えると、この記事には書いてある。おそらく、今ごろはもう、この「遅咲きの花」は、その花としての使命を果たし、枯れてしまったに違いない。 40年間もかけてひとつの花を咲かせるなんて、「遠大な目標を持ったひと」という人格をさえ感じる。大きな理想がなければ、40年もの間、じっとがまんの人生は送れませんよ。「いつか咲いてやる」「いつか咲いてやる」で40年。なかなか出来ることではない。 その点、人間というものは気が短いものだ。特に最近は、短気な話が多い。いかに失言や失策の多い民主党政権とはいえ、一国の政権が、ずいぶんあっさりと見限られるものだ。企業も売れない商品は撤退する。あたらない企画やブランドは取り下げる。長期間結果の出ない研究は仕分けされる。 このへんの「短気」なフィーリングは、着実に若者にも伝染している。就活もうまくいかなければすぐ

女性のパワーアップ

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米国の未来学者、 アルビン・トフラー氏 が、最初の著作「未来の衝撃」を発表してから今年で40年になる。 トフラー氏は「未来の衝撃」の中で、以下のような予言をしたが、いずれもすでに現実として起こった。 1:情報が世界中に瞬時に届けられるようになる(ツィッター) 2:同性婚カップルが養子を育てるようになる(先進国で実現) 3:大規模な事故を含む環境破壊が起きる(メキシコ湾の原油流出) 未来学者、アルビン・トフラー氏の面目躍如である。 氏が共同創設したシンクタンク「トフラー・アソシエイツ」は今月、今後40年の未来を予測する調査を実施し、以下のような結果をまとめたという*。同じく未来社会を鋭く予測した、ピーター・ドラッカー流に言えば「すでに起こった未来」というところか。その中で際だった予想がこれ。「女性のパワーアップ」だ。 今後3年間で行われる約80カ国での大統領選の結果、かつてない勢いで女性指導者が増え、女性のリーダーシップが世界中で高まるという。人口の約半分を占める女性の意志決定参加なしには、政権運営は成功しないというのが、その理由だ。 日本でも、音楽業界、出版界ともに、成功のキーワードは女性になりつつある。女性の人気を得ることができなければ、CDも雑誌も売れない。テレビ番組の視聴率も女性が主導権を持っている。男性は、競争社会の中で身を粉にして働くばかりで、意外に、政権選択や経済市場における意思決定には、参加できていないのだ。 男は夢みたいなことばっかり言っていて結局は草食系。実社会を動かすのは、女性のしっかりとした現実感覚だ。これを肉食系というのだろう。食文化を選ぶのも女性、ファッションをリードし、住居を選ぶのも女性、旅行先を決めるのも女性だ。男性は実社会で偉そうにしてはいるものの、政治や文化的世界でのリード権を、女性に握られつつあるのだ。 大学も、女性に選ばれるようでなければ生き残ることは難しい。東京工科大学・メディア学部は、「工科大学」というキーワードがネックとなり、男子学生の比率が高い。しかしこれからは、こうした女性が作る社会のトレンドをつかみ、トフラー・アソシエイツの予測を先取りするような、教育カリキュラムを作っていかなければならないと考えている。 * 10月25日版 SANKEI EXPRESS 記事「 40年後 女性

いんなーとりっぷ

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「一人で行く商業施設はどこか?」という興味深い調査結果が出た。*  意外なことに、家電量販店をおさえ、都内最大の書店八重洲ブックセンターが第一位となった。その調査によれば、店内での滞在時間も長く、「3時間未満」が45%と「1時間未満」の54%に迫った。活字離れといわれる昨今、なんとなく嬉しい話だ。しかしこうして書店で時間を過ごすのは、やはり50歳代以上が最も多いということだ。 熟年の皆さんは、一人でこの大型書店での本選びをじっくりと楽しんでいるんですね。書籍と遊ぶ。まさに「いんなーとりっぷ **」です。 ところで私達は、なぜ本を読みあさることを楽しむのだろうか。それは私達人間が、文字による世界を持つ動物だからだよね。文字によって人間は、広大なる概念の宇宙に遊ぶことが出来るようになったんだ。八重洲ブックセンターという閉じられた空間にいても、私の心は旅の空。書棚から一冊引き出してページを開くたびに、私は違う何処かの、違う誰かと会いに行くことが出来る。 ネット社会が私達にもたらした世界。それは、あっという間に、八重洲ブックセンターを越えてしまったように見える。iTunesでは、どんな書籍にでも出会うことができるようになるだろう。おそらくアマゾンも、現在の配送流通網を広げるとともに、電子書籍にもビジネスを拡大することだろう。間もなくネット空間には、限りなくリアルタイムな巨大電子ストアが出現する。 しかしちょっと待って。確かに電子書籍の世界は広大で高速アクセスが可能。でも何か大事なことがすっとばされてはいないだろうか?ミュージック・ダウンロードや、ブックマークされたネットの世界は、要するに「いいとこどり」だ。過去に作品をものにした作家の苦労のプロセスを無視して、ツィッターやブログの情報をたよりに「おいしいところ」ばかりを渉猟して歩いていて、本の持つ本当の面白さがわかるのだろうか? ツィッターやブログ、SNSサイトでは、現代に生きる同世代人との会話が可能だ。しかし、読書の本当の醍醐味とは、過去に生きた人々との対話なのだ。かつて真剣に人生と向き合った人々が残した言葉。それに出会うことこそ読書の神髄なのだ。人生に悩み、運命と闘った人々の赤裸々な記録に向き合い、彼らと一対一で話しを聞く楽しみこそが読書ではないだろうか。松尾芭蕉先生とだって勝海舟先生とも対話が出来

航空交通ライブ!

チューリッヒ大学 ( ZHAW )は、修士論文の研究のために「航空交通ライブ(空港まで300km)」アプリケーションを発表しました。スイス周辺、南ドイツの航空管制データを使って、飛行機の飛行コースをリアルタイムに見ることができます。 リアルタイム・レーダー映像 >>> こうした公共のデータを使い、それを新たな手法でヴィジュアライズ(可視化)するアイデアは素晴らしいですね。可視化することで、いままで見えなかったことが見えてきます。またこれを、簡単にYoutube や、大学サイトで公開するところが、現代的です。まさにメディアを縦横無尽に使った研究ですね。 世界中にこんなに飛行機が飛んでるんだ!まるでハチの大群が巣箱から巣箱に移動しているみたいですね。いやこれはまさに、ハチが大挙してエサを集めているすがたそのままではありませんか。人間社会において、重要な場所(経済や産業の中心)は、ヨーロッパ / アメリカ / ブラジルのトライアングルに集まっているんですね。それから、日本とアジア各国に広がる経済圏。昨日ちょうど、羽田空港の国際線がオープンとなりました。日本や中国の空港の、国際的な役割が変わっていく姿も、この研究から見えてくるかもしれませんね。 ZHAW Zürcher Hochschule für Angewandte  Wissenschaften Technikumstrasse 9  Postfach CH-8401 Winterthur zhaw School of Engineering >>> 東京工科大学・メディア学部公式ブログ >>> -

今日は死ぬのにもってこいの日

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心の豊かさを失い文明社会の波間に漂う現代人。この本「今日は死ぬのにもってこいの日」には、現代人乾いた魂を潤す、人間情緒豊かな言葉がたくさん収められている ニューメキシコ州のタオス・プエブロ・インディアンと長年の交流を持った、ナンシー・ウッド氏が、採録したインディアンの叡智なのだ。ひとつひとつの言葉が真珠のようにかがやいて、偉大な思想をふちどっていく。仏教思想になじんだ日本人にとって、彼らの言葉が釈迦の教えに酷似していることに、驚かされる。 以下、一節を引用させていただく。 ____________________ 年月の広がりの中で、わたしは自分自身を時間で包む、 人生の様々な層で、わたしを包み込む毛布のように。 わたしは君にこうしか言えない、 わたしはどこへも行かなかったし、あらゆるところへ言ったと。 わたしはこうしか言えない、 今やわたしの旅は終わったけれど、実は始まっていないのだと。 過去のわたしと未来のわたし それはいずれも、今のわたしの中にある、このように。 <  中略 > わたしは鷲。 狭い世界は、わたしのやることを笑いのめす。 だが大空は、不滅についてのわたしの考えを その胸に収めて、他に語らない。 ____________________ In the distance of my years I cover myself with time Like a blanket which enfolds me with the layers of my life What can I tell you except that I have gone nowhere and everywhere? What can I tell you except that I have not begun my journey now that is through? All that I ever was and am yet to be Lies within me now this way. - - - - - - - - - - - - - I am an Eagle. The small world laughs at my deeds. But the great sky ke

答えの出ない問題

考えても答えの出ないものはある。しかし、志のある人は、歩いて尋ねて教えを請い、いずれ答えを出すだろう。 故松下幸之助氏が、松下政経塾で塾生に向かって話した言葉だ。「もっと自分で考えないといかんわけやな」 自分の頭で考えるということを重視した氏の言葉は、実にシンプルなものだ。しかし、これを現在の大学教育において、学生に伝えるのは、とても難しい。( 『リーダーになる人に知っておいてほしいこと』松下政経塾編 ) 学生達は大学に、” 答えを求めて” やってくる。大学に入学した1年生に「君の将来の夢は?」と聞くと、約三割くらいは「夢をこれから大学で探します」と答える。しかし、このように答えた学生が卒業までに「夢を見つけました」と言ってくることはまれだ。たいがいは「答えを探し回る」というよりは「答えを待っている」という状態の学生が多いからだと思う。 中学校から高校まで、厳しい受験戦争に揉まれてきた。そのために「すべてのものにはひとつの答えがある」と教えられてきた。それは受験問題にはひとつの答えがあるだろう。彼らは常に、そのひとつの答えのみを教えてもらう事を待っている。大学生活でも、4年間のあいだひたすら待っている子が多い。授業中も、何かに疑問を呈するとか、何か新しい答えを生みだそうというような、気概はない。ただひたすら、正解を教えてもらうことを待っている。 だから、三年生の後半ともなり、自分の人生や就職について考え出すようになると、とたんにつまずいてしまう。人生の選択や、就職先の選択には「たったひとつの答え」なんて無いのだから。受験勉強のようにはいかないのだ。考えても答えのでないもの。実は、人生には、こうした「答えのでない」問題のほうが多いんだよ。 単純に仕事について考えるだけではない。本当に人生において大事なものとは何なのか? それは本当に沢山のひとに話を聞かなければわからないこと。数学の答えのように、一冊の本のある場所に書いてあったり、どこかのサイトに書いてあるといったものではないんだもの。クリックして出てくるのは、あやしげな名前占いくらいでしょう。重要なことは、ド・コ・ニ・モ ・書いてありませんよ。 就職の超氷河期と言われる現在。大学教育も曲がり角に来ていると思う。杓子定規に形式的な教育ばかり続けていては、学生達の成長はうながせない。「自分で歩き

ジョンの魂

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ジョン・レノンは、いまやきっと、神様の隣の席にすわってるんだよ。 そう思いたくなるのも当然でしょう。だって、今日のように世界中の人々が、一斉にその魂に祈りをささげるようなことがあるものだろうか。YoutubeでもTwitterでも、JLに溢れた一日。こうして彼の生誕70年を、世界の多くの人が「世界平和」というメッセージとともに、彼を思い出している。世界を平和にしたいという気持ちを、これだけ多くの人に伝えたジョンは、すごい。 デビュー間もない時期に「僕はキリストよりも有名だ」と発言したことで、ビートルズのレコードの不買運動などキリスト教信者からの大反発を受けたジョン。でもきっと、もう70歳にもなって、神様もすっかり許してくれたんだね。 EMIのバランス・エンジニアだった、ジェフ・エメリックが書いているが、ジョン・レノンの " Across the Universe "を、初めてスタジオで聞いた時には、本当に鳥肌が立つような気持ちだったという。あのギター一本と歌声だけでも、まるで全宇宙を超えていくような広がりを持つ名曲。現在、モノ・リマスターボックスの、Mono Master 2 に収録されているのが、その時のオリジナル・テイクだということだ。今聞いても、ジョンの心が、宇宙と同じくらいに大きく広がっていくイメージに溢れる。 アメリカの先住民、チェロキーの信仰は、とても大きくとても深い。しかも彼らは、それを人生が続いている間に、自分の心と体で体現できることを知っている。インディアンの少年が、祖父母から人生についての大事な教えを受ける小説「リトル・トリー ( The Education of Little Tree )」の仲で、少年の祖母がこう語る。 「だれでも二つの心を持っているんだよ。ひとつの心はね、からだの心(ボディ・マインド)、つまりからだがちゃんと生きつづけるようにって、働く心なの。 <中略> でもね、人間はもうひとつ心を持っているんだ。からだを守ろうとする心とは全然別のものなの。それは霊の心(スピリット・マインド)なの」「霊の心が大きく力強くなってきたら、昔自分のからだに宿っていた命も全部見とおせるようになるの。そこまで行くとね、からだが死ぬことなんてもうないのとおんなじになっちゃうの」 人間の命にも限界があり

科学のハート

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ガリレオ・ガリレイは「地動説」をめぐってローマ教皇と対立し、異端審問を受けた。およそ330年後もたった1992年、バチカンはこの誤りを認め、彼の名誉を回復したが、やはり科学と宗教は本質的に相入れないものかもしれない。 1973年に、ノーベル物理学賞を受賞した、江崎玲於奈博士は、この「宗教と科学」の本質的な違いを明確に意識しながらも、人間の心の中での共通点について、このように書いておられる。 「心には、マインドとハートのふたつの面がある。私がマインドの極みであるサイエンスにひかれたのは、ハートの極地に神がいるという同志社での教えに触発されたからのようです。いずれも『心の極地』ということでは、同じだからです」( 10月4日 読売新聞 ) 同志社に学びながらも、決してキリスト教徒になることは無かった博士。一方で「自然や宇宙を支配する絶対唯一の神が存在すると信じるキリスト教は、絶対的な自然神と共通する側面もある」と指摘される。 どんなに科学の時代となっても、人間が科学に取り組むには、その心が必要だ。ものごとに疑問を感じ、ものごとに挑戦する意欲を持ち、自然界の不思議さに感動する心。江崎博士の言葉によれば、科学者は「マインド」という心を使って研究は進めるのだが、実際には「ハート」という感動する心がなければ、真実の業績には到達しないということではないだろうか。 目では決して見えない物質の世界を、心の眼で見通す。昨夜のノーベル化学賞受賞のインタビューに答える鈴木章氏の、おだやかなまなざしに、まさに道を究める者の「ハート」があふれ出るのを感じた。根岸英一氏の言葉にも、自然界にかくされた秘密を探し出す、探求者の心を感じた。結果は30年かかっても、ついてくる。肝心なのはハートなんだ。ハート。

素直な心

経営の神様と言われた松下幸之助氏は「素直な心」の初段だったという。 松下政経塾編「リーダーとなる人に知っておいてほしいこと」に書かれているのだが、現役のころの松下幸之助氏は毎日毎日、神社や仏閣で「今日一日どうか、素直な心を持たせてください」 と祈り続けて来たというのだ。 経営的な判断や、人生における重要な決断において、余計な考えや雑念があってはならない。正しく揺るぎない判断をするためには、主観を排して偏りの無い心を持たなければならない、ということでの精神修養だ。 松下電機を、世界企業に育てた偉大なる経営者、松下幸之助が「判断を誤らないように」自分のこころの状態をコントロールしようと努力していた。ましてや凡人の私のような人間こそが、心の曇りを無くす修行を、しなけれはならないだろう。いやむしろ、凡人であるからこそ、自分の判断は、正確で公平なものであると思い込み、慢心しているのだ。 命がけの選択や、経営の大決断というものを前にした時、人間というものは、なかなか平常心でいることは難しいと思う。松下幸之助氏は、「素直な心でいさせて下さい」という祈りを30年以上続けたのだそうだ。神社や仏閣がない時には、山や空に向かって祈ったという。シロウトの囲碁だって、何百回もやれば初段になるんだから「30年以上続けていれば、なんぼなんでも初段くらいにはなるやろ」ということで、ご自身のことを「素直な心」の初段と言っていたそうだ。頭の下がる話である。

二つの物差し

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結局のところ、どっちが良かったのか、さっぱりわからない代表選。白黒わからない前幹事長。進めるのか進めないのか、はっきりしないダム建設。隣国につながるの高校授業料の無償化。世の中、何が良くて何が悪いのかわからない。ものごとがはっきりしないのが、世の中だ。 しかしこれが通用しないのが教育現場。正しい解答というものが、二つ以上あってはいけないというのが、教育の世界での原則である。合格であって同時に不合格というものはあり得ないし、正解であって同時に不正解というものもない。 教育の現場においては「公正なる評価」が強く求められているために、曖昧な答えは、常にゆるされないのだ。はっきりとした、評価をするために、正しいのか悪いか、どっちかしかないのだ。しかし、いずれ大学から実社会へと巣立っていく学生にとって、これでいいのだろうか。 昨日も紹介した鶴見俊輔さんと重松清さんの対談集「ぼくはこう生きている 君はどうか」では、現代の教育現場にも多様な価値観が必要であると、語られている。 かつて江戸時代の寺子屋では、教師は職住一致で近所の子供の面倒を見た。現代の塾講師のように、受験の請負人ではないのだ。当時の教師というのは、人を落とすためではなく、人を育てるために働いた。だから、人間の評価においても、道徳教育の実践においても、多様な価値観というものが、用いられて来た。教養という物差しと、人間という物差しの二本が必要とされていたのだ。 最後の答えは合っていなくてもいい。問題に直面したときの構想力を評価する。そんな多様な考え方を示せる大人の存在が必要なのだ。江戸時代にその役割りを担ったのが、近所のおじさんであり、寺子屋の先生だった。 西郷隆盛、大久保利通も下級藩士である。みんな大衆の中からでてきた。高杉晋作、伊藤博文、キラ星のごとき長州の志士も、萩という狭い地域から出た。吉田松陰という教師は、多様な価値観と愛情を通して、個性豊かな塾生のひとりひとりを育てあげた。 そこにあるのは、情緒の通う共同体(ゲマインシャフト)だけが持つ、人間関係の暖かさなのだ。 人が人を蹴落として競争を強いられる現代社会と、濃密な人間的な情緒をともなった江戸時代。どちらが、優れた人材を輩出できるか、誰の目にも明らかなのではないだろうか。

エピソードある友情

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5人は、喧嘩もすればバンドもやる、助け合う 鶴見俊介先生と重松清さんの対談集「ぼくはこう生きている 君はどうか」の中に、「エピソードのない友情は寂しい」という話しがあった。最近の子ども達は、本気で喧嘩をしない。喧嘩するとしても、思い切りぶつかるかわりに、ほんのささいなことで傷つけ合うようだ。メールのちょっとした一言に過剰反応。友人の空気を読まない行動にムカつく。行動や外見が仲間と違うというだけでシカトする。 そんな中で、友情エピソード満載の、 映画「BECK」観ました! これだけイケメン男子俳優が揃っていれば、この映画ヒット間違いなしと思いきや、公開直後に水嶋ヒロ君の引退騒動が.. いやいや大丈夫。この映画、ただのイケメン映画ではないのです。友人と友人が、思いっきりぶつかり合って、お互いの力を引き出しあっていく、まさに「エピソードのある友情」の物語なのです。個性派ぞろいの5人が、いかにバンドメンバーとして結束していくのか。いかにしてそれが壊れていくのか。そしてまた、新しいエピソードのもとで再生していくのか。堤監督は、この傑作マンガの映画化において「エピソードある友情」というテーマを軸にしたのに違いないと思う。 これまでこのブログで、三人という仲間が集まった場合の人間関係の難しさなどを考えた。ビートルズの四人も、いつかそれぞれのメンバーの成長とともに崩壊していくのだった。共通の目的をめざす仲間が起こすいざこざは、同じ目標を追うからこそ激烈になる。お互いを思いやる気持ちよりも「なんで、おめえは本気でやらねえんだ!」という怒りが先に立つ。 私もテレビ局生活の中で何度も経験しました。長い間同一のスタッフが一緒に仕事をしていると、いつか必ず不協和音が生じて来るものです。決して仲が悪いわけではないのだけれども、長期間の仕事では、一日一日の積み重ねの中で、ちょっとしたすれ違いや誤解が、だんだん大きくなっていくもの。「あれ?これって昨日決めたこととちがうじゃん!」「この間はこれでいいっていったじゃん!」なんていう、ちょっとした行き違いの繰り返しが、いつか 「おめえとなんか、もう、二度と仕事をしねえ!」 というコトバの爆発で最後を迎えるのです。特に、仲の良かったスタッフどうしが、こうなるのは寂しいものです。後悔先に立たず。ああ、言わないで我慢すればよかった、と

三人ではケンカに

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三角形は安定している? 三人で旅行に行くと、途中で、ちよっとしたことで揉めたりしませんか? つぎの目的地をめぐって、ひとりだけなんだか浮いてしまったり。あるいは、二人がひそひそと、残りのひとりの悪口を言い始めたり。ただでさへ、グループ旅行というものは、もめごとが起きやすいのだけれども、三人というグループは特に揉めやすいのではないだろうか。 古来より伝わる易経の「卦」に、「山沢損」というものがあって、その卦が表すところに、この三人という状態の持つ問題があります。 「三人行かば則ち一人を損す」 易経の根本原理にある「陰陽説」によれば、この世のものは、すべて陰と陽のふたつの要素が、引き合ったり、離れたりしているもの。常に二つの要素による「ペア」が基本となっている。したがって、三という数は、必然として不安定なものとなる。「三人で仲よし」という状態は、一時的には成立し得る。しかしいつしか、どちらかのペアがより親密になりすぎたりすると、残ったひとりが嫉妬したりする。いつか必ずや不穏な状態を引き起こすものなのだ。 この夏ついに中国は、世界大二位の経済大国となった。逆に日本は第三位に転落。世界のメディアは「ジャパン・アズ・ナンバー・スリー」と、派手に書きたてました。これまで日本は、アメリカとのペアという「ふたりだけ」の安定した関係を築いて来た。日米の安全保障は、他の干渉を受けることなく続いで来たのだ。 そこへ、中国という三人目の友人が割って入って来た。中国は、日本を激しく執拗に牽制しつつ、アメリカとの軍事強調を進めようとしている。日本は、この新しい状況下で、三人という難しい関係を、どのように築いていっていいのやら、右往左往するばかり。このままの優柔不断な対応をつづけていたら、仲間はずれとなる一人は、日本ということになりかねない。 さて、山沢損の卦の教えは、さらに以下のように続く。 「一人で行かば則ち其の友を得る」 ひとりの人間が、何か一生懸命やっていれば、それはかならず誰か援助者を得ることになる。「三は一を欠く」のと逆の原理で、ひとつのものは、必ずペアとなる仲間を呼び寄せることになるのだ。だから易経では、重要な話しや相談ごとは、二人だけでじっくりするのが良い、と教えている。 日本は、アメリカと中国と、どちらともじっくりと話しをしして欲

無為にすごせ

朝ドラ「ゲゲゲの女房」が終わってしまった。最終回は、視聴率も 23%を超えて、国民的朝ドラとしての有終の美を飾ったそうだ。ところでそのドラマで、水木プロの事務所のセットに貼ってあった、この貼り紙が気になりました。 「無為に過ごせ」 その貼り紙には、こう書いてあった。妖怪「いそがし」にとりつかれるほ ど多忙を極め、それこそ仕事と心中するほど全身全霊を傾けた水木先生。 その先生の真意はどこにあるのか考えた。確か、水木先生の著書にもあった言葉だ。 「無為に過ごせ」と言われれば、凡人の私なぞはさっそく無限おさぼりループに突入するだろう。大リーグ中継→お笑いDVD→昼寝。早風呂→ビール→ポテチつまんで新聞をぱらぱら。ぼんやりしているうち に眠くなって結局は早寝。まあ、そんなものでしょう。 凡夫が、文字どおりに無為に過ごすというのは、かくのごとく無駄で、非生産的なものだ。水木先生は、一体どのような「無為の時間」を過ごせと いうのか。 そういえば、壁の貼り紙には、もうひとつこういうのもあった。 「人間、努力をしてもうまくいかない時は、時機の到来を待つしかない」(ちょっと違ってるかも、確かゲーテの言葉らしい...) 時機が熟してもいないのに、人間がどんなに頑張ったって、それは駄目だよ〜。ジタバタしたって無理は無理。 うーん。深い。 これら二つの「貼り紙」に込められた、水木先生のメッセージとは何か? 人間、じたばたせずに、落ち着いてじっくりやりなさい。無理矢理に、目標を超えようとあせっても無駄。役に立つとか、利益がどうとか、いって ないで、悠然とやりなさい。無為に過ごしているようでも、本筋さえやっていれば、道はいつか自然に開けるから。 今日のところは、こういう解釈で、考えておこうっと。 水木先生、有り難うございます。無為に過ごしながら、時期を待ちます!(頑張ります)

こき使われなさい

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「若い人は、だまってこき使われればいいんです」 先週、惜しまれながら放送終了となったNHK・朝ドラ「ゲゲゲの女房」。その記念番組にでていた、水木しげるさんが、ぼそっと言った言葉だ。水木先生はときどき、インタビュアーの質問を勘違いしたふりをして、話の流れと関係ないことを言う。しかしこれが、意外に大事な事である事が多い。 なかなか核心事を聞いてこないインタビュアーの、プライドを傷つけないようにしながら、なんとか重要なことを差し挟む、水木先生の高等テクだ。呆けたふりをしながら、説教臭くなく、ぼそっと何か大切な事を言う。 「まずは黙って上司の言うことを聞いて働きなさい」 民間人初の中国大使・丹羽宇一郎さんも、アニメ監督の今敏さんも、同様なことをおっしゃっていた。まずは、黙って働け。そのうち分かる。山田洋次監督も、映画の世界の新人についてこう述べている。助監督は、まずスタッフや役者に弁当を配れ。役者の弁当の好みを覚えるのも大事な仕事だ。撮影助手は、ま ず撮影監督にコーヒーをいれろ。ごたごた言っている間に仕事しろ。理屈やテクニックは、そのうちひとりでに覚えるから。 体力のある若い時に、余計なことを言わずに経験をつみ、先輩の仕事を覚えなさい。ぶつぶつ文句を言う前に、とりあえずやって見なさい。その仕事の意味は、やっているうちにわかるんだから。本当にそうなんだよなぁ。黙ってやってほしいんだよね。 でもいまの職場では、新人に対してなかなかそんな口はきけないんですよ。 言っちゃったら最後、彼らはすぐにやめちゃうかもしれないんだから。 新人「理由もなくこき使われるのは、 いや なんです。 やりがいがあって 自分が納得いく仕事が したいので」 上司「そうですか。ではどうぞよそに行ってくださいね。 ムカっ 」 しかし、ちょっと待てよ。 水木先生は、こんな草食新人相手のくだらない会話を想定して、くだんの発言をしたのだろうか?あるいは、もっと他の大事の事について、何かおっしゃりたかったのではないだろうかしら。いや、そうに違いない。ここで、これまでの話しの「仕事」という主語を「作品」と置き換えて考えてみることを思いついた。 そうすると、水木先生が本当に言いたかったのは、こういうことになる。 作品を作るときは、作品にこき使われなさい。 これから作家

偶然の配材

たった8年間で、ザ・ビートルズが生み出した傑作の数々。ポップミュージックの奇跡だ。ジェフ・エメリックの書いた「ザ・ビートルズ・サウンド」を読んで今思う。この奇跡は、まさに「人智を超えた」ところから生まれたのだと。すべてはまさに「天の配材」だった。 ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの4人がメンバーとして出会ったということも「天の配材」なのだけれども、彼らがEMIと契約した時に、その担当プロデューサーがジョージ・マーティンであり、録音エンジニアがノーマン・スミス。そしてジェフ・エメリックが見習いとして控えていたというのも、大変な「天の配材」だったと言えよう。 特に、ジョージ・マーティンの担当していたレーベルは、別にトップ・アイドルを発掘するレーベルでは無かったというところが面白い。彼の担当レーベルは「パーロフォン」といって、ピーター・セラーズなどのコメディレコードを手がけるものだったのだ。つまり、EMIでは、ザ・ビートルズは、特に売れることも期待されておらず、とりあえず手を挙げたジョージ・マーティンにまわされたってことだ。 しかしこの配材こそが、その後の怒濤の進撃の、まさにスタート地点となる。ザ・ビートルズが持っていたエネルギー溢れる音楽に、ジョージ・マーティンの豊かな音楽的知見や、ウィット溢れるアイデアが加わることで、世界最高のヒット曲が生まれ続けたことは、周知の事実だ。 ジョージ・マーティンは1955年、彼が29歳の時にパーロフォン・レーベルの責任者となった。ここでの6年の経験を経た円熟期の36歳となって、彼はリヴァプールからやってきた4人に出会う。誰が計画したことでも無く、当時は誰も気づかなかったことなのだが、4人とジョージ・マーティンの出会いは、まさに完璧なタイミングと場所で行われたのだ。ジョージ・マーティンは、確かにコメディに続いて、ポップミュージックを手がけたいとは思っていたのだが、まさかそこに「ザ・ビートルズ」が転がり込むとは... ジョージ・マーティンは、ふり返ってこう語る。「もしあの時に私が、このグループには可能性が無いと却下していたらどうなったか。おそらく彼らは、まったく世に出ることの無いままに終わったことだろう」と。神様はこのようにして、私たちのまったく気づかないところで、静かに「奇跡的な配置」を用意してくれている。そしてその配

大好きなこと

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ジェフ・エメリックは、少年時代に特別な英才教育を受けたわけではなかった。しかしその彼が、世紀のバンド、ザ・ビートルズの録音において、天才的な「耳」の能力を発揮するようになったのは何故なのか。そしてまた、彼がその現場に立ち会うこととなった、その運命が彼におとずれた理由とは? 彼自身が著書「ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実」で語るエピソードは、現代の高校生や大学生にとっても、示唆に富んだ「就活指南」となるだろう。 ジェフ・エメリックの少年時代とは、誰にでもあるような「ありふれた」少年時代だ。しかし、彼の少年時代に起こったエピソードの断片を、お互いにつなぎ合わせて並べてみると、そこには「運命の導き」としか思えないような、一本の「奇跡の人生ライン」が描き出される。 おばあさんの家の地下室で見つけた箱の中に「あのレコード」がはいっていたこと。誕生日に貰ったプレゼントが蓄音機だったこと。BBCが行ったラジオによるステレオ実験放送。寛大な音楽教師に出会ったこと。高校の就職カウンセラーが、誠実なバーロウ先生だったこと。こうしたことは、別に当時のイギリスの少年にとって「特別なこと」ではないだろう。当時のどの少年にも起こりえた「ありふれた出来事」ではないだろうか。 しかし、未来の名エンジニア、ジェフ・エメリックは、こうした「ありふれた出来事」に出会うたびに、自分自身の運命とも言える「人生の進路」を、着実に見いだしていく。「自分が大好きなこと」をひとつひとつ確かめていくということが、「自分の人生を発見すること」である。こうしたプロセスこそが、まさに自分の天職を見いだす道なのだ。 高校の卒業が間近となったジェフは、就職カウンセラーの、バーロウ先生の勧めのままに、4つのレコード会社に手紙を書いた。しかし当然ながら、いずれも不採用。しかしジェフは決してあきらめなかった。なぜならば、彼には「レコード・スタジオ」で働くことが、自分の運命であることを確信していたからなのだ。 そしてある時、ついに扉は開いた。 バーロウ先生のもとへ、EMIからの「ある知らせ」が届いた。 誠実でいつも彼のことを考えてくれていた、バーロウ先生。レコード・エンジニアという不安定な仕事につくことに反対しながらも、応援しつづけてくれた先生。この先生が、ジェフにとって本当の「守護天使」となった瞬間

ジェフの就職活動

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レコーディング・エンジニアになりたいが、どうしても就職口が無い。あらゆるレコードスタジオに就職志望の手紙を書いたが、一社を除いてすべてのスタジオから不採用の返事が来た。残る一社からは、返事すら来なかった。 これは、ザ・ビートルズの数々のレコーディングに立ち会った名エンジニア、ジェフ・エメリックの就活経験である。まるで、現代の学生の就職活動について聞くような話だ。ある意味で、現代と同じような就職難だった。ジェフの試練は、現代における学生の就職活動の苦境に重なるものがある。 ジェフが高校を卒業する1960年代。レコード産業が膨張しすぎた現在とは逆の状況で、レコード会社そのものが数えるほどしかなかった。レコーディング・エンジニアという職種は、稀少職種だったのだ。ジェフの就職活動は、困難を余儀なくされて当然だったのだ。 前回も紹介した 「ザ・ビートルズ・サウンド 」 には、著者であるジェフ・エメリックが、「ザ・ビートルズの録音エンジニア」という「天職」にありつくまでのエピソードが、詳しく紹介されている。この「涙の就活ストーリー」は、現在の高校生や大学生にとっても、非常に参考になるのと思う。ジェフ・エメリックは、いかにしてEMIのエンジニアの座を掴んだのか。 ジェフ・エメリックが、彼の就職活動における「守護天使」と呼び、感謝の念を捧げているのは、高校の就職指導教官だった、バーロウ先生だ。就活の守護神が就職指導教官であるというのは、当たり前のようだが、これが当たり前の話ではないところが面白い。はじめバーロウ先生は、レコーディング・エンジニアなどという、風変わりで就職口も少ない仕事など、あきらめるように説得し続けていた。ジェフをなだめすかして、「もう少しまともな」仕事を進める。当時の就職指導の教員として当然のことだろう。 しかし、ジェフの心には、レコーディング・エンジニアになることが自分の運命であると信じる、信念にも近い「確信」があったのだ。このことが、いつかバーロウ先生の心を動かし、ついに自分の「運命の道」を切り開くことになるのだ。 それでは、ジェフはどのようにしてその「確信」を得ることが出来たのか。そのは、ジェフが幼少期に体験した、一連の「事件」に関連しているのだ。 Photo by wikimedia : The Beatles as they

6人目のビートルズ

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5人目のビートルズといえば、EMIのプロデューサーだった、ジョージ・マテーティンのこと。時にはバンドに作曲の手ほどきをし、ビートルズ・サウンドを作り上げる数々のアイデアを生み出した男。実際の音楽制作面で多大な功績のある彼が5人目のビートルズと呼ばれることに、異論のある人は少ないだろう。 しかし「6人目」はだれか? この答えには沢山の選択がある。「6人目」という微妙ながら栄光あるポジションに値する功労者としては誰がふさわしいのか。夭折したマネージャーのエプスタイン氏かもしれないし、オノ・ヨーコなのかもしれず、「レット・イット・ビー」で実際にバンドに加わった、ビリー・プレストンかもしれない。ビートルズ・ファンそれぞれの立ち位置によって様々な人を、「6人目」に置いてみることができるのだ。あなたは誰の名前を思い浮かべますか? いまの私の答えは、ジェフ・エメリック。 この人の名前を、いままで私は完全にスルーしていた。思えばなんと恥ずかしいことか。彼の名前は「アンソロジー」シリーズのクレジットには、何度も登場していたはずだ。いまさらながら、私は彼こそが「6人目」のビートルズであると推薦したいと思います。どこへ推薦するかって、それは分からないのですが、とにかく彼の著書「ザ・ビートルズ・サウンド(新装版)」を読んで、確信したので推薦します。 この夏はとにかく、この本「ザ・ビートルズ・サウンド(新装版)」にすっかり引き込まれてしまった。炎天下でバスを待つ時間も、蒸し暑い電車の中でも、平気で読み続けた。これだけ面白がって読んだ本も珍しい。 長い沈黙をやぶって、ジェフ・エメリックが語ってくれた物語は、久しぶりに「生きたビートルズ」の姿を、読む者の目の前に生き生きと浮かび上がらせてくれるような、エピソードが満載。ビートルズの4人と、ジョージ・マーティンという稀代のソングメーカーたちを、録音卓の後ろから見つめ続けた男。世界を変えてしまうような音楽が生まれた現場でおきた「奇跡」を、ジェフ・エメリックは、あくまで等身大の人間の群像物語として、語り伝えてくれるものだ。自分(ジェフ)とバンドメンバーとの個人的なつながりや確執を、つつみかくさず書き残してくれたことに、僕は感謝したいと思う。 これから少しの間、このすばらしい本の中身について書かせていただきたいと考えております。

ミツバチ民族

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ミツバチたちは、信じられないほど賢く、効率良く花蜜を集めることが出来ます。なにか特殊なコミュニケーション能力を使って、巣のまわりにある食料の分布情報を、交換しているにちがいありません。 カール・フォン・フリッシュが発見した「8の字ダンス」がそのコミュニケーションの基本です。花蜜のある食料源を見つけた「働きバチ」は、その食料源の位置と距離とを、その独特なダンスによって、他の仲間の「働きバチ」に知らせるのです。お尻の振り方や、ダンスの中で動く方向が、エサ場の場所を教える言葉になるのです。 しかし、それだけでは、花蜜を集める仕事を最大効率で進められるとは限りません。できるだけ沢山の花蜜を集めるためには、できるだけ多くの「働きバチ」を、できるだけ豊富に蜜のある花のところに、集中させる必要があります。ミツバチは、一体どのような方法で、それを実現しているのでしょうか。その秘密は、ミツバチ社会の「上司のふるまい」にありました。 (カール・フォン・フリッシュは、1973年にノーベル生理学・医学賞を受賞) 「動物たちの心の世界」(マリアン・S・ドーキンス著 / 長野敬他訳)の第4章に、ハチ社会における情報交換と報酬のシステムについて解説がありました。 ここで言う「上司」とは「働きバチ」のように巣を出て働くことをせず、巣の中で花蜜などの食料を待ち受けている「受け取りバチ」のことなのです。実際に、彼らを「上司」と呼んでいいかどうか微妙ですが、会社の営業部で言えば、営業マンの帰りを会社で待っている係長か課長みたいなものでしょう。 彼らは、栄養豊富な良質なエサを運んできた「働きバチ」を褒めるのだそうです。「おおー!よくやったね〜。えらいえらい」などと、ねぎらいの言葉を掛けるのではありません。単純に、質の良いエサは、さっさと手早く受け取る、ただそれだけです。だから、正確には「褒めている」というよりは、ただ「おいしそうなエサに飛びついている」だけかもしれません。 でも、実際に労働をしてエサを運んできた「働きバチ」にとっては、「受け取りバチ」がなかなか受け取ってくれないと、それは「いまいち喜ばれていない」というサインになるのです。その代わりに「さっと受け取られる」ということは、「おお、俺がやった仕事が喜ばれている」というメッセージになるらしい。それなので、さっさとエサを受け

シエスタ民族

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日本にはなぜ「シエスタ=お昼寝」習慣が根付かなかったのだろうか。日中の日差しが強すぎることもなく、適度な気候であったため、日本人は常に「働きつづける」ことを美徳としする、セカセカ民族の国となってしまったのだろう。実に残念なことだ。 水木しげるさんの「睡眠至上主義」を持ち出さなくとも、「お昼寝」の効用は明らかなのだ。午前中の活動を終えて、おいしい昼食を食べれば、誰だって眠くなってくる。当然活動の度合いも落ちて、仕事の効率だって悪くなる。思い切って、2〜3時間寝たほうが、効率が良いのに決まっているではないか。 しかし、日本は勤勉で働き者の国なのだ。明治以降はとにかく、西欧諸国に追いつくために、国を挙げて生産性を向上させなければなかった。日本人に「お昼寝」などしている暇はなかったのだ。しかし、21世紀ともなり、日本の置かれている状況は激変したはずだ。中国に抜かれたとはいえ、日本のGDPは、いまだ世界のトップクラスにある。もう、セカセカする理由は無いのでは? 森村泰昌著「露地庵先生のアンポン譚」は、このへんの消息を実にうまくとらえて、現代の日本人のセカセカ具合を笑い飛ばす、素晴らしい本である。大阪の露地裏的価値観を武器に、近代を大股で走り抜けてきた日本人が気づくべき、「ゆっくりした間合い」について思い起こさせてくれる。 森村先生が、ヨーロッパでの展覧会において体験したエピソードが面白い。マドリードでは、シエスタが終わり、サッカーの試合が終わるまで、誰もレセプションに現れない。パリの展示会場では、電気工事のお兄さんが、二日続けて遅刻。それでもまったく悪びれずにニコニコしている。ベネチアの展示会場では、つごう三種類の電気コンセントが、統一されることもなく使われている。「使えればそれでいいじゃん。間に合えばまあいいじゃん。楽しければそれでいいじゃん」。という、実に鷹揚なゆったりとしたひとびとが、ゆったりとした価値観を交換している。「流れているのは悠久の時間」だと、森村氏は発見する。 慌てることはないよ。人間の一生はとりあえず一生にすぎないんだから。 太古からとぎれることなく続く、この時間の流れを感じて生きていこう。 シエスタ的価値観に近いこれらの都市、パリ、マドリード、ベネチア。いずれも堂々たる芸術の街じゃないか。以前に一度マドリードで、アルコという芸術

睡眠のパワー

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睡眠には「パワー」がある。とはいえ、実際に寝ている人の状態とは、まさに「脱力」状態なのだし、それに「パワー」があるというのも変な話かもしれない。しかし、やはり睡眠には「パワー」がある。 そのことを、身をもって証明しているのが、水木しげる先生である。今年めでたく、88歳の米寿を迎えられた、水木先生は、太平洋戦争中にニューギニアの激戦を体験された。片腕を失う大けがをした上にマラリア罹患という、大変な目に合われた。しかし、ご本人いわく、その大怪我と病気も「睡眠の力」で克服したと断言されている。「どんな病気も怪我も、睡眠によって癒すことができる」というのが、水木しげる先生の信念となっているのだ。 「家族が寝ていたら決して起こしてはならない」これが水木家の家訓だ。だから、水木先生のお嬢様は、学校でも遅刻常習犯だったというが、それでも水木先生の「睡眠至上主義」はゆるがない。 睡眠についての書籍を読むと、人間のような脊椎動物が、もっともよく眠るということが書いてある。イヌもネコもよく眠る。しかし、馬など、原野で外敵の危険にさらされて暮らしていた動物は、あまり深くは眠らないという。イルカなど、泳ぎ続けなければならない動物になると、右左の脳で半分づつ眠るという芸当をするそうだ。両生類より下等な動物は、そもそも眠らないとか。 しかし実は「睡眠」という現象には、まだまだ相当な謎が隠されているということも、事実らしい。睡眠に関係する書籍は沢山あるのだが、人間の睡眠についての本質論となると、いずれの本においても、どうも歯切れが悪いのである。日中の活動をふり返って、脳の中の配線を組み替えている(プログラムのし直し)とか、精神的なリフレッシュをしているとか、皮膚や体の組織を修復している、など諸説あるようだが、やはり決定打はないようなのだ。 しかし、一方で、睡眠不足ともなれば、私たちの意識は朦朧となり、行動は怪しくなってくる。徹夜続きのような無理な生活を続ければ、いずれ病気になる。精神的にも肉体的にも、だんだん怪しい状態となってくる。「寝る子は育つ」という通り、私たちは睡眠をもっと大切にしなければならないのではないだろうか。 しかし、水木家のように「何事よりも睡眠を優先する」という大胆な家訓を作れる家はそうはあるまい。学校でも、会社でも、むしろ「睡眠を削って頑張った」とい

よく寝てよく遊ぶ国

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ワールド・カップと参議院選挙が同時に燃え尽きた。はじまったはずの大相撲も生中継なし。阪神対巨人の首位攻防戦さえも二日連続で雨天中止。なんだか盛り上がる場所を一気に失ったような日本。 でもこの情熱の国スペインでは、世界チャンピオンとなったチームを迎えて、連日の大熱狂と聞きます。へたをすると今日あたりもまだ、だいたいこんな騒ぎが続いているのではないかと心配です。いや別に心配ではないのだが。 (写真は、7月14日にマドリード在住の友人が送ってきてくれたもの) かりに日本が奇跡的に優勝していたとしても、道頓堀川のダイビングのような騒ぎは、せいぜい一晩のことだろう。日本人が、二晩も三晩も騒ぎ続けるなんてことは、あり得ない。日本人の頭には常に「翌日の仕事にひびきますから」という考えがあるものね。「W杯で優勝した時には日本国民は三日三晩騒ぎ続けること」なんていう法律でもないかぎり、無理だ。

ビッグ・マジー

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一時期、ロンドンにあるロイヤル・カレッジ・オブ・アート ( RCA ) と言う美術学校に通ったことがある。アニメーションの短期コースにもぐりこんで、リチャード・テイラーという老先生の下で研究をしていた。その時僕は、すでにNHKの職員だったので、研究と言ってもそれは勉強ではなくて、デザイン産業についての市場調査(フィールドワーク)のようなものだった。 テイラー先生はイギリス人らしい、へんてこなユーモアにあふれた優しい先生だった。BBCで放送していた、幼児向けの教育番組「 ビッグ・マジー(写真) 」は、彼の作品。この番組の「のほほん」とした雰囲気は、まさにこの先生の人柄から出たものだと思う。みんなからとても慕われていて、若い女子生徒たちも平気で「ディック!」「ねえ、ディックー!」と呼ぶ。老大家なのに、ファーストネームで呼ばれているのが、なんだか可笑しかった。 彼のユーモアのセンスは、本当に独特。例えばこんなことがあった。ロンドン市内でのフィールドワークの途中、僕と一緒にトイレで用を足していたとき(つまりディックと僕が "つれション"をしていたとき)ウィンクしながら、僕に向かってこんなふうに言うのだ。 「チャンスは絶対に逃さない。 ( Never miss opportunity. )」 トイレを見たら必ず用を足しておきなさいよ。ロンドンでは、なかなか公衆トイレも少なくて、次にいつ見つかるかわからないですからねという意味だ。僕は笑った。イギリス人のユーモアに触れた気がして嬉しかった。でも彼は、そう言いながらも本当は、「人生のチャンスも逃すなよ!」って言ってくれていたんだな。今はそういうふうにも思う。 ブックメーカー >>>

ブックメーカー

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またある時、やはり彼と一緒にソーホーあたりの繁華街を歩いていた時のこと。ブックメーカーらしき店の前を通った。僕は日頃の疑問を解決すべく、こう聞いてみた。 「ディック。この店は中で何をやってるの?」 僕もだいたいは知っていた。パブやレストランに混じって、ちらほらと見えるブックメーカー(賭け屋)の店について、中でどんなことをやっているのか。ブックメーカーというと、世界中のできごとを、何でも「賭け事」の対象としている胴元だということ。W杯はもちろんのこと、ホットドックの早食いコンテスト、日本の大相撲や選挙とかも、このブックメーカーにとっては格好のテーマだ。 僕の疑問は、なんでこんなに街中に、堂々と「賭け事」のお店があって、それで繁盛しているのかということなのだ。それにお客と言えば、割と普通のイギリス人のようにも見えるし。それに対するディック先生の答えがこれだ。 「意志決定の幻想さ。 ( Illusion of making decision. ) 」 「イシケッテイのゲンソーですか?」と、僕。 「この店に来る連中は、自分が重要な人物であると思いたいのさ。何かの意志決定のプロセスに関わっているような人物であるとね」 これを聞いて僕は、ブックメーカーについてだけでなく、「賭け事」そのものの本質についても、分かったような気がした。「賭け事」というのは「お金儲け」をするためだけにあるのではないのだ。 会社でスポイルされて、「意志決定プロセス」からはずされてしまった人。あるいは偉くなりすぎて、その「意志決定プロセス」の依存症になってしまった人。どの職場にも沢山いるのではないだろうか。こういう人たちが、自尊心を取り戻し、再び「意志決定のプロセス」を実感するために、競馬やパチンコ、賭けマージャンなどが存在するのかもしれない。 日本では「賭け事」のおかげで大変なことになってしまった。大相撲名古屋場所は、中堅力士の解雇や、NHKの生中継中止もあって、さっぱり盛り上がらない。ロンドンのブックメーカーではどんなことになっているのやら。 ブックメーカー >>>

生きる

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黒澤明監督作品、初期の名作 「生きる」 。 この映画、いきなり主人公の「レントゲン写真」から始まるんです。そして「これはこの映画の主人公の胃である」という重いナレーション。インパクトあるオープニングですね。そしてまもなく、観客は、この主人公の胃袋が癌にむしばまれている、ということを知らされる。 人生が残り数ヶ月しかない、と知った人間。彼は、その残された時間をどのように過ごすのか? 映画やテレビドラマの中には、この問いかけをもとに作られたものがいっぱいありますね。誰でも関心ありますもの。心配だもの。ドラマの主題になりやすいんですよね。 「死ぬということはどういうことなのか?」この疑問は、あらゆる人がいつかは頭に思い浮かべる、あまりにも根源的な問題で、いつかそれは「人間は自分の人生をどう生きるべきなのか?」という問いかけに通じていく。でも、普段はみーんな、忘れていること。忘れておきたいんです。 この映画の主人公、渡辺勘治(志村喬)は、描いたような小役人。仕事への熱意もなければ、特段の望みもなく、ただただ平穏無事の人生を送る無為徒食の輩。市役所の市民課の課長でありながら、市民の「し」の字も関心が無い。やってくる陳情も、すべて他の部署へのたらい回し。続くナレーションにあるように「もともと死んでいるような」人生なのだ。 その彼が、映画の冒頭でいきなり「死を宣告」されてしまう。始めて人生の崖っぷちから深淵を見た絶望。息子夫婦からのむごい仕打ち。いつか彼は酒にひたり、パチンコに、時間と金を費やす。市役所の部下の女の子を誘い出し、市役所を無断欠勤しては、歓楽街で遊びまくる。しかし、結局のところ、肝心の心は全く晴れない。人生からの逸脱と、快楽への耽溺は、少しも彼を救ってはくれない。 そして彼に「その時」がやってくる。生きる意味を見つけて、人生を燃焼させる時が彼にもやってくる。ちいさなちっぽけな公園を、まさに全身全霊を傾けて完成させる。陳情にやってきた貧乏人のおばさんたちの願いを、実現してあげる。そして死んでいく。完成した公園のブランコにもたれ、独り死んでいく。 あくまでも観客を驚かせ続けるのがこの映画。観客にとって皮肉なことには、この映画の主人公が「生きた」証拠を体現してみせるのは、すべて「彼が死んだ後」のことだ。すべての真実が、彼の葬儀の参列者によって話さ

アニー・ホール

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ウッディ・アレンの最高作品だと言われている「 アニー・ホール 」。男女の人間関係を、とても複雑で繊細なものとして描いたこの映画には、笑えてうなずけるエピソードが満載。男も馬鹿だし女性の心もわがままなもんだね。でも男の馬鹿さ加減は際だっているな。 男女関係というものは、けして情熱的でストレートなものなんかじゃなく、紆余曲折があって複雑でわけのわからないものだ。それまでのラブストーリー映画は作り物ですよ。(映画はみな作り物だけど)この映画を見て「まあ人生こんなもんだ」と笑って安心した方も多いのではないだろうか。 主人公アルヴィ・シンガーは、とにかく極度の心配性。些細なことにこだわってそれで自滅する。「これじゃだめだだめだ」「これはまずい」と理屈をこねながら、自分のまわりの人間関係も壊していく。まさに教養が邪魔して人生がうまくいかない。このアルヴィの子ども時代のエピソードがまた、いかしてます。 あまりに無気力な子どもなので、連れてこられたカウンセリング室。まさに俗物そのもののオヤジ先生と、猛烈な母親にはさまれて、小学生アルヴィがつぶやく。 「宇宙は膨張しているんだ。だからいつか人類は滅びちゃう。僕たちに生きる意味はないんだ」 ハッブルが宇宙は常に膨張しているということを発見して、アインシュタインがそれを証明してしまいました。それを聞いたら、純真な小学生は心配するよなあ。この世界は、フーセンのように膨らんでいつかは「ぱちん」とはじけ飛んでしまう。「坊や、それはまだ何千億年もさきのことなんだぜ。まあ俺たちは、せいぜい人生を楽しもうじゃないか」と、オヤジ臭ぷんぷんのカウンセラー先生に言われても、アルヴィの心は晴れない。そりゃ晴れないよなあ。あんたみたいになりたくないし。 西洋の科学は宇宙を解明してきた。でも、ひとりの少年の心を納得させて、人生を楽に生きるための教えとなる理論は、まだ生み出せていないようだ。 ところで、この映画のタイトル。もちろんダイアン・キートン演じる売れない歌手の名前なんだけど、どうしてこの名前なのか。ダイアン・キートンの実名が「ダイアン・ホール」で、彼女のニックネームが「アニー」だからとか。 IMDBのユーザー・レビューのどこかに 書いてあったんだけど、本当ですかね。 生きることと死ぬこと >>>

泰平は傾く

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平らなものは必ず傾き、 去ったはずの閉塞の時代は必ず復ってくる。 「易教」一日一言(到知出版)から、6月26日「地天泰」の卦の解説です。 泰平の時(平和ですべてがうまくいっている時)はとかく安易に考え、安泰が永遠に続くという錯覚に陥りやすい。しかし、そうした安定を傾かせてしまうのは、「うまくいっている」という油断であり、ゆるんでしまったこころである。会社の経営においても国家においても、平和で安定した時期における手抜きや油断が、のちの危機的状況をまねく。 この世のなにものも、ひとときたりとも止まってはいない。いつかはすべては滅びるのだし、安定は崩壊に、平和は危機へと変わるものだ。そのことを意識することで、生き生きとした毎日を生きることができる。そして、いつかはかならず、再び危機やってくるという意識を持ちつづけてこそ、安定を続けることができる。平和だから、安定しているからといって、決して危機管理を怠ることのないように。 松下幸之助氏の教えはこういうことかと思う。そしてこの教えは、中国の古典「孫子」に流れる中心原理と同じでもある。 Photo: NASA Goddard Laboratory for Atmospheres 泰平は傾く >>>

いずれは無くなる

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「企業に限らず、いっさいのものには寿命がある。今と同一の形態で永遠性を保つことはまずできない。そう考えておいたほうがいいのではないか」。 松下幸之助の言葉を集録した 「社長になる人に知っておいてほしいこと」(PHP総合研究所・編) に、この、はっとするような表現を見つけました。松下電器の創始者である松下幸之助ご本人が、「そう考えておいた方がいいのではないか」と語っているのは、つまり松下電器とはいえ、「いずれは無くなるもの」としておいたほうがよいということだ。 いまのパナソニック社員が聞いたら、えらくがっかりしそうなものだ。でも実は、この言葉が表している考え方こそが、会社を長く維持するために重要なことなのではないか。 「いずれは滅びる」というこの考え方は、松下幸之助が、ある禅僧との対談の中で得心したもの。いずれすべてのものは無くなるというのは、仏教における「諸行無常」という考え方で、もっともあたりまえのこと。企業どころか、空に浮かぶ太陽も、宇宙も、仏教そのものも、いつかは消えてしまうのです。 だからといって、私たちの日々の暮らしが意味を持たなくなったり、仕事へのやる気をなくす必要はないですよ。むしろまるで、逆の教えなのです。 その教えとはこういうことです。すべてのものは昨日から今日へと変化している。日々すべてのものが新しくなっていく。だからこそ、毎日生き生きと生きてゆきなさい。そして、どんなに安定しているときも、固定的な価値観にとらわれてはいけないということ。企業で言えば、同じ戦略をいつまでも続けるといったことをしていてはいけない。恐れずに変化を求めよ。 日本の高度成長時代を支えた松下電器産業(現パナソニック)は、現在でも事実上、世界で最大級の事業体なのだそうです。1935年に創業とのことなので、あと四半世紀で100年企業となりますね。パナソニックは2010年3月期に2期連続の最終赤字となったということが、6月25日の株主総会で明らかになりました。 日本の家電メーカーすべてが厳しい家電不況に悩む中、当然のことかもしれない。しかしこういう状況でも、パナソニックには、特別な存在として元気でいてもらいたいものだ。松下幸之助氏の言葉を読んで、そう思う。 泰平は傾く >>>

煙草屋お婆ちゃん

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タバコ自販機のすぐとなりに、おばあちゃんが座っているタバコ屋さんがあったとしたらどうするか。僕はとりあえず自販機にコインをいれるかもしれません。おばあちゃんと視線をあわせないようにしながら、するすると自販機に近づいて... いや、勇気を出してあの売り台に向かうかな。そうすれば、おばあちゃんに「今日は蒸し暑いね〜」なんてちゃんとご挨拶して、「今日も頑張っていってらっしゃい〜」なんて笑顔付きの元気をいただくことが出来る。それがもし、自殺前の最後の一服の予定だったとしても、それで「はっ」と思い直して生きようとするかも知れない。いやーしかしなぁー。そんな想像も馬鹿馬鹿しくなるほど気ぜわしい今日。そもそも、おばあちゃんの座ってるタバコ屋さんを見かけないんだな。 最近ではたまにしか行かないデパート。店員さんの応対が、ばかに丁寧なものになってきているように感じる。満面の笑顔で近寄って来てくださるのはいいんだけれど「何かお探しですか?」と聞かれても困るんです。ただぶらぶらしているだけなので。百貨店業界の長引く経営不振から、店員さんも一生懸命なのだろう。でも、ホームセンターに慣れてしまった僕には、放っておかれて、店員さんを探し回るくらいで調度いいんです。せっかく優しくしてくれているのに、不調法ですみません。 それから、コンビニやファミレス、ハンバーガーショップの店員さんに共通しているのは、アンドロイドことば。(マニュアルに書かれたとおり、ロボットのように話すばか丁寧な言語)私はそういうところでのアルバイトの経験はないので、よくわからないのですが、おそらく新人研修の過程で、話すべき言葉や内容をすっかり刷り込まれて仕事につくからなのでしょう。丁寧語がぜんぜん丁寧語ではなく、愛想がぜんぜん無い笑顔になって、人間というよりも役者に近い存在ですね。これをおちょくる、悪いおじさんもいたりするので、やっている店員さん本人が一番大変だろうけど。 あれは、ディズニーランドあたりがその元祖かなぁ。とにかくアメリカというのはマニュアル社会で、組み立て工場での「ネジの締め方」だけで30ページのマニュアルがある(うそです)。だからディズニーランドで働いている、いろいろな方たちは本当にマニュアルどおりに、キャラクターに徹している(これはほんと)。実際に彼らはキャスト(役者)と呼ばれていました

自販機はハタラく

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ふたたび、6月6日(日)の日経新聞朝刊・春秋欄から。 香港の新聞に、日本にこれだけ自動販売機が多いのは「少子化対策の一種」であり「移民の仕事を代行している」という論説が紹介されたということです。なるほど、これはちょっと面白い考え方だ。日本の自動販売機は、日本における雇用を吸い取ってしまっているということ。本来ならば、コンビニやスーパーで人間がやるべき仕事なんだから。 ということは、自動販売機をなくせば、失業率を下げることができる? 自販機撲滅? いやー無理ですよね。なぜなら、消費者はみんなコンビニの店員さんよりも自販機が好きなんだから。「人の顔を見ないで買う」ほうが気楽で良い。前述の日経・春秋欄では、浅田次郎さんのエッセー集「つばさよつばさ」から、浅田さんの卓見(以下引用いたします)を紹介している。「日本の自動販売機増殖の本当の理由は『われわれが物の売り買いにまつわるコミュニケーションすらも、不要なものだと考えた結果』ではないか」。コミュニケーションって大事なのになあ。 日本中に置かれている自動販売機。2000年のピークには560万台もあったそうです。とにかくこれは世界一。台数も売り上げも、最近は下降線をたどっているとはいえ、2008年で526万台という台数は世界一。そして性能の高さも、だんとつ世界一。写真は携帯付き自動販売機。(くわしい機能は知りませんが、何か面白そうです)数は減っていても、機能はどんどんアップ。そのうちに、押し売りして歩く、ガンダム型自販機なんか登場しないとも限らない。うわー怖い。 日本の代名詞となってうれしくないものとして、タクシーの自動ドアや、開店寿司があります。びみょうなところでウォッシュレット。外人さんが我が家に来て「うぉー、便座があたたかいー。トイレから水が出る〜」と感動されると、ちょっとうれしいのだけれど。日本人が「せこい発明オタク」に分類されそうでコワいんです。これからも日本では自動販売機が、愛されて続けて増え続け、進化を遂げる。きっとまた日本型自販機の「ガラパゴス現象」とか言われるようになるのでしょうか。あるいはもうすでに、そうなっているのかも。 Wikimedia Photo by :  Kuha455405ギャラリー つづきを読む >>>

宇宙人型ヒーロー

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「命も要らず、官位も金も望まぬ者ほど御しがたき者なし。しかれども、この御しがたき者にあらざれば天下の大計はかるべからず」 明治維新の立役者、西郷隆盛の遺訓。6月2日(例のオヤユビポーズの掲載された日)の日経新聞・春秋欄に、鳩山首相の座右の銘として紹介されている。この朝刊が、新聞社の輪転機からはき出されていた頃には、鳩山首相は自らの辞任を心に決めていた。それなのに、全国紙5紙ともに、見事に「オヤユビポーズ」にダマされて「首相続投へ協議継続」とヘッドラインを打ったあの朝。その日に掲載されたところが、まことに味わい深いのだ。やったね鳩山さん。 薩摩の下級武士出身でありながら、名君島津斉彬の抜擢を受けて、一躍明治維新の中心人物となった西郷隆盛。一方の幕府方代表を務めた勝海舟とともに、江戸城無血開城を果たしたのは、こうした「無私」の心を持つ英傑だったことが大きい。勝海舟は、その回顧録でしきりに西郷夭折を悼み、彼の志の大きさ、無欲のこころの美しさを讃え「南州(西郷の号)ほどの人物はいない」と嘆く。もともと「死して美田を残さず」という気風に満ちた、薩摩の出身とはいえ、西郷という人物は、それほど気高く巨大であったという。 この世における「名声」「地位」「金」と無縁で、ただひたすら国家に遣える西郷の姿は、現代人の価値観からいうと、まるで宇宙人。「一体何を考えているのかこのひとは」と理解されないだろう。「それなら、なんで政治家になんかなるのか」といぶかしがるだろう。現代における宇宙人代表の鳩山由紀夫氏が、敬愛するのも当然だ。 さて、冒頭の言葉だが、これは実は「闘う者の極意」でもある。剣術の世界でも「闘う意志の全く無い者」ほど、戦いにくい相手は無いそうだ。宇宙人のように、究極の傍観者を決め込んだ政治家ほど、強力な政治家はないってことか。そういう意味では、鳩山さんはいい線いっていたのかもしれないなぁ。しかし、鳩山さんもいったん退場。まあ、そんなに落胆する必要はないですよね。あれだけの大人物であった西郷隆盛でも、結局は明治政権が樹立された後は、不遇となり中央政権から離脱してして、死地へと向かったのですから。 鳩山由紀夫氏が、ほんとうに宇宙から地球を救いに来たヒーローだったとしら、これはSF映画のシナリオになります。うんうん。こんな感じで? 地球上のあまりのごたごたを見

傍観者とヒーロー

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鳩山さんは自分の言葉通りに「五月で決着」をつけてしまった。自分自身が決着しただけで、問題は何も決着してないけどね。でもまあ、自分で賞味期限を決めてそれで自分で降りちゃうというのもまあ、責任あるリーダーとしては、ある程度は立派な行為。以前に「傍観者」ときめつけちゃったけど、こと自分に関してはちゃんと「当事者」だったんだ。すくなくとも「あなたとは違います」ということで、完全に自分を棚にあげちゃった方よりは、さっぱりとしていて良いですね。しかし本当に、日本の総理大臣って大変なんだな。4代もつづけて人気を全うできないなんて。 さてこちらは、5期もの長期「任期」を勤めあげた男、クリント・イーストウッド。映画ダーティー・ハリー」シリーズは、1971年の第一作から、1988年の第五作までのあしかけ20年近く、現役としてその任務を担ってきました。 ついにブルーレイ全集も登場です 。すごく欲しいな〜。感想書くので、誰かサンプルで下さい。 ダーティー・ハリーことハリー・キャラハン刑事は、それこそまさに、日本で言う清水次郎長や幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)だ。殺人課の刑事なのだから当たり前だけど、とにかく「当事者意識」が強い。どんな事件にもどっぷり首をつっこんで、なんでもかんでも自分で解決してしまう。その解決方法があまりにも自己流なので、それは解決というよりも自己決着とでも言うべきかもしれないが。「俺が居合わせたからにぁ、けんかはゆるさねぇ〜」という啖呵が似合う風来坊刑事。とっつきにくくてシャイなくせに、事件となると完全に頭に血が上って、誰よりも本気で事件を解決してしまう。 どんなに事件操作で忙しくたって、飛び降り自殺の現場に居合わせれば、クレーン車に飛び乗って体を張る。ランチ休憩中でも、銀行強盗と見れば、マグナム44をぶっぱなして弾倉をカラにする。「あっしにゃ、かかわりのないこってござんす」という「傍観者」ふうの顔をしていながら、いざとなれば事件の矢面に立って、第一級の「当事者」となる。これこそ、みんなが待っているヒーローだ。そういえば、ある意味「木枯らし紋次郎」や「寅次郎」にも似ているんだな。世間とは関わりを持たない渡世人風でいながら、実は世間のことを一番心配している。そう、神様っていう存在にちょっと似ている。 しかしまあ現実の世界では、ヒーローもなかなか大

鳩山由紀夫さん

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清水次郎長と一国の首相をくらべるのもどうかと思いますが、鳩山由紀夫さんにも、もうすこし「当事者」意識を持っていただきたいものです。この間の普天間基地移設問題への対応を拝見していると、どうもその「傍観者」的な姿勢が気になります。 内閣総理大臣という仕事をいちど引き受けた以上は、すべての国事に対して一生懸命に働くのが当然です。なによりも、ご本人たちが選挙中に、そのようにおっしゃってませんでしたでしょうか。「この身を挺して働きます」とか、「日本の国政に全身全霊を傾けて」取り組むとか、おっしゃっていたような。 昔から「綸言汗のごとし」と言います。とても偉いひとの口から出た言葉は、どうしようもなく重いもので、決して取り消すことは出来ないものですよ、という教えです。普天間基地移転問題を、五月には責任持って決着すると、おっしゃていました。明日で五月は終わりです。 鳩山さんにしても、その前の三人にしても、日本の首相の言葉は軽い。前言撤回、朝令暮改はまだしも、最近はどちらかというと記憶喪失。なぜなんだろう。この無責任さは。どこからくるのか。この当事者意識のなさは。「俺が首相だ!」という意気込み、あるいは責任感といか、当事者意識というものが、みなぎってこない。これはどうして? 二代目だから? 国の政治にしても、会社にしても「Founder = 創設者」には、重たい思い入れがあるものだ。でも二代目にはそれが無い。かりに、国や会社が潰れてしまっても、先代ほどは責任も重くはない。命を掛けて守る理由もない。大変なことは引き受けたくない。 「傍観者」は気が楽だ。何かあってもそれは誰かほかの人の責任だし、自分では責任を取らない。鳩山さんに限ったことではなく、現代の社会におけるリーダーには「傍観者」タイプが多いようにも思える。複雑怪奇な経営システムを仕切り、重すぎるリスクを背負い、株主からの要求を受けながら、歯を食いしばって経営を続ける。「当事者」として、そんな面倒なことはやりたくない。それが、近年の経営者の本音なのかもしれない。 現代社会には、清水次郎長や幡随院長兵衛のような、「当事者」型のリーダーは出現にくいのだ。「当事者」意識に燃えるリーダーを生み出すシステムも無ければ、そのリーダーを守る、高い精神性を持った社会理念も無いのだから。「当事者」型のリーダーになっても、

清水次郎長

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自分のこともふくめてだが、都会ではすべての人間が「傍観者」になってしまいやすいのだろう。というよりも「当事者」になりにくいし「当事者」となることは大変なのだ。トラブルを見たからと言って、へたに口出しすれば、「うっせーなー」とか「うぜー」とか言われるのが関の山、場合によっては変な責任まで押しつけられてしまうのではないかと考える。だから、電車でウンチ座りする若者に、誰も何も言わないし、言えない。 江戸時代を舞台にした、落語や講談の世界では、なにかというと、ケンカやトラブルの仲裁にはいりたがるヒーローがいて、この世の問題を一気に解決してくれる。「清水次郎長(しみずのじろちょう)」や「幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)」といった、親分集だ。彼らはいわば私設の「知事」であり「警察署長」であり「簡易裁判所長」であり、とにかく地方自治において重要な役割をになっていたのだ。まさに「自治」という文字そのものを体現していた。どちらも、実在の人物です。 現代における「知事」や「警察署長」は分業だ。なぜかというと、こうした「権力」を一箇所に集中すると大変なことになる。「知事」が犯人を逮捕して判決をくだせるようになったら、一体何をしでかすことかわからないから。そうか。逆に言えば、江戸時代で何でもかんでも解決してくれた、ヒーロー的親分は、安心してすべてを任せられる、人格者であったということか。 上記の二人のような親分衆のことを「侠客」という。広辞苑によると「侠客」とは、「強きをくじき弱きを助けることをたてまえとする人。任侠の徒。江戸の町奴に起源。多くは、賭博、喧嘩渡世などを事とし、親分子分の関係で結ばれている。」とある。喧嘩渡世ってわかります? 喧嘩が仕事なんですよ。というよりも、喧嘩の仲裁。 上方落語には「どうらんの幸助」という希代のキャラクターがいる。いつも「どうらん(胴乱=お財布のこと)」をぶらさげているので「どうらんの幸助」とよばれる、まあ町の親分さん。やくざでもないのに、「幡随院長兵衛」を気取って、あちらこちらの喧嘩を仲裁して歩く。一代で起こした炭屋の隠居なので、潤沢な小遣いを使って、ダイナミックに仲裁していく。なんと、犬の喧嘩にまで割ってはいる。喧嘩をしている野良犬の気を散らそうと、生節まで買って与えるという「喧嘩の仲裁」マニアだ。 「喧嘩好き」ということは、

傍観者の時代

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「傍観者」という言葉は、無責任で他人まかせな、現代人にぴったりだ。周囲の人間が、どんなに一生懸命やっていても、それをひややかに見ているだけ。「人には構わず」で「あっしにはかかわりのないこってござんす」というのが「傍観者」だ。電車や雑踏の中での、いざこざを見ても「見て見ぬふり」の乗客。けが人や急病人があっても、遠巻きに見るだけで助けもしない群衆。 ところで、このピーター・F・ドラッカーの名著「傍観者の時代」に登場する「傍観者」とは、実はドラッカー氏ご本人のこと。世界中から尊敬され、MBAの始祖とも言える氏について、「傍観者」だなんてとんでもない。この本で、ドラッカー氏が言う「傍観者」とは、わたしたちが考えるような「傍観者」とは全く違う。それどころか、まるで逆かもしれない。 この本には、ドラッカー氏が、長い人生の中で見た「人間の記録」である。ドラッカー氏ご本人のおばあちゃんに始まり、オーストリアの蔵相、元ナチス親衛隊副隊長まで、多種多様な人物の真実に迫る、観察の記録なのである。この観察とは、理科実験的な意味で言うような「観察」とは違う。ドラッカー氏の前に現れた人物になりきってしまうほど、超近距離からの観察であり、分析と考察なのである。そして、ナチスドイツによるオーストリア併合や、ユダヤ人への迫害、第二次世界大戦にいたる20世紀を、ひとりひとりの人間を通して見つめている。 客観的に人間を見つめること。つまり自分の「好き嫌い」や「先入観」を廃して、純粋に人間を見つめる。善人であろうと悪人であろうと人間である。自分自身の人生を全うしようとする存在であることは、一国の首相でも一市民でも変わらない。自分という存在を通して、自分のまわりの世界をベストに持って行こうとする点で、すべての人は同じという考えかた。ドラッカー氏の言う「傍観者」には、そういう意味があると思う。 現代のメディアを通して現れる「人間」はすべて、ある明確なワクに収まっていなければならないようだ。メディアは、そこに現れる人間を、その時々に応じて、あるカテゴリーに入れ込まずにはいられない。良い人間、悪い人間、それか、普通の人間。だけど、ドラッカー氏のいうような「傍観者」の視線は、すべての人間を「同じ人間」として見ている。そして、すべての人間は、すばらしく面白い。 スーパーおばあちゃんは永遠に >

ヤノマミと精霊

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オカッパ頭の「ヤノマミ族」の男が、カメラに向かってつぶやいている。「ナプを殺すか〜殺さないか〜。どうするか〜」。 NHKスペシャルの映像。これを見ている限りでは、なんだか鼻歌を歌っているようでもあるけれど、実は恐ろしいことを、精霊と相談しているところ。「ナプ」というのは、彼らの言葉で文明人のこと。つまり、彼の目の前で撮影をしている、NHKのカメラマン、菅井禎亮さんのことを「殺そうか〜」と言っているのだ。 ソニーのHC-7  というHDDハンディカムで撮っているそうなので、目立ちはしないだろうけれど、なんと自分を「殺そうか〜殺すまいか〜」とぶつぶつつぶやいているこの男のアップショットを撮り続けている。菅井さんは、この男の言っている内容を知らなかったのかも。隣にいたポルトガル人の通訳は、この時、全部は訳さなかったとのことだから。しかし、まさに命がけの取材だったようだ。 ヤノマミ族の人たちは、よく精霊たちと交流しようとする。鼻にむけて、幻覚剤になる葉っぱの煙を吹きかけながら、しだいにトランス状態となって、精霊と話しをするのだ。菅井カメラマンの前に立ちはだかった、この男の鼻も、幻覚剤の煙を浴びて真っ黒だ。 この一族の中で、一番霊的レベルの高いシャーマン、というおじいさんも番組で紹介された。彼は、たった一度だけ、取材クルーに向かって話をしてくれたそうだ。その内容は、生命の「輪廻」に関するものだった。「人間は死ぬと、空の精霊になる。現実での死は死ではないのだ。しかし空の精霊もいつかは死ぬ。そして大地に降りて来て虫になる。虫はいずれ大地に食べられる」。こういう内容だった。どこかお釈迦様の教えに、近いものがあると思った。彼ら「ヤノマミ族」の考えていることは、精神的にとてもレベルが高いのではないだろうか。 ところで精霊と言えば、水木しげるさん。 「 水木しげるサンの迷言366日(幻冬舎) 」の、3月19日の項に、ニューギニアの人々の霊的能力について、こう書いてある。以下、引用させていただく。 「われわれには何も感じられないが、ニューギニアの森の人々は、そういう妖怪感度が高いのだろう。彼らの文化水準が低いから感じるのではない。むしろわれわれよりも、霊的文化が高い。 そういう意味で、いわゆる文明人なるものは霊的バカが多いのだ。 すなわち感度が悪いためにニブイ

ヤノマミ族のこと

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あの話題騒然のNHKスペシャル「ヤノマミ」についての特別講義がありました。撮影現場での壮絶な体験談などもお聞きできて、本当に幸せな時間でした。 ____________________ 「ヤノマミ」の子供たち。「ヤノマミ」とは、彼らのことばで「人間」のこと。彼らを150日間取材したNHKのカメラマンたちは、彼らから「ナプ」とよばれたそうです。「ナプ」とは「人間以下のもの」ということだそうです。面白いですね。 「ヤノマミ」の人たちの価値観から言うと、森の精霊との生活を忘れてしまい、不気味な一つ目のビデオカメラをぶらさげ、干涸らびたオートミールなんぞ、もぞもぞ食べている、そんな人間というのは、レベルが低いといういうこと。 NHKスペシャル「ヤノマミ ~ 奥アマゾン 原初の森に生きる ~」 は、NHK取材班が、10年越しの交渉を経て、ついに現地人との共同生活をゆるされて、決死の撮影を行ったものだ。この番組冒頭での映像も衝撃的。実は目の前で撮影をしている、NHKのカメラマン、菅井禎亮さんのことを「殺そうか〜」と言っているのだ。 ( Photo : Etnia Yanomami del Estado Amazonas, Venezuela en el alto orinoco. ) 水木しげるさんも、太平洋戦争中にラバウル(パプアニューギニア)で出会った現地人の、神聖なる生活ぶりについて書いています。以下は「 水木サンの迷言366日(幻冬舎) 」2月1日の項より。 「私は、軍隊でも特にいじめられたり、罰を受けてたりしていたので、そういう社会の仕組みに反発を感じていた。ところが、"土人"たちは、ゆったりと楽しそうに暮らしている。 それを見た軍曹などは『馬鹿だから、ああいうふうにしているんだ』と言う。 しかし、賢いはずの日本人は、意味のない戦争という馬鹿馬鹿しい生活環境の中で一生懸命になっている。どう考えても、彼らの方がずっと幸せで、考え方もよい。」 水木先生のこういう考え方に、私も強く共感するのであった。

生存競争

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今日の日曜日、ニューヨークでは泥酔したサラリーマンで溢れているのではないでしょうか。先週末にとんでもない損害を出した人。今週の市場のことを考えて死ぬほど不安な人。トレーダーの仕事とは、精神的にかなりしんどいものだと聞いたことがあります。今週一週間、自分は生き延びることができるのか? 一旦商機を得れば、一夜にして大金持ちになる。成功報酬の率がバカ高いので、自分の取引で巨額の収益を得れば、その一部はそのまま高額ボーナスとして自分のものに。何億円というとんでもない額になることがあるそうです。でも一方で、大損害を与えた場合は... ひたすら損害を隠し続けるか、こっそり会社の損害のどこかにすり替えるか、しっかりけじめをつけて退職するか。大損害を抱えたトレーダーは、いろいろと悩み苦しむことになるのです。大変な仕事ですね。(  モラルハザード >>>  ) 先の読めないリスクだらけの市場で、トレーダーはどうやって生き延びたらよいのか?ほんの少しの情報の断片にすがりつき、複雑怪奇な市場の動きを予想するために、複雑怪奇な方程式でリスク計算をし、結局はそうした中で、自分自身の感性に相談しながら一瞬の賭けに出る。間違えが連鎖的に続いたらたら、すべては終わり。1997年にニューヨーク株式市場の大暴落で、ビクタ ー・ニーダーホッファーさんという1人のアメリカ人投機家 が、たった一日で50億円を失い破産に追い込まれました。そして彼について、他人事のようにでクールなコメントをしていた、マイロン・ショールズ博士さえも、その翌年には空前の損失を出して、LTCMというファンドをたたんでしまいました。 1998年11月に放送された、NHKスペシャル「マネー革命」という番組は、金融市場というものの凄まじさを見事に描き、このあたりの消息を詳しく伝えています。「マネー革命」では、一方で、しぶとく生き残り続ける天才トレーダーの話も出てきます。シカゴの先物商品取引所(CBOT)でもっとも有名なトレーダー、トム・ボールドウィンです。番組スタッフのインタビューに、ボールドウィンは、その「生き延びる」ための極意をいろいろと答えています。 トレーダーとは非常に孤独な仕事であると、ボールドウィンは言います。たったひとりの人間として、周囲の動きを観察して、他人とは違う独自のアイデアを導き出す

アルゴリズム取引

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「アルゴリズム行進」は誰もが大好き。NHKの人気番組「ピタゴラスィッチ」[*1]のメニューの中では「ピタゴラ装置」と人気を二分する大人気コンテンツですね。 ________________ [ アルゴリズム行進(歌詞 抜粋) ] 一歩進んで前ならえ 一歩進んで偉い人 ひっくりかえってぺこりんこ 横に歩いてきょろきょろ ちょっとここらで平泳ぎ ちょっとしゃがんで栗拾い 空気入れます しゅー しゅー 空気が入って ぴゅー ぴゅー _______________ ところで、この「アルゴリズム」というもの、今回の金融パニックで取りざたされています。「アルゴリズム取引」と言われる、コンピュータによる自動取引システムが、あまりにもすばやく、あまりにも過剰に繰り返し反応したために、株式の急激な下落を引き起こしたと言われているのです。一瞬の判断が命取りになる、金融トレーダーの世界。人間の判断では、瞬間的な局面に追いつけずにミスを犯してしまうため、コンピューターが常に、異常な値動きなどがないか、見張っているのだそうです。 今回の株式下落では、どうもそれがうまくいかなかったみたいです。「アルゴリズム」の立場から言えば「言われたとおりにやっただけ」ということ。でも、人間ならば「なんかやばいぞ」ととっさに取引から身を引くところが、アルゴリズムには分からない。「売り局面で売る」のは当然なのですから、世界中の「アルゴリズム取引」は、売りに売りまくったようです。その結果、ニューヨーク証券取引場での、20分間で1000ドル近い下げが起きたのではないかと言われています。人間が「おいおいおい」なんて、びびっている間にも、どんどん取引を進めていってしまう。 前述のアルゴリズム体操も、子供ではなく、大人がそろってやっているところが面白いんです。「一歩進んで前ならえ」なんて言っているうちに、目の前に落とし穴があっても、全員そろって突進していってしまいそう。そういう「危ないロボット集団」みたいな動きが、とても面白いのだと思います。 「アルゴリズム」は最初に人間が決めたとおりにしか動かない。当然です。世界で最も有名なコンピュータ、映画「2001年宇宙の旅」の HAL 9000 。世界最高のコンピュータのはずなのに、人間の言ういい加減で矛盾した指示が理解できずに、結局狂っ