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前にも来たことがある

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一昨年の秋にある学会で訪れた台南の商店街です。水彩と色鉛筆で描いてみました。こうして見ていると「ここに、もう一度行きたい」という気持ちが湧いてきます。そして、いつか必ず行ってしまうと思います。きままな旅が好きな私ですが、旅の歩き方に変な癖があります。二回以上訪れた街で、前に行ったことのある場所に行ってしまう。せっかくの二回目なんだから、新しい場所を開拓して、見聞を広めればいいものを、わざわざ行ったことのある場所に行く。なんなら、ホテルもわざわざ同じところに泊まったりします。京都もプライベートや仕事でずいぶん行きましたが、ひらがなのお稽古のように同じ場所をなぞることがあります。どこからスタートしても、結局は木屋町通りにたどり着き、一条から五条まで歩いてしまう。せっかくロンドンに行っても、もったいないことに同じところばかり行ってしまいます。「そこが以前と変わらずにいまもそこなのか」点検しているみたいです。ときどき「自分は何をやってるんだろう」と思います。「デジャヴ」という経験ありますよね。あの感覚が好きなのかもしれません。老境に近づいてきて想うのですが、もしかすると私は、人生でも同じことをしているのかもしれない。そこそこ長い時間生きてくると「人生のどこかで見た景色」に出会うことがちょくちょくあるのです。「これって前にやったよね 」という感覚です。そんなことをぼんやり考えていたある日、高水裕一先生の「時間は逆戻りするのか」という本を読みました。基本的には宇宙物理学の本なので、わからないところも多かったのですが、「ほんとその通りだよー!」と思う箇所もたくさんありました。特に気に入ったのはこの話です。最新の物理学の理論によると、私たちが生きているこの宇宙は、既にこれまで「49回」も繰り返されてきた可能性があるというのです。ほらね。やっぱり、また同じところに来てたんです。

二番目は必要ですか

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「二番ではダメなんですか?」というフレーズが、一時期流行となりました。私の答えは「二番も大事」と決まっています。特に、映画の撮影では絶対にそうなのです。
映画のオープニングタイトルで、クレジットされるのは、監督、カメラマン、編集マン、作曲家、キャスティングディレクターなど「一番メインのスタッフ」と決まっています。ところがエンド・クレジットをよく見ると「二番目」の人たちの名前も載っているのです。お気づきだったでしょうか?
その二番目の人たちは「セカンド・ユニット( 第二班 )」と言って、メインのスタッフが撮影する余裕の無いシーンを担当するのです。遠方の海外ロケや、俳優が登場しない情景シーンなどを担当することが多いです。
ジョージ・ロイ・ヒル監督の名作「明日に向かって撃て」でも、その第二班が活躍しました。第二の監督の名前は、ニッキー・ムーア、第二のカメラマンは、ハロルド・ウェルマンと言って、メインのカメラマンである、コンラッド・L・ホールの親友です。

この映画で彼らが担当した仕事が、実はまさにオープニングタイトルの映像だったのです。ブッチ・キャッシデイとサンダンス・キッドが活躍した時代の列車強盗のシーンを、古びたクラシック映画のテイストで撮影しました。悲しげなトーンのピアノと、この映像の組み合わせがあまりに良くて、肝心のメインスタッフのクレジットが頭に入らないくらいです。
私自身は、実はこのオープニングタイトルは、何か昔の映画のフィルムを拝借して作ったものとばかり思っていたのですが、最近これが、セカンド・ユニットによって新たに撮影された映像であったと知りました。騙されるほど、よくできたクラシック映画のシーンですし、メイン監督のジョージ・ロイ・ヒル監督もとても気に入っていたとか。
「明日に向かって撃て」では、このように本編とテイストを別にする挿入シーンがいくつかあって、それが映画全体を引き締めて、いい意味での気分転換となっています。「雨にぬれても」の挿入歌で有名な自転車シーンもその一つで、ともすれば悲劇的なトーンになりそうなこの作品に、永遠に消えない明かりを一点灯しています。「第二のチーム」が残した映像も、あちらこちらでこの映画を引き締める役割を果たしています。
撮影賞も含めて、アカデミー賞を三つも受賞したこの作品ですが「二番目」のクルーの働きがなければ、ここまでの名…

時代に取り残される

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「取り残される」

実に人を不安にする言葉ですね。周囲の仲間や家族がどこかに行ってしまって、たった一人になってしまうイメージ。子供の頃に何度か見た怖い夢。現代社会のストレスの中にも、何かに取り残されてしまう恐怖のようなものがあるのではないでしょうか。

現代社会では、常にどこかで何かが取り残されていきますよね。私たちの生活を便利で快適なものにする技術進歩が、常に何かを追い越し、何かを過去のものとして捨て去っています。
スマホが全世界に普及して、電話ボックスも公衆電話もいつのまにかどこかへ消えてしまった。カメラもデジタルになってフィルムも入手できなくなりました。ラジオやテレビもいずれはネット配信にその座を明け渡し、貨幣ですら姿を消してしまうのかもしれませんね。
うかうかしていたら「あなたのやり方は古い」とか「あなたの価値観は現代には通用しない」とか言われて、私自身も時代に取り残されてしまいそうです。バージョンアップを忘れたアプリみたいに。
でもよく考えてみたい。このような技術進歩に伴う変化や、価値観の転換というものは、結局は人間社会の勝手な都合で起きているに過ぎないのかもしれない。
その証拠に、目を上げて野原を見れば、そこには昨年と変わらず、黄金色の落ち葉が秋の陽を受けて輝いています。青い空をバックに白い雲が流れていきます。季節によって変転しつつも自然界の営みと本質は、何も変わっていないのです。
時代に取り残されると言っても、人間が自分で自分を追い越し、過去の自分を否定しているだけ。思えば、人間は勝手に苦労を背負いこんで、それと闘っているだけなのかもしれません。
もっと気楽にのんびりと、バージョンアップもほどほどではいかがでしょうか。人類が地球の上で何を成し遂げたところで、大宇宙に流れる悠久の時の前では、ちょっとした誤差程度なのかもしれないし。

ショーウィンドウ

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ショーウィンドウというものは「ショー」というくらいだから、お店の品物を展示して見せるためのもの。でもこの絵のように「これでもか」と品物を詰めて並べたウィンドウには時々驚かされます。
古い石造りの建物にむりやり開けたようなドアとウィンドウ。しかたなく、こんな詰め込みになってしまうのでしょう。ヨーロッパの古い街角で、よく見かけるスタイルですが、日本で見たらこれは質屋さんかな。
このお店はいわゆる金物屋。時計やら工具やら小物がいっぱい並んでいるだけなのですが、遠くから見るとなんだか博物館のようです。前を通るたびに、ついつい惹かれて近寄って見るのですが、結局一度も中には入りませんでした。
でも、外から見ただけでこのお店の「気持ち」がわかったような気もします。
人間にもこんなウィンドウがあったらいいかもしれない。通りすがりの人から「いい心がけですね」とか「すごいもの持ってますね」とか覗いてもらえます。

(挿絵は、ポーランドの小都市チェシンの裏通り)


楽しきと思うのが

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うちのトイレにかかっている「べんぞうさまカレンダー」には、毎週ひとつだれかの金言が載せられています。それを見るのが楽しみですが、ときどき「おやっ?」と思うことがあります。例えば、寛政の改革で有名な松平定信の言葉。
 楽しきと思うのが  楽きの基なり
 松平定信
こんなのは、ちょっと意表をつかれた気がします。腐敗した賄賂政治を立て直した堅物政治家かと思いきや、粋な言葉を残されたものです。なにごとも楽しんでやらなければいけない。そうですよね、むしろ、こういう考え方ができたからこそ、天明の大飢饉から藩政を立て直す難事業をやりとげられたのですね。
一方で、先週のNHKラジオ講座では、こんな言葉が紹介されていました。「ピーターパン」の原作者でもある、J.M.バリイ 氏が残された言葉です。
 できれば何かほかのことをしたいと思わない仕事は、本当の仕事ではない。
 Nothing is really work unless you would rather be doing something else.  James Matthew Barrie

「家に帰って寝てたほうがまし」とか「こんなの早く終わってゲームしたい」とか思うくらい大変でないと、それは本物の仕事ではない。仕事はツラくて当然ということですね。現代にも通じるポイントを押さえた、いい言葉ですね。
でも、このふたつの金言格言を並べてみると、おたがいに矛盾して聞こえます。はたして仕事というものは、楽しいものなのか? 辛いものなのか? わからなくなってきたので、無作法ながら、ふたつの言葉を足し算してみますね。
 本当の仕事というものは「早く終わって別のことしたい」と思うほどツラい。  しかし、それでもそれを楽しんでやることが大事である。
あら? なんだか自虐的な話になってしまいました。これではまるで企業戦士向けの標語ですね。 失礼いたしました。この問題はまだまだ考え続けなければならないようです。


時間が存在しない場所

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寺院の庭。ここには動くものがほとんど無い。すべててが静かに佇んでいる。動きといえば時々訪れる小鳥たちか池の鯉の影ぐらい。響きといえばは水のせせらぎか鹿威しの音。石も草木も苔むした門もただ静かに黙っている。そもそも、まるでここには「時間」そのものが存在しないようだ。

アクションと喧騒のアミューズメント・パークとは別世界。映像と音響が五感をゆさぶる映画館とも対局の空間である。過剰な表現で描かれた想像世界にひたるのも楽しい。しかし興奮の記憶や感情も、いつかははかなく消えていく。

カルロ・ロベッリという物理学者の「時間は存在しない」という本によると、この宇宙には、そもそも時間など無いのかもしれないとのこと。すべては、物質世界に生きる私たち人間が感じているものに過ぎない。つまり気のせいだと。

寺院の庭のような場所が素晴らしいのは、私達をいつのまにか深い内省に導いてくれること。難しい理屈を知らなくとも、先端的な物理学者の理論に匹敵する真実に、私たちを近づけてくれる力を持っているのだ。

(挿絵は、北鎌倉の円覚寺の境内です)


野尻湖の水

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家のエアコンがこわれてしまった。消費税増税前の駆け込み注文と猛暑が重なってしまい、ぜんぜん修理に来てくれない。せっかくの夏休みが、我慢大会のようになってきたので、ついに野尻湖まで避暑に行った。
古い旅館をリノベーションしたペンションに泊まったのだが、オーナーは外国人の方であった。到着時刻を連絡するのに何度か電話したのに、外国人とは気がつかないほど、流暢な日本語を話す方だ。ひとなつこくて親切な彼は、食事中もずっと横にたって地元の話などを聞かせてくれました。いつか話題は、野尻湖の水の利権について。
「マッカーサーは憲法は変えたんですけど、日本の水の権利については手をつけなかったんですよ。野尻湖にかんする利権も明治のままなのです。知ってますか?」
「へえー。いや、しりまへん」
「野尻湖での釣りの許可については漁業組合が仕切ってます。釣り人のために鱒を放してるので、もとの自然の生態系ではないのです。桟橋を作るには国(国土交通省?)の許可がいります。湖の水量の管理は東北電力です。一旦新潟に水が流れれば、その水の権利は新潟県になります」
「はあー。そうなんですか!」 異国の方に、日本社会の仕組み教えていただき勉強になりました。
ぱっとみたところ、山奥に静謐な水をたたえた聖域のような野尻湖。 自然豊かな黒姫山を望むこのロケーションの素晴らしさ。 一方で、この湖は水の利権のかたまりであるとのこと。
日本の歴史も自然も、外国の方のほうがよく勉強していました。