Posts

野尻湖の水

Image
家のエアコンがこわれてしまった。消費税増税前の駆け込み注文と猛暑が重なってしまい、ぜんぜん修理に来てくれない。せっかくの夏休みが、我慢大会のようになってきたので、ついに野尻湖まで避暑に行った。
古い旅館をリノベーションしたペンションに泊まったのだが、オーナーは外国人の方であった。到着時刻を連絡するのに何度か電話したのに、外国人とは気がつかないほど、流暢な日本語を話す方だ。ひとなつこくて親切な彼は、食事中もずっと横にたって地元の話などを聞かせてくれました。いつか話題は、野尻湖の水の利権について。
「マッカーサーは憲法は変えたんですけど、日本の水の権利については手をつけなかったんですよ。野尻湖にかんする利権も明治のままなのです。知ってますか?」
「へえー。いや、しりまへん」
「野尻湖での釣りの許可については漁業組合が仕切ってます。釣り人のために鱒を放してるので、もとの自然の生態系ではないのです。桟橋を作るには国(国土交通省?)の許可がいります。湖の水量の管理は東北電力です。一旦新潟に水が流れれば、その水の権利は新潟県になります」
「はあー。そうなんですか!」 異国の方に、日本社会の仕組み教えていただき勉強になりました。
ぱっとみたところ、山奥に静謐な水をたたえた聖域のような野尻湖。 自然豊かな黒姫山を望むこのロケーションの素晴らしさ。 一方で、この湖は水の利権のかたまりであるとのこと。
日本の歴史も自然も、外国の方のほうがよく勉強していました。

巨額の寄付金

Image
ジョン・ベルーシとダン・エイクロイドのお馬鹿ギャグが炸裂する「ブルース・ブラザーズ」は、私の中でイチオシ映画の一つである。ストーリーは単純明解。自分たちが育てられた孤児院が、破産寸前の危機に直面している。それをなんとか助けようと、バンドを再結成してコンサートで収益をあげる。ドタバタの大騒ぎの末に、稼いだ5000ドルを寄附する。

「ブルース・ブラザーズ」の監督はジョン・ランディスだが、彼とならんで大好きなのはジェリー・ザッカー監督である。「ゴースト」は至高のラブストーリーだし、「ラットレース」は著名俳優大集合の豪華なコメディ映画である。二つとも私にとって、最高ランクの作品だ。どちらも人間の愚かさと素晴らしさの両面を表現つくしていると思う。

それに加えて、この二つの映画には、もうひとつ共通する重要なポイントがある。劇中で、慈善団体への巨額の寄附がなされるのだ。どちらの映画も、基本的には欲得づくの人間が、巨額の資金をめぐって右往左往する話なのであるが、最後にはそのお金はまるごと慈善事業に差し出されてしまう。お金を惜しがる俳優たちの表情に、ザッカー監督がほくそ笑んでいる顔が重なって見える。

何度も見返しても胸のすくような、これらの寄附シーン。
みなさんもご覧になってみませんか?



見た目どおりではない

Image
来年の授業にむけて、映像関係の教科書を書いている。慣れない作業のために時間がかかり、周りのみなさんに迷惑をかけてはいるが、自分としては勉強にもなって大変ありがたいことだと思っている。
おかげで、これまで観ていなかった映画もたくさん観た。ニール・ジョーダン監督の「クライング・ゲーム」も実はこれまで観ていなくて(観ていなくてよかったかも...?)この年になって大感服。驚愕のストーリー展開であった。それもそのはず、この作品のキャッチ・コピーは「なにものも見た目どおりではない」である。
古典の中では「失われた地平線」を観たが、デジタルリマスターの映像があまりに美しくて驚かされた。アメリカン・フィルム・インスティチュートが、世界中に散逸していたフィルムを収集し、再現修復に力をそそぎ「シャングリラ」の素晴らしい世界が蘇った。リュミエール研究所のティエリー・フレモーによって復刻された「リュミエール!」も素晴らしかった。これまで、傷んだフィルムで見ていた印象が、180度変わってしまった。
チャールズ・チャップリンの「独裁者」も、モノクローム作品だが、チャップリンの兄が撮影したカラーのメイキング・フィルムが残っている。それを見て驚くのは、当時のスタジオセットや衣装がカラフルなことである。ドイツ兵のズボンはなんとオレンジ色であった。ダンスパーティの人々の衣装も色とりどり。完成した作品の印象とまるで違う華やかな世界がそこにあった。傷んだモノクロフィルムの映画を見ていると、色彩にとぼしい世界だったような気がするのだが、それは間違いであった。
映像が氾濫するいま、私などは「見た目」をそのまま鵜呑みにしてしまう。映像から受けるイメージだけで、ものごとの印象を決めてしまうことも多い。しかし、気をつけなければいけない。すべては「見た目どおりではない」のだから。


ホモ・ルーデンスのアミューズ

Image
ちょっとした料理のメニューで「季節のアミューズ」というものが出されることがある。

実際は、フルーツゼリーだったり、ヨーグルトのお菓子などお馴染みの食べものであるが、「アミューズ」と言われるとありがたいものだ。「お口を楽しませるオードブル」あるいは日本料理でいう「口直し」のような一品のことなのだ。

最近は、遊園地のことも「アミューズメント・パーク」と呼ぶようだ。そう言われると、それなりに身なりに気を配り、インスタ映えする家族であらねばならぬ場所に思える。それどころか、私などはうっかりするとチップとデールと並んで、「夢の国で遊ぶ住人」の役を一途に演じている。

でもなぜ「エンタテインメント・パーク」とは言わないのだろう。エンタテインメントというと、もっと「喧騒と興奮のある」場所を連想するのかもしれない。逆にライブ・コンサートは「ライブ・アミューズメント」とは言わない。そういえばクラシック・コンサートは、エンタテインメントでもアミューズメントでもありませんね。

さて、われわれ「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」にとって「楽しみごと」は不可欠なもの。いまの世の中が、アミューズメントで溢れているのも、そもそも人間が「遊び」や「楽しみ」を渇望する生き物だからなのだろう。お金さえあれば、産まれてから死ぬまで、アミューズしてもらうことが可能な世の中になってきた。

だが、ときどき
人生の楽しみってなんだったんだろう?
そんな本質的な疑問も浮かんでくる。

余計なアミューズのために稼ぐのなら
しなくていい苦労をしているのかも。




電気スタンド

Image
爆笑王と言われた桂枝雀師匠に「道具屋」という落語がある。

ズブの素人の男がにわか古物商となって縁日に露店を出す。扱っている商品はみな怪しげなものばかりなのだが、寄って来る客はそれなりに玄人で真剣顔。そこからの男と客との攻防が抱腹絶倒に面白い。この面白さは、電車の中で聞くのが危険なほど。

切れないノコギリ、抜けない短刀、擬物の掛け軸、二本足の電気スタンド。並べた商品は、どれもこれも使い物にならない半端もの。男自身は骨董品の価値などわかっていないのだが、シロウトだけに真剣に商売をする。

電気スタンドは、本来は脚が三本なければ立たない。男はそれを「塀さえあれば寄りかかって立ちまっせ。あんさんの家には塀がありまっか?」と無茶苦茶な理屈で売りつけようとする。インチキの押し売りだ。

だが待てよ、この男の商売、
やってはいけないことなのだろうか。

彼は傷のあるものや立場の弱いものたちを、一生懸命にカバーしようとしているだけではないか。店の商品たちすべてに、分け隔てなく愛情を注いでいる。考えてみれば、商売人として当然なことだ。

最近は、ちょっとした傷のある野菜も果物も売れない。何かにつけ、相手のミスや問題につけ込んで非難の応酬となる世情も息苦しい。枝雀師匠の話から、この男が飛び出して来てくれたら、世の中変わるかもしれない。

「ハート印のついたニンジンね、買いなはったら幸せになりまっせ」

「お尻のヘコんだ桃ね、めっちゃ甘いで。今だけでっせ買いなはれ」

こんな感じで、なんでも売りさばいてくれるかも。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

水彩画:ポーランド南西の街チェシンの商店街

二足のわらじ

Image
スーパーマリオブラザーズのマリオは、なぜ配管工をやっているのかと、息子に聞いたところ、それは土管に潜ったり出たりする職業だからだという。でも、以前ドンキーゴングに出ていた頃は大工だったそうだ。

ということは、マリオは転職組ですか。今でも時々はドンキーゴングの仕事にも呼ばれることを考えると、むしろ配管工と大工の「二足のわらじ」というべきであろうか。

静謐で緊張感のあるミニマル音楽の作曲家、フィリップ・グラスの仕事ぶりについて、面白い記事を読んだ。彼は作曲家としての活動のかたわら、配管工としても働くのだという。配管工と現代作曲家の二足のわらじである。

ある日、注文先の食洗機を取り付ける作業に出かけた。その家はなんと音楽評論家ロバート・ヒューズ氏の家であった。自分の家で著名作曲家がスパナを持って働いているのを見て、ヒューズ氏は腰を抜かさんばかりに驚いたという。

常人には理解できないことだが、フィリップ・グラスにとって、本業の作曲に集中している時間以外に何をしていても問題ではないらしい。ニューヨークで作曲活動を始めたばかりの頃は、タクシードライバーをやっていた。

ほかにも沢山の芸術家たちが、小説や詩の執筆の合間に、税理士や地下鉄の車掌などの仕事をしていることが紹介されていた。芸術家といえば、ペントハウスにこもって創作三昧というイメージだが、それは間違っている。彼らは昼間は巷にあって仕事に没頭、夜には創作の海に漕ぎ出す。

彼らにとって、日常的な仕事とは想像の世界に浮かぶ自分をこの世に結びつけるアンカーポイントなのだ。そして、コミュニティへの参加によって得られる体験は、尽きせぬインスピレーションの源となるということだ。

これからの仕事観が変わりそうです。

得した気持ち

Image
先日、久々に10人前以上のカレーを作った。ジャガイモも大量に皮むきをした。ボールに積まれたジャガイモをみると、まるで映画「オデッセイ」のシーンのようだと思った。

火星探査のミッションの途中で、突然の嵐に吹き飛ばされたマーク・ワトニーは、致命傷を負ったものと勘違いされて、ただ一人火星に取り残される。

植物学者だったワトニーは、火星探査の次のミッションが到来するまで、自分を延命するために全力を尽くす。その命の綱となるのがジャガイモ。火星の土を水とバクテリアで耕して栽培するのだ。

その後、ジャガイモを食べて生き延びているワトニーの存在に気づいたNASAは、総力を挙げて彼の救出作戦を始める。いったい彼一人のために、何億円注ぎ込むのか。このへんが感動の物語だ。

映画の結末はともかくとして、ワトニーが地球に戻って、普通に空気を吸い食料を食べて、地球人として暮らすということに、かくも大きな価値があるものかと気付かされる。

この私はというと、いまもこうして普通に息をして、地球の上で無事に生きている。NASAに救出されないまでも、それだけで何億円もの価値があるというものではないか。

このように考えてみれば、
かなり得をした気持ちになる。