2011年1月16日日曜日

スター育成!


一回の放送で平均1770万人が見た。イギリスのテレビ界を席巻する「Xファクター」という番組。2010年はなんと、視聴者数でサッカー・ワールドカップ、イングランド対ドイツ戦を上回ったそうです。( ☆1 )

日本で昔流行った「スター誕生!」のようなもの?視聴者が投票で参加できる、新人歌手の勝ち抜き選手権選。言って見れはそれだけのこと。なのに、この番組の何がそんなに受けているのかしら。

1:自分だけが贔屓にできる、歌手を選ぶ楽しさ。
2:パトロンのような気分で特定の新人に投票し続ける喜び。
3:イギリスのような階級社会で、労働者階級出身の無名歌手がスターとなっていくカタルシス。

なるほど。そういうこと。

でも、こういうものって、昔からありませんでしたっけ?

京都の祇園で言えば、芸妓さんの親代わりになっちゃう旦那衆。特定のお相撲さんをバックアップする谷町筋。それから、歌舞伎役者や落語家に「おひねり」を投げるご贔屓筋。要するに、人間というものは、いつの時代にも「誰かをお世話して育ててあげたい」という美しい欲望を持っている。そう言うことでしょうか。

そしてこの「欲望」に応える企画がつねに存在する。「ご贔屓エンターテイメント」とでも申しましょう。これは、芸能・スポーツ界における、永遠の定番企画ジャンルなのかもしれません。

なるほどなるほど。「Xファクター」は、「スター誕生!」というよりも、「スター育成!」なんだ。最近の日本でこれに当てはまるのは、AKB48の「総選挙」でしょうね。AKBのシングルCDを沢山買いまくって、特定のメンバーに投票するファンが沢山いるんでしょ?これは完全に「ご贔屓筋の心理」だ。さすがは、秋元康さん。新企画でありながらも、古典的定番にきっちりはまっているぞ。

しかし「ご贔屓」エンタメも、度が過ぎると大変なことに。「独占欲」にかられたにストーカーが生まれてはいけません。「ミザリー」っていう怖い映画がありました。自分が大好きな作家を監禁しちゃう熱狂的ファンの話でしたよ。

テレビ番組としての企画では、ファンと歌手の関係が適度に近くて適度に遠いという、微妙な「距離感」のキープが重要なんでしょうね。


( ☆1 ) 週刊ダイヤモンド 1月15日号より

2011年1月11日火曜日

やり残した事はない

もう〜、人生満足!

アメリカで、第一次ベビーブーマー世代の上端が、ついに65歳に達した。アンケートによると、彼らの大半が自分の人生を振り返って「やり残した事はない」と思っていることが分かった。彼らはみな、自分はとても幸せな人生を送ってきたと考えているらしい。( ☆1)

なんで?

ティーンの時は豊かなアメリカ社会で、いいお坊ちゃんお嬢ちゃんで、静かにすごせた。( 学校での銃乱射事件なんてなかった )それで二十歳を超えるといきなり「理由なき反抗」開始。まずは「いちご白書」的インテリ学生になって、それで反体制活動家に。教室をバリケードで封鎖して、縁石なんか投石しちゃう。先生も追放。さらに、フリーセッククスだ、ドラッグ、瞑想だ。自由を求めて、社会ルール逸脱のやりたい放題。なんて言ったって、自らを解放するんだもんね。とにかく。

そして、ラブ・アンド・ピース。世を捨てて、自堕落な放浪者になった。と思いきや、突如ヤッピー( ☆2 )に転身。やおら社会の中枢に乗りこんでは、ビジネスを仕切る。そして今度は、バブルだ。ネットだIT革命だ。ビジネスの種は尽きず、資金集めも投資も思いのまま。マンションも家も買う、車買う。株買う、貯金する。潜る、スノボする。子供達もみんな大学にいれました。

確かにこんな感じの成功者がたくさん出現した、いい時代だったんだな〜。ビル・ゲイツとか、スピルバーグとか。そうそう、映画「フォレストガンプ」に出てくる世代の人達、こんな感じですね。「オレの人生いろいろあったんだよね〜」とかいいながらも、なかなかどうして人生満喫してる世代。

だけど。本当にこれでいいの?
そんなわけないだろー。と私は思う。

勝ち逃げベビーブーマー。彼らは最後まで、キリギリス的な楽観人生を送れるの?人生の大半を好きに過ごした彼ら。これからも、極楽とんぼでいられるの? そんなわけねーだろう。 やっぱ、神様がゆるしませんよ!

彼らの人生も、そろそろあやしくなってきたようです。いままではちょっと無駄が過ぎたのではないか、と、ちょっと不安になっているという。そうだよね、いまの若い人たちがこんなに苦労して、将来の不安を抱えているというのに。おじいちゃん世代だけがいい思いはできないだろうね。

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( ☆1)1月11日サンケイエクスプレスより。1946年1月1日生まれのベビーブーマー第一号が、今年65回目の誕生日を迎えたそうです。やばいですよ、これは!

( ☆2 )by wikipedia 1980年代前半にアメリカ合衆国で使われ出した。おおむね20代後半から30代後半で、大学院卒(最低でも修士号を保持)で都会に住み、弁護士や医師、金融系企業などの専門職に就き、収入はアッパーミドルでスーツや車、住居にお金をかけるというイメージである。しばしば気取っていて自己中心的、表面的というニュアンスで軽蔑的に用いられる。

2011年1月3日月曜日

迷言366日

境港・水木しげるロードにある、水木先生のブロンズ像

「一日一言」とか言って、365日の「日めくり形式」にまとめた本がある。

私は、結構このタイプの本に弱い。書店で見かけるとつい買ってしまうのがこの手の本だ。1日に1ページだけ読めば、それで頭が良くなりそうな気がするもんね。だから、家にはさまざまな「○○365日」とか「一日一言・○○○」といった「日めくり本」が積まれている。

そのくせ、それも毎日読み通したことなど、まず無い。だいたいが、買った日付から読み始めて、翌月にはとびとびになり、あっと気づけば半年経過。たまに思い立って、その日を開くと、それは昨年もたまたま開いた同じページだったりして。うちの「日めくり本」は、だいたいがこんな感じで、まだらに扱われていると思います。

だが、昨年ついに、ある「日めくり本」を一気に読み通してしまった。一日一話と読み切りになっているのに、あまりに面白くて、次のページを翌日に持ち越すことができない。トイレに持ち込んだら最後、20日間分くらいがあっという間。それどころか、トイレの中でウフフ、ヒヒヒと笑いが止まらなくなってしまう。電車の中で読んで、笑いをこらえられずに、向かいの乗客の方に怪しまれた。

その本は「水木サンの迷言366日」という。

ノンフィクション作家の大泉実成さんがまとめた、水木しげる先生の「名言集」なのです。水木先生の著作や、雑誌連載の原稿などから、選りすぐりの「名言」を、一日一言形式にならべた、大変な労作です。それをあっさりと「迷言」と言い切るところが見事。選ばれた内容も、編集も、ちょっとした注釈も見事です。366の「迷言」を読み終えると、なんとも言えない幸福感と脱力感を同時に味わうことができます。

例えば、12月19日には次のような一節があります。失礼して、一部紹介させていただきます。昨年の暮れにトイレで、うっかりこのページを開き、ウヒヒヒヒヒ、とやって家人に怪しまれました。この一節の原典は、「妖しい楽園 ー 水木しげるができるまで」です。

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(戦争中、坊主になると女にもてると聞いて)

僕は軍隊が終わったら、坊主になろうと思って、日曜日の外出のとき、
岩波文庫の『佛説四十二章経』なるものを買って読んだ。
そのなかには、眠りを「睡魔」と称し、
いかにも眠らないのが美徳みたいに書いてあるので、極めて不快になった。

次いで、宗教関係は楽な生活ができると思い、今度は『新約聖書』をひらいてみた。
「色情を抱きて女を見るものは、その目をえぐり捨てよ」とあり、
これもおどろいてやめた。いくら目があってもたりないと思った。
[ 後略 ]

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こんな感じ。
大泉実成さんいわく、水木先生の「人生におけるけたはずれの経験値」からあふれ出た「名言」の数々を集めたのだという。「名言」を並べてみた結果、けたはずれに多彩で奇抜な内容となり「迷言集」となってしまった。偉大なる水木哲学を、一気に斜め読みさせていただける貴重な本です。今後は「日めくり本」としても、何度も繰り返しめくらせていただきます。大事にさせていただきます。


「水木サンの迷言366日」は、「本日の水木サン 思わず心がゆるむ名言366日」( 2005年 草思社刊行 )を文庫本として改題したものです。なぜか最初は「名言」だったんですね。私はどちらも持っております。366日なのは、4月30日があるから。

編集の大泉実成(おおいずみ みつなり)さんは「世界は水木を中心に回っている」というほど、「水木原理主義者」を自認する、水木研究の第一人者。水木先生との共著もあります。

2011年1月1日土曜日

後もどりできない

地上デジタルは前にすすむ

おまえは後もどりできない。
わたしたちの道が
「昨日」に架ける橋だと信じているなら
おまえはここで生きることはできない。
「今」は過去のやり方とは違うのだ。
「今」は美しい、
なぜなら、この世で大事なもののすべては
わたしたちに至る道を見つけてしまったからだ。

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ナンシー・ウッド著 / 金関寿夫訳
「今日は死ぬのにもってこいの日」より

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はじめからやりなおしたほうがましってことありますよね。

例えば出来の悪い企画書。途中までできたものを、あれこれいじっていてもだめ。研究計画書なんかもそうかも。もともとのアイデアや構想が良くないのに、とにかく完成させようとして焦っても、ロクなものにならないんだ。そういうときは、いっそのことすべてをポイッと捨てて、はじめからやりなおしたほうが早い。えいっと、リセットしてやりなおし。

最近の映画やテレビ番組では見かけなくなったシーン。作家、小説家、いわゆる「物書き」という人たちが、ボサボサの頭をかきかき、うんうん言いながら原稿の執筆中。書きかけの原稿を、やおら「ぐしゃぐしゃぐしゃ」とまるめて「ポイっ」とクズカゴに。ふーっと深呼吸をひとつ。そしてまた、真っ白な原稿用紙に向かう。

今はこれ、映画で見ないだけでなく、実際になかなかできませんね。「ぐしゃぐしゃぐしゃ」って、原稿用紙を揉みくちゃにしたくても、そもそも原稿用紙自体がない。企画書って言っても、要はデータなんだもん。マックが、システム・サウンドで「ぐしゃぐしゃぐしゃ」って言ってくれるだけ。リアルな「ぐしゃぐしゃぐしゃ」はできないんだ。

私たち人間の体にも、はじめからやりなおしたほうがいいパーツがあるんだって。例えば盲腸。進化の過程で、消化管の一部にそういう腸があったほうが良いときがあったんだろうけど、現在の私たちの体には不要なもの。だからといって、いまさら簡単には無くせません。私たちが日々お世話になっている「眼」。これにも設計上の問題が。視神経が眼球から出て行くところの配線が良くない。そのために「盲点」というものがある。配線を変えるといいのだけど(トカゲの眼はそうなっているそうだ)まさか人体の設計をはじめからやりなおすわけにはいかない。また43億年かかるし。

今年の7月に始まる「地デジ」もそうだ。人体の進化と同じように、テレビやラジオを支える放送システムも、ある順番に技術進化を遂げてきた。1953年2月1日にNHKがテレビ放送を始めたときには、テレビ・ラジオの電波塔から広域に発射される、アナログ電波によるものということで当然だった。ほかに優れた手段など無かった。

しかしもし1953年に、インターネットや高速無線LANや携帯電話の技術を知っていたら、テレビは生まれたのだろうか?もし今、はじめからやりなおすことができるとして、私たちは「地デジ」を選ぶのだろうか。日本の国土にすべからく、映像と音のコンテンツを届ける手段として「地デジによる放送システム」を選ぶのだろうか。おそらくは、バックボーンとなる光回線を主軸とした通信網と、末端における無線通信の組み合わせによるシステムを選んだことだろう。

冒頭の詩は、インディアンの古老が、かつてナンシー・ウッドに語った言葉。「おまえは後もどりできない」。そう、私たちは後ろ向きに進むことはできないのだ。どんなに理不尽でも効率が悪くとも、進歩の道を前に向かって進むだけなのだ。

私たちが見つけてしまった「放送」というシステムは、現代の社会生活は支える基盤インフラだ。簡単に「ぐしゃぐしゃぐしゃ」と捨てるわけにはいかない。多少効率の悪いシステムだとしても、これを改善し工夫し、未来へとつないでいくしかない。今年2011年7月24日。アナログ波停止。日本のテレビ放送は前へ進む。


引用の詩・原文

You cannot go back.
You cannot live here believing that
Our way is the bridge to yesterday.
Now is not the way it was,
Now is beautiful because
Everything that mattered
Has found its way to us.