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ゴットランド島からご挨拶

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えらい時代になったもんだと感心しきり。Google Earth は地球上のいたるところに僕を連れて行ってくれる。エリアによって、データの密度はだいぶ違うけど、これは本当に凄いサービスだ。この絵は、スウェーデンのゴットランド島の海岸線をクリックして探した風景です。
バチカンや、ローマは世界遺産級の建物や彫刻までを3Dデータで楽しむことができる。ゴットランド島では、知人が住んでいるという場所のそばで、海岸線を散歩することができた。以前に訪れたことのある街を懐かしくたずねたり、いつか行ってみたいと思う場所をのぞいてみたり。実に楽しいサービスだ。
しかし、こんな素晴らしい仕組みを楽しめるのも、日本が平和であるから。そして、僕がこうしてお邪魔できるのも平和な場所ばかり。Googleさんが、この素晴らしいサービスを維持していくためにも、世界が平和でおだやかな場所であってほしい。
みなさま、よいお年をお迎え下さい。

記憶の街

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夢の中で知らない街を歩くことがある。不思議なもので、その夢の中で自分は「この街は絶対に現実のものだ」と信じている。そうだ忘れないように写真を撮っておこうと、カメラを取り出して構えたあたりで目が覚めたりする。
目が覚めてから、もう一度目をつぶってみても、もうその景色を思い出すことができない。もしかすると、それは以前どこかで見た街なのかも。しかし思い出せないということは、やはり知らない街なのか。

たった一度の旅で

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このところ、先人が残した日記や旅行記ばかり読んでいる。珍しくぎっくり腰をやってしまい、臥せっている。そうするとなぜか、他人の紀行文などを読みたくなるらしい。

一方、Facebookのウォールに目をやれば、知人の旅行の報告が、写真付きでリアルタイムで届く。すごいことだ。奥の細道の旅に出た松尾芭蕉が、アカウントを持っていたら、どんな書き込みをしたのだろうか。

 旅の経験というものは、時に人の心を変えてしまう。江戸末期に生きた、ある青年のたった一度の旅は、彼の心を大きく変えた。そしてそれが、日本の運命までも変えてしまったと言われるのだ。 

ツーリズムと百代の過客

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月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。もう年の瀬だが、「奥の細道」の序文にあるように、時の流れは止まることなく僕の目の前を通り過ぎていく。

日記文学というジャンルがある。ドナルド・キーン先生の研究によると、日本における日記文学は、世界的に見て非常に文学的な水準にあるのだそうだ。日本以外の国では、日記というものは純粋に記録であり、小説や随筆に比べて価値が劣るものと考えられがち。

西鶴一代女

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紅く色付いたツタの葉を見ていると、年月の移り変わりというか、大げさに考えると人生の流転のようなものを感じる。
「西鶴一代女」は、溝口健二と田中絹代の名を世界に広めた日本映画の名作。井原西鶴の作品「好色一代女」から題材を得たものだ。そのストーリーは、まさに流転の人生そのもの。幸運と不運が、あざなえる縄のように次々とやってくる数奇な運命。
宮廷に働く身でありながら、公卿の勝之助に言い寄られたのことがもとで、両親ともども都を追放となる。しかし、そこで認められて、藩主の側室に大抜擢。晴れて若君を産むのだが、その後すぐに殿様と引き離されてしまう。放浪の日々と浮沈の繰り返し。ついには最底辺の世界へと身を落とすことに。

何度でもやってみたら

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一花咲かせる、という表現がある。
ところがこの花、カンナは、一花ところか何十個もの花を咲かせる。近所のお宅の玄関先で夏前から秋までの間、ずっと花をつけている。よくよく見ると、花のつぼみが、機関銃のように並んでいて、順番でどんどん咲いていく。咲いた花はしばらくすると枯れていく。枯れたあとには、新しい花が咲く。
何度でも何度でも、チャレンジする人のように見えた。進化論的な話で、自分の子孫を次代に残すため、生物はさまざまな手段を用いる。大きな一つの花で、確実に実をつける花もあれば、このカンナのように、何度でもやってみるという手法もあるのだ。次から次から花をつける。

フラミンゴとフェリー競争

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お祭りやイベントというのは、世の中にいろいろなものがあります。 中には驚き呆れるようなものも沢山ありますね。
私がびっくりしたのは、オペラハウスで有名なシドニー湾で繰り広げられるフェリー競争。普段はれっきとした公共交通機関である、シドニー湾のフェリー船たちが、煙をはいてスピードレースをしていました。
1月26日のオーストラリア建国記念日での出し物です。その日は、夜はあちらこちらから花火が上がり、市中のパレードもあってとても賑やかな一日。洋上でのこのイベントは、そうしたおめでたい日のヒトコマに過ぎませんが、私としては忘れられない経験でした。
それに先だって開催された船の仮装コンテストでは、ゲイのみなさんを満載してたり、映画「ピンクフラミンゴ」みたいにド派手衣装のフェリーとか、へんてこりんなのを山ほど見ました。それでもうオーストラリアの方々のおふざけセンスには、充分に降参。でもやっぱし、フェリー競争には一番びっくりしました。

ピーター・オトゥールに捧ぐ

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ピーター・オトゥール様、

12月14日にあなたが亡くなったと、友人のフェイスブック投稿で知りました。老年になられてからも、映画トロイにも出演されて、その凄い存在感は健在だったのに。とても残念です。僕自身のなかでは、あなたといえば、そのままトーマス・E・ローレンス中尉です。デビッド・リーン監督による名画で、画面狭しと暴れまわる歴史的ヒーロー。

破天荒な人生を送ったローレンス中尉。彼を、こうして身近に感じることが出来るのも、映画「アラビアのロレンス」が残されているからです。DVDやBDで見られるなんて、なんて幸せなのでしょう。あなたが、ロレンス中尉生き写しの演技をされたからです。

砂漠の空に向けて輝く青い瞳。風になびくターバン。ラクダと一体となって疾走する影。振り上げられた刀。砂嵐とともに翻弄される人々の運命。武勇伝と悲劇とが錯綜する壮大なストーリー。75ミリフィルムに焼き付けられた渾身の演技。その全てに敬意を捧げたいと思います。

鳥たちの生活

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ピンクの鳥のオブジェ。手をたたくと、その音に反応してピヨピヨピヨって鳴きます。しっぽのところがキーホルダーになっていて、携帯電話とかにくっつけることができます。携帯を無くしてもすぐに見つけることができる。いまのところ、何にくっつけるかは決めていません。
手前に置いたチョコボール。なんだか卵の様に見えます。大きさもぴったり。
今日は天気も良かったので、ひさしぶりに三郷公園を散歩しました。カモやユリカモメが池をただよい、サギが木の枝に止まっていました。(珍しい!)ヒヨドリやセキレイも見ました。
この公園には、実に愉快なサギがいるのです。釣りのおじさんがいると、その脇に一日中立っていて、お魚の分け前を待っている。おそらく以前に、一度お魚を分けてもらったののね。今日は、釣りのおじさんがいなかったけど、いつものポジションに立ってました。ご飯をくれるおじさんを待っている。

ながいながい就職活動

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ことしもついにの就職活動が解禁となりました。ずいぶん早いスタートです。大学三年生の12月に、就職先を探し始めるのですから、その活動期間はとても長いものになります。
私の頃の就職活動と言えば、それは四年生の後期でした。四年生の夏休みに「企業研修」なるものに参加して「内々定」のようなものをもらう同級生もいましたけど。それに比べても今のスタートは早いと思います。
先日、氏家幹人著「殿様と鼠小僧」を読み、江戸時代にも就職活動というものがあるということを知りました。主人公である松浦静山の就職活動です。静山は長崎の平戸藩主であり、主に江戸の屋敷で暮らしていたのですが、彼は四十七歳で隠居するまで、三十年近くの就職活動を続けました。

七十歳定年

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七十歳定年となるのも、そう遠いことではないような気がしてきた。年金支給年齢がだんだんあがっていくので、そのぶん「夢の引退生活」が遠のいていく。もう、大変です。年を取ってくると、日々くらしているだけで十分に疲れるのです。このあと十年以上も働くなんて、気が遠くなります。

これが江戸時代だったらな〜。もうとっくに隠居生活なのにな。50歳過ぎたらみんな楽隠居なのにね。

なんて考えていたら、これが実はまったくの間違いだということがわかりました。なんと江戸時代には、すでに七十歳定年ということがあったのでした。享保五年あたりの幕府の記録「老衰御褒美之留(ろうすいごほうびのとめ)」という記録によると、だいたい、幕府のお役人の定年は七十歳くらいだったらしい。

スーパーカブ

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東京ビックサイトで開催中の東京モーターショーにお邪魔してきました。2年前の前回の展示では、うちの大学の学生もいろいろと企画で参加させていただきました。今回はご挨拶のみ。ちょっとさびしいけれども、その分何の心配もなく、ゆっくりと展示を見て回りました。
昔のモーターショーと言えば、普通車と商業車の展示が分かれていたり、バイクは二輪車館、外車は外車館という風に、タイプごとの展示だった。それはそれで面白かったけど、メーカーごとの個性というのは伝わりにくかったかもしれない。

帝国ホテルについて知ったかぶり

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スェーデンで大学教員をされている我が同輩H氏は、フェースブックでほんとに面白いことをつぶやく。彼のお話には、いつもいろいろと考えさせられる。このたび彼は、アマゾンのKindle版で「ゴッホ-崩れ去った修道院と太陽と讃歌」という立派な、デジタル本を出版したという。その手際の良さと行動力に感服するわけだが、それより面白かったのは、彼の感想。

キンドル版への登録はそれほど大変ではなく、本ができていれば30分もかからず登録できるという。そして彼はいまのこういうデジタル的な作業と、昔の作業をくらべて振り返る。彼が会社にはいった当時(それは僕がはいったころと一緒だ)は、学会発表の原稿は原稿用紙に手書き、会社の大部屋でチェリーかなんかをスパスパ吸いながら手書きで書いていたって。

水分が足りなかった

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なぜこんな失敗をしたのか不思議。今日の失敗の言い訳を、言うとしたら「デジタルの弊害」ということか。大事な「ミズバリ」という作業を忘れていた。
千葉大学工学同窓会(☆1)の展覧会で「凡展」というものがある。今年で24年目だそうだ。その「凡展」に、僕は今年から参加させていただくことになった。大学の恩師が展覧会の責任者でいらっしゃるので、以前から誘っていただいていたのだが、なかなか参加出来ないでいたのだ。作品を作る時間が無かったというよりも、とても作品に自信が無かった。

バラとはなにかひとことで言いあててみよ

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「バラの名前」という話がある。バラというのは、私たちが「バラ」と名付けたからこそ存在しているのか。それとも、バラという存在は普遍的なものとして存在していて、私たちがそれに名前をつけて呼んでいるだけなのか。なんだかそんなような話だった。
詳しくは、宗教学の方や哲学の方に語ってもらわなければならないのだが、ここはいい加減のまま許して欲しい。要するに今日この花について、私が一体何を知っているかということなのだ。バラに関する情報は山ほどある。とげがある。バラ科である。花びらが紅い。アロマの原料になる。女性に好まれている。紅いバラの花言葉は「愛情」である。

空に雲をかける大樹

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夜空を見上げると、丸い月のまわりに大きな雲がかかっていた。
雲のかかるも月のため 風が散らすも花のため
昔の人は粋なことを言うものだ。猛威をふるった台風が大気中の水分も塵も吹き飛ばして、青々と広がった今日の秋晴れの空。本当にすばらしいブルーだった。知り合いのフェイスブックやツィッターでも沢山紹介されていた。でも、午後には早くも秋の雲が出現して、いまはもう大きな雲にまで成長した。日本列島上空の大気は、本当にダイナミックに動いているんだ。

新聞王は1931年式ロードスターを買った

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1931年式フォード・ロードスターである。長崎新聞文化ホールの玄関に展示されていた。展示プレートの写真を撮り忘れたので、正確ではないが、確か何代目かの社長が外遊の折に買い求めたものらしい。(☆1)長崎新聞は、明治12年(1889)、当時長崎で唯一の日刊新聞だった保守系の「鎮西日報」に対抗して創刊されたという。(当時の名前は長崎新報)
当時の日本人にとってどれだけ高価なものだったのか想像もつかない、こんなすごいものを購入できたのだから、新聞社の社長といえばそれは、大変な勢いだったのだろう。新聞こそが、近代日本を切り開いてきた情報革命の中心だった。そんなことを、このワインレッドに輝くマシンが語っているような気がする。

土壌の塩化という問題を考えてみた

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いやー、半沢直樹いったいどうなるのだろうか。大和田常務を追い詰める最終回。悪役の香川照之さんがすばらしいので、これはもう視聴率40パーセント超えも夢ではないね。悪役が憎たらしければ憎たらしいほど、主人公への思いはつのる。倍返しへの期待は募る〜(=゚ω゚)ノ。
こうして水彩画を描く。ワインレッドの絵の具を、水で溶いてスケッチブックに落としていく。水という素晴らしい媒体によって、絵の具にふくまれる顔料成分がスケッチブックの土壌へと流れ込まれていく。水が導いた顔料はそこにとどまって発色するけど、水そのものは蒸発してしまう。

ビスケットを食べる生き物について

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自分自身で栄養を作り出すことはできず、他の生物のから栄養をうばって生きている生き物を「他家栄養生物」という。ビスケットなどを食べて生きている私は、この「他家栄養生物」の陣営に属する生き物である。ほかの陣営はというと「自家栄養生物」という。
この「自家栄養生物」の陣営で生きている生物は、どうやって栄養を作り出しているのか。彼らは、大気中の二酸化炭素などの無機原料から有機分子を作っているのだ。太陽のエネルギーを借りて、光合成をおこなって「生き物でもなんでもない」分子を組み合わせるという労働をしている。誰のために?生き残るために。

マーク・フィッシャー先生

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お元気なうちにお会いしたかったなーと思う人がいる。会えるわけがないのだけど、一度でいいからその声を聞き、その姿をこの目で見てみたかった。話せるわけがないけれど、お話してみたかった。そういう人。松下幸之助、ピーター・ドラッカー、安岡正篤、勝海舟。なんとか一度お目にかかりたかったと思う。絶対無理だけど。ドラッカー先生以外は、私が社会人になる前に亡くなってしまっている。安岡先生は私の就職の年に亡くなられた。

ウオーターワールド

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つい先月まで「水不足」が心配な状況もあったのに、このところは日本中が豪雨に見舞われて大変な災害を被っている。水の豊かな国だからこそなのだが、なんとか一年中穏やかに水の流れに囲まれて暮らすことはできないのだろうか。これは縄文時代から日本列島に生きた人々すべての願いだったろう。
地球上で水から生まれたといわれる、僕たち生命。身体の大半が水なのだし、どちらかというと水に覆われていた生き物がいつのまにか逆転して、身体の中に水をため込んでいる状態のようである。とにかく、僕たち生き物のというものは、水と酸素なしにはひとときも生き続けることができない。
だから水という存在は、あまりにも大事で身近なものである。そして、平穏な日常生活の中では、あって当たり前のような、ありふれた存在になっている。(日本のように水の豊かな国だけかもしれない)

実り多き時代

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「フルートフル 」(☆1)という単語があることを知ったのは、結構な年になってからだった。「フルートフル」つまり、フルーツが一杯。実りがいっぱい。「実り多き」という意味。こんなに使いやすい褒め言葉なのに、大学を出るまで知らなかった。
最近ではちょっと少ないような気がするけど、日本人の名前には実さんという名前がある。外人で「フルートフル」さんというのは聞かないけれど、「実り」という意味を含んだ単語を知ったのはなぜか嬉しかった。単純に「マーベラス」だの「グレイト」などというよりも、そこに「よく頑張ったね」というニュアンスを含めることができる。

ハーヴェイ・カイテル

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声を聞いただけで「あっあの人だな」と分かる。そういう「声が気になる」俳優っている。私の中では、ハーヴェイ・カイテル氏がダントツである。しわがれた声質で、相手に対してぐいぐいと踏み込んでくるような喋り方。語尾が上がるから、相手の反応を一々確かめるように、からんでくるようなニュアンスになるのか。
スーパーで働く奥さんの稼ぎでだらけた生活をしている青年(演じているのはタランティーノ)を、ぐいぐいマイペースで引きずり回す暗黒街の掃除屋・ウルフ。この役本当に良かった。「パルプ・フィクション」の後半に登場する。
時間軸がウルトラぶっとんだこの映画の後半、観客がだんだん訳がわからなくなったところで、ものすごいリアルな存在感で登場。時空間が怪しくなってきた映画に、現実的な磁力のようなものを注ぎ込む役だ。私、このウルフ登場のくだりだけでも何度でも見たいと思う。

宇宙の一部になります

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八王子駅前にあるイタリア料理店で出してくれる「魚介スパゲッティ」は逸品です。糖質ダイエットを励行中であるはずの私は、本当は食べてはいけないものなのだけれども、この暑さのせいか、こういうものが食べたくなってしまいます。それに、八王子駅南口を見渡せるシチュエーションにある、このお店は、大学に通うスクールバスを待つのにも、最高のポイントなので、よく利用させていただいております。
おいしい食べ物をだまって食べてればいいものを、こうして水彩画にまでして描いてみると、ちょっと余計な考えも浮かんできます。このスパゲッティは、どのようにして私の身体の一部になってくれるのかしら。消化と吸収のプロセスについては、中学校でも勉強しましたし、以前に働いていた放送局で担当した科学番組でもずいぶんと取材しました。

選択の余地がない場合には

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人それぞれに。それぞれの人生。それぞれに「選択」を続けた結果が、いまのその人生の状態になっているのだ。僕なんかはいつのまにか、50代半ばに達しようとするわけだが、いよいよもって「自分自身の選択」によってたどり着いた結果に、我ながら驚く毎日である。でも、なんにしろ、すべては自分の選択の結果である。
なんでこうなっちゃったんだろう。そんなこと言ったって、こればかりは他人のせいにはできない。すべては自分自身の「選択」の積み重ねなのだから。
夏休み中の大学で、事務作業の整理などをしながら、HDDにたまった番組などを見ていた。本当は「ハリウッド白熱教室」というEテレの番組を見ようと録画予約していたのだ。いつのまにかそのシリーズは「コロンビア白熱教室」というシリーズに変わっていたのだ。何だろうこれ?と、思って早速彼女の著作「選択の科学(Art of Choosing」を買って読んでみました。

新しい芽は生まれている

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「そうぶんさい」というコトバを知らなかった。「総文祭」と書くのだが、これはつまり高校生の文化部におけるインターハイなのだ。書道から、写真、新聞、演劇、そして放送番組と、高校生の文化的想像のお祭りである。
今年はこれが長崎で「しおかぜ総文祭」というタイトルで開催された。私の勤める大学の学部PRのために、はじめて参加してみた。長崎という場所も素晴らしかったのだが、実際にこの「総文祭」なるものに参加してみると、「日本の高校生はなかなかやるものだ」と感心してしまった。

長崎はどこにあるのか

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瀬戸内国際芸術祭の総合ディレクターを務める北川フラムさんの言葉。朝日新聞土曜版の特集、フロントランナーに紹介されていた。「美術は人と違うことをやって褒められる数少ないジャンルだからね」
なるほどそうだ。美術というジャンルは人まねばかりではいけない。最初は模倣をして勉強するものだが、最終的にはオリジナリティが重要になる。「人と違うことをやる」というのは、言うのは簡単だが、実際にはなかなか出来ないことだ。
またまた苦言になってしまうのだけど、最近では「人と同じことをする」若者が多いような気がする。研究テーマを選ぶ際にまず先行研究というものを探すのはいいのだけれど、だいたいは見つかった先行研究の後追いのようなテーマを選ぶなる。「ぜんぜん違うことをしよう」ってことにはならない。誰かのつけた足跡の後ろを歩こうっていうことでいいのかしら。いつもそう思う。

絵はがきがとどくまで

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長崎出張のおりに、時間をみつけて実家に絵葉書をだした。自分としては珍しいことである。長崎という土地が持つ、異国情緒のようなものが旅情をかきたてたのか。端っこに水彩画も描いた。
出した後は届くまでが楽しかった。「いまごろは郵便やさんが運んでくれてるかなー?」とか「着いたかな?」などと想像して楽しむ時間ができた。そのつど、なんだか良い気分になった。これは、メールでは出来ないことである。 メールなどというものは、出した瞬間に相手に届いてしまう。電磁波というものに乗っていくのだから早い。高速どころか光速だ。「とどいたかな〜?」なんて言っているヒマもない。

本物らしいということ

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この絵は、先日の大阪出張のおりにいただいたオリーブの盛り合わせ。これが本物に見えるかどうかは、ひじょうに怪しい。所詮「絵」なので、本物とは違う。しかし、「本物」と「絵」の間には不思議な関係性がある。つまりは、それを見る私たちという存在の問題。そこにリアリティを見いだせるかどうか。

嵐の大野君。今年の日テレ24時間テレビの中で、スペシャルドラマに出演する予定とか。いまから本当に楽しみである。大野君ほどの演技の達者なタレントは珍しいと思う。「魔王」「鍵のかかった部屋」から「怪物くん」まで、幅広い演技力で魅了してくれる。大野君のすごいところは、それがどんなドラマであっても、そのドラマの世界観に合わせたリアリティを出現させてしまうこと。

運命というもの信じますか

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昨日は大学院生13人と一緒に古都鎌倉を歩いた。富士山の世界遺産登録と対照的に、ちょっと落ち込んでいるかなと思いきや、折からの強風もものともせず、たくさんの観光客や修学旅行の生徒さんで、とてもにぎやかであった。特に鶴岡八幡宮では七夕飾りがほどこされ、お囃子の披露などもあって、華やいだ雰囲気に迎えられてとても気分がよかった。

今年の大学院生は留学生が多く、特に中国からの学生さんが多い。サウジアラビアやインドネシアからの学生もいるので、国際色ゆたかな旅行グループとなった。彼らに「ジンジャ」と「おテラ」の違いを説明しつつ、彼らの目に日本の古都がどのように映るのか、こちらも興味津々。しかし心配をよそに、彼らもごくごく自然に鎌倉の擁する日本文化を吸収していたようだ。

時代をつくるのは

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駅のホームに貼ってあったポスターを見て笑ってしまった。

男は組織をつくる
女は時代をつくる

うまいこと言うな。思わず「そのとおりだな〜」と独りでうなずいてしまった。「男は組織をつくる」というのは、まあ本当だと思う。どういうわけか男という種族は、上下関係を気にしたり、仕事のルールをいろいろと吟味したり。とかく組織として秩序だって動くことを尊重する。どういうわけだろうか。

一方で女性という種族の方たちは、男よりももっと純粋に人生の損得のようなもののセンスが発達していて、男の人とは違う価値観を備えている。だから、普通は「女は家庭をつくる」といいそうなところ、うまいこと「時代をつくる」と来た。確かに、したたかに時代の価値観をつくっていくのは女性なのかもしれない。

パーフェクトワールド

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先日来、プログラム中毒になっている。このブログも休みがちになるくらい、パソコンの画面とにらめっこしては、Flashというソフトのコードを書き込んでいる。がらにもなく、にわかプログラマーをやっているのだが、本人には意外と「プログラム」という意識がない。むしろ「動く絵」を作っているという感じだ。あるいは「動く世界」を作っている。
「世界を作る」といえば、大げさである。しかしこれは確かに、なにか自分だけの「世界」を創造しているような気分になる。だから楽しいのだろう。「世界よ回れ」と命令すればその世界は回る。「世界よ止まれ」と命令すればすべてが止まる。すべては自分の書き込む「コード」次第なのだ。偉そうである。しかし、時々大失敗をする。

失踪したくなった時には

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むかしむかし「蒸発」という言葉が流行ったことががある。真面目一徹だったサラリーマンが、ある日突然消えてしまう。一家を笑顔でささえていたパパがある日突然消息をたってしまう。誰しも「会社にいきたくない」とか「学校にいきたくない」という気持ちになることがあるだろう。
「男はつらいよ」シリーズ第34作、「寅次郎 真実一路」では、米倉斉加年演じる熟年トレーダー富永が失踪。残された美しい奥様(大原麗子)に頼まれて、人のいいの寅さんが富永の捜索に大奮闘する。牛久から大手町まで遠距離通勤するエリートサラリーマンが、ふと消えてしまいたくなる。マイホームの夢を達成した後、熟年男性を襲う空虚感。そんな当時の世相が鮮やかに描かれていた。

やはりそうか!

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このところ、このブログもお休みがちだったのは、ある「お仕事」にかかりっきりだったからなのである。その「お仕事」というものが何だったかというと、それはなんとプログラミングなのであった。アナログ人間のわたくしとしてはガラにもないことである。しかしこれが実に「楽しい」のである。
なぜ楽しいのか。それは、そのプログラミングの作業が、とても創作的だからなのである。オブジェクト指向言語というのだそうだが、コンピュータの言葉による命令のしかたや、ルールの決め方などが、とてもわかりやすい。そして、とても自然界のルールに近いのだ。そこがとても気に入っている。

ただいま消去させていただきました

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「ものは言いよう」ちょっとした言葉の使い方で、その印象は大きく変わる。「パイ焼けだぜー」と「パイ焼き上がりました」では、親近感や堅さが変わる。どちらがよいか悪いかは、その時の状況によるだろうけど、とにかく印象が変わる。
言葉づかいの善し悪しを感じるのは、脳のどのへんの部分なのだろうか。ロボットや音声認識装置にしてみたら、その違いを感じるのは大変なことだろう。なのに、僕たち人間は、ちょっとしたものの言い方で、喜んだり怒ったり、感情をかき立てられてしまうのだ。

一曲いかがですかとその楽団員は言った

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音楽というものの効能は計り知れないものがあるらしく、精神的に落ち込んだ人をなぐさめるとか、ボケてしまったお年寄りが元気になるとか、はたまた動物園のキリンが落ち着くとか、または畑のジャガイモがよく育つとか。(☆1)やはり自然界のバイブレーションを模倣したのが音楽なので、自然界に生きるものたちに効用があるだろうか。
北京の空港で、滑走路で待機のまま長時間の足止めとなった乗客の中に、フィラデルフィア交響楽団のみなさんが乗っていたそうだ。「待っているくらいなら一曲いかがですか?」とおっしゃったかどうか知りませんが、とにかくその演奏は始まりました。ドヴォルザーク弦楽四重奏曲第12番アメリカ。周りのお客さん大喜びの画像がYoutubeにあがりました。最高のタイミングで電話も鳴ってるし(=゚ω゚)ノ(☆2)

次に生まれてくるときには

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映画の世界などで「次に生まれてくるときには」と言うセリフを聞くことがあります。仏教で教えるところの「輪廻」という概念によれば、人生には前世も来世もあるはず。時に前世のことを覚えているという人がいて、性別や身分や出身地など現世のものとはまるで違うそれを知っているとか。

ワタシの場合は、そんなこと全く分かりませんが、何か想像してみると遥かな大宇宙に漂う存在としての自分の姿が見えるような気もします。自然界が営んでいる「世代交代と進化のプロセス」は、「輪廻」と呼ばれるものに似ているようにも思える。

探検する人しない人

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東北大学には「探検部」という勇ましい名前のサークルがあった。(今もあるのかしら?)高校で仲良しだった先輩が所属していて、例えば、日本を北の端から南の端まで歩くとか、急流を手こぎゴムボートで下るとか、いろいろと無謀な「探検」に挑戦していた。(☆1)
インドア派で危ないことが嫌いな(つまりビビリ虫の)私には、そんな自分の身をキケンにさらすことの何が面白いのか、まったく理解できなかった。しかし一方心のどこかでは、自分のやれないようなことにチャレンジする人たちが、どこかまぶしくうらやましく思えたものだ。

テレパシーの世界へ

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東京タワー。この6月1日を持って、電波塔としての仕事は完全引退されました。これからは、純粋に見晴台として、そしてまた東京のシンボルとして、そこに立っていてくれればいいんんです。実は私も東京タワーと同じ昭和33年の生まれ。自分自身も「そこに立っているだけでいいんだよ」と言われる年齢であることを、強く感じる次第でございます。
電波というものは、本当に不思議な存在。目で見ることも触ることもできない。僕たちにはその存在を感じることすらできない。光というのもの一種だけど、光そのものは見ない。ものに反射して眼球に飛び込んでくる光の粒子が網膜に当たる。それを電気信号に変えて、僕たちの脳は世界を見ている。まあ、見ていることにしている。そんな感じらしい。

手作業というものはなくなるの?

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葛飾柴又の帝釈天題経寺。映画「男はつらいよ」の舞台となった柴又のシンボルです。正月などはいまも沢山の参詣客で賑わうスポットになっております。この帝釈天の本堂は、建物の外側がすべて、素晴らしいレリーフ木彫に覆われていています。手仕事による彫刻の美しさ。 近くで見るとその精緻な立体表現に驚嘆します。(☆1)
さきごろより、3Dプリンターというものが流行中。コンピュータで作った三次元モデルの形状をそのまま立体にすることができる。複雑な形状を計測したり、作り出すことができる。建築や自動車産業はもちろん、医療への応用も期待されています。芸術分野も有望で、3Dアート作品というものもどんどん生まれるでしょう。

リラックスタイムしましょう

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「ガンバる」という言葉が似合う日本人。学生時代はそれほどでもないけれど、社会人になると、みーんな突然「ガンバる」人に変身。それもあっという間のこと。いつもびっくりします。それだけ日本の社会というものは、「みんなで頑張りましょー」というムードの社会だということですね。
私自身もそうでした。学生時代は(大学院をいれて6年間も)本当にゆっくりと、人生のことを考えたりぼんやり自分の将来を考えたり。とにかく学生時代というものが、永遠に続けばいいなーなんて、本気で考えていた。

それがあるきっかけで、某放送局に就職することになって、すべては一変してしまいました。わたしも「ガンバる」社会の、立派な一員となったのです。それからおよそ24年もの間、文字通り馬車馬のごとく働いた。恐るべきことです。

コスモスが生まれてくるまでの時間

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キバナコスモスという花だそうです。春先から、近所の道ばたにずっと咲いてくれている。これにミツバチなんかがとまっていたりすると、すっかりメルヘンな雰囲気になってしまうのです。とても和む直物ですが、写真を撮ってみつめているうちに、ある「疑問と妄想」が浮かんできた。
なんでまた「花」というものは、どれもこれもこんなにも美しいのだろうか。ダーウィンの進化論によれば、それはこの自然界が「選択」した結果だというのです。ながいながい時間の間に、よりよいものが選ばれて生き残る。この世界によりよく順応したものが生き残る。だから花たちというものは、どれもこれも綺麗なものが残った。選んだのは昆虫だし (=゚ω゚)ノ

二次創作というのはゲージュツであるのか

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NHK技研の公開に行って参りました。いわゆる「スーパーハイビジョン」といわれる「8K」技術が前面に展示された今年の公開でした。もう「4K」は超えられちゃったの? そんな最先端展示をくぐり抜け、「ちょっとカルト」な発明はないかしらと、主に地下の展示ブースを回ってみましたよ。
見つけた見つた!オモロイ放送技術たち。TVMLというCG技術の応用編がいくつも出ていたぞ。TVML知っていますか?台本などの「文字データ」から直接「CG映像」をリアルタイムに創り出すというユニークなシステムなんですよ。これが意外にも老舗技術なんです。

ニンゲンとは妄想する生き物である

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「中学生円山」観ました(=゚ω゚)ノ。 何を書いてもネタバレになりそうなくらい、手の混んだストーリーと演出でございました。でもこの「キウィ」くらいは出してもいいよね。中村トオル演じるパパが、確かに「キウィ」のことを「キュウリ」って言ってましたよね。言ってた言ってた。
朝ドラで「あまちゃん」が大ブレイク中の今、宮藤官九郎の脚本・監督作品。朝ドラを抱えてるだけで大変でしょうに、これだけの映画も世に出してしまうというのは? 一体、あなたはピカソなの?ダビンチなの? すさまじい創作力。朝ドラではできないストーリーのオンパレード。良識派のかたには「ちょっとね」というところも「ちょっと」あるとしても、すでに今年のワタシ的ナンバーワン候補にランキングされました。

神の書はどのように書かれているのか

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いま「神の書」といわれる本を読んでおります。いやいや聖書でもなく宗教書でもありませんで、これはプログラムの本なのです。技術書です。キース・ピーターズさんという専門家が書いたれっきとした技術書なのです。いわゆるオライリー本というやつです。がらにもなく、これを熟読しております。
それで、この本がなぜ「神の書」なのかというと、これが説明が難しいのですが、プログラムの体系として、とてもよくできているということなのです。アニメーション画像を扱うのにとても具合の良い「アクションスクリプト3.0」という言語についての本です。この言語をつかって、ひとつのバーチャルワールドをカンペキに記述することができるのです。だから「神の書」なのだそうです。

樹木のように生きられたらいいな

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私の家の前にはおそらく樹齢200年はこえている立派なケヤキの樹がある。その樹の枝がばっさりと切られてしまった。近くの電線を巻き込むような形で枝が伸びてきて、さすがにキケンな状態だったので、冬に植木屋さんがはいった。巨大なマッシュルームのような樹形だったのが、葉っぱをむかれたブロッコリーのような形になってしまった。
剪定が終わった当初は、枝もすくなくてとても心配しました。もう葉っぱが生えてこないのではないかとか、枯れてしまうのではないかとか、ドキドキしてしまいました。特に二本のうち奥の方の葉っぱの出方が遅いので、もしかしてダメになったのではないかと、ほんとうにヤキモキしました。

プログラムされたい私

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「ちいさなちいさな王様」の名コンビ、アクセル・ハッケとミヒャエル・ソーヴァは「プラリネク」という絵本も書いていた。これをアマゾンで見つけたときはうれしかったな。この本もクリスマスの夜に起きるファンタジーです。ほかにもまだまだある。「キリンと暮らすクジラと寝る」「クマの名前は日曜日」 どれもタイトルが秀逸です。ついつい手を出して読んでみたくなる。
で、その「プラリネク」なんですが、チョコレートの箱や洗剤の箱、トイレットペーパーなどを組み合わせて作られたロボット君のことなんで。この子のセリフがじつにいい。「僕をプログラムして」なんていうのです。コンピューターやロボットがでてくるSF映画とか、いろいろあるけど「僕をプログラムしてちょうだい」というセリフって、なかなか聞かない。

いずれは消えてしまうもの

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このケーキは、FBでのお友達(実際にもお友達)のF君が最近召し上がったものです。だからこのケーキは、もうこの世には存在しないのです。F君が食べたんですからね。写真データが残っているだけ。実物のほうはもう、どこかへ行っちゃった。
「記録メディア(媒体)」というものについて、大きな問題が生まれている。映画界からフィルムが消えつつある。代わりに映像を記録するの媒体は、デジタルビデオテープや各種のメモリカードなどが主流になっている。カードといっても、SDカードやメモリースティック、コンパクトフラッシュなど、いろいろだ。

褒められてなんぼ

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このブログを書く時間、つまり深夜になるとうちのリビングには僕と食洗機だけとなる。家人がそれぞれの部屋で眠りにつこうとする時間、僕は食洗機がぶつぶつ言うひとりごとを聞いている。
「がーちゃらがーちゃら、ごーちゃらごーちゃら、こーんなにはたらーいてるんですげど、ぶくぶくぶくー。がーちゃらがーちゃら、なにかねぎらいのこーとばないっすかねー」
うるさいね。黙って働きなさい。しかしだな。なるほど食洗機の気持ちになってみればだ。そう、彼の(彼女?)気持ちとしては、まあ、たまには褒められてみたい。と、まあそういう気持ちも分からないでもない。

ちかごろの若者は遠くへ行きたがらない

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僕たちが若かった頃、特に学生だった時代は、誰もが海外への強い憧れを持っていた。たまたま遊びに行った友人宅で、いかにも海外みやげという感じのスノーボールを見た。そんな瞬間、「うらやましー。俺も海外行きてー!」って思ったものだ。
こんなもの置いておかないでくれよ。ガラスのドームの中の「自由の女神」や「エッフェル塔」。まるでそこが、すぐにでも手が届きそうな近い場所に思えてくる。しかし、実際の海外旅行とは、とても手のどかない高嶺の花。田舎者の僕にはパスポートなど手に入れる方法もわからない。ただただ遠い夢だった。でも「いつかはきっと」という気持ちだけはあったのだ。
それが最近ではどうだろう。いまの学生からは、「どこどこの国に行きたい」とか「いつか海外で働きたい」とか、ほとんど言わないのだ。不思議だ。円高もあって海外が身近になったせいなのか。日本が豊になったせいなのか。あるいは彼らに覇気がないからなのか。