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鳩山由紀夫さん

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清水次郎長と一国の首相をくらべるのもどうかと思いますが、鳩山由紀夫さんにも、もうすこし「当事者」意識を持っていただきたいものです。この間の普天間基地移設問題への対応を拝見していると、どうもその「傍観者」的な姿勢が気になります。

内閣総理大臣という仕事をいちど引き受けた以上は、すべての国事に対して一生懸命に働くのが当然です。なによりも、ご本人たちが選挙中に、そのようにおっしゃってませんでしたでしょうか。「この身を挺して働きます」とか、「日本の国政に全身全霊を傾けて」取り組むとか、おっしゃっていたような。

昔から「綸言汗のごとし」と言います。とても偉いひとの口から出た言葉は、どうしようもなく重いもので、決して取り消すことは出来ないものですよ、という教えです。普天間基地移転問題を、五月には責任持って決着すると、おっしゃていました。明日で五月は終わりです。

鳩山さんにしても、その前の三人にしても、日本の首相の言葉は軽い。前言撤回、朝令暮改はまだしも、最近はどちらかというと記憶喪失。なぜなんだろう。この無責任さは。どこからくるのか。この当事者意識のなさは。「俺が首相だ!」という意気込み、あるいは責任感といか、当事者意識というものが、みなぎってこない。これはどうして?

二代目だから?

国の政治にしても、会社にしても「Founder = 創設者」には、重たい思い入れがあるものだ。でも二代目にはそれが無い。かりに、国や会社が潰れてしまっても、先代ほどは責任も重くはない。命を掛けて守る理由もない。大変なことは引き受けたくない。

「傍観者」は気が楽だ。何かあってもそれは誰かほかの人の責任だし、自分では責任を取らない。鳩山さんに限ったことではなく、現代の社会におけるリーダーには「傍観者」タイプが多いようにも思える。複雑怪奇な経営システムを仕切り、重すぎるリスクを背負い、株主からの要求を受けながら、歯を食いしばって経営を続ける。「当事者」として、そんな面倒なことはやりたくない。それが、近年の経営者の本音なのかもしれない。

現代社会には、清水次郎長や幡随院長兵衛のような、「当事者」型のリーダーは出現にくいのだ。「当事者」意識に燃えるリーダーを生み出すシステムも無ければ、そのリーダーを守る、高い精神性を持った社会理念も無いのだから。「当事者」型のリーダーになっても、何の得もないのが現代なのだ…

清水次郎長

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自分のこともふくめてだが、都会ではすべての人間が「傍観者」になってしまいやすいのだろう。というよりも「当事者」になりにくいし「当事者」となることは大変なのだ。トラブルを見たからと言って、へたに口出しすれば、「うっせーなー」とか「うぜー」とか言われるのが関の山、場合によっては変な責任まで押しつけられてしまうのではないかと考える。だから、電車でウンチ座りする若者に、誰も何も言わないし、言えない。

江戸時代を舞台にした、落語や講談の世界では、なにかというと、ケンカやトラブルの仲裁にはいりたがるヒーローがいて、この世の問題を一気に解決してくれる。「清水次郎長(しみずのじろちょう)」や「幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)」といった、親分集だ。彼らはいわば私設の「知事」であり「警察署長」であり「簡易裁判所長」であり、とにかく地方自治において重要な役割をになっていたのだ。まさに「自治」という文字そのものを体現していた。どちらも、実在の人物です。
現代における「知事」や「警察署長」は分業だ。なぜかというと、こうした「権力」を一箇所に集中すると大変なことになる。「知事」が犯人を逮捕して判決をくだせるようになったら、一体何をしでかすことかわからないから。そうか。逆に言えば、江戸時代で何でもかんでも解決してくれた、ヒーロー的親分は、安心してすべてを任せられる、人格者であったということか。
上記の二人のような親分衆のことを「侠客」という。広辞苑によると「侠客」とは、「強きをくじき弱きを助けることをたてまえとする人。任侠の徒。江戸の町奴に起源。多くは、賭博、喧嘩渡世などを事とし、親分子分の関係で結ばれている。」とある。喧嘩渡世ってわかります? 喧嘩が仕事なんですよ。というよりも、喧嘩の仲裁。

上方落語には「どうらんの幸助」という希代のキャラクターがいる。いつも「どうらん(胴乱=お財布のこと)」をぶらさげているので「どうらんの幸助」とよばれる、まあ町の親分さん。やくざでもないのに、「幡随院長兵衛」を気取って、あちらこちらの喧嘩を仲裁して歩く。一代で起こした炭屋の隠居なので、潤沢な小遣いを使って、ダイナミックに仲裁していく。なんと、犬の喧嘩にまで割ってはいる。喧嘩をしている野良犬の気を散らそうと、生節まで買って与えるという「喧嘩の仲裁」マニアだ。

「喧嘩好き」ということは、実はすぐれた「調停…

傍観者の時代

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「傍観者」という言葉は、無責任で他人まかせな、現代人にぴったりだ。周囲の人間が、どんなに一生懸命やっていても、それをひややかに見ているだけ。「人には構わず」で「あっしにはかかわりのないこってござんす」というのが「傍観者」だ。電車や雑踏の中での、いざこざを見ても「見て見ぬふり」の乗客。けが人や急病人があっても、遠巻きに見るだけで助けもしない群衆。

ところで、このピーター・F・ドラッカーの名著「傍観者の時代」に登場する「傍観者」とは、実はドラッカー氏ご本人のこと。世界中から尊敬され、MBAの始祖とも言える氏について、「傍観者」だなんてとんでもない。この本で、ドラッカー氏が言う「傍観者」とは、わたしたちが考えるような「傍観者」とは全く違う。それどころか、まるで逆かもしれない。

この本には、ドラッカー氏が、長い人生の中で見た「人間の記録」である。ドラッカー氏ご本人のおばあちゃんに始まり、オーストリアの蔵相、元ナチス親衛隊副隊長まで、多種多様な人物の真実に迫る、観察の記録なのである。この観察とは、理科実験的な意味で言うような「観察」とは違う。ドラッカー氏の前に現れた人物になりきってしまうほど、超近距離からの観察であり、分析と考察なのである。そして、ナチスドイツによるオーストリア併合や、ユダヤ人への迫害、第二次世界大戦にいたる20世紀を、ひとりひとりの人間を通して見つめている。

客観的に人間を見つめること。つまり自分の「好き嫌い」や「先入観」を廃して、純粋に人間を見つめる。善人であろうと悪人であろうと人間である。自分自身の人生を全うしようとする存在であることは、一国の首相でも一市民でも変わらない。自分という存在を通して、自分のまわりの世界をベストに持って行こうとする点で、すべての人は同じという考えかた。ドラッカー氏の言う「傍観者」には、そういう意味があると思う。

現代のメディアを通して現れる「人間」はすべて、ある明確なワクに収まっていなければならないようだ。メディアは、そこに現れる人間を、その時々に応じて、あるカテゴリーに入れ込まずにはいられない。良い人間、悪い人間、それか、普通の人間。だけど、ドラッカー氏のいうような「傍観者」の視線は、すべての人間を「同じ人間」として見ている。そして、すべての人間は、すばらしく面白い。

スーパーおばあちゃんは永遠に >>>

ヤノマミと精霊

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オカッパ頭の「ヤノマミ族」の男が、カメラに向かってつぶやいている。「ナプを殺すか〜殺さないか〜。どうするか〜」。

NHKスペシャルの映像。これを見ている限りでは、なんだか鼻歌を歌っているようでもあるけれど、実は恐ろしいことを、精霊と相談しているところ。「ナプ」というのは、彼らの言葉で文明人のこと。つまり、彼の目の前で撮影をしている、NHKのカメラマン、菅井禎亮さんのことを「殺そうか〜」と言っているのだ。

ソニーのHC-7 というHDDハンディカムで撮っているそうなので、目立ちはしないだろうけれど、なんと自分を「殺そうか〜殺すまいか〜」とぶつぶつつぶやいているこの男のアップショットを撮り続けている。菅井さんは、この男の言っている内容を知らなかったのかも。隣にいたポルトガル人の通訳は、この時、全部は訳さなかったとのことだから。しかし、まさに命がけの取材だったようだ。

ヤノマミ族の人たちは、よく精霊たちと交流しようとする。鼻にむけて、幻覚剤になる葉っぱの煙を吹きかけながら、しだいにトランス状態となって、精霊と話しをするのだ。菅井カメラマンの前に立ちはだかった、この男の鼻も、幻覚剤の煙を浴びて真っ黒だ。

この一族の中で、一番霊的レベルの高いシャーマン、というおじいさんも番組で紹介された。彼は、たった一度だけ、取材クルーに向かって話をしてくれたそうだ。その内容は、生命の「輪廻」に関するものだった。「人間は死ぬと、空の精霊になる。現実での死は死ではないのだ。しかし空の精霊もいつかは死ぬ。そして大地に降りて来て虫になる。虫はいずれ大地に食べられる」。こういう内容だった。どこかお釈迦様の教えに、近いものがあると思った。彼ら「ヤノマミ族」の考えていることは、精神的にとてもレベルが高いのではないだろうか。

ところで精霊と言えば、水木しげるさん。
水木しげるサンの迷言366日(幻冬舎)」の、3月19日の項に、ニューギニアの人々の霊的能力について、こう書いてある。以下、引用させていただく。

「われわれには何も感じられないが、ニューギニアの森の人々は、そういう妖怪感度が高いのだろう。彼らの文化水準が低いから感じるのではない。むしろわれわれよりも、霊的文化が高い。
そういう意味で、いわゆる文明人なるものは霊的バカが多いのだ。
すなわち感度が悪いためにニブイのだ」。

精霊と語る >>…

ヤノマミ族のこと

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NHK映像取材部の菅井禎亮チーフ・カメラマンが、東京工科大学の講座「メディア特別講義Ⅰ」に、ゲスト講師として来校されました!

あの話題騒然のNHKスペシャル「ヤノマミ」を撮影したカメラマンに実際にお会いできたのは、本当に幸せでした。私が想像していた野生児のイメージとは違い、もの静かな語り口の紳士なので、少しびっくりしました。学生達も、菅井さんの講義にすっかり感じ入った様子でした。

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「ヤノマミ」の子供たち。「ヤノマミ」とは、彼らのことばで「人間」のこと。彼らを150日間取材したNHKのカメラマンたちは、彼らから「ナプ」とよばれたそうです。「ナプ」とは「人間以下のもの」ということだそうです。面白いですね。

「ヤノマミ」の人たちの価値観から言うと、森の精霊との生活を忘れてしまい、不気味な一つ目のビデオカメラをぶらさげ、干涸らびたオートミールなんぞ、もぞもぞ食べている、そんな人間というのは、レベルが低いといういうこと。

NHKスペシャル「ヤノマミ ~ 奥アマゾン 原初の森に生きる ~」は、NHK取材班が、10年越しの交渉を経て、ついに現地人との共同生活をゆるされて、決死の撮影を行ったものだ。この番組冒頭での映像も衝撃的。実は目の前で撮影をしている、NHKのカメラマン、菅井禎亮さんのことを「殺そうか〜」と言っているのだ。

( Photo : Etnia Yanomami del Estado Amazonas, Venezuela en el alto orinoco. )

水木しげるさんも、太平洋戦争中にラバウル(パプアニューギニア)で出会った現地人の、神聖なる生活ぶりについて書いています。以下は「水木サンの迷言366日(幻冬舎)」2月1日の項より。

「私は、軍隊でも特にいじめられたり、罰を受けてたりしていたので、そういう社会の仕組みに反発を感じていた。ところが、"土人"たちは、ゆったりと楽しそうに暮らしている。
それを見た軍曹などは『馬鹿だから、ああいうふうにしているんだ』と言う。
しかし、賢いはずの日本人は、意味のない戦争という馬鹿馬鹿しい生活環境の中で一生懸命になっている。どう考えても、彼らの方がずっと幸せで、考え方もよい。」

私も考えてしまう。現代人は、株だお金だと狂奔しているけど、これでいいのかなぁ。今も…

生存競争

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今日の日曜日、ニューヨークでは泥酔したサラリーマンで溢れているのではないでしょうか。先週末にとんでもない損害を出した人。今週の市場のことを考えて死ぬほど不安な人。トレーダーの仕事とは、精神的にかなりしんどいものだと聞いたことがあります。今週一週間、自分は生き延びることができるのか?

一旦商機を得れば、一夜にして大金持ちになる。成功報酬の率がバカ高いので、自分の取引で巨額の収益を得れば、その一部はそのまま高額ボーナスとして自分のものに。何億円というとんでもない額になることがあるそうです。でも一方で、大損害を与えた場合は... ひたすら損害を隠し続けるか、こっそり会社の損害のどこかにすり替えるか、しっかりけじめをつけて退職するか。大損害を抱えたトレーダーは、いろいろと悩み苦しむことになるのです。大変な仕事ですね。( モラルハザード >>> )

先の読めないリスクだらけの市場で、トレーダーはどうやって生き延びたらよいのか?ほんの少しの情報の断片にすがりつき、複雑怪奇な市場の動きを予想するために、複雑怪奇な方程式でリスク計算をし、結局はそうした中で、自分自身の感性に相談しながら一瞬の賭けに出る。間違えが連鎖的に続いたらたら、すべては終わり。1997年にニューヨーク株式市場の大暴落で、ビクタ ー・ニーダーホッファーさんという1人のアメリカ人投機家 が、たった一日で50億円を失い破産に追い込まれました。そして彼について、他人事のようにでクールなコメントをしていた、マイロン・ショールズ博士さえも、その翌年には空前の損失を出して、LTCMというファンドをたたんでしまいました。

1998年11月に放送された、NHKスペシャル「マネー革命」という番組は、金融市場というものの凄まじさを見事に描き、このあたりの消息を詳しく伝えています。「マネー革命」では、一方で、しぶとく生き残り続ける天才トレーダーの話も出てきます。シカゴの先物商品取引所(CBOT)でもっとも有名なトレーダー、トム・ボールドウィンです。番組スタッフのインタビューに、ボールドウィンは、その「生き延びる」ための極意をいろいろと答えています。

トレーダーとは非常に孤独な仕事であると、ボールドウィンは言います。たったひとりの人間として、周囲の動きを観察して、他人とは違う独自のアイデアを導き出すこと。他人とは同じ…

アルゴリズム取引

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「アルゴリズム行進」は誰もが大好き。NHKの人気番組「ピタゴラスィッチ」[*1]のメニューの中では「ピタゴラ装置」と人気を二分する大人気コンテンツですね。
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[ アルゴリズム行進(歌詞 抜粋) ]

一歩進んで前ならえ
一歩進んで偉い人
ひっくりかえってぺこりんこ
横に歩いてきょろきょろ
ちょっとここらで平泳ぎ
ちょっとしゃがんで栗拾い
空気入れます しゅー しゅー
空気が入って ぴゅー ぴゅー
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ところで、この「アルゴリズム」というもの、今回の金融パニックで取りざたされています。「アルゴリズム取引」と言われる、コンピュータによる自動取引システムが、あまりにもすばやく、あまりにも過剰に繰り返し反応したために、株式の急激な下落を引き起こしたと言われているのです。一瞬の判断が命取りになる、金融トレーダーの世界。人間の判断では、瞬間的な局面に追いつけずにミスを犯してしまうため、コンピューターが常に、異常な値動きなどがないか、見張っているのだそうです。

今回の株式下落では、どうもそれがうまくいかなかったみたいです。「アルゴリズム」の立場から言えば「言われたとおりにやっただけ」ということ。でも、人間ならば「なんかやばいぞ」ととっさに取引から身を引くところが、アルゴリズムには分からない。「売り局面で売る」のは当然なのですから、世界中の「アルゴリズム取引」は、売りに売りまくったようです。その結果、ニューヨーク証券取引場での、20分間で1000ドル近い下げが起きたのではないかと言われています。人間が「おいおいおい」なんて、びびっている間にも、どんどん取引を進めていってしまう。

前述のアルゴリズム体操も、子供ではなく、大人がそろってやっているところが面白いんです。「一歩進んで前ならえ」なんて言っているうちに、目の前に落とし穴があっても、全員そろって突進していってしまいそう。そういう「危ないロボット集団」みたいな動きが、とても面白いのだと思います。

「アルゴリズム」は最初に人間が決めたとおりにしか動かない。当然です。世界で最も有名なコンピュータ、映画「2001年宇宙の旅」のHAL 9000。世界最高のコンピュータのはずなのに、人間の言ういい加減で矛盾した指示が理解できずに、結局狂ってしまいました。宇宙船の乗組員を皆殺しにしよう…

つないだら大変

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たまたま早く目が覚めた5月7日の4時、NHKニュースは、ニューヨーク証券取引所での株式の大幅下落をトップで伝えていました。「一時は999ドルもの下げ幅を記録」というアナウンサーの言葉がシュールすぎて、まだ夢を見ているのかと思ったくらい。案の定翌日の8日には、この騒ぎは「リーマンショックを上回る連鎖株安」となって、世界規模の金融市場を揺るがしています。

ギリシャの財政破綻に対して、EUがユーロ圏防御の基金設立を決めたとたんにこの騒ぎです。欧州当局が対策を打ち出すごとに、ユーロが売り込まれるというのは皮肉です。ギリシャが危ないという噂が危機感をあおり、ヨーロッパ連合が一週遅れのギリシャ支援の対策を取る。そこでまた、ギリシャの新たな財政問題が露呈する。そしてまたユーロが崩れる。という完全な悪循環になっていて、そこをヘッジファンドがねらい済ましたように売りを掛けるのですね。

まだ真相はわかりませんが、4日に米証券取引委員会は、ゴールドマン・サックスが株券を手当てしないまま投資家の空売り注文(裸売り)をしていたと指摘しました。また今回の騒ぎでも、NHKが報じているように、シティグループのトレーダーが、一部銘柄で「ミリオン(100万)」単位で注文を出すところを「ビリオン(10億)」単位で出してしまったとか言う噂もあります。ファンドが一斉に売りを掛けている状況が、こうしたトレーダーの焦りまくった行為に出ているような気がします。

小学校でやった実験を覚えていますか。2つのビーカーにそれぞれ違う高さまで水を入れておく。はじめはバラバラだった水位ですが、底をチューブでつなぐと... みんな同じになっちゃうんですよね。えっ?あたりまえ。そうどちらも同じ大気圧にさらされているんだから。でも、チューブを指でつまんでおけば、水位は違ったまま。チューブが通じたから水位に変化が生じる。

金融経済は本当に不思議ですね。このビーカーの水にたとえると、金融の世界では、この水がいったりきたりするたびに誰かが儲けたり損をするのです。たかが同じ水なんだけど、水位が上がって儲かる人もいれば、下がって儲かるひともいるんですね。みんなどっちかに掛けているのですから。ビーカーの水のように、はじめから水の動きが分かっていれば話は簡単なのですが、ふつうは先が予想できない複雑怪奇な取り決めで、大金を掛けた勝負をやっている…

さすがはギリシャ

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登り坂も下り坂も同じ一つの坂

ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉だと伝えられています。(この絵は、ラファエロの名作「アテナイの学童」で、ヘラクレイトスに扮するミケランジェロ)ヘラクレイトスさんのおっしゃるように、坂というものは、下るときは楽なもんだけど、登るのは大変なもの。あるいは全く逆に言えば、坂というのは、転げ落ちるときは大変だけど、いつかは上り坂につながるもの。

連日、急な坂を転げ落ちるように下落を続ける、世界の株式市場。その震源地であるギリシャについても、現地発レポートが目立つようになってきた。中学校の先生方が、解雇を不服としてテレビ番組をジャックするくらいだから、さすがのギリシャも相当深刻になっているのかな。

時事ドットコムにある、4月時点でのギリシャ・アテネ市内のレポート。この現地リポート「債務危機・そこに生きる人々」によると「この国がデフォルト(債務不履行)を取り沙汰されるほどの危機に陥っているとはとても思えない。4月なのに日に焼けてしまうほど強い日差しの下、街角のカフェや観光地は人であふれ、南欧らしいのんびりムードが漂う。道端では犬が、あまりに無防備な姿で昼寝していた」ということ。日本なんかよりもよっぽど余裕じゃん。写真を見ると、いい年したおじさん達が昼間から、カフェで音楽聴いてるし。
いいなあ。
さすがは、人類最古の文明を誇るギリシャです。このレポートにもあるように「どこからどこまでが遺跡なのかわからない」くらい、長い歴史をくぐり抜けてきたこの国、「リーマン・ショックなんて、ペルシア戦争の時や、十字軍の侵入で国が崩壊しかけた時にくらべたら、蚊がとまったようなもの」なんていうところかな。いやいやさすがです。
ドイツやオーストリアなどの、真面目で冗談の通じない国々では(いや、ほんとに冗談じゃない)、ユーロ圏を分割して「北部同盟だけの通貨同盟」を提唱する動きもあるといいます。ほんと、そのほうがいいんじゃないですか。やはり、エーゲ海に面した国々と、北の厳しい自然と闘っているど真面目な国とが、通過を統一して、経済圏をつないではまずいんじゃないでしょうかね。経済というものは、不均衡な状態が均衡へと動いていく、そこに商機を求めるもの。財政状態や政策のバラバラな国々をひとつの通貨圏にまとめてしまったら、それは金融トレーダーの格好の標的になってしまうんですね。
「アテナイ…

放蕩かっぽれ節

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前回につづいて、「山田洋次×渥美清 TBS日曜劇場傑作選 4作品-ボックス」について書く。このDVDボックスのタイトルに明記されているのは「山田洋次=脚本」と「渥美清=主演」という要素なのだが、収録されている4作品には、制作スタッフの顔ぶれ、出演者、演出テーマなど、共通する点がたくさんある。4作品とは、「あにいもうと」1972年、「放蕩一代息子」(1973年)、「放蕩かっぽれ節」(1978年)、「伜(せがれ)」(1979年)のいずれも名作ドラマだ。

TBSの東芝日曜劇場(当時)のシリーズなので、当然なのだけれども、プロデューサー=石井ふく子さんを筆頭に、演出=宮武昭夫、脚本=山田洋次、主演=渥美清というメンバーが、いずれの作品にも参加。俳優陣には、倍賞千恵子、奈良岡朋子、志村喬、宮口精二に加えて、桜井せんり、犬塚弘など、往年のバイプレイヤーもいる。そして、あの太宰久雄。このメンバーは、実に「男はつらいよ」の順レギュラーか、ゲスト俳優格の方々ばかり。

テレビ黄金期のこの時代、TBSに集まった、珠玉の制作スタッフと俳優陣。そして山田洋次さんが脚本家として作り出す、人間への愛情あふれる世界観。まさに良質の「テレビドラマ」という原型がここに完成しているように思える。しかし残念なことに、ここで石井ふく子さんと山田洋次さんがまとめあげた、良質のコンテンツ制作母体は、その活躍の舞台を映画へと移していくのだ。その後、テレビは「トレンディードラマ」や「サスペンス劇場」といった、現代の金銭と物質に溢れかえった世相に同調するだけのメディアへと変貌していく。安心して、良質のドラマを見るという習慣は、視聴者の方も失っていくのだろう。

「放蕩かっぽれ節」(1978年)は、「放蕩一代息子」の翻案で、主人公「徳三郎」のキャラクター造形は同一だ。こちらも長屋ものの古典落語「らくだ」を下敷きにしたもの。後半になって、やくざの半次が、急に泣き上戸になったり、徳三郎にせかされて棺桶を担がされるなど、シュールで意外な展開もあるけれど、基本は落語の世界がベースにある。貧乏長屋でつつましく身を寄せ合って暮らす、江戸庶民への優しいまなざしが、山田脚本の基本にある。

そして、この作品で最も重要な存在が、放蕩息子とヤクザ。どちらも一般常識や社会的価値観とは無縁の人間。社会と完全にズレきっている放蕩息子の徳三郎や、実は…

放蕩一代息子

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ホームドラマの黄金時代を築いた、石井ふく子さんの業績を調べているうちに、「山田洋次×渥美清 TBS日曜劇場傑作選 4作品-ボックス」という、とんでもないDVDを見つけました。

収録の4作品は、いずれもTBSの「日曜劇場」の枠で、70年代に放送されたもの。時代の勢いというものを感じますが、それとともに、テレビ番組の制作側の人々の矜持というものが画面に溢れている。また、渥美清さんをはじめ、出演者陣の珠玉の演技が素晴らしい。これならこの時代、視聴者が夢中でテレビを観ていたのは、ある意味で当然だったのかも。

さてまずは「放蕩一代息子」(1973年)です。一見して、下敷きにしているストーリーはおそらく、落語でいう「唐茄子屋政談」かと思う。吉原通いの道楽がすぎた若旦那の「徳」が、ついに親に勘当されて乞食となる。そして極限の苦労の果てに、なんとか真人間に戻るという話です。だめな「徳」をはげましたり、怒鳴り倒したりする、叔父さん叔母さんや周囲の人々の人情が、泣かせてくれる名作落語。(よかったらこちらを

そう思いこんで、この「放蕩一代息子」を見ていると、どうも様子がおかしいぞ。道楽者の徳三郎(渥美清)が、清兵衛(志村喬)に勘当されるところまでは一緒なのだけれども、こちらの「徳」は、金がなかろうが、食い物がなかろうが、平気の平左右衛門。むしろ、乞食仲間や、精神喪失の乞食女(奈良岡朋子)と一緒になって、まるで「上流貴族」のような気分で暮らしている。妹のせつ(倍賞千恵子)が、どんなに心配しようとも、どこ吹く風と、乞食生活を堪能している。浮き世から捨てられても全く平気。

エンディングでこのドラマは、観客に、こう語りかる。「乞食に身をやつしながらも満ち足りていた徳三郎と、まじめ一筋で店の心配ばかりしていた清兵衛と、どちらが幸せだったのだろうか?」脚本担当の、山田洋次さんは、このドラマにどんなメッセージを込めようとしたのか。普通ならば「この道楽者!」と怒鳴り倒されるはずの徳三郎を、あえて擁護するようなストーリーを、なぜ書いたのだろうか?

考えてみました。うん。おそらく、こういうことではないでしょうか。

江戸時代の話であれば「遊んでばかりいたら、お天道さまに申し訳ないよ!」という教訓が必須だった。江戸時代にはおそらく、みんな適当に遊んでいたから。しかし、このドラマが放送された70年代は、日本中…

オリオン座

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美しいなー。スピッツァー宇宙望遠鏡がとらえた「オリオン大星雲」の赤外線写真です。
(photo:  Spitzer image of the Orion nebula in the infrared overlaid with XMM-Newton X-ray data in blue. NASA)

2010年4月6日このオリオン大星雲が発する「右巻きの円偏光」について、大変興味深いニュースが報じられました。国立天文台のメンバーをはじめとする日英豪米による研究グループが発表した「オリオン大星雲が発する円偏光」についての研究成果の発表です。

人間を含めて、生命体を構成している「アミノ酸」は立体構造を持っています。そしてそれらは、L型(左型)とD型(右型)に分類されている。試験管の中でつくられるアミノ酸には、その両方が均等に存在します。

ところが、地球上の生命を構成するたんぱく質はアミノ酸から構成されているが、ほとんどが左型になっているのです。なぜなのでしょうか?この謎を解き明かすことによって「地球上の生命の起源」についての知ることが出来るのではないか。そのように言われています。ちなみに、宇宙から飛来する隕石から採集されたアミノ酸には「右巻きと左巻き」両方があるのです。

国立天文台の研究グループは、円偏光をとらえる近赤外線偏光観測装置(SIRPOL円偏光モード)を開発して、オリオン座の星形成領域であるオリオン大星雲の中心部の円偏光撮像の観測を行ったところ、円偏光の広がりは太陽系の大きさのおよそ400倍以上に相当することがわかったのです。

ちなみにオリオン大星雲における「円偏光」は、ある方向に右巻きが放出され、別の方向に左巻きが放出されているのです。どちらにせよこれだけ強力な「円偏光」の光にさらされていれば、その付近のアミノ酸は、すべて「どちらか巻きだけ」になってしまうだろうということです。実に納得がいく話だと、私は思うのですが。

国立天文台・宇宙の特殊な光から地球上の生命の起源に新知見
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有機物の右巻き左巻き

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ルイ・パスツゥールは、コッホと並んで近代細菌学の開祖とされる、19世紀フランスの生化学者です。パスツゥールは若い頃に、先輩であるジャン・パブテスト・ビオーが発見していた「有機化合物における旋光性」について、さらに研究を進めて「酒石酸の性質の解明」という論文を書きました。

( Louis Pasteur photo by Gaspard-Félix Tournachon)

酒石酸というのは、ブドウその他の果物にふくまれている化合物であって、あるきまった旋光性(偏光を通すと、その偏光面が左右どちらかにまわる性質)を持っています。そればかりでなく、もう一つブドウ酸という別種の酒石酸があって、これには旋光性がないということも分かっていました。それはなぜなのか?

これに対してパスツゥールは、「分子自身の構造に何か左と右の違いがあるから」と考えて、酒石酸とブドウ酸の結晶の形について、徹底的に調べたそうです。その結果、彼が発見したのは、酒石酸の結晶を顕微鏡でよく見ると、その形は非対称であることが分かったのです。そればかりか、それらは、みな向きが同じ非対称だったのです。

これは生化学における大発見でした。なぜならば、この実験にはじまる一連の研究で、パスツゥールが発見したのは、「生命界の有機体には、大部分、旋光性があり、これに対して非生物界の物質の溶液には、まったく旋光性がない」ということだからです。つまり、非対称な分子化合物をつくるのは生物だけであって「その向きはみな同じである」ということなのです。パスツゥールは、この発見を「現在のところ無生物物質の化学と生物物質の化学との間にはっきりと引くことのできる唯一の境界線」と述べています。[*1] ____________________

[*1] 「自然界における左と右」( The New Ambidextrous Universe )
訳:坪井忠二、藤井昭彦、小島弘
第12章「いろいろな分子」より
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円偏光

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上の素晴らしいアニメーションを見て下さい。分かりやすいです。この図は「右巻き(反時計回り)」の「円偏光」の状態を表しています。たしかに野球のボールの「カーブ」に似ているかも。光というのは電磁波の一種。これは電磁場の振動が伝播に伴って円を描いて、進んでいるようすなのです。そして「円偏光」には、右巻きと左巻きの二種あるのです。野球のボールに、カーブとシュートがあるのと同じですね。
ところでこの右巻きと左巻きですが、人間の眼にはその違いを見分けることが出来ない。3D映画の「Real D」は、このことを利用しています。スクリーンには、二台のプロジェクターから右巻きの光と、左巻きの光とで、二重の映像を投影。そうしておいて、観客は特殊なメガネをかけて、右眼では右巻きの光だけ、左眼には左巻きの光だけを見るのです。(もしかしたら逆かな? でも要するに撮影時の右目用のカメラの映像が、右目に届きさえすればいいんです。)

「Real D」方式用のメガネのは利点は、製造するのが簡単なこと。フィルター面に「円偏光パターン」を印刷するだけでいいので、生産コストも低い。ひとつあたり2百円以下。一方、もっと複雑な分光を行う「Dolby 3D」方式のメガネは、一個作るのに数千円もするそうです。だから映画館でも再利用されるのです。同じ理由でメガネが安いのは「IMAX 3Dデジタル」方式。しかしこの方式には、観客が頭を傾けてしまうと、二重像が見えてしまうという問題があります。私なんか、傾けるどころか寝ころんでヨコになるもんね。そうなると、二重像どころか、右目と左目の映像が逆転!

こうしてみる限りでは、「Real D」は優れた技術のようです。さすがは最古参の技術。ソニーなども、この方式での3Dテレビの開発を計画中。しかし、なかなかどうしてそう簡単には結論は出ません。3D映画の上映方式には、このほかにも「スクリーン明るさ」「メガネの重さ」など、いろいろと判定要素があるので...

( animation by : wikimedia commons "Dave3457" )

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生物界は左巻き

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2010年4月28日・ 読売新聞記事で、逆巻きのナミコギセルガイ(体長1.2センチ)が見つかったというニュースが紹介されていました。記事によると、巻き貝は種類によって巻きの向きが決まっているため、逆巻きは非常に珍しい。発見した琵琶湖博物館では「突然変異ではないか」と話している、という内容でした。

らせん形の貝殻は、通常は左右非対称です。オウム貝は、同一平面上で巻いている形なので、右巻きとも左巻ともいえず例外ですが、いろいろな貝殻は、右巻きか左巻きのどちらかに属します。あるものは常に右巻き、あるものは常に左巻き。また、生息する地域によって、右巻きだったり左巻きだったりするものもあります。しかしなぜか右巻きであることが多いのです。

彼らがいかにして「右派」になったり「左派」になったりするのか、それについては、諸説あるようですが、確たる理由は分かっていないようです。もちろん遺伝情報として、DNAに刻まれているのでしょうが、環境による影響や、地球の自転の方向の影響(生息地が北半球か南半球か)なども、考慮にいれなければならず。なかなか難しい問題のようです。

ところで巻き貝の巻き方はどう見分けるのか? 巻き貝のとがった方を上に向けて、殻の入り口が見えるように持ったとき、殻の口が向かって右側に見えるのが右巻き、左側に見えるのが左巻きだそうです。(wikipedia:  巻き貝の項目より抜粋

( picture : The 53rd plate from Ernst Haeckel's ''Kunstformen der Natur''[1904], depicting organisms classified as Prosobranchia. )

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「円偏光」ってなに?

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いつのまにか私の研究室で「エンヘンコウ」という難しい光学の専門用語が、平気で使用されるようになりました。エヘン。漢字で「円偏光」と書きます。

しかし正直なところ、はじめて「円偏光」という言葉を聞いたときは私も「ウンン?」となったもの。理科系出身なんだけどね。研究室で「円偏光」という難しい用語が、ハバをきかせるようになったのはなぜか?それは、私の研究室のテーマでもある「3D映画」の上映技術について説明するのに不可欠だからです。特に「右目用と左目用の映像をどのように分離するか」という、とても大事なポイントを説明するときが「エンヘンコウ」君の出番なのです。

( photo : RealD社 の円偏光方式のメガネ )

「円偏光」は特に「IMAX 3D デジタル」と「Real D方式」のふたつの違いを説明するときに重要なのです。(これに加えて「ドルビー3D」との違いというさらにややこしい問題もあるけど、今はちょっと置いておきますね。)なぜならば、「IMAX 3D デジタル」が「垂直偏光フィルター」を使っているのに対して、「Real D方式」は「円偏光フィルター」を使っているということを、その違いを説明することが重要だからです。

でも、3D映画の上映技術に関する話をはじめて聞く学生クンたちに、いきなり「円偏光」とか「垂直」偏光なんて用語を使ったら、彼らはすたこらさっさと逃げていってしまいます。「垂直に対して円ということは、まっすぐなのか(つまり直球)曲がってくるのか(つまりカーブ)の違いだからカンタンだよー」なんて、いい加減なことを言っていると、そのうち自分でボケツを掘ることに。

ここには「光の性質」という、分かりそうで分からない不思議な物理学の世界が広がっているし、今話題騒然の「3D映画」や「3Dテレビ」の神髄。ちょっとだけ頑張って、光の「右巻き」と「左巻き」の問題や、映画との関係について、科学的うんちくに没頭してみたいところです。

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ベル先生のおかげで

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「電話」を使って遠くに離れた家族や知人と話をする。これほど楽しく嬉しいことはない。人間とはひとりで活きていくことは出来ない、社会的生物なのだし、そのコミュニケーションの大半は「会話」によって成り立っている。

だから「電話」というものは、いつまでもどこまでも発展を続ける。より遠くまで、より鮮明に「会話」を届けるために、「電話」という技術は成長を続けるに違いない。僕の生きている間にはあり得ないだろうが、火星に住んでいる孫からおじいちゃんへ「お誕生日おめでとう」の声が届くという日も、いつかは実現することだろう。

2010年のいま、ついに若者たちは「iPhone」と「skype」の組み合わせで、無料で話せる電話を作り出してしてしまった。自主的無料化。これは電気通信事業法から見れば違法なのかもしれない。でも総務省や電話会社にも落ち度がある。「WiFiによるデータ通信」と「電話による通話」が、見ようによっては同じひとつの技術にくくられるということを知りながら、なんら手を打てなかったのだから。壊すことが出来ると知られた「ベルリンの壁」はいつか破壊される。

もともと、電話がこの世にあるのは、グラハム・ベル先生のおかげ。ベルさんは、電話を発明はしたが、別に電話の専門家じゃない。おじいさんの代から続く、聾学校の先生をやっていて、「ろうあ」の子供達に、一生懸命「会話」を教えているうちに思いついたのが電話なのだ。距離で離れている人にも、身体の障害によって離れている人にも、会話の楽しみを与えたい。それがベルさんの望みだったのだ。だから、現代おける電話の発達と無償化について、最初に特許を取ったベルさん本人も、喜んでいるのではないだろうか。

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