2011年3月6日日曜日

何をあくせく


チューインガムも携帯電話も、僕たちの生活のよき「暇つぶし」なのね。

ガムをくちゃくちゃやりながら、鼻歌まじりに携帯をいじる。おっと、お友達からフェースブックだ。コメントしなくちゃね。あいつ、いまフィレンツェにいるんだ。ちょい、くやしいけど、イタリアから写真が見れるなんて(こんな風)、超たのしー。

ガムも携帯も、そんな感じで気楽に遊んでいる時が一番ですね。

それがまあ、なんだって? 一台の携帯電話で、日本中の大学入試関係者が色めき立つことに。メディアもこぞって大騒ぎですね。入試会場の机の下で、左手片手だけで問題を入力できるなんて、知らなかったな。これはこれで、たいした能力だし、たいした技量ですよね。しかし、それにしても、大学入試というものは、受験生当事者にとっては、それだけ大変な負担だということですよね。

17歳から18歳ころというのは、人生で一番楽しい時期のはずだ。恋愛とは何か。人生とは何か。時間を忘れて議論したり、わけのわからない悩みにぶつかったり。親に反抗してみたり、先生に食ってかかったり。情熱をかたむけて、自分の人生と向き合う大切な時間だろう。

しかし、その時期に立ち向かわなければならないのが、大学受験。おちおち人生についてなんか考えていられないんだ、今の若者は。今回の高校生のように、大学受験のために、すべてのエネルギーを使い果たしてしまい、大学に入学したときには、惰性のような人生のスタート地点に立たされている。終わったのは、学歴社会という選別作業だけ。人生の大事な問題は、どこかに置き忘れたまま。

石火光中、長を争い短を競う。いくばくの光陰ぞ。
蝸牛角上、雌を較べ雄を論ず。誇大の世界ぞ。☆1

僕たちの人生なんていうものは、宇宙の悠久の時にくらべれば、石と石がぶつかって火花が飛ぶ、そんな瞬間にすぎないのですよ。そんなものなのに、長い短いを争っても意味がないでしょう。

僕たちの住んでいる世界などというものは、この宇宙全体にくらべれば、カタツムリの角の上のようなものですよ。そんな狭い世界で、勝った負けたと騒いでみてもなんになりましょうか。

さあて、大学受験に就職活動。めんどくさい勝負事は、ちょっと置いておいて、ガムでもほおばりながら、考えてみましょうよ。ぼんやりと。人生について。携帯電話を使って、親や友達とお話ししましょうよ。カンニングの道具になんかしないで。一瞬の人生だけど、ゆっくりと味わえば、それなりにながぁーく、楽しめますよ。

☆1 「菜根譚(中国古典百言百話1)」PHP出版 / 吉田豊他編 
第150頁 「なにをあくせく、狭いところで」より

2011年3月5日土曜日

チューインガム


電車の中で、すごいガムの広告を見ました。

噛んでいるうちに、味が二種類に変わる革新的なガムです。最近タバコが大幅値上げになってからというもの、ガムの売れ行きは好調らしい。その新たな市場をめがけて、さまざまな新製品が投入されているんでしょう。

ところで、チューインガムというものは、そもそもなんのためにあるの?駅のホームでひとり待つ電車。意味もなく延々と続く会議。オフィスで襲われる耐えられないほどの眠気。こういう状況時、ポンっと口に放り込むためにあるのだよ。気分転換。気分転換。

しかし、こうした「気分転換」の主役は、いまやチューインガムではない。それは、携帯電話やスマホなのだ。気分を変えられるだけじゃなくて、一見仕事などしている風に見えるところが、また都合がいいよね。実際には、仕事と関係ないメールを見たりしてんだけどね。最近は「会議中に書いたなこれっ」みたいなツィートも多い。いまの若者は、机の下でブラインド・タッチしちゃうんだし。

さてこの際、改めて考えてみよう。ガムのような嗜好品というものは、人類にとってなぜ必要だったのだろうか?チューインガムが発明されなかったとしても、現在の文明社会が無かったということでもなかろう。だったら、なぜこんなものを作ったり、売ったりするんだろうか。

一方の携帯電話やスマホだってそうだよ。みな一日中いじっている割には、たいして生産的な仕事をしてそうにも見えない。暇つぶしのほうがメイン機能のような気もする。

そうか。ガムも携帯も、要するに暇つぶしの道具。ひるがえって見れば、僕たちの人生って、大半が暇つぶしの時間だっていうことなのかな? まあいいでしょうよ、それで。ガムを噛んでいる間、その時間が楽しければいいんだからさ。そうそう。僕たちが地上を去ってから、10万年もすれば、僕たちのやった業績なんて、どうせ誰も覚えてくれてなんかいないんだから。

あの方も、こう言っておられます。

人生において重要なのは生きることであって、生きた結果ではない
ゲーテ

2011年3月1日火曜日

ポスト社会

それではなぜ、企業内では「組織の階層」がへらないのだろうか?

階層がへれば、それだけ部署の数もへってしまう。部署がへれば、その部署のボスとなるポスト長のポジションもなくなってしまう。ポストがなくなれば、肩書きもなくなってしまう。「俺は部長だ」とか「俺は課長だ」などと威張ることができなくなるのだ。

巨大な組織には、それだけ膨大な数のポストが存在するんです。上級の社員が増えすぎると、彼らを処遇するだけのポストも足りなくなるので、わざわざ「肩書きのため」のようなポスト(失礼!)を作ったりもする。担当部長とか、課長代理とか、これってなんなんだろう?っていう肩書きがあります。こういう肩書きの人って、ちょっと気の毒な気がしますね。

ところで、こうした「ポスト長」って、結局は何をしているのでしょうか。ドラッカー先生は、彼ら「トップに立つ人間」の役割は、いまや、採用や解雇、効果、昇進などの人事関係のみが彼らの仕事であると述べている。つまり、仕事を遂行する上では、対して意味の無い存在だということなのです。

特に、情報やテクノロジーを扱う、現代の企業組織においては、上司が部下の仕事内容を把握することは無理なのだ。知識労働者を部下に持つ上司は、部下の仕事を代わりにやることはできない。オーケストラの指揮者が、チューバを演奏できないのと同じように。上司は、部下の仕事を管理するだけなのだ。ドラッカー氏が例示する、以下のようなチーム型の組織では、こうした形式的な上司は必要無い。

「その一例が心臓バイパス手術のための十数人からなる手術チームである。心臓バイパス手術には、主任外科医がいる。二人の補助外科医がいる。麻酔医がいる。手術前の患者の面倒を見る二、三人の看護婦がいる。手術を補佐する三人の看護婦がいる。手術後の面倒を見る二、三人の看護婦とレジデント医がいる。肺機能をみる呼吸器機の技師がいる。三、四人の電気技師がいる」

「彼らのいずれもが、それぞれ自分が担当する仕事だけをする。 <中略> しかし、彼らはみな、チームの一員であることを自覚している。 <中略> チームのなかでは、誰にも命令されることなく、手術の流れ、進行、リズムに従って、自らの仕事を自らの判断で変えて行く。」(☆1)

テレビ放送局内の番組制作チームも、これとよく似ている。ディレクター、プロデューサーから始まって、AD、AD補、技術スタッフチーム、美術チーム。ひとりひとりが、番組を作るという目標に向かって、自主的に働く。まさに「チーム型」組織だ。管理ポストにあるボスは、主に、勤務管理、安全管理、勤務評定、ハラスメント管理などをするのみ。

情報社会となった現代。自立的なチーム型組織が、あちらこちらで活動しています。それなのに、実際の企業組織には、旧態依然とした多層的な階層社会と、無数のポストが残っているんです。

これでいいのかな?
ポスト社会。

☆1:「明日を支配するもの」 ( Management Challenges for the 21st Century)
上田惇生訳 / 1999年 ダイヤモンド社刊より