なぜ出来ない

黒澤映画だと思った。

ちょっと誉め過ぎかもしれない。でもそう感じたのです。この「JSA」という映画は黒澤監督の血を引いていると。

冒頭から一気に中心テーマに向かう、無駄の無いアプローチ。本格的な社会派ドラマ。妥協せずに一直線にひっぱるプロット。なによりもインパクトある音と映像、力強い演出。これは「黒澤明監督が現代に解き放った新作ではっ!」という錯覚に陥るほどだった。(☆1)

やはり、誉め過ぎですかね? 誉めすぎと言われてもいい。私はこの映画を賞賛したい。現在の日本映画に これだけ力強く、社会的テーマを最後まで描ききったものがあるだろうか?今の日本映画は、興業成績ばかり気にして、一般受けしそうなプライベートなテーマばかり。恋愛コメディもの、アクション刑事もの、難病もの、動物もの、下級武士ホームドラマなど、繊細なテーマで涙をさそおうとするばかり。このJSAのように、社会に挑戦するような映画制作は、日本では出来ない。

なぜ出来ないのか?

第一に、「日本は平和過ぎる」ということ。現在、うわべだけではあるが「日本は平和」というおだやかな空気で包まれている。このこと自体はたいへん結構なことだ。しかしこういう、まやかし的平和は、われわれの感覚を麻痺させ、ものごとを「ほどほど」と「なあなあ」で済ませる、なれあいの風潮を生む。だから映画も、ほどほどになる。

第二に、すべてが「数字で評価される」映画製作システム。東京工科大学にも教えにきていただいている、軍司達男先生もFBに書かれていたが、テレビの視聴率のような「数字に支配された」制作者は、なにか他の大事なものを忘れてしまっている。メディアの中心において、社会に向けた作品を送り出す以上、制作者として果たすべき社会的責任があるでしょう。

いまのべた二点の問題は、そのまま、現在の大学教育の問題にも重なる。

現在の教育現場は平静を装っているだけです。小学校から高校まで貫かれているのは、「うわべだけの平等主義」による、当たり障りの無い人間教育。人間と人間のぶつかりあいがない。社会の矛盾をつきとめて次の解決方法にいたる議論もない。既成の常識や学問に対して疑問を抱き挑戦する心意気もない。

そして「数値評価システム」による受験。こどもたちはもう「数値」しか気にしない。ゲームのハイスコアと同じ。どんな手段を使い、どういうプロセスをたどろうと、点数の高いものが勝ち。手を抜いて、楽をすればするほど、賢い勝利者となる。どんくさい努力は、賞賛の対象にはならない。

うわべだけは「平和で平等」な社会に見える日本。実際のところは、拡大する格差社会、経済危機、債務超過の財政、失業による絶望、高止まりする自殺率と、あらゆる面で平衡を失った危険水域にある。現在のような「うわべだけの平和」や「数値による評価」で、やっていけるのだろうか。

常に厳しい政治状況におかれる朝鮮半島。そこから生まれる映画のほうが、日本映画よりも、骨太なエネルギーを放出できるのは当然かもしれない。TPPへの参加によって野田総理ひきいる日本は、アメリカの論理と価値観に、ふたたび組敷かれるのでは。その前に、日本人の価値観を見直し、世界に立ち向かえる骨太の人材育成を、急がなければならないのではないでしょうか。

韓国が生んだ、この社会派映画を観て思った次第です。

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☆1ストーリー:1999年10月28日、共同警備区域(JSA)で朝鮮人民軍の兵士が韓国軍兵士により射殺される事件が発生した。現場に居合わせた目撃者の南北兵士達は、それぞれまるで正反対の供述を行なう。中立国監視委員会は事件の真相を明らかにする為、スイス軍の法務科将校、ソフィー・ジャン少佐が操作を開始する。現在も分断される朝鮮半島における、青年達の熱い友情と苦悩の物語。

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