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火水未済

今日は2009年の大晦日。「易経・一日一言」から31日のページをめくってみた。易経六十四卦の最終にある「火水未済(かすいびせい)」が載っていた。未完成の時を説く卦(か)である。その説くところは以下の通り。
完成を終わりと満足しては、発展がない。自分が未完成であるということに気づくことで、人間は謙虚になり、努力成長しようと思うのだ。科学技術の発展も、ひとりの人間の成長と同様、終わることのない失敗と挑戦の繰り返しにならざるを得ない。

水がたまらないダム

日本の農業ダムの実態についての記事。
大分県との県境、熊本県・産山(うぶやま)村に建設中の「大蘇ダム」。(事業費593億円)火山灰質の土壌を甘く見た結果,水がしみ出て溜まらない珍しい「水漏れダム」となった。いまや30年の建設工程が無駄になろうとしている。(2009年7月6日 日経新聞朝刊より抜粋)

北海道富良野市には東郷ダム。本来430万トンの貯水量があるはずだが、ダム底には冬も夏も水は一滴もたまらないそうだ。国と道が379億円を投じて93年に本体工事を終えたが、間もなく水漏れが判明。ダム底の地質が火山灰性のため水を通しやすいとの説もあるが、漏水の根本的な原因はいまだ不明という。(2009年12月28日  読売新聞より抜粋)

なるほどそういうことか。ダムというものは、川下の谷を堰き止めさえすれば、いずれ水が自然に貯まるものと思っていた。しかしダムの底にあたる、谷底の土壌によっては、水は漏れていくのだ。むしろどんな土地であろうと、水というものは土壌にしみこんでいくものであろうから、どんなダムだって少しは水を失っていると考える方が自然なのだろう。

人間社会は21世紀に到達して、いよいよ科学技術による高度な文明を享受している。しかし、この水の漏れるダムの例のように「先端科学技術」の実力にも、ちょっと不安な部分があるということが分かる。

宇宙のわすれもの

スペースシャトルでの船外活動などの際に、乗組員がうっかり無くしてしまったスパナなどの工具。これらはスペースデブリ(宇宙ゴミ)となる。スペースデブリは一見すると、ふわふわと浮いて、のんびり宇宙空間を漂って、ゆっくりと宇宙の彼方に消えてゆくように思える。しかしスペースシャトルや宇宙ステーションなどは、地球を周回する高度400kmの軌道を秒速7.9lm(時速2万8440km)で飛んでいるのだ。ふわふわ浮かんだスパナのように見えるが、その実は、超スピードで飛んでいる、大変な破壊力を持った凶器なのだという。
地上400kmで地球を周回する数センチメートル以上の大きさの物体は、数十年間は落ちてこないで独自の軌道を持ち飛び続ける。乗組員がうっかり無くした工具などのほかに、寿命を終えた人工衛星や、ロケットの下段部分など、地球の周りには総重量にして4500トンものスペースデブリが存在するという。(池田圭一著「失敗の科学」p.181より抜粋)

現代文明を享受する私たちは、いろいろな意味で、便利さや快適さを手にしてきた。人類は、これからも様々な科学技術開発を推し進め、地球の周りの空間に影響を及ぼし続けるのだろう。だけど、それは決して、ひとつの文明の完成形でもなく、完全に成熟した技術体系でもないという事を、いつも意識し続けなければならないのだろう。

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大晦日(おおつごもり)

世の定めとて大晦日(おおつごもり)は闇なる事、天の岩戸の神代このかた、しれたる事なるに、人みな常に渡世を油断して、毎年ひとつの胸算用ちがひ、節季を仕廻(しまい)かね迷惑するは、面々覚悟あしき故なり。

井原西鶴 「問屋の寛闊女(かんかつおんな)」

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明治6年(1873年)の1月1日より、明治政府はそれまでの太陰太陽暦(旧暦)を改めて、太陽暦(新暦)を採用した。この前日は明治5年12月2日だったという。当時明治政府は、文明開化で財政難に苦しんでおり、役人の給与が払えなくなっていた。この年の改暦は、明治政府にとって窮余の財政改革でもあった。旧暦のままでは、閏月があって13ヶ月分の給料を払わなければならないが、新暦では12ヶ月分で済む。しかもこの年(明治5年)は、12月が1日と2日だけしかないから、この月の給料も払わないで済む。太陰暦では、大晦日はもちろんすべての晦日(月の最終日)は月のない闇夜と決まっていた。太陽暦となると、月の出る晦日もあれば、月のない十五夜も起こることになる。

真説の日本史365日事典 p.7

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この改暦の詔書が発せられたのは、明治5年(1872年)の11月9日。毎日新聞の前身にあたる「東京日日新聞」はこう書いた。「さすれば朔日の日食、望月の月食も之を必ずと期し難し。いわんや晦日の月出るに至りては晦の晦たる、その名にそわず、十五夜かえって闇夜の如きは望の望たるその実を失わん」。つまり、旧暦であれば、晦日は、当然新月であり、闇夜にちがいない。日食はこの日に起こる。また望月(15日)は当然満月であり、月食もこの日に起こるのが当然であった。しかし太陽暦となれば、この習慣は無くなり、庶民は混乱するであろうという批判である。

毎日新聞 12月30日 朝刊「余録」より

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なんと今年の大晦日は満月。そして元旦にかけての夜中には月食も起きるという。
これが吉祥であることを祈りたい。


WORLD

アバター、3D映画の未来を考える

イメージ
デジタルシネマや3D映画の現状に詳しい、北谷賢司先生が、10月頃に「アバターが試金石となるでしょうね」というふうにおっしゃっていた。私はそのお話を聞いて、やや3D映画ブームの到来に期待しつつも、ちょっと懐疑的なニュアンスも感じたものだ。
立体映画は、1950年代「恐怖の街」「肉の蝋人形」など、長編や短編をあわせて100本以上の立体映画が作られたらしい。しかし、数年のうちに、その流行は急速に衰退する。当時の立体映画が作られた理由は、テレビ受像機の普及による、観客動員数減への対向のためという消極的なものであったせいだろうか。あるいは、まっとうな演出による作品が少なかったため? ____________________

さて、今回の「3D映画ブーム」なのだが、ハリウッドでは、すでに数多くの新作が「3D」方式で撮影され、また旧作のデジタル処理による「3D変換」によるリバイバル企画も、沢山生まれつつあるということだ。本当にこのまま、3Dムービー時代が到来するのだろうか?

本日、TOHOシネマ 六本木ヒルズで「アバター」を観た限りで言うと、正直なところは「ムリではないか?」という感じがある。実のところ、3時間近くある上映時間のうち、後半の1時間しか観ていないので、全くあてにはならないのだが、とりあえず本日時点では「3D映画が本格潮流になるのはムリではないか?」正直な感想である。この感想には、おそらく私という個人の、視力そのものや、立体視処理能力(脳力?)など、体力的な限界が影響しているには違いないのだけれども。

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言葉を持った人間

普段はすっかり忘れてしまっているのだが、人間が言葉を持っているということは、本当に素晴らしいことだ。もしも人間社会に「言葉」という道具がなかったならば、本当に大変なことになる。手紙どころか、メールも打てないし、本も読めないので、なんの知識を得ることもできないだろう。自分の生活の範囲で得られる情報だけにかこまれて、他国のことも知らず、過去の歴史も知らずに生きていくことになる。
だけど、この21世紀初めのような、不景気で殺伐とした世相になってくると、人間が「言葉」を持っていることで起きる厄災の方が目立ってきて、もしかしたら「言葉」なんてものが無かった方が、世の中は平和だったのではないか、なんて思えてくるのだ。

政治家がうっかり漏らした「言葉」。だれかがうっかりブログに書き込んだ「言葉」。いままでは、特に新聞やテレビといった、大メディアが取り上げなかったような「言葉」は、現代の拡声装置であるネットに乗って、思いも寄らない規模で拡散していく。すると、これがまた思いも寄らないトラブルになって、名誉毀損やらなんやら、無くてもよかったような騒動に発展していく。

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武士の二言

武士の二言
「武士に二言は無い」という表現は、「うっかりすると切腹を申しつけられる」封建時代のものだったはずだ。現代の政治家にとっては「二言」だろうが「三言」だろうが、とにかく「言いたい放題」が通用した時代もあった。しかし、ネット時代の政治家にとって今や「二言」は、命取りになる。
政治家が「コトバ」を使う時には、のらりくらりと表現を濁すのが上策。だけども政治家も人間である以上「ついうっかり」ということもある。時々、はっきりと、ものを言ってしまう衝動を抑えきれなくなるらしい。はっきり言ってしまった「言葉」は、「言質」という人質にとられ、敵方に利用されることになる。
鳩山首相が日米首脳会談で言った「トラスト・ミー」は、おそらくオバマ大統領に対しての最大級の「友愛」の表現だったに違いない。鳩山由紀夫という個人としては、一点の曇りもない「心情表現」なのだろう。しかしその言葉が一国の首相から発せられた「信条表現」として受け取られて、ちょっと迷走がはじまっちゃったのね。

綸言汗のごとし

慎重かつ着実に持ち前の政治的手腕を発揮し、盤石の基盤を築きつつある、民主党・小沢幹事長。でも最近、ちょっと失言が出てしまったかも。綸言汗のごとし。いや、私自身をいさめているのですよ。

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レッド・ツェッペリンがデビューした当時は、まだまだラジオ番組の権威というものが存在したのだろう。今でこそ伝説的ロック・バンドと言われるレッド・ツェッペリンも、ラジオ番組出演のためのオーディションを受けたらしい。当時のプロデューサーによるオーディション・コメントが残されていた。なんとそれは「このバンドのやっている音楽は、時代遅れである」という評価であった。同じくオーディションを受けた、デビット・ボウイは「個性がない歌手」、Tレックスは「思い上がったクズ」という評価に終わったらしい。(12月18日 毎日新聞夕刊より)
NHKの同僚だったTディレクターから、以前これと似たような話を聞いたことがある。たしか札幌放送局でのことだが、当時無名だった、ドリーム・カムズ・トゥルーのメンバーが、NHKドラマの主題歌オーディションに応募してきたらしい。テープ審査であったが、Tディレクターは、そのブルーノートを使った斬新なメロディーに驚いたとのことだが、結果のところ、あえなく落選。
やはり、NHKのディレクターであろうが、BBCのプロデューサーであろうが、本当のスターを見いだして、未来へと送り出すなんてことは、実は至難の業ということなのだろう。だって、おそらく未来のスターとはいえ、最初はみんな、ただの田舎ものみたいな風情で現れることだろうから。人間の才能や、将来の可能性なんて、目に見えるものではないのだから。
一方で、以下のように素晴らしい話も存在する。
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名人佳話
宮本武蔵に関する逸話の一つであるが、武蔵がある日名古屋で尾州藩の槍術指南役であった田辺長常を訪ねた。その時たまたま玄関に居あわせた長常は、佇立する武蔵を見て、これはみごとと嘆じ、しばし見つめていたという。(これは、安岡正篤先生が、尾州柳生の直系である柳生巌長氏から聞かれた話である)
安岡正篤著「人間を磨く」より p.105
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九方皐

馬が特に重要な国力の一つである秦国の穆(ぼく)公の時のこと、ある日、公は名馬を見抜く名人である伯楽を呼んで「お前も年をとった。お前の一門に馬を相(み)させられる者があるか」と聞いた。 伯楽は「自分の子供はみな下才なので、良馬程度ならば見方を教えられるのですが、天下の名馬となると、これの見方を教えることは口ではできません。そのかわりに、私の貧乏仲間に九方皐(きゅうほうこう)という者がおります」と答えた。
そこで、穆公は九方皐を引見して馬を求めさせた。三ヶ月たったある日、彼は「見つけました。沙丘におります。牝の黄毛でございます」と報告した。穆公は早速引き取らせに使者を遣ったところ、それは牡の黒駒であった。「だめだ。お前の推薦した九方皐というやつは、馬の毛色や牝牡さえわからぬ奴ではないか」と伯楽を叱った。
伯楽は、逆に感じ入った様子で、こう言った。「そうですか、九方皐はそのレベルにまで達しておりましたか。彼が観るのは天機というべきもので、その精を得て、その粗を忘れ、その内に在って、その外を忘れ、その見るべき所を見て、その見ないでもいい所を見ず、そんな所にかまっていません。彼が馬を相する段になると、馬なんてものを見ていません、馬よりも貴いものがあるのでございます」。
安岡正篤著「老荘のこころ」より p.72 原典は「列子」説符、「淮南子」道応訓 つづきを読む>>>