2016年6月14日火曜日

際限もなく



植木屋さんがゆったりと枝を切る「パチン、パチン」という音を聞いた。

清々しい気候のせいか、とてものんびりした音に聞こえた。ハサミを使って植木を剪定するという仕事が、とても優雅で楽しそうに感じた。そこで、こんなことを思った。仕事や人生、時間の締め切りなど気にせず、作業に集中できればどんなことでも楽しめるはず。

これが過密スケジュールに追われる身だったら、そうはいかないだろう。次の仕事の段取りや賃金のことが気になったら、「パチン、パチン」と優雅にはいかない。気ぜわしくこなす仕事は味気ない。でも出世のためだろうか、人は時に際限なく仕事を詰めんでしまう。

リスが口いっぱいにエサを詰め込んでいる動画を見た。

ほほ袋に詰め込めるピーナツの量にも、さすがに限界があるらしい。顔が2倍に膨らんだあたりで諦めて逃げていった。際限なくピーナツを詰め込むリスなんかいたら、これは見ていられないな。しかし、生きるということはまさに執念だ。

たまに自分の何倍も大きい獲物を飲み込んでしまったヘビの写真も見る。だが、さすがのヘビも、大きな獲物を飲み込んだ後は消化できるまでしばらくじっとしている。その点、リスやヘビのさらに上を行くのが人間だ。お金がある限り美術品や有価証券に大量に投資してその蓄財には際限がない。万物の霊長と言われるだけはある。

2016年6月13日月曜日

ウォーターガーデン



ついこの間まで、キャンパスの花壇ではたくさんのバラが咲き誇っていた。それが今はすっかりアジサイのシーズンとなった。近所を歩いていてもあちらこちらで、薄紫色や水色の丸い花が咲きこぼれている。

先週末、たまたま用事で小平を訪れた。小平駅から花小金井駅まで続く緑道は、鬱蒼とするほどの豊かな緑で溢れていた。その緑道の脇には、ホタルの里となる清流や公園が整備されていて、武蔵野の緑地を堪能できる。この絵を描いたアジサイ公園もその緑道の脇に続く窪地に広がっていた。

アジサイは水の花。周りが少し乾燥するとすぐに水が欲しそうにうなだれる。このアジサイの群生を見ると、日本は本当に恵まれた国だと思う。特別な灌漑施設を作らなくとも、こうして公園いっぱいにアジサイが広がって咲いている。豊かな水が空から降ってくるということの幸せを感じつつ、傘越しに今日の雨を見上げた。

2016年6月12日日曜日

映画館にはいかない

ガムラ・スタンの古い街並み

映像に関する授業を担当してつよく感じるのが、今の学生さんたちの「映画離れ」のことである。「理科離れ」「勉強離れ」などいろいろな「離れ」があるようだが、この「映画離れ」現象というものは、非常に急速に進んでいるように感じる。

そもそも、映画の黄金時代というのは、ルミエール兄弟やエジソンによってその基礎が作られてから50年ほどのこと。その後は「映像の王」の座はテレビに譲ったまま、独自の路線をたどってきた。真四角な箱のようなテレビの画面に対抗して、シネマスコープやビスタビジョンといった、横長の大画面の迫力ときめ細かい高解像度の美しい映像に特化していった。

しかし、テレビの画像もいまや映画の表現力に迫るようになった。そのため映画作品というものは、DVDやBDコンテンツの前段階として劇場にかかるだけという存在になりつつあるのでは。まだまだ映画の方が映像の表現力に勝るとはいえ、その差は年々縮まっている。そのためもあってか、今の学生さんたちが、あえて映画を映画館に観に行く必然性は、急速になくなっているようである。

さらに映像を見る環境の激変。映像を観るという行為は、もはや映画館に100分座っていることではない。電車の中や教室の最高列で、10分以内で観るもの。細切れの時間の中で、チャチャッと見られればそれでいいのだ。まさに映像コンテンツの、ファーストフード化である。

外食産業に起きていることと、ほとんど同じことが映像業界に起きているのだ。早く安く美味しい映像コンテンツが、これからの主流。見やすくて、手っ取り早いコンテンツこそ便利でおいしいのだ。考えてみれば恐ろしいことだが、これとそっくりなことが音楽業界を襲った。

一方で作り手側にも変化が起きている。新作のプロモーションのために来日している、ジョディ・フォスター監督が、インタビューで語っていた。ハリウッド映画も今や、映画館で「非日常的な体験」を味わうためのアトラクション化している。人間ドラマはほとんど作られることもない。あと10年もすれば映画から人間ドラマは消えてなくなってしまうのではないか。

不肖私も、学生さんたちに接していてつよく思う。映画は彼ら世代にとって、もはや物語を味わったり、人生の不思議や美しさを味わうようなものではない。TDLやUSJのアトラクション、あるいはリアルゲームと同列のものなのだろう。これまでの傑作作品といっても、いつか思い出してみるだけのもの。古典や漢籍のように、過去の痕跡として存在するだけになるのかもしれない。