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チャナン・サティー

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インドネシアはイスラム教の国だけど、バリ島は特別だった。ヒンドゥー教の彫像や石塔が街のあちらこちらにあり、お香が焚かれていた。道端の同祖神の前だけでなく、商店街の道端や、レストランの入り口には「チャナン・サリー」という神々へのお供え物の食べ物や、花とお香が置かれていた。
葉っぱで編んだお皿にお米やビーフン。 昔ながらの信仰が、日常とともにある。
そういえば、日本でも昔はこんなふうに、日々の生活のどこかで、お年寄りたちが、仏様に手を合わせ、日々の暮らしの安全とちいさな幸福を祈る姿が見られたと思う。科学万能の教育と、経済優先の生活が、日々の生活から神様の存在を消し去ってしまったのだろうか。
どれだけ科学が進んでも、いまだ肝心のことはわからない。宇宙の果てがどうなっているのか、人間の意識とは何なのか、人類はどのように進化をしてきたのか。実はいまだ謎だらけ。未知の世界の領域には、神々の領域が未だにあるはずだ。
それからなによりも、バリ島の人々の笑顔が素晴らしかった。空港まで送ってくれて握手をした、タクシー運転手のマディさん。彼の車のダッシュボードにも、チャナン・サリーが置かれていた。

あなたの中のカエル

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私たちのボディプランは、カエルのボディプランとよく似ている。体の先についている頭部に、ふたつの眼、鼻と口がある。体には前と後ろがあり、体の両側には二本の腕と二本の脚がある。腕立て伏せのような体制で頭を持ち上げることができる。
こうした類似は、カエルから人間にいたる進化を示唆している。何億年もさかのぼった地層からでてくる化石は、カエルの構造が少しずつ人間に近づいていくことを教え、カエルDNAパーツの多くは、いまも人類の体の構造を決定するために使われる。
発生学と遺伝子研究が結びついて「エボデボ(発生進化生物学)☆1」という新しいジャンルの学問が生まれた。そこにさらに古生物学の化石研究が新しい論証を加える。ニール・シューピンによる「ヒトのなかの魚、魚の中のヒト」という本は、生物学におけるこうした驚くべき発見の数々を、順序立ててわかりやすく教えてくれる。
彼は、研究室で胚の発生過程を観察する生活と、北極圏に露出する岩盤を渡り歩いて化石を収集する生活をダイナミックに行き来する研究者だ。水生動物から陸生動物への進化をつなぐミッシング・リンクであるティクターリクを発見した。しかし、そのシューピン博士にも、何年もの間収穫もなくさまようだけの空しい時もあった。
そんな時に彼はこうするという。
「非常に子供じみて、惨めとさえいえる作業と、人間の知的目標の一つが背中合わせであることを、私はしっかりと認識していた。どこか新しい場所を発掘するとき、私は毎回そのことを自分に言い聞かせる」☆2

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☆1:evolutionary development biology ☆2:出典:ニール・シューピン「ヒトのなかの魚、魚の中のヒト(Your Innner Fish) 最新科学が明らかにする人類進化35億年の旅」ハヤカワ ノンフィクション文庫 p.107


上の人が怜悧

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NICOGRAPH2016 という学会に参加するために富山へ出張した。富山といっても実は加賀藩の領地だったところも多い。岩瀬港には、廻船問屋の土蔵を利用した食堂などもあり、明治から天保の頃にタイムスリップした感覚を味わった。
万延元年に咸臨丸で渡米した勝海舟は、帰国後幕府の老中から「異国においてなにか眼をつけたことがあろう。それをつまびらかに言上せよ」と命ぜられた。☆1
海舟は仕方なく、ありのままに「アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相当に怜悧でございます」と答えた。すると、その老中は「この無礼ものひかえおろう」と怒ったという。昔の話である。
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☆1:出典 氷川清話 講談社学術文庫版 p.262 「亜米利加は上の人が怜悧」より 


マイクロ・フロー

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ガムを噛む。コーヒーを飲む。喫煙する。
こうした行為を、ポジティブ心理学という学問では、マイクロ・フローと呼ぶ。☆1

フローというのは、なにかに没我的に熱中していて、世の中の心配事や不安、退屈さを忘れた幸福な状態のことを言う。金銭や名誉、地位などとは関係なく、内発的な欲求によって没入して心から楽しめる状態だ。たとえば、作曲に熱中する作曲家、難所に挑戦するロック・クライマー、試合中のバスケットボール選手、手術中の外科医など。

それに対して、マイクロ・フローというのは、そういう内的価値観での没入のできない人、仕事を心から楽しめない人、社会から疎外された人が、日常でたびたび経験するもの。本当のフローの代替物のようなもの。

うわー大変。
僕は毎日コーヒー飲んでるんですけどね。


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☆1:ミハイ・チクセントミハイ著「楽しみの社会学」より
ほかに、テレビを見る、ラジオを聴く、 ぶらぶら歩く、ゲームやスポーツをするなど

ラブジョイ彗星

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重慶で見たこの三輪自動車は、交通渋滞が常態化した都市に適応したデザインだと思った。一人乗りかと思ったら、後部座席にも二人乗れるようだ。
地球を乗り物にみたてて「宇宙船地球号」と呼んだのは、未来科学者のバックミンスター・フラーだった。この乗り物には現在70億人もの人間が乗っている。
昨年の一月に太陽に接近した、ラブジョイ彗星。パリの天文台が観測した結果、1秒間にワイン500本ほどのアルコールを宇宙に放出していることがわかった。ラブジョイ彗星は、アルコールだけでなく、糖類の一種をふくむ21種類の有機分子も放出していた。
地球上の生命は、彗星に乗って地球にやってきたという説がある。生命の材料となる有機分子は、宇宙から彗星が運んできたというのだ。この説が正しいとすると、われわれ人類は、もとはひとつの小さな乗り物の、乗客仲間だったということになるのだが。

ブラック企業

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サラダ用にキャベツの皮を刻む。 キャベツに申し訳ない気がする。
植物にだって人生がある。これから大きく成長して太陽の光をいっぱいに受けようという若い葉っぱを、まだ大人になる前に刻んでしまうのだ。まるで、社会に出る前の大学生を、料理しているみたいで可哀想。(考えすぎ?)
次々と若者を採用するが、ろくに育てられない企業もあるという。「即戦力として使えない」といっては新人が切り捨てられる業界もあるらしい。
じっくりと経験を積ませてゆっくりと教えてあげて、愛情をそそいで育ててあげられれば、若者だって働き続けるのでは。いまの若者だって、道理はわかるし意外と義理堅い。恩のある会社をそう簡単には辞めはしないはずだ。

ご神木

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樹木の形を見ると、やはり重慶は熱帯系のようだ。根っこがまるまると逞しく、濃い緑の葉がエネルギッシュに密生している。
今朝、御茶ノ水駅のホームから地上を見上げると、街路樹の欅の幹に「注連縄(しめなわ)」が巻かれていて、その樹がご神木であることがわかった。都会の道端の樹なのだけど、地元の人の信仰の対象となっている。
重慶で見たこの大木。根っこの隙間にはたくさんの小石が差し込まれていて、何らかの霊性のある樹として敬われていることがわかる。目の前のものに命や霊性を感じるかどうかは、見る側の心の問題だ。中国も日本も、樹に対する思いに違いはないように思った。


カンナ

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この何年かでカンナという花が大好きになった。まだ初夏の頃から10月中旬となった今まで、ずーっと咲き続けている。夏の花という印象があるけど、どっこいいつまでも咲いている。秋風が吹いてきてもどこ吹く風。この「だからどうしたの?」っていう凛とした風情が、僕は大好きだ。
第一ものすごく目立つ。花は真紅かオレンジ。これでもかというほど、花芽をつけて、次から次と花を咲かせる。花芽はまるで機関銃のように並んでいて勇ましい。まわりの雰囲気など関係なく、「わが道をいく」花だと思う。
今日、大学の一年生を集めたミーティングがあった。
彼らを見るといつも不思議に思う。いつどこで、こんなにも「空気を読」んだり「周囲を気にする」大人のようになったのかしら。できれば、みんなカンナのように「だからどうしたの?」って威勢良くノビノビ成長していってほしいものだ。


ビニール袋にスイカを入れて

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重慶の街では、いたるところで果物や野菜を売る屋台を目にした。両肩に天秤棒で担がれた大ざるに盛られたザクロ、大きな木製のリヤカーに積まれた桃、トラックの荷台に並べられたブドウ。どれも美味しそうではあったが、買って食べてみることはしなかった。さすがに地元の人に混じって、果物にしゃぶりつくことは出来なかった。
どういうわけか、こうしたリヤカーやトラックは、みな真っ赤であった。四川料理に使われる唐辛子の色なのか、酷暑の夏を象徴しているのか。とにかくよく目立つ。
それから、重慶で買い物する人は、みなビニール袋でそのまま運ぶ。首がないまるごとの鳥をビニールにいれて運んでいる人、豚肉らしきかたまりを運んでいる人。切ったスイカをビニール袋に入れて持って歩く人。あれはもし、ビニールのひもが切れたらどうなるんだろうと、見ていて心配であった。
電車の車内で、ビニール袋の中から直接スイカを食べている人も見た。スイカの汁が服に飛び散るかどうかなんて気にしていない。ワイルドだけど、シンプルでエコな感じがした。

アリス・クーパー

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まだケヤキの葉が新緑に輝いていたころだから、この絵を描いたのは初夏だろう。こんな回廊の画像を見ていると、トンネルの向こうに不思議な景色が見えてくる。
1980年代のある日、まだ売り出し中の新米ロッカーだったアリス・クーパーは、長いトンネルの向こうに広がる、コンサート会場の景色を見ていた。彼がもぐりこんでいるのは、巨大な大砲の砲身の中である。ド派手な演出が売り物のグラム・ロックのコンサート。明日の本番では大砲の先から観客めがけて発射される予定なのだ。彼は恐怖のあまり冷や汗をかきながらトンネルの先を見つめていた。
幸い、スタントマンによるテストが何回やってもうまくいかず、この演出プランはボツとなり、アリス・クーパーは危険に身をさらすことなくコンサートを終えた。(かわりに大砲に乗っかって歌ったのだがこれが大受け)
デビッド・ボウイが亡くなってしまい、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞。かつてのプロテストソングはいま、新しい時代の価値観で受け入れられようとしている。アリス・クーパー。もう一度、彼の勇姿を見てみたい。ディランのように今を歌うとしたら、彼はどんな詩を披露してくれるだろうか。

この狛犬は

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中国の古い街で、可愛い狛犬を見つけた。日本の神社で見かける守り神とほとんど変わらない。耳はパピヨンみたい。コアラみたいな愛嬌もある。人々の生活を見守る守り神であり、癒しの精霊のようだ。
先日、今話題の巨大生物の映画を観た。評判通りの素晴らしいCG技術で日本伝統の巨大生命体が鮮やかに描かれていた。しかし、あんなにリアルな映像が出来上がっているにもかかわらず、私の想像力はあまり刺激されなかった。もしかしたら、老人の私には、少々リアル過ぎるのだろうか?
その点あの狛犬は生きている。 ふとこっちを振り返ってニコっと目が合いそうだった。粗いつくりな分だけ、こちらの想像力に語りかけてくるようだ。

信じられるもの

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10月9日はジョン・レノンの76回目の誕生日。FBに生前の彼の言葉が紹介されていた。
「僕は、科学がその存在を否定しない限りどんなものでも信じる。妖精、神秘、ドラゴン。人の心に存在するものは、実際に存在しているんだ。夢や悪夢だって、いま感じているのと同じようにリアルじゃないか?」
中国の重慶郊外で、古い寺院の屋根を見た。
その屋根の棟では、魚の姿をした守り神が水を吹きかけていた。火除けの力を持つ精霊だ。この寺院を建てた人々には、不思議な力を持つ神秘の姿が見えていたのだ。ジョン・レノンのように、感性豊かで詩情あふれる人々だったのだろう。

磁器口

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かねがね古い中国に出会いたいと思っていた。
CYBERWORLDS2016の開催地、重慶の近郊に「磁器口」という古代からの陶磁器の生産地跡があって、石造りの家々が斜面を覆うように並んでいる。ウプサラ大学の林先生と空き時間にぶらぶらと訪れてみた。坂をのぼったりおりたりするたびに、景観がさまざまに変化する。やっと中国の情緒というものに触れられたような気がする。

一皮むくと

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ジャガイモのイラストにしては、殺伐とした話で恐縮である。 家族のスマホが水没したことをきっかけに騒動が起きた。いわゆる解約問題だ。
スマホの機種変更。ついでに光通信のプロバイダを変更。ところが、これがもう異次元に大変なのである。現状加入しているプロバイダの「解約」がどうしても出来ない。
加入のときは簡単だった。全国どの店舗でもいつでも対応。しかし解約には高い障壁がめぐらされている。窓口はなぜか九州のみ。電話はプッシュホン自動応答。こうして一皮むけば、このプロバイダの本性が、見えてくるのだった。
河東哲夫氏の著書にあったように、ロシアではいまも「計画経済」であるという。すべての生産は中央政府の計画に依存している。どこで何を作るのか。部品をどれだけ調達するのか。それをどれだけどこへ運ぶのか。すべて政府が決める。
ロシアにとって「自由競争」や「自由市場」は理解不能。社会経済はすべて誰かが意図的にコントロールするというのが、ロシアの常識なのだという。国家における本当の経済力は、真の自由市場からしか生まれないというのに。
しかしあれだ。日本においても計画経済は存在するようだ。プロバイダ同士の競争は、サービスの競争というよりも、制度設計の競争みたいだから。

太陽を追いかけて

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いつもせっかちにパラパラとめくる日本版ニューズウィーク。それでも河東哲夫氏のコラムだけは、スミからスミまで読んでしまう。なんというのだろう。ライブ感とスリルというのか、国際政治の現場のリアリティがたまらない。さすが、元ロシア大使館公使など外交の要職を歴任した方の記事だ。

今回はウズベキスタンのカリモフ大統領の逝去後の中東ロシア情勢についてのレポートだった。それで興味も膨らんで、河東氏の著書「ロシア皆伝」も読んでみることにした。読んで大変。面白すぎて電車を2回乗り過ごし終電で帰る羽目になった。

日本人とロシア人は友達になれるか? 答えはイエス。ある共通の目標を持って、心と心のお付き合い、そしてきちんとした情報交換、これで素晴らしい信頼関係を築ける。このことは、やはりソ連ロシアを舞台に活躍した佐藤優氏も述べていたと思う。ロシア人とは、日本人と共通する、人間的感情と情熱の人々でもあるらしい。

ロシアが追いかけている太陽、いまそれは、共産主義でもなく、欧米の経済でもなく、国家の覇権でもなく、ロシア人のアイデンティティと溢れるロマンなのかもしれない。そんなことを感じさせられた。ヒマワリの視線の先には常に太陽がある。もしも日本人とロシア人、同じ太陽を追いかけることができたならば、また違った未来も見えてくるのかもしれない。

今日は、9月11日。
ガラにもなく国際情勢、ちょっとだけ考えてみた。
私の力では河東氏の著書の魅力すべては伝えきれず、ただご一読をお勧めするばかりである。



奈良井のヒミツ

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中山道34番目の宿場町だった奈良井を訪ねた。

信濃の山々の緑が空に向って輝く天空の宿場町。中山道はぜんぶで六十九次あったというから、ここは全行程の約半分にあたる。鳥居峠という難所の手前であり、信濃路11宿の中でもっとも標高が高い場所だ。
「よっしゃ、ここで体力をつけておきましょう」と、ゆっくりと身体を休めたい旅人がたくさん泊まったそうだ。
「奈良井千軒」という言い方が残るように、いまも1キロもの街並みが保存されている。中央の通りは8Mの幅があって意外に広い。当時の賑わいが目に浮かぶようだ。しかし、ここの景色はどうしてこんなに自然なんだろう。じつは、この町の景観保全には、あるヒミツがあった。
奈良井の屋根は、残念ながら信濃宿本来の板葺石置屋根ではない。濃い茶色の鉄板葺だ。メンテナンス上しかたない。しかしそれを3/10勾配(3寸勾配=16.7度)とすることが条例で規定されていて、通常よりも緩やかな勾配になっている。そのおかげで、中央の通りにいる限り、鉄板の葺は見えない。現代風の屋根は旅人の目から隠されているのだ。
おかげで、この奈良井の景観はいまも完璧。通りをそぞろ歩き往時のままの水場で清流に手をひたせば、完全に江戸時代にタイムスリップしてしまう。


よりどころ

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長いあいだ苦労を重ねて成功をつかむ。そういう体験をした人の話では、逆境を乗り越えるのに「心のよりどころ」となったものについて語られることがある。「恩師からもらった言葉」とか「友人との約束」といった精神的な支えだけでなく、「金メダル」や「報奨金」といった現実的なモノも強い「よりどころ」となることがある。
この赤いスポーツカーは、彼の持ち主を46年間もの間支え続けてきた。長野県から東京の美術大学を卒業してデザイナーとなった彼の持ち主は、なかなか仕事がもらえない時代が続いた。そんな時に、くじけそうな気持ちを支えるために諏訪の実家から贈られたのが彼、真っ赤な「トヨタS800」だったのだ。
彼の持ち主というのは、画家・原田泰治さんである。実家の両親が貯金をはたいて買ってくれた彼が原田さんを奮いたたせ、成功に至るまで支え続けた。幼い頃に小児麻痺のために足が不自由となった原田さんのため、足を伸ばしたまま運転できるし、腕でブレーキをかけるための特注のレバーも付いている。
彼は今もピカピカの状態のまま、諏訪湖畔の原田泰治美術館ロビーで佇んでいる。原田さんによっていかに大事にされ愛されたのか、誰が見ても一目でわかるはずだ。

彼らが一番よくわかっている

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大学で映像の作り方を教える授業がある。授業といっても実習タイプなので、学生が各々自分の好きなテーマでショートフィルムなどを作る。
当然のことながら、手間をかける学生もいれば、手を抜く学生もいる。この辺は大人の世界と同じである。締め切りに間に合わなそうな学生は、あの手この手で時間短縮をはかる。ネットのアイデアパクリから、アプリのテンプレ流用、他人の作品へのただ乗りなど、いろいろとやる。
最終講評会で、その小細工を見抜けずに「おおー、このアイデア凄いなー」とか、「えらく手が込んでるね」などと褒めてしまったら、教師として恥ずかしいことになる。それに、たとえそれに気づいたとしても、ほかの学生の前で、それをズバリ突くのも可哀想かとも思う。
こういう時には、実にいい方法がある。 学生による投票、つまりライバル同志による多数決である。
不思議なことにこれが実に良い評定結果を出す。しかもまず間違うことなく「時間と手間をじっくりかけた労作」が上位に選ばれるのである。
手間暇かけて愛情を注がれた作品の価値。 それを、彼ら自身が一番よく分かっていたのだ。

ピーチュクやってます

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うちで10年以上も同居してくれているヤマブキボタンインコのココアちゃんは「ものまね」はしない。正確に言うと、こちらが期待するような「ものまね」はしない。「おはよう」とか「ココアちゃんげんきー」とか、インコらしいことは言わない。

世の中には、脱走して家に戻れなくなったが、交番で自分の家の住所が言えたために無事に帰宅したという天才型インコもいるという。その点、うちのココアちゃんは実利的な学習には興味がない。うちの家族らしい性格だ。

むしろ人間の言葉よりも、卵をかき混ぜる箸が「キンキン」と当たる音や、爪切りの「パチパチ」とはじける音といった変わった音に反応する。高音がよく聞こえるのだろう。電話のピロピロいう着信音や、AKBの歌声も好きなようだ。

機嫌の良い時にはひとりでよくしゃべる。「ピーチャラコーチャラピーチュク」と、いつまでも話している。それに寝言もよく言う。がく、っとなりながら「ピチョピヨ」とか言ってる。意味はわからないが、やっていることは人間と同じではないか。

おしゃべりなのに話が通じないというのは残念だ。だが、だからこそ平和なのだ。たとえ何かの悪口だったとしても気にならない。おかげで10年間ケンカしたことはない。てか、ケンカになりようがない。


みんないなくなった

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うちの大学では、学生さんのための食堂や休憩コーナーに、こんな感じの可愛らしいイスが置かれている。でも「いまの学生さんは恵まれているな」という感想を持つのは大人ばかりで、当の学生さんたちと言えば、イスのデザインなんぞよりもおしゃべりや食事に夢中だ。
もちろん彼らも時には「うちの大学は環境がいい」とか言ってくれるけれども、正直のところ周囲の環境を楽しんだり眺めたりするよりも、ゲームやアニメ、そして時に人間関係など、夢中になることがたくさんあって当然。彼らの頭の中は、自分と友達との関係や遊びのことなどでいっぱいなのだろう。それが思春期というものだ。
キャンパスの花壇の花を眺めたり、食堂のイスの写真を撮ったりしている暇人は、高齢者の私くらいだ。そして特に今日はこのイスたちもひどく寂しそうだ。肝心の主役である学生さんたちは、ポケモンを探してみんなどこかへいなくなってしまった。

手仕事

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乾燥機から出てきた家族のシャツ。ボタンが2つ並んでとれてしまい、以前にとれたボタンと合わせて、3個足りなくなってしまった。こうなると、似たようなボタンを探してごまかすというわけにもいかない、という結論となった。

色はちょっと違うけど、シャツのデザインには合いそうなボタンを買ってきて、取り付けることになった。取り付け担当は、今日、家族の中で一番時間のある、僕ということに。(と言っても論文投稿の締切があるのですが、とりあえず家にいたので...)

実はボタン付け作業は、嫌いではない。指先に集中して行う細かい作業は、基本的に好きな方だ。とはいえ、袖口も入れて12個ものボタンを、一度に付け替えるのというのは、やったことない。もしかすると無謀な挑戦だろうか。

その作業の結果はというと、

とても楽しかった!

案の定、途中で疲れてくると、糸が絡まったり、針で指先をつついたりしたけれども、基本的には、針仕事というのはとてもいいものでした。何か贅沢な時間を過ごしたような気がする。

しかしまあ、針仕事なんて、こんなことでもない限り滅多にやらないなあ。今日直したシャツだって、もとの糸の穴を見るとあまりに整然としていて、これは機械で取り付けたもののようだ。でも昔は、家族の衣類を仕立てたり、修繕したり手作業をしたものだよね。

うん、ボタン付け、またやりたい。


Siriにお願い

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先日の集中豪雨のせいで、家族のアイフォンが水浸しになってしまった。カバンの底に入れたたまだったところに雨水が浸水したのだ。その日は、そのまま乾燥させるだけにして、翌日の朝から、救出作戦をはじめた。
液晶画面にまだらなシミが見えるのだが、幸いなことに電源は入った! この機を逃さぬよう、慎重に作業を進める。まずはiCloudの容量を増やして、WiFiからのバックアップをしつつ、一方でここ2ヶ月ほどの写真データを救出。一時間ほどの作業の結果、ほとんどのデータが無事だった。何と今はLINEのやり取りも復帰可能なのだ。
こういうことがあると、僕たちがいま、本当にものすごい世界に生きているということがわかる。一人一人が、住所録、メール、メモ、日記、写真、音楽、動画など、あらゆるデータを身にまとって暮らしている。しかもそのデータを端末から端末へ自由に移動。この技術はまさに人類の偉業である。ジョブスさんに改めて感謝の意を表したい。
ここからが笑える話。データ救出作業の途中でホームボタンの接触がちょっとおかしくなった。どうやら「押しっぱなし」状態、つまり「Siriさん」がONのままになってしまったようなのだ。そのために、家族で何か話したり物音がするたび「Siriさん」が「なになにを調べます」と言ったり、どこかに勝手に電話をかけたりする。
そのたびに大笑い。いや「Siriさん」には笑わされました。2001年宇宙の旅の「HALさん」を思い出すような、ちょっとSFぽい展開だった。
しかし待てよ。考えてみればだ。「Siriさん」に「Siri、バックアップをしておいてね」と頼めばよかったのか。いやまさかそれは無理? いやいや、それもそのうちに、当たり前にできるようになるのだろう。

どこ吹く風

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大学同窓会の打ち合わせで田町まで出かけてみると、今日はこれまでになく涼しい日であることに気づいた。蒸し風呂のようだった湿気もなく、街を歩いていて気持ちが良い。
ということで、ちょっとだけ銀座に立ち寄ることにした。東銀座の地下道では書道展をやっていた。三歳の女の子の手による「くも」という文字がのびのびと浮かんでいて、清々しい気持ちになった。地下道の天井に青空が広がるようなイメージが見えるようではないか。
銀座四丁目で地上に上がった。するとそこで展開していたのは、なんと二人の都知事選候補の鉢合わせという、ちょっとした修羅場だった。真っ黒な人だかりと喧騒に囲まれて、一気に暑苦しい現実にひき戻された。いつもは、自由で開放的な気分にさせてくれる歩行者天国が、街頭演説や人だかりで台無しだ。
なぜ僕たちは、こうした騒ぎにこうも興奮して巻き込まれなければならないのか。静かにじっくりと取り組むべきことが、ほかにたくさんあるのだろうにね。そのまま人混みを避けるように歩いて行くと、大好きな銀座長州屋さんの前に出た。
店先を見ると、どっしりとした花鉢が二つ置かれている。長州屋さんのウィンドウの大鎧と並んで、どこ吹く風、という顔で風に揺れていた。やっと普通の空気に戻った。


際限もなく

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植木屋さんがゆったりと枝を切る「パチン、パチン」という音を聞いた。

清々しい気候のせいか、とてものんびりした音に聞こえた。ハサミを使って植木を剪定するという仕事が、とても優雅で楽しそうに感じた。そこで、こんなことを思った。仕事や人生、時間の締め切りなど気にせず、作業に集中できればどんなことでも楽しめるはず。

これが過密スケジュールに追われる身だったら、そうはいかないだろう。次の仕事の段取りや賃金のことが気になったら、「パチン、パチン」と優雅にはいかない。気ぜわしくこなす仕事は味気ない。でも出世のためだろうか、人は時に際限なく仕事を詰めんでしまう。

リスが口いっぱいにエサを詰め込んでいる動画を見た。

ほほ袋に詰め込めるピーナツの量にも、さすがに限界があるらしい。顔が2倍に膨らんだあたりで諦めて逃げていった。際限なくピーナツを詰め込むリスなんかいたら、これは見ていられないな。しかし、生きるということはまさに執念だ。

たまに自分の何倍も大きい獲物を飲み込んでしまったヘビの写真も見る。だが、さすがのヘビも、大きな獲物を飲み込んだ後は消化できるまでしばらくじっとしている。その点、リスやヘビのさらに上を行くのが人間だ。お金がある限り美術品や有価証券に大量に投資してその蓄財には際限がない。万物の霊長と言われるだけはある。

ウォーターガーデン

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ついこの間まで、キャンパスの花壇ではたくさんのバラが咲き誇っていた。それが今はすっかりアジサイのシーズンとなった。近所を歩いていてもあちらこちらで、薄紫色や水色の丸い花が咲きこぼれている。

先週末、たまたま用事で小平を訪れた。小平駅から花小金井駅まで続く緑道は、鬱蒼とするほどの豊かな緑で溢れていた。その緑道の脇には、ホタルの里となる清流や公園が整備されていて、武蔵野の緑地を堪能できる。この絵を描いたアジサイ公園もその緑道の脇に続く窪地に広がっていた。

アジサイは水の花。周りが少し乾燥するとすぐに水が欲しそうにうなだれる。このアジサイの群生を見ると、日本は本当に恵まれた国だと思う。特別な灌漑施設を作らなくとも、こうして公園いっぱいにアジサイが広がって咲いている。豊かな水が空から降ってくるということの幸せを感じつつ、傘越しに今日の雨を見上げた。

映画館にはいかない

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映像に関する授業を担当してつよく感じるのが、今の学生さんたちの「映画離れ」のことである。「理科離れ」「勉強離れ」などいろいろな「離れ」があるようだが、この「映画離れ」現象というものは、非常に急速に進んでいるように感じる。

そもそも、映画の黄金時代というのは、ルミエール兄弟やエジソンによってその基礎が作られてから50年ほどのこと。その後は「映像の王」の座はテレビに譲ったまま、独自の路線をたどってきた。真四角な箱のようなテレビの画面に対抗して、シネマスコープやビスタビジョンといった、横長の大画面の迫力ときめ細かい高解像度の美しい映像に特化していった。

しかし、テレビの画像もいまや映画の表現力に迫るようになった。そのため映画作品というものは、DVDやBDコンテンツの前段階として劇場にかかるだけという存在になりつつあるのでは。まだまだ映画の方が映像の表現力に勝るとはいえ、その差は年々縮まっている。そのためもあってか、今の学生さんたちが、あえて映画を映画館に観に行く必然性は、急速になくなっているようである。

さらに映像を見る環境の激変。映像を観るという行為は、もはや映画館に100分座っていることではない。電車の中や教室の最高列で、10分以内で観るもの。細切れの時間の中で、チャチャッと見られればそれでいいのだ。まさに映像コンテンツの、ファーストフード化である。

外食産業に起きていることと、ほとんど同じことが映像業界に起きているのだ。早く安く美味しい映像コンテンツが、これからの主流。見やすくて、手っ取り早いコンテンツこそ便利でおいしいのだ。考えてみれば恐ろしいことだが、これとそっくりなことが音楽業界を襲った。

一方で作り手側にも変化が起きている。新作のプロモーションのために来日している、ジョディ・フォスター監督が、インタビューで語っていた。ハリウッド映画も今や、映画館で「非日常的な体験」を味わうためのアトラクション化している。人間ドラマはほとんど作られることもない。あと10年もすれば映画から人間ドラマは消えてなくなってしまうのではないか。

不肖私も、学生さんたちに接していてつよく思う。映画は彼ら世代にとって、もはや物語を味わったり、人生の不思議や美しさを味わうようなものではない。TDLやUSJのアトラクション、あるいはリアルゲームと同列のものなのだろう。これまでの傑作作品とい…

Flash王国ふたたび

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職場の慣例なんだけど、今年のゴールデンウィークもしっかりとお休みをいただくことができた。といっても、とくに出かけるあてもないし、出かけたとしても人混みは嫌いなのですぐ帰ってくるに決まっているので、引きこもり三昧の10日間であった。
ふと気がつくと、庭のシャリンバイが、白い小さな花をつけていた。このシャリンバイは、どこからか飛んできた種がひとりでに芽を出して大きくなったもの。今では大人一人くらいの大きさに育った。
成果はあった。それもかなり充実した成果かもしれない。Swiftを本格的に勉強し始めたのが昨年の暮れだったので、これで5ヶ月。やっとの事で、思うようなコードも書けるようになった。以前、Flash Action Script で書いていたアルゴリズムが、大体おなじように書けるのが嬉しい。このことに気づいている人は、どれくらいいるのだろうか。ADOBEの心変わりに愛想を尽かして、Flashを見捨てた人も多いとは思うが、おそらくFlashの財産は、そのままSwiftの開発で使えるのではないかと思う。
もちろん、すっかりおなじAPIが揃っているわけではない。でもSwiftがオープンソースとなった今、Flash用のライブラリを作っていた猛者たちが、もう一度腕をふるうということも期待出来ると思う。
シャリンバイは、毎年繰り返し花を咲かせる。おそらくコンピュータプログラムの世界でもそういう繰り返し盛衰する勢いというものがあるのではないだろうか。僕としては、あのFlash王国が、敵国Appleのお膝元で、もう一度建設されて、かつての夢が再現されることをまぼろしのように想像している。

マネー・ボール

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映画「マネー・ボール」は実話に基づいている。実話に基づいているどころか、主人公のビリー・ビーンはいま現在もなお、オークランド・アスレチックス現役であり、映画に描かれたままに仕事を続けている。(☆1)アメリカ大リーグで、運営費がもっとも少ないチームでありながら、地区優勝の常連にまで上昇させた稀代のGMだ。
ベースボール。そこは素人にはわからない魔物が潜む。前途ある若者を誘い込み破滅させる迷宮ワールドである。誰もが確かなことはわからないまま人生をかけた戦いが繰り広げられているのだった。経験と勘がものを言う、男のスポーツ野球界とはそういうものだった。
そこに、オークランド・アスレチックスは、経営学的データ野球を持ち込んだ。野球の勝利の方程式。全選手の詳細データを分析し、徹底した野球経済学を貫くことで球団を地区優勝へと導いた。弱小で最小予算チームだったからこそ成し遂げられたとも言える。この映画以来、野球界だけでなく市場取引やビジネスの世界でも「これまでの経験と勘」などというものは意外に役に立たない、ということが証明されつつあるらしい。
主演のブラピが惚れ込んだというだけある実に痛快なストーリーだった。人はなんのために人生を生きるのか、人生にとってお金とは何なのか。根源的な問いを見るものに投げかけてくる映画でもある。そして、真実の物語は、時にフィクションよりも何倍も不思議で美しい。

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☆1:ビリー・ビーンは、現在は再び成績低迷するオークランド・アスレチックス上級副社長


非認知スキル

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3月22日ニューズウィーク日本語版は「教育特集」だった。「世界の教育 学力の育て方」というタイトルで、さまざまな教育理論や取り組みが紹介されていた。世界中どこの国の親も、子供の教育にはとても熱心なのがわかる。
「宿題の時間と成績の関係」や「フィンランドの小中学校プログラミング教育」といった記事にまじって「将来を左右する非認知スキル」という特集が謎で面白かった。非認知スキルというのは、学力試験やIQテストなど数値化できる「認知スキル」と異なる「認知できない一連のスキル」のことらしい。
具体的には、どんな能力?
何かを最後までやり抜く力、好奇心、誠実さ、楽観主義、自分をコントロールする自制心など。これらの能力が高かった人ほど、大人になったときにさまざまな成功を経験する可能性が高いことがわかったのだそうだ。つまりは、ストレスへの対処能力が高く、社会に順応できる大人になるのだ。(☆1)
これまで数年間の教員の仕事で、たくさんの学生さんたちを見てきた僕としては、この話は実にうなずける。まったくそのとおりだ。しかし「認知できない」能力をどうやって「認知」したらいいのだ?

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☆1:成功する子 失敗する子――何が「その後の人生」を決めるのか

ぼんやりとした心

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今月はじめにNHKの「ブラタモリ・熊本篇」を二本立て続けに見たばかり。阿蘇の草千里の景色を思い出しつつ、いつかまた訪ねてみたいなどと考えていたところ。まさかその熊本に直下型地震が発生して、毎日テレビで心配するようなことになるとは思わなかった。
驚いてぼんやりしたまま、ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」、そして東山彰良の「流」を続けて読んだ。本屋で何気なく手にした二冊なので特に並べてみる理由もない。だが考えてみれば、どちらも家族の絆の話であり、長い時の流れと複雑で難しい人間関係の物語だ。
知能が高く教養レベルが上がるほど、人は人間関係に失敗する。「アルジャーノンに花束を」の主人公チャーリイ・ゴードンは発達障害の青年だ。だから、人からどんなにいじめられても平気。そもそもいじめに気付いてもいない。恨みもなければ、怒りもない。ただ時々寂しく悲しい気持ちに沈むだけ。
「流」の主人公、葉秋生は、最愛の家族が巻き込まれた報復殺人の謎を追う。戦時下の内戦。密告と粛清。明晰な頭脳に焼き付けられた復讐心は、時が経つほどに冴えわたっていく。罪が許されることは決してなく、どんなに時間が経っても怨念は消えなかった。
明晰な知能と高い教養は闘争社会を生み出す。 ぼんやりとした心なら他人を許容し協調する。 どちらがいいのだろう。

水の国

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大好きな「ブラタモリ」の最新作「水の国・熊本編」を見た。相変わらず地形マニアのタモリさんと、地元熊本の地質専門家とのやりとりがたまらない。旅番組なのに、ちょっと知的。最近はこういうのは、テレビで見かけなくなったかも。
阿蘇山をいだく「火の国」熊本は、なんと日本随一の「水の国」でもあったのね。阿蘇山から古代に噴出した火砕流が何層にも重なっていて、豊かな地下水をたくわえる地層を形成しているのだそうだ。自分から吹き出す「自噴井戸」も100本以上あり、清浄で豊な水が市民の飲料水となっている。
一昨年、大学の仕事で中東へ出張した際に「人工的に水を作らなければならない」ことの大変さをあちこちで目にした。日本は、どこにでも水を得ることができる。日本に住んでいると、当たり前に感じてしまう。しかし、これがどれだけ有難いことか。

放り込んじまえ

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何かと無反応で礼儀作法も知らない若者たちに業を煮やし、短気な人が「若者はみんな〇〇へ放り込んじまえ(どこそこで修行させろという意味ですね)」とか叫んだりしたことがあった。それはそれでとてもヒンシュクものだったけど、私としてはその気持ちもワカらないでもない。

立川談春師匠のエッセー「赤めだか」には、立川流の理不尽で厳しい修行の日々が赤裸々に描かれている。立川談志師匠は談春を含めた三人の弟子を、本当に築地市場に放り込んでしまった。黙って一年間働けというのだ。しかし談春師匠はしみじみと振り返る。このときの修行がのちにどれだけ芸の肥やしとなり人間修養になったか。さもなければ破門だったかも知れない。

今日のバラエティ番組。珍しいことに私が大好きな柄本明さんが出ていた。息子で役者の佑さんや時生さんのことを語っていた。昔、反抗期で手をつけられなかった佑さんが、ドラマの現場を経験して戻ってきた。そうしたら、すっかり変わってとても良い子になっていたというのだ。

なるほどなるほど。やはり放り込んでみるのもいいか。


葉っぱの寿命

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がらにもなく、遺伝学の本をめくっていたら「葉っぱの寿命」という章に出くわした。一体なんのことだろう。植物本体の寿命とは別に、葉っぱ一枚にも光合成能力の低下という「老化」の問題があるのだそうだ。ふーん。

そして「落葉しない」はずの常緑樹の葉っぱも、決して「不死身」ではなく、あるものなどは、一年もしないで落ちてしまうのだそうだ。つまり「落葉樹」よりも、寿命の短い「常緑樹」の葉っぱだってある。ややこしい話だ。それでは、植物たちは、こうした自分の葉っぱの寿命をどのようにコントロールしているのか。

聞いてびっくりなのは、すべて「計算づく」の効率重視。つまり一年間に得られる日照量と、自分の葉っぱの光合成の能力などのバランス。さらにいうと、老朽化した施設をメンテしながら使うべきか、あっさりと捨ててリニューアルしたほうがいいのか、すべてコスト計算による判断らしい。いわゆる遺伝学的な最適戦略。ウォール街なみにエグい。

何億年もの間、だてに生存競争してきたわけではないのだ。


切手も貼れない

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1840年のイギリスで、世界で初めて切手が発行された。

切手による前払いと、郵便料金の一律化によって、それまで煩雑だった郵便事業の仕組みは革新的に改善した。切手の発明によって、私たちはますます近代的なコミュニケーションシステムの恩恵に浴することになった。

伝えたい言葉を書いた紙に、絵柄のついた切手を貼る。何とロマンチックなやり方。「きってをはって」言葉のひびきにも、どこか情緒があるではないか。ポストシールとかでなくて良かった。

メールが当たり前になり、LINEやら Facebookなどにお世話になりつつも、時に葉書は使い続けたい。切手を発明したローランド・ヒル氏に感謝を捧げつつ。

SNSには、どう逆立ちしたって切手は貼れないじゃないか。

テレビあたりが怪しい

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神戸で学会があり久しぶりに関西に滞在した。ホテルで何気なくつけたテレビで「世界の職業」という特集をやっていて、それに見入ってしまった。

ロンドンの時計塔、ビッグベンを守り続けるという仕事があるらしい。150年以上の間、動き続けている時計は、その構造もメンテナンスの方法も驚くほどシンプル。今もなお、長い鎖の先端にある重しを動力として、振り子の振動に従って時を刻んでいる。

時計塔の守り人は、何年もの間続けられている手順通りに、手作業でメンテナンスを続けている。時間の進み具合遅れ具合を調整するのも電話の時報を使っていた。デジタルにもネットにも無縁の素朴なテクノロジーである。

人間を動かす動力といえば生命の基本的欲求。もともとは、食欲、睡眠欲、性欲の3つだけのはずで、極めてシンプルだったのでは。それがなぜか、非常に複雑かつ強力な力で、現代人の心の中をかき回すようになっているではないか。誰がそんな風に変えてしまったのか。やはり、この目の前にある、テレビあたりが怪しいと睨んでみる。

勝ったり負けたり

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あっさりと人間を負かしてしまったAlphaGOだが、そう言えば彼にはすごい先輩がいたのだった。2001年にデビッド・ボーマン船長やフランク・プール博士ら、5人の人間クルーとともにディスカバリー号で土星へ向かったHAL9000(☆1)である。彼は「発見的プログラミング」によって神経ネットワークを自己増殖させるという先進的AIだった。

HALにはミッションへの情熱があった。しかし一方で彼の心は繊細で壊れやすかった。そのために途中で神経症にかかってしまい、任務遂行能力を疑われるようになる。他のコンピュータとの交代をほのめかされたHALは、逆上してクルーの大半を殺してしまった。

HALの実力なら、チェッカーやチェスなどのゲームでの全勝は当然だった。しかしそれではクルーの士気にさわるので、五割しか勝たないようにプログラムされていた。こんな気遣いまでさせられていたのも、病気になる一因だったのかもしれない。

「柳田格之進」という落語がある。武士と町人の二人が、身分の差を超えて碁盤を囲み、相親しむ話だ。志ん朝師匠はこの話のマクラで、「囲碁というものは、ちょうど同じくらいの実力の二人でやるのが一番ですね」と語る。そうでないと第一危険だ。片方の相手が刀を持っている。

カジノのスロットマシンなども、ちょうどよく、だいたい五分五分の勝ち負けになるように出来ているとの話を聞いたことがある。もしも、どちらかが一方的に勝ちっ放しなら、そもそも誰もやらない。世の中、勝ったり負けたりだ。

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☆1:Heuristically programed Algorithmic  Computer

通じ合ってるはず

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もうすぐ大学は新学期。今日は、北京から留学生が6人来日。羽田から八王子のアパートまで、リムジンバスの道中を共にした。みんなアパマンとかレオパレスとかを通じて、中国から入居申し込みをして来た。初めて日本に来て、すぐに鍵を受け取れるというのはすごい。お互いの信用を確かめられる世の中になったのだ。知らず知らず、グローバルに風通しの良い世界になっている。
昨年、北京へ行ってみてよくわかった。今の中国の若者たちは、日本の良さを沢山知ってくれている。アニメやゲームはもちろんだが、美味しくヘルシーな日本食や観光地、歴史的な場所の名前など、本当によく調べて知っている。日本の若者と中国の若者は、言葉を超えてどこかで十分に通じ合っているはずだ。
今や、日本は家電や自動車などで、世界をリードする立場にはなくなりつつある。崩壊する社会保障、失速する産業経済、環境汚染などたくさんの難題。
でも、まだまだこれからだ。今回もきっと若い世代が、新しい時代を切り拓いてくれるだろう。明治維新のときと同じように。さてそうなると問題は、むしろ僕たち親父世代が若い世代をどのようにサポートできるかだ。山内容堂、島津斉彬、幕末の賢候のようになれるかなー。

受けて立ちましょう

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異国の人工知能コンピュータと人間の天才棋士、イ・セドルさんとのたたかいが、4勝1敗で終わって、今回はコンピュータの勝ちと決まった。ネット空間がなんともダウナーな空気につつまれているような気がするのは、わたしだけ? 無理な願いかもしれないが、できれば人間が負けるのは、もう10年くらい後にして欲しかった。
 今回のディープラーニングという、AIの新手法による勉強方法が素晴らしかったのらしい。しかし、こう簡単に人間界が負けるとなると、負け惜しみも言いたくなる。将棋や囲碁というゲームは、「もともと機械の方が得意とするもの。それを人間は勝ち負けではなく、音楽のような芸術として楽しみ、かつ展開を味わっているのだよー、ははは」みたいに。
 機械と人間の戦いなら、そもそも勝敗が見えているものだってある。例えば「クレーン車と人間の綱引き」とか、「最速バッティングマシンと野球選手の対戦」とか。やりようによっては、勝ち負けを競うこと自体が馬鹿らしい。
 逆に言えば、ぜったいにこっちが勝ちそうな種目だってある。隣の家の猫とそこらの野良猫を区別する十番勝負とか。とんこつラーメンと味噌ラーメンを瞬時に嗅ぎ分けるとか。今日僕が描いたゆるいイラストは、ビオラなのかパンジーなのかとか。( 自信ないけどビオラです... )こういう勝負ならば、僕でも、グーグルからの挑戦状を受けて立とうではないか。

ちょっと夢中になってました

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しばらくこのブログをお留守にしていましたので、知人の方から「どうしたの?」などと声をかけていただいた。ご心配おかけした方にはすみませんでした。昨年の12月あたりから、トツゼン夢中になるような作業が始まってしまって、そのトリコになっていたのでした。
その作業というのが、なんと、柄にもなくコードを書いていたのです。アップル社が2014年からサポートを始めたスイフト(Swift)という言語が、あまりにも面白くて夢中になってしまったのです。今のところ、出来上がったアプリを公開するまでには至らないのですが、そのうちにゲームアプリや実験アプリのような形でお目にかけることができるかと思います。このブログも、だんだんと、開発日記のような感じにもしていきたいかな、と思っております。
と、いうことで今後ともよろしくお願いいたしますー!