異界からの客人はどこへ消えたのか


小泉八雲の「怪談(不思議なことの物語と研究)」は明治時代までの日本に残っていた、怪異の話、不思議な伝承を丁寧に拾い集めたものです。ギリシア出身の人気記者でありながら、日本文化の魅力にとりつかれ、日本の文化を海外に紹介した小泉八雲。「怪談」は、東京帝国大学を解職後の短期間でまとめられたものです。不可思議な物語を美しい文章に結晶させた傑作といわれています。
この「怪談」におさめられている物語は、人を怖がらせるための「ホラー」ではないと思います。むしろ読んでいて心の奥底が暖かくなるような本です。昔のなつかしい風景に再会して、ゆっくりと夕暮れに包まれていくような気持ちになる。怖い話であることは間違いないけれど、むしろそんな風に心を落ち着かせてくれるような本だと思います。

なぜでしょうか。その理由は、不思議なことが起きる「異界」が、とても自然に設定されているからだと思います。「怪異」が住んでいる世界が、ごく自然に私たちの隣にある。だから、どの物語も自然に私たちの心にしみ込んでくるのです。
下関に暮らす盲目の琵琶法師のもとに平家の武者がたずねてくる「耳なし芳一のはなし」。修行僧が一夜の宿を借りた山奥の家では家人の首が深夜に浮遊する「ろくろ首」。それから、青柳の精が美しい女性となって侍と結婚して暮らす、とても悲しい「青柳ものがたり」。酒席でちょっと一眠りする間に、魂が蟻塚の中にはいってしまい、そこで蟻の女房と26年間も過ごす「安芸之介の夢」。
これらの話はすべて実際には現実世界には起こりえない不思議な話です。でも、なぜかこういうことが起きるということが納得できるのです。幼い頃から不思議で怪しい現象を考えることが大好きだった小泉八雲の頭の中にある世界観によれば、ある意味では「あたりまえ」に起きるべき話だったのかもしれないのです。
科学理論がすべてに先立つ現代には「怪異」が住む空間は存在しません。だからこそ「UFO」や「怪奇現象」などが、クローズアップされるのでしょう。科学文明の発達した現代のホラーは、おどろおどろしく演出されなければならない。現代の世界観にあった説得性を持たなければならないから、その表現も極端になる。
しかし、小泉八雲が生きていた時代には、日常空間のすぐそばに「不思議」や「怪異」が存在する「異域」があって、その世界と日常世界の間には、ちゃんと行き来するための通路もあったのでしょう。不思議なことが起きるための空間も時間も、現実世界のすぐ隣に存在したのだ。
かつてこの世に生きていて、いまはその貴い「異域」に住んでいる人も、戻りたくなれば戻って来れた。また、この世に生きている人の魂も「異域」の世界に迷い込むことができた。科学では説明できないような現象に出会うたび、私たちの先輩たちは、こうした現世と「異界」との間の交通として説明してきた。
こうした不思議で恐ろしいような話が起きるのは、すべて「人の心」の働きなのでしょう。誰かを懐かしむ気持ち。なにかを惜しむ気持ち。この世で暮らすことをいとおしむ気持ち。小泉八雲の「怪談」に流れる、はかなくも美しい「心の物語」は、この「小さな存在」である人間が、大自然大宇宙を前にして感じる無常観であり、また逆に「人生のすばらしさ」でもあると思います。
どうしてこんなに巨大な大宇宙で、私たちはこうして出会ったのだろう? そしてどうして分かれなければならないのだろうか?本当の不思議。不思議の因縁。永遠の輪廻。
ロシアのある街の上空で突然炸裂した隕石。まさに「異界からの突然の客人」ですね。沢山のけが人や被害が出たのだから、物騒で迷惑な「客人」です。しかしこの隕石は、改めてこんなことを思い出させてくれたと思います。科学文明が支配する現代においても、僕たちの生活のすぐ隣には、ものすごい「異界」が存在しているということを。
その異界にあったほかの大隕石は、6550万年前に地球上を支配していた恐竜を滅ぼしてしまった。その後のほんのつかの間の間に、人類は大発展をとげて、いまこの地球を支配しようとしている。しかし、ふと思います。見上げた夜空のその向こう。137億年もの間、その「異界」は、ずっとこちらを見つめているのではないかと。

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