あぶくのような人生

行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

鴨長明「方丈記」より ☆1

iPhoneをいじっていて面白いのが「i文庫」です。とにかく著作権の切れてしまった文学作品をかたっぱしから並べてある。ある日、通勤時間のつれづれに「i文庫版・方丈記(鴨長明)」を読んでみたんです。そうか、でもこれをタダで読んでいいの? なんだか、悪いことをしているような気分なんだけど。 一体どこの誰が、これらのデータを入力してくれているのかしら。

ところで、この冒頭のくだりなんですが、どこかで聞いた感じがしませんか? 下のデビッド・ボウイの「チェンジズ」の2コーラス目の歌詞に似ていますでしょう。そんなこと言われて「あっ、なるほど」なんて言う人は相当なボウイ・フリークですけどね。いや、それは相当なオタクと言わざるを得ない。実は僕、このことには、ずーっと前から気づいていて、いつかブログに書こうと思っていたんです。

I watch the ripples change their size
But never leave the stream
Of warm impermanence
So the days float through my eyes
But still the days seem the same

David Bowie [ Changes ] ☆2

デビッド・ボウイと鴨長明が同じことを考えていたなんて、ちょっと格好いい発見じゃないですか。洋の東西、800年もの時を超えて、このふたりが通じ合う。「川面に浮かぶあぶくのような人生」について歌う二人の詩人。

それが最近、「方丈記」を文庫で通して読んでみて、改めて考えました。といっても、原文ではなく、武田友宏先生による、角川ビギナーズ・クラシックスのシリーズにある、現代文訳です。( i文庫の原文でも理解できるのだけれども、やはり現代文の翻訳はありがたい。実に分かりやすいです。)この二人の考え方は、実はまるで逆だったのだと。

鴨長明とデビッド・ボウイは、非常に似た言葉を残したんだけど、実は考え方の根本はまるで違っていた。その違いについては、明日また改めて書こうと思いますが、まあ、ひとことで言えば、こういうこと。デビッド・ボウイは、西洋科学哲学における変革(止揚)として「河の流れ」の表現を使っている。一方で、鴨長明は、東洋自然哲学における無常(不易)として「河の流れ」の表現を用いている。

うーん、深いなあ。むずかしいなあ。
それではまた明日、改めてチャレンジします。

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☆1方丈記(鴨長明)
角川ビギナーズ・クラシック版現代訳

河の流れは一瞬も休まない。
それどころか、河の水は後ろの水に押されて、
つねに前へ進み、元の位置に留まることはない。
休むことなく位置を変えている。

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☆2 チェンジズ ( デビッド・ボウイ )
佐々木による試訳

川に浮かあぶくはたえず変化していく
だけどけして流れを離れることは無い
永遠ではないこの世界は僕の視界から
こぼれ落ちるけど日々はいつも同じさ

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Waterfall photo: Nigel J C Turnbull





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