道に迷った時には

こんなとこなら迷っても当然

慣れない駅のホームで電車から降りたとき、僕は右左どちらの階段に向かうべきなのか分からなくなる。それはまあ仕方ないことだ。駅の改札を出てから目的地に向かう時にも、方向が分からない。これも仕方ないかも。深刻なのは、良く知っている場所でも、ちょいちょい迷子になることだ。以前働いていた会社の社屋内ですら迷ったことがある。

僕はこれを「生まれつきの方向音痴だから」ということにしている。しかし一方で、それがただの言い訳に過ぎないことも知っている。人間には方位を感じる感覚器官など無いではないか。感覚の問題ではなく、そもそも地理的情報が欠落しているだけなのだ。地図を整理して頭に入れようと努力せずに、「勘」で方向決めている僕は音痴ではないのだ。きっと、ただの怠け者なのだ。

大学で若い世代の人たちと接していると「人生で進みたい方向がわからなくなった」という悩みを聞くこともある。そんな時は、彼らにこんな風に話をする。「君は社会とい地図を知らないだけなんだよ。道に迷わば木を切りてその年輪を見よ(☆1)と言うしかからね」 偉そうな言い方ですが、僕自身が痛い目に合って、身に沁みていることですからね。

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☆1:道に迷わば木を切りて年輪を見よ

「木を切って年輪を見る」とは「歴史を学んで進むべき方向を知る」という意味なのだそうです。寺島実郎さんの著書「歴史を深く吸い込み、未来を想う」で紹介されていました。

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