時代に取り残される


「取り残される」

実に人を不安にする言葉ですね。周囲の仲間や家族がどこかに行ってしまって、たった一人になってしまうイメージ。子供の頃に何度か見た怖い夢。現代社会のストレスの中にも、何かに取り残されてしまう恐怖のようなものがあるのではないでしょうか。

現代社会では、常にどこかで何かが取り残されていきますよね。私たちの生活を便利で快適なものにする技術進歩が、常に何かを追い越し、何かを過去のものとして捨て去っています。

スマホが全世界に普及して、電話ボックスも公衆電話もいつのまにかどこかへ消えてしまった。カメラもデジタルになってフィルムも入手できなくなりました。ラジオやテレビもいずれはネット配信にその座を明け渡し、貨幣ですら姿を消してしまうのかもしれませんね。

うかうかしていたら「あなたのやり方は古い」とか「あなたの価値観は現代には通用しない」とか言われて、私自身も時代に取り残されてしまいそうです。バージョンアップを忘れたアプリみたいに。

でもよく考えてみたい。このような技術進歩に伴う変化や、価値観の転換というものは、結局は人間社会の勝手な都合で起きているに過ぎないのかもしれない。

その証拠に、目を上げて野原を見れば、そこには昨年と変わらず、黄金色の落ち葉が秋の陽を受けて輝いています。青い空をバックに白い雲が流れていきます。季節によって変転しつつも自然界の営みと本質は、何も変わっていないのです。

時代に取り残されると言っても、人間が自分で自分を追い越し、過去の自分を否定しているだけ。思えば、人間は勝手に苦労を背負いこんで、それと闘っているだけなのかもしれません。

もっと気楽にのんびりと、バージョンアップもほどほどではいかがでしょうか。人類が地球の上で何を成し遂げたところで、大宇宙に流れる悠久の時の前では、ちょっとした誤差程度なのかもしれないし。

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