新しい芽は生まれている


「そうぶんさい」というコトバを知らなかった。「総文祭」と書くのだが、これはつまり高校生の文化部におけるインターハイなのだ。書道から、写真、新聞、演劇、そして放送番組と、高校生の文化的想像のお祭りである。

今年はこれが長崎で「しおかぜ総文祭」というタイトルで開催された。私の勤める大学の学部PRのために、はじめて参加してみた。長崎という場所も素晴らしかったのだが、実際にこの「総文祭」なるものに参加してみると、「日本の高校生はなかなかやるものだ」と感心してしまった。

このイベントは7月31日(水)から8月4日(日)まで、長崎県内各地に分かれて開催された。僕はまず、8月3日に長崎歴史文化博物館で開催の「写真部」展にでかけた。「写真」というものは、とうの昔に絶滅していて、特にいまの高校生などにとっては、過去の技術なのかと思っていたが、さにあらん。全国からものすごい数の作品が寄せられていた。高校生カメラマン諸君、みんな頑張っている。顧問の先生方の意気込みも感じる。

写真というものは「一瞬」の世界を、あるテーマで切り取るという、なかなか高度な芸術的行為。こうした作業に、いまの高校生はどのように取り組んでいるのか。面白かった。日本の高校生がいま、何を見ているのかもよく分かった。

彼らがいま取り組んでいるテーマはあくまで「日常」だ。自分のおじいさん、友人、ペット、高校生活。ファインダーから見るレンジがとても近い。ちょっと視野が狭いかなぁ、と気になったものの、よくよく考えてみれば高校生の生活というものはそういうもの。自分の身の回りにあるものから何かを発見する。そういうものだし、それでいいのだ。

しかし同会場で特設されていた「日韓交流写真展」の作品を見ると、少し驚く。韓国から応募された写真たちの語る世界の強さ。日本の高校生の視点とは少し違うのだ。日常の一瞬をちょっとしたレジスタンス的視点に変えて見ている。日々の瞬間なのだが、それに対して「これでいいのか」的な葛藤を映像に託し、時代への主張を重ねている。

こうして、韓国と日本の高校生の作品を比べてみると、日本は平和なのかなと改めて考える。「平和」な日常こそが、いま僕たちが望むべき最高のものだ。しかし、その平和の時代にも生きる日本の若い世代が、あまり幸せそうでもないのはどうしたものか。平和で恵まれている中で、「すべてが規定路線で決められてしまっている」というような諦めが感じられる。

同じ「カメラ」を持っても、その作品が日常的おしゃべりにおわるのか、時代を超えた主張になるのか。それは「表現」という大テーマ。でも、まあどっちでもいいか。オッケー!とにかく写真を撮ろう。表現をしよう。いつか君たちが、この日本における「表現」の中心に立って、世界に誇れるような日本的な価値観を決めるような作品を生み出してくれたまえよ。よろしくねー。若い世代に大いに期待するのであります。

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