あなたは柔軟ではない
このところ本を読むのがシンドくなってきた。
しかたなく読書用に眼鏡を新調した。近距離でも文字が見えるようになった。別に近視や老眼が進んだわけではないのというのだ。事実はもっと恐ろしかった。眼鏡店の方は、こともなげにこう言った。
「眼のレンズの柔軟性がなくなったのです」
若い人は、幅広い距離に応じて眼のレンズを調節できる。僕の眼には、もうその能力がなくなってしまった。だから、用途(距離)に応じていくつもの眼鏡が必要なのだ。柔軟性が無い、と言われるのは「時代遅れである」ということ同義のように感じてしまう。
老人とは柔軟性に欠ける人間のこと。人生経験だけは豊富なため、姑息な掛け引き、阿諛追従、面従腹背、世の荒波を生き抜くことだけは巧みである。若い人たちの上にたって説教をし、体制を支配するだけの知恵がある。だから、組織でも社会でも、体制を支配するのは老人である。
処世術や駆け引きばかりの老人に、未来を創る力はあるのだろうか。過去の価値観によって老人たちが決断した結果、それが歴史的な過ちを繰り返すのかもしれない。これはある意味で当然の摂理だろう。未熟な若者が創りだす無謀な未来よりは、老人たちの判断のほうがまだマシ。いつの世でも誰もがそう考えて当然なのだ。
僕の柔軟でない頭で考えても、答えは出ないむずかしい問題だ。