映画館にはいかない

ガムラ・スタンの古い街並み

映像に関する授業を担当してつよく感じるのが、今の学生さんたちの「映画離れ」のことである。「理科離れ」「勉強離れ」などいろいろな「離れ」があるようだが、この「映画離れ」現象というものは、非常に急速に進んでいるように感じる。

そもそも、映画の黄金時代というのは、ルミエール兄弟やエジソンによってその基礎が作られてから50年ほどのこと。その後は「映像の王」の座はテレビに譲ったまま、独自の路線をたどってきた。真四角な箱のようなテレビの画面に対抗して、シネマスコープやビスタビジョンといった、横長の大画面の迫力ときめ細かい高解像度の美しい映像に特化していった。

しかし、テレビの画像もいまや映画の表現力に迫るようになった。そのため映画作品というものは、DVDやBDコンテンツの前段階として劇場にかかるだけという存在になりつつあるのでは。まだまだ映画の方が映像の表現力に勝るとはいえ、その差は年々縮まっている。そのためもあってか、今の学生さんたちが、あえて映画を映画館に観に行く必然性は、急速になくなっているようである。

さらに映像を見る環境の激変。映像を観るという行為は、もはや映画館に100分座っていることではない。電車の中や教室の最高列で、10分以内で観るもの。細切れの時間の中で、チャチャッと見られればそれでいいのだ。まさに映像コンテンツの、ファーストフード化である。

外食産業に起きていることと、ほとんど同じことが映像業界に起きているのだ。早く安く美味しい映像コンテンツが、これからの主流。見やすくて、手っ取り早いコンテンツこそ便利でおいしいのだ。考えてみれば恐ろしいことだが、これとそっくりなことが音楽業界を襲った。

一方で作り手側にも変化が起きている。新作のプロモーションのために来日している、ジョディ・フォスター監督が、インタビューで語っていた。ハリウッド映画も今や、映画館で「非日常的な体験」を味わうためのアトラクション化している。人間ドラマはほとんど作られることもない。あと10年もすれば映画から人間ドラマは消えてなくなってしまうのではないか。

不肖私も、学生さんたちに接していてつよく思う。映画は彼ら世代にとって、もはや物語を味わったり、人生の不思議や美しさを味わうようなものではない。TDLやUSJのアトラクション、あるいはリアルゲームと同列のものなのだろう。これまでの傑作作品といっても、いつか思い出してみるだけのもの。古典や漢籍のように、過去の痕跡として存在するだけになるのかもしれない。


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