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12月 26, 2010の投稿を表示しています

後もどりできない

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おまえは後もどりできない。
わたしたちの道が
「昨日」に架ける橋だと信じているなら
おまえはここで生きることはできない。
「今」は過去のやり方とは違うのだ。
「今」は美しい、
なぜなら、この世で大事なもののすべては
わたしたちに至る道を見つけてしまったからだ。

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ナンシー・ウッド著 / 金関寿夫訳
「今日は死ぬのにもってこいの日」より

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はじめからやりなおしたほうがましってことありますよね。

例えば出来の悪い企画書。途中までできたものを、あれこれいじっていてもだめ。研究計画書なんかもそうかも。もともとのアイデアや構想が良くないのに、とにかく完成させようとして焦っても、ロクなものにならないんだ。そういうときは、いっそのことすべてをポイッと捨てて、はじめからやりなおしたほうが早い。えいっと、リセットしてやりなおし。

最近の映画やテレビ番組では見かけなくなったシーン。作家、小説家、いわゆる「物書き」という人たちが、ボサボサの頭をかきかき、うんうん言いながら原稿の執筆中。書きかけの原稿を、やおら「ぐしゃぐしゃぐしゃ」とまるめて「ポイっ」とクズカゴに。ふーっと深呼吸をひとつ。そしてまた、真っ白な原稿用紙に向かう。

今はこれ、映画で見ないだけでなく、実際になかなかできませんね。「ぐしゃぐしゃぐしゃ」って、原稿用紙を揉みくちゃにしたくても、そもそも原稿用紙自体がない。企画書って言っても、要はデータなんだもん。マックが、システム・サウンドで「ぐしゃぐしゃぐしゃ」って言ってくれるだけ。リアルな「ぐしゃぐしゃぐしゃ」はできないんだ。

私たち人間の体にも、はじめからやりなおしたほうがいいパーツがあるんだって。例えば盲腸。進化の過程で、消化管の一部にそういう腸があったほうが良いときがあったんだろうけど、現在の私たちの体には不要なもの。だからといって、いまさら簡単には無くせません。私たちが日々お世話になっている「眼」。これにも設計上の問題が。視神経が眼球から出て行くところの配線が良くない。そのために「盲点」というものがある。配線を変えるといいのだけど(トカゲの眼はそうなっているそうだ)まさか人体の設計を…

リアル落語家

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さびしい。

立川談四楼師匠の連載がとつぜん終わっちゃった。日経新聞の月曜夕刊の「プロムナード」のシリーズ。このところ毎回楽しみにしていたのに。

12月24日のクリスマスイブに掲載されていた「サンタクロース現る」の回を、いつものようにニタニタしながら読んでいて、最後まできてびっくり。文章のおしまいでひとこと。「私の最終回です。いずれまたどこかで」って。

さすがは落語家。話は最後に軽くまとめまるんですね。「おあとがよろしいようで」とか言ってさっと消えてしまう。まあ、せっかくの「落ち」のインパクトを消さないようにという配慮。目立たないように消えさせていただきます、という謙虚さ。これが噺家さんの身上なのでしょう。

ところで、この回の「プロムナード」には何が書いてあったのか?それは、ネタばれになっちゃうからそのまま書いてはいけないよね。でもちょっとだけ書かせてください。「サンタクロース現る」の回のサンタクロースとは、ある熱烈な落語ファンのことなのです。豪華なポチ袋を置いて姿を消してしまった、いまどき珍しい粋なお客様のこと。

今でも落語には熱烈なファンが多いのだ。談四楼師匠によれば、地方にいけばいくほど、公演を心から楽しみにしている方々が多いそうだ。そして首都圏でもなんと一日平均で20カ所で落語会が催されているとのこと。(4軒の寄席をのぞいて)こうした会場には、「落語のうるさがた」を自認するファンもやってくる。

こうした、うるさいお客を前に、芸を披露する落語というものは、演じる者にとっては本当に「おそろしい」ものらしい。亡くなった昭和の名人、古今亭志ん生師匠も桂枝雀師匠も、高座に出るときには相当プレッシャーを感じていらしたようだ。しかしそのプレッシャーを跳ね返すように、芸のパワーが高座に炸裂する。それが名演となるのだって。噺家というのは、本当に大変な仕事なのだと思う。毎日毎日はまさに、お客の目に芸がさらされる、本番と修行の連続。

人気漫才グループ爆笑問題。最近はテレビなども忙しく生の舞台に出ることが少なくなり、ホール公演も映像中継でやってしまう。しかしプロデューサーで社長の、太田光代(太田光さんの奥様)さんは、爆笑問題の芸の「きっさき」が鈍らないようにと、年に一度は必ず生のステージを組むそうだ。生のお客さんの前で芸を披露するということは、そのときそのときの感性を信じて、リア…

追いつめてはいけない

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孫子の第八は「九変篇」だ。

以前このブログでも紹介した「火攻篇」よりもだいぶ前に位置している。攻撃に際して避けるべき九つの変法と、利益を守るべき五つの変則があると述べている。そのうちの九つの変法というのを、以下簡単に紹介しますね。

1:高地に陣取った敵を攻撃してはならぬ。敵は勢いを得て味方は労する。
2:丘を背にした敵を正面攻撃してはならぬ。
3:わざと逃げる敵を深追いしてはならぬ。敵になにか計略がある。
4:精鋭な敵を、まともに攻めてはならぬ。
5:おとりの敵兵にとびついてはならぬ。
6:帰ろうとする敵兵にとびついてはならぬ。
7:敵を包囲するときには、完全包囲してはならぬ。
8:追いつめられた敵にうかうかと近づくな。
9:本国から隔絶した敵地に長くとどまるな。

どれも、兵を率いる将の心得として重要なこと。この「九変篇」に述べられている法のうち、特に注目をひくのが、7番目の、敵を包囲するときには完全包囲してはならぬ、という教えです。原文では「囲師勿周 ( 囲地は周するなかれ )」という表現になります。

こちらが攻めている敵を包囲するときは、完全に出口をなくすのではなく、どこかに逃げ道を残しておくこと。通常の感覚だと、敵を全滅させてしまうためには、それを完全包囲して殲滅したくなるでしょう。こっちだって怖いしね。だけど孫子は、はりきりすぎてこちらの損害も多くては、仮に戦いに勝ったとしても意味が無いと教えています。

完全に包囲されてしまった敵は、死にものぐるいで抵抗してくる。それだけに、攻めて優位に立っている味方も、思わぬ損害を被る可能性がある。また、戦いというものは、要するに「勝ち」を決めれば良いのだ。逃げ道を見せれば、敵兵は逃げ道に殺到する。それで勝ちが決まればそれでいいのだ。

天正五年十月、別所長治を三木城に攻めた豊臣秀吉は、このことをよく心得ていました。秀吉勢が外まわりの塀をうちやぶって攻めこみかけたとき、城内からは笠がさし出された。(これは降参の合図です)秀吉側の寄手の兵は、これを許さず、あくまで全滅作戦を続けようとしました。

すると秀吉は、「そうはいわぬものだ。戦さは、六、七分勝てば十分なのだ。降参人を討ち取ったりすれば、敵は必死になる。相手に逃げ道を見せて、早く勝利を得るのがよい」といって、降参人に手を出すことを許さなかった。かしこい!

最近のビジネス…

ライバルと戦え

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日本ハム・斎藤佑樹投手の経済効果がすごい。

地元札幌での観客動員数増は当然のこと。さらになんと、キャンプ予定地である名護市のホテルが、すでに女性客の予約で埋まりつつある。ファームの練習場である千葉県の鎌ケ谷スタジアムまでが、チケット予約殺到。

斎藤投手。彼の強みは、その甘いマスクだけではない。田中大将君という好敵手がいることだ。ライバルとして、ドラマチックな戦いの予感を盛り上げる。ふたりの戦いはどうなるのか?プロ野球ファンならずとも目が離せない。斎藤投手のような、スターアスリート登場のかげには、常にライバル同士の死闘がある。相撲界の大鵬と柏戸。巨人軍の王と長島。フィギュア・スケートの浅田真央とキム・ヨナ。

あのビートルズが偉大になったのも、ジョン・レノンとポール・マッカートニーという、強力なライバルが争って作曲したから。デビュー当時のふたりは、大の親友であり、いつも互いを支え合う良きパートナーだった。だがしかし、いつかビートルズは巨大な存在となり、グループに対するプレッシャーが大きくなるにつれて、ふたりの関係は劇的に変わっていく。

一発アイデアマンであり、飽きっぽい性格のジョンよりも、音楽の職人で、粘り強いタイプのポールのほうが、グループの音楽をひっぱっていくリーダーとしてはふさわしかった。だからジョンは、次第にそのリーダーシップをポールに譲るようになる。しかしジョンは、そのことを受け入れていながらも、ビートルズが、甘く優美なポール楽曲に独占されていくのを、快くは思っていなかった。

その不満は、ヨーコという援軍を得て、ジョンのリベンジの形となった。ホワイトアルバムのレコーディングの途中で、突然あらわれたヨーコは、ジョンの理解者でもあり代弁者でもあったのだろう。スタジオにベッドを持ち込んで居座るという、なかば「前衛アート」のようなパフォーマンスは、実はジョン・レノン自身のストライキだったのかもしれない。

ジョンの先鋭的楽曲は、さらにその度合いをエスカレートしていく。次第に攻撃的で気まぐれで、理解不能となるジョンの作品。ポールは、露骨に不快感を表していたようだ。ホワイトアルバムの実験作「レヴォリューション・No9」や、アビーロードA面最後の「アイ・ウォント・ユー」後半のエンドレスリフレインなどがそうだ。僕も、はじめて聴いたときは頭がおかしくなりそうになった。レコード…

怒ってはいけない

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孫子の第十二は「火攻篇」だ。

孫子の内容は、後半になってくると、どんどん具体的になってくる。敵をどういう場所でどのようにして攻めるべきかを語る、まさに「兵法書」の面目を表す。この「火攻篇」でも、その前半にあたる第一節では、火を使って相手を攻める場合の心得を、その目的や条件などについて細かく教えている。

ところが、同じ「火攻篇」の後半にあたる、第二節になると、突然にその内容が変わる。戦争の手法ではなく、将たるものの心得についての記述となるのだ。その教えとは「将たるもの感情で動いてはならない」という教えだ。(この第一節と第二節の間のつながりは、後代の編集の誤りと解釈されている)いわゆる豪傑ほど、激して大勢を見誤ることが多い。孫子はその点を厳しく戒めている。

村山孚先生らの翻訳による、孫子「火攻篇」の一説を紹介する。

一体、戦争には勝って何かを得るという目的があるのだ。いくらよく戦ったとしても、かんじんな目的を遂げなければ、むしろ悪である。こういうのを「費留」(骨折り損のくたびれ儲け)という。<中略>不利であれば行動を開始せず、何か得るところがなければ兵を用いず、やむを得ないときでなければ戦わない。これが根本である。

<中略>君主たるものは、怒りによって兵を起こしてはならぬ。将たるものは憤りによって戦いを交えてはならぬ。一時の感情ではなく、「利に合えば動き、利に合わなければ止む」という冷静な判断が必要である。怒りは時がたてば喜びに変わることもあろうし、憤りは時がたてば嬉しさに転ずることもあろう。感情はこのように元にもどることができる。しかし感情によって兵を起した結果、国が滅びてしまえば、それでおしまい。死んだものは生き返らせることはできない。

という内容。

なんとクールで理性的なことか。孫子という本は、徹底的に合理的な価値観で貫かれた兵法書である。その内容は、現代の経営指南書としても十分通用するとされ、沢山の企業経営者が、座右の書としているのも当然である。

民主主義と平和につつまれた現代。しかし現代人の日常は、さまざまな競争や争いの連続であり、社会で活動する個人の生活は、まさに「戦国時代」とも言えるかもしれない。そしてまた、毎日がストレスと緊張の連続でもあり、怒りや憤りに心が翻弄される瞬間もある。ちょっとしたすれ違い、ちょっとした言い合い、決定的な亀裂につながる。

突…