テンプレ人間

てんぷら、ではない

最近の学生はよく、「テンプレありますか?」と聞いてくる。

「てんぷら」ではない。研究室に「てんぷら」はない。そば屋ではないのだ。彼らの言う「テンプレ」というのは、いわゆる見本(テンプレート=定規)のこと。つまり彼らは自分がこれから書くべき申請書や、依頼文、はたまたレポートや卒論などの文章の「すでに出来上がった」良き見本はないのかしら。そう言っているのだ。

一見立派な話でしょ。自分の文章には自信がないので、より良い見本があれば参考にしたい。できれば先生のお書きになった、理想的なものを見せて下さい。そのように考えているならば立派な話だ。受けて立とうじゃないか。

ところが、学生が欲しがる「テンプレ」とは、そんな立派なものではないのだ。一部を書き換えるだけで完成品となる「出来合いの文章データ」のことなのだ。「日付」や「宛名」や、「用件の一部」や「結論」を書き換えるだけで、すぐに完成品になるものが欲しいというのだ。

えーっ?

はじめっから、自分で文章を書こうなんて思っていないんだ。
一から考えて、文章をひねり出すなんて、やりたくないんだ。

お菓子のおまけだって、ガンダムのプラモデルだって、ちゃんとマニュアルが付いている。部品もきれいに切り取られている。決まった通りに組み立てれば、ちゃんと出来上がる。隣の子のガンダムと、そっくり同じものが出来上がる。他人と違ったものを、一から考えだすなんてことはしない。

最近は、レゴ・ブロックですら、「テンプレ」らしい。本来、ブロックというものは、子供の創作力をひきだすためのもの。作っては壊し、壊しては作る。試行錯誤を重ねて、工夫して何かを造り上げるものだ。創造性の遊び。ところが、最近のレゴといえば、完成形が決まっており、子供は説明書にしたがって組み上げるだけだという。一度出来上がったら、棚に飾るだけ。

ゲームだってそうでしょ。みんな別々にスタートして、ゲームをやってるんだけど、結局は通る道筋も、ゴールも一緒。多少のプロセスの違いはあっても、結局はみーんなおんなじ「テンプレ体験」。

これらテンプレ商品に囲まれた若者たちはどうなるか? 結局は「テンプレ人間」となるのだ。勉強にしても、遊びにしても、そしておそらくは結婚や、仕事においても「テンプレ」がなければ何もできない、平均的「テンプレ人間」となるのだ。こうした人材が面白いはずがない。

そして、昨日読んだおそろしい本「希望格差社会」に書いてあったとおりになる。「テンプレ人間」は、マニュアル通りに働かされる部品労働者にさせられてしまう。つまり、いつでも交代可能な部品のような、非正規雇用労働者となるのだ。「テンプレ人間」それはつまり「マニュアルどおりに動く人間」のこと。こうした労働者が、8割に達するようになるらしい。

自分の頭で道筋を分析、新しいルートを開拓できる人間。なにかを達成するために、新しい方法を生み出す人間。こういうクリエイティブ思考の出来る「非テンプレ」人間(シンボリック・アナリスト)だけが、社会の中枢を独占するようになる。こういう「勝ち組」になれるのは、社会全体の2割だけだ。

さあ、「テンプレ」を捨てて、自分の道を探しなさい。
しかし、時すでに遅し。今の子たちには、これが一番むずかしい。
彼らに、こういう教育を施してきたのは、いったいどこの誰なのか?

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