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5月 1, 2011の投稿を表示しています

オリーブの樹

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ガーデニングに詳しい友人が、遊びに来てくれたので、聞いてみた。「庭にオリーブの樹を植えたいんだけど。どうしたらいい?」

すると彼は、オリーブの樹は、2本以上一緒に植えなければだめなんだよ、と教えてくれた。

雄の樹と雌の樹があるわけではないのだけれども、オリーブは1本だけではだめなんだって。なぜか? オリーブは自家受粉しないために、DNAの違う別の樹がなければ、交配して種子を残すことができない。オリーブの実のならない、オリーブなんか育てていてもつまらないし、可哀想だということ。

そうか。オリーブの樹って、ホームセンターで見ると、1本でも結構高価なんですけどね。2本一緒に買うとなるとまた、庭にオリーブの樹を植えるという夢が遠くなる。

ついでに彼はこんなことも教えてくれました。オーストラリアには、山火事にならないと子孫を残せない「パンクシア」という樹があるのだそうだ。通常時は、ちょっとやそっとでは割れない実をつけている。山火事があって、その実がはじけるんだって。だから、友人いわく、人間が山火事を消してしまうと、その樹の種は繁殖できなくなる。

不思議な植物もあるものですね。

人間のやっていることも不思議といえば不思議だ。この世に生まれてきて、成長して、一人前となり、結局は子孫を残すことが、ひとりの人間としての仕事だ。だからみな、子孫を残すための相手探しに大変なエネルギーを注ぎ込んでいる。

ファッションも、メイクも、食事を選ぶのも、お酒を飲むのも、お金をかせぐのも、すべては、要するにこの人間としての最終目的、つまり配偶者選びのための所業かもしれない。極論すれば、人間社会における、商品経済も、生産活動も流通活動も、この目的のためにつぎ込まれる。

受験戦争をくぐりぬけて、大学での勉強。その勉強だって、最終的には、よい仕事について、よい家庭を築いて、よい子孫を残すのが目的なのではないか。つまりは、良い配偶者にめぐまれて良い子孫を残すこと。本質的には、すぐれたDNAを残すために、自然界の掟に従って人生の全精力をつぎ込んでいる。シェークスピア先生によれば、こうした配偶者獲得の争いで、でかい戦争だって起こるらしい。

だったらと、僕は思う。

なにも、こうした人生の営みを通して、人間が苦しんだり、傷ついたり、戦ったりする必要はないんじゃないのか。みんな、仲良く楽しく、シンクロしながら、この…

本人の問題

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リドリー・スコットは、既存の傑作映画を上回るB面的映画を作る天才です。

「エイリアン」は「スター・ウォーズ」のホラー版で、「ブラック・ホーク・ダウン」は「プライベート・ライアン」の戦争ドキュメンタリー版。そして「グラディエイター」は「ベン・ハー」や「スパルタカス」のリアリズム追求版だと言える。

でもこんなこと書いて、リドリーのことを「B級映画監督」なんて勘違いされてはいけない。上記の三作品ともに、リドリー・スコット監督の作品は映画史に残る傑作ぞろい。ある意味で彼は、すでに存在する傑作作品の軌道を辿りながら、自分なりの完成形を模索しているのかも。すでに存在する傑作をものともせず、同ジャンルに攻め込む確信的な使命感と勇気。逆に言うと、巨匠だからこそ許される本格リメイクということか。
紹介した写真は、「グラディエイター」の冒頭、主人公マキシマスの戦功をたたえる皇帝マルクス・アウレリウス。「ハリー・ポッター」でのダンブルドア校長先生を演じた、リチャード・ハリスが演じている。リチャード・ハリス、良かったなあ。迫る老いと戦いながらも、後継者選びに苦悩し憔悴する賢帝を演じきっていた。リドリー・スコット監督いわく、賢人皇帝も年老いて、ついには「しょうがないクソ親父」になってしまった、みたいなテイストを狙っていたそうです。渋いキャラ設定ですね。

賢帝、マルクス・アウレリウスが残した言葉です。☆1

「私は祖父から、善良な行儀と激情の抑制とを学んだ。私の父の名誉と思い出からは、謙譲と男性的気品とを学んだ。私の母からは、敬虔と仁徳と、また単に悪い行いばかりでなく、悪い考えも忌むべきこと、尚また富者の習慣とは遠く異なった素朴な生活のしかたなどを学んだ。ルウスティカスからは、私自身の性格が矯正と修養とを要するという肝銘を受けた。 <中略>

万物が互いにいかに変化するかの理を諦観することを身につけよ。 ー これのできる人は身体のことに執着せず、やがて自ら人間界を去るべきことや、一切の事物をこの世に残さなねばならぬことを覚っておるので、彼は己れのあらゆる行為を正しくすることに全身全霊を打ち込み、その他のことに関しては己れ自身を宇宙の本性に任すのである。」☆2

いい言葉ですね。さすがローマの賢人皇帝。「自省録」という立派な本も残しているんだって。だけど不思議なのが、このアウレリウス帝の息子のコンモ…

四惜

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江戸川の対岸に向かって街の灯を見つめる。明け方と同じように、ヒバリが鳴いている。夕方も、鳥たちにとってはおしゃべりの時間なんですね。今日の一日にあったことを、忙しく報告しているのかな。コウモリたちは、群れをなして羽虫を追いかけて食事に夢中。

街が静かに暗闇につつまれて、川面にいくつもの灯が映る。なんだって人間は、こんな風な都会を作ってしまったのだろうか。高層マンション、街灯で照らされた道路、走り続ける自動車、眠らないコンビニ、飲み屋、歓楽街。この静かな川の向こうには、変わらない都会の喧噪が一晩中続くのだろう。

こうした都会の生活を、当たり前のこととして享受してきた。そればかりか、これからもこうした都会の生活は、日本中から若者達を吸い寄せ、さらに巨大化していくことだろう。僕自身が、かつてこの都会の明かりに吸い寄せられてきた一人なのだが。

明の末期の学者、陸世儀(りくせいぎ)は、次のような言葉を残して、後代の人間生活を戒めている。安岡正篤先生は、著書「養心養生をたのしむ」の中でこれを「四惜」として紹介しています。

昼坐まさに陰を惜しむべし。
夜坐まさに灯をおしむべし。
言に遇わばまさに口を惜しむべし。
時に遇わばまさに心を惜しむべし。

この言葉について、安岡先生の言葉を借りて解説します。

昼は光陰(時間)を惜しめ。夜はせっかく灯火をつけたら、勉強をしなさい。灯火をつけっぱなしにして遊んでおってはいけない。自由にものを言うというのは人間の特徴であり、幸福であると同時に、これは非常な災いになる。くだらないことをだらだらと述べるのはやめて言葉をつつしむべきだ。重大な時に、心を乱用してはならない。非常な重大な時こそ、我々が心を養う、心を練るのに最も必要な時である。

大震災以来、灯火の摂生は僕たちの習慣となった。
くわえて、口も心も摂生していかなければならない。

この未曾有の危機を乗り越えるため、この文明と、都市生活の習慣に生きる僕たちは、心をこそ、節していかなければならないのかもしれない。もっと、自然とともにある生活に帰るためにも。