収入のため働く

左でファイティングポーズをきめているのは、鯖島仁(さばしまじん)。昨年、日テレで放送された「ドンキ・ホーテ」の名物キャラ。外見は古典的な武闘派ヤクザに見えますが、実は児童相談所の心やさしい所員なのです。(大好きキャラなので、CGで再現させていただきました)

ヤクザでなおかつ児童相談所?複雑な設定だけど、これが意外にうまくいく組み合わせ。きわめて特殊な職業形態。いまの日本では、児童相談所という職場が忙しい。これは現代における、悲しい特殊事情が生んだ仕事だけど。職業にもさまざまな成立用件があるのだ。

さて昨日までの話のつづきです。夏目漱石先生の時代にも、こうした特殊な仕事というものがいくつも生まれたらしい。以下、漱石先生の講演録「道楽と職業」から。

「とにかく職業は開化が進むにつれて非常に多くなっていることが驚くばかり眼につくようです。怪しからぬと思うような職業を渡世にしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。[ 中略  ] 開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分れれば分れるほど、我々は片輪な人間になってしまうという妙な現象が起こるのであります」

明治時代、日本は西洋文化の流入による急激な近代化を経験し、社会組織のありかたや、学歴や出世における競争がすでに激化していた。漱石は、近代人の人間的生活の「細分化」は、大きな問題であると論ずる。しかも、せっかく大学で勉強した若者が、自分にぴったりと合う仕事を、見つけられないことも多かったという。明治時代にも、若者の就職問題が起きていたらしい。今で言う「マッチング問題」というやつだね。

近代社会では、すべての職業は「細分化」され「専門化」されていく。ひとりの人間が受け持つパートが、狭く小さくなっていく。かつての田舎社会日本では「裏山から青竹を切り出してきて、灰吹きに代用する」というような自給型生活があった。人間が生きて行くために、さまざまなことを自分でしなければならない時代。

そういう時代は、自分で何でもやる分だけ、人間は自分の人生において「完全」だったのかも。大変なんだけど、人生の大部分を「自分の力でまかなっている」という自負と幸福感があったはずだ。しかし、畑を耕し、漁に出かけ、自分の着物を縫うなどということを、今は誰もしない。米や野菜は八百屋で買い、肉や魚も店で買う。衣服も誰かが作ったものを買うしかない。(明治の話ですよ)

こうした、消費活動によって支えられる個人の生活。だから生活の中心となる「職業」とは、単純に給料を得るための、他人への奉仕となってしまうのだ。「自分でやらない」分だけ、他人に代価としてのお金を払わなければならぬ。自分のエネルギーは、その代価を払う、お金を獲得する仕事に費やされる。

漱石は別にそれを否定はしない。むしろ、そうやって他人のためにつくすからこそ、それは自分のための利益(収入)となる。他人への奉仕という「職業」は、結局は自分のための行為なのだ。だから「職業」というもの、一生懸命やるべきだとおっしゃる。それと逆に、純粋に自分のために行う行為は「道楽」であって、自分の利益(収入)にならないのだから気をつけなさいと。結局のところ「道楽」というものは自分のためにはならない。気をつけなさい。

だから、みなさん、つべこべ言わずにしっかり働きなさいよ。他人のために、黙って働くことが、自分にとっての最大の利益。つまり「お金」=「収入」となって、自分に戻ってくるのだからね。だまって働きなさい。

でも、こんな話、夏目漱石先生の本心として信じられません。漱石先生の講演は、ビデオの巻き戻しのように、いきつ戻りつしながら進む。だから、どこが本心なのか最後までわからない。とりあえずここまでは、近代における個人と職業の関係について述べたまで。

さて、ここからが本題。いよいよ漱石先生は「小説家」という自分の仕事が、「道楽」なのか「職業」なのか、というメインテーマについて話はじめます。(つづく)

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