職業か道楽か

未曾有の就職難に襲われる大学。そこに身を置くものとして、ちかごろ私は「職業とは何か」と考えさせられている。先日も、出版関係の方と飲みながら、これからの若者の「職業」について、意見を交わしたところだ。そして偶然、この本を開いた。

夏目漱石晩年の講演録「私の個人主義」という本。この本には、漱石が関西において行った、4つの珍しい講演の内容が記録されている。

第一の講演のタイトルが「道楽と職業」なのである。聴衆にむかって「私はかつて大学に職業学という講座を設けてはどうかということを考えたことがある」と語りだす漱石先生。大学での就職指導にあたる私にとっては、格好の教科書ではなかったか。この本、購入以来四ヶ月も「積んだ」ままだった。私は馬鹿だった。

むちゃくちゃ面白いではないか。
とにかく、急いで読んでみた。

「道楽と職業」というタイトルのとおり、この講演の眼目は「道楽」と「職業」をくらべてみること。漱石は「道楽」の本質とは、実は「職業」のそれと同一あるとのべる。どちらも、自分の持てる体力や知力を使って働くことに違いはないのだ。ただ、その力の方向だけが違うだけ。

「職業」というのは、自分の力を誰か「他人」のために役立てるもの。「他人」の要望に従属して働くことだ。一方「道楽」というのは、あくまで「自分」のためにものごとを行うこと。だから「職業」では、金をもらう(中に入れる)ことが出来るのだし、「道楽」では金を使う(外へ出す)ことになるのだ。お金の出入りの方向が違うだけで、同じような作業の「逆向きバージョン」だと言っている。

世の中には、ときどき、ゴロゴロしたままありあまる財産を持って、遊んで暮らしているような人がいますが、これだって別に不思議なことではないのだ。そのゴロゴロしている人のお父さんか、あるいはおじいさんが、沢山「他人のために」働いた。その分のお金が残っているだけのこと。本人が「道楽」生活を続けていれば、そのお金は順調に外へ出て行くので、いつか底をつくことになる。

まるで、物理学における「エネルギー保存の法則」や「エントロピーの話」のようですね。エネルギーは貯めるか使うかどっちかですからね。貯める前に使うことは出来ない。でも、あなたのお父さんが貯めておいてくれたのならば、話は別です。

バックミンスター・フラーも、「クリティカル・パス」の中で、お金の起源について、同じような考え方を披露していました。要するにお金というものは、以前にもらうべきだった「何か」(で、もらえなかったもの)の「証拠」なんだって。その「何か」をもらうべき人が、自分であれ、自分の祖先であれ、自分が使うのは勝手なんですよね。そして、本当に流通する貨幣の場合、その「何か」が「何だったのか」は問題でなくなる。「何にでも」替えることができる。

「職業」も「道楽」も、実は方向が違うだけの「同じ現象」と見抜いた漱石先生。それでは、私たちの人生は「道楽」と「職業」のどちらに重きを置いたら良いのか?
ここからが、漱石先生のお話の真骨頂なんです。(つづく)

Popular posts in Avokadia

レイチェル・リンド

クリングゾルの最後の夏

九方皐