騙される人

「人間というものは『騙(かた)る動物』である」とは、エドガー・アラン・ポーの言葉。(☆1)「人を騙す」ことはいいとしても(良くない?)、「騙される」対象にはなりたくはない。

名作映画「スティング」は「詐欺師」の映画。最初から最後まで「詐欺」づくし。しかも最も「騙され続ける」のは、ほかならぬ観客なのですよ。そう、騙されるのは映画を見ている「あなた」なんですよ。なのになぜか「あなた」は喜んでしまう。この作品の人気が衰えることはない。何かおかしくないですか。

答えの鍵は、この映画における「騙し騙されるストーリー」の構図にあると思います。

物語における「騙し」には、大きく分けて2つのパターンがある。ひとつは「がっくり」パターン。人間というものは「すっかり信用していたもの」が実は「インチキだった」などという場合には、ムカっとくるもの。誰しも過剰反応して当然です。損をしたり、がっくりきた上に「こんなもの信用してバカね」なんて言われたりする。誰だって怒って当然のパターン。

その逆に、ほっとするのが「なあんだ」パターン。「こいつは悪いやつだ」とか「これは絶対に怪しい」と信じていた。なのに、最後の最後で「本当はいい人だった」とか「私のためにいいことをしてくれた」と気づく。みんな涙してまで感謝するパターン。騙されたには違いないが、騙されて喜ぶパターン。

「犠牲となって悪役のふりをしていた」なんていうケース。時代劇によくあります。「樅の木は残った」の原田甲斐とか「忠臣蔵」の大石内蔵助。原田甲斐の場合、歌舞伎「伽蘿先代萩」では、仙台藩を乗っ取ろうとする大逆賊。しかし、山本周五郎先生による「樅の木は残った」では逆転。藩の重役どもの策謀から藩を守るため「逆賊」のふりをした。罪を一身に引き受けて死んだ。自己犠牲の聖人。僕もこの話大好きです。

こういう話を聞くと、誰でもハッピーな気持ちになる。「スティング」の「騙し」は、これなんです。「もしかすると彼は仲間を裏切るの?」なんて、さんざん心配させられる。しかし実は仲良くお互いを助け合い、敵をやっつけて大団円。ルーサーの敵討ちなんだから、詐欺の分け前もいらない。観客の僕たちも「騙されて」気持ちがいい。めでたしめでたしのストーリーだ。

実は、これこそが罠だったりするのですが。まあ、それはのちほど。(☆2)

映画のストーリーを作る上で、肝に銘じなければならないことなのでしょう。観客を騙す時には、騙す方向を良く考えなさいと。観客をがっかりさせてはいけませんよ。素晴らしかったはずの主人公をダメダメの裏切り人間にしてはいけません。(悪役ならばOKだけど) 主人公はむしろ、前半で誤解されたり、過小評価されるものの、最後には、本格的に講評価される形にしなければなりません。なにしろ、僕たち観客は「感情移入」しているんですから。そこんとこよろしく。

それにしても、この映画の「観客の騙し方」は念がいってますね。ロレッタとサリーノの一件。あるいはFBI捜査官の一件。どれもこれもオープニングタイトルを見てもわからない。エンド・クレジットですら、大事な所は隠されているんですからね。映画は終わっているのに。

まったくもう、ジョージ・ヒル監督ったら。観客を騙すのを、確信犯的に楽しんでいるとしか思えませんね。そういう手のこんだ脚本です。何回でも「騙される」のを楽しめるように作られている。

ところで、この映画が完璧な「詐欺師映画」には、完璧な原作本が存在するのです。ご存知ですか。そのタイトルは、ずばり「詐欺師入門」というんです。言語学者の権威である、デヴィッド・W・モラー先生が、行った詐欺師の世界のフィールドワークの集大成です。言語学の本としても、最上級の読み物としても評価が高い本です。もともとは、隠語(スラング / 業界用語)とその社会構造の関係を解き明かすために書かれたもの。なんと、原作が言語学の本とは。これもまた「騙された」気がしてくる話ですよね。(つづく)

☆1:エドガー・アラン・ポーの言葉は、「詐欺師入門」の復刊によせて、ルク・サンテ(作家)が書いた、賛辞の中で紹介されています。
☆2:「詐欺師入門」によると、いったん出来た「信用」を移行することが、詐欺の基本とのことです。この二重構造の騙しのプロセスを、ふたり組で役割を分担しながら進めて行きます。あぶないですね。このへんは、次回にご紹介したいと思います。


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