プログラムされたい私

うちの「ココアちゃん」よくできた子です

「ちいさなちいさな王様」の名コンビ、アクセル・ハッケとミヒャエル・ソーヴァは「プラリネク」という絵本も書いていた。これをアマゾンで見つけたときはうれしかったな。この本もクリスマスの夜に起きるファンタジーです。ほかにもまだまだある。「キリンと暮らすクジラと寝る」「クマの名前は日曜日」 どれもタイトルが秀逸です。ついつい手を出して読んでみたくなる。

で、その「プラリネク」なんですが、チョコレートの箱や洗剤の箱、トイレットペーパーなどを組み合わせて作られたロボット君のことなんで。この子のセリフがじつにいい。「僕をプログラムして」なんていうのです。コンピューターやロボットがでてくるSF映画とか、いろいろあるけど「僕をプログラムしてちょうだい」というセリフって、なかなか聞かない。

実は今のわたし、がらにもなくプログラムにこってるんです。このところ、このブログがほったらかしなのも、日記も書いていないのも、友達との会話が上の空なのも、実はこれが原因。フラッシュというソフトを使って、スマホ用のアプリを作っているのですが、すっかり夢中になっているのです。おかげで、なにもかも上の空。

だから、昨晩お風呂でひろげた「プラリネク」の中で「僕をプログラムして」というセリフに出会った時は、本当に「ドキっ」とした。僕の生活をお見通しなのだろうか。あまりにもぴったりのセリフを言われたので、おもわず「うんうん、まかせなさい」と答えそうになった。

しかしまあ。プログラムというものは難しいですね。ほんと。いろいろと頭のなかでは「こうもしたい」「ああもしたい」とアイデアがあるのですが、それを、一本のプログラムの中で実現するためには、とても精密で時間のかかる地道な作業が必要。ご存じの方も多いでしょうが、なんといってもプログラムは「適当に書く」ということができない。

さっき「一本のプログラム」と言いましたが、本当のところ「一本」ではないのです。オブジェクト指向言語ってやつなので、たくさんたくさんの「クラス」に分かれている、プログラム断片の集合体なのです。その断片どおしが、いろいろとやりとりをして、データを受け取ったり、渡したり、加工したり、変形したり。たくさんの断片が助け合って機能している。

それらの断片のうち、どれかが「変わり者」で、なにかを聞かれるたんびに、適当なウソの答えを返事したりしたら、大変なことになる。そのウソは他のメンバーの仕事に即座に影響して、全体の機能がめちゃくちゃになってしまう。

その点で、現実の世界ってすごいと思うのです。人間社会の場合、その構成メンバーには、いろいろと変わった人が混じることも多い。コミュニケーションの仕方がおかしな人もいる。こちらが期待したのとはぜんぜん違う答えが出てきたり、それこそウソを言われることもある。それなのに、実際の社会というのは、なんだかんだいって動いていきますね。ある程度は、機能する。

そこがプログラムとはちがう。プログラムは「適当に」動くというようなことができない。動くか動かないかどっちか。すべてが精密にかみあっていなければならない。仮にとりあえず動いたとしても、どこかに「バグ」をかかえていると、あとで大変なことになる。

動物の体や、人間の体もすごい。風邪を引いたり、歯が欠けたりしても、とりあえず動き続けることができる。他人の言葉に傷ついたり、世の中に疲れたりしても、まあとりあえず生きていく。休んだりしているうちに、普通の動作モードに復帰する。すんごい「適当」な状況でも、生命体としてちゃんと動いていける。

そうだなー。だから、僕が書いているプログラムと、生命を比べること自体がとても間違っているのだろうけど、これだけは、僕でも勘で分かるぞ。この世界、宇宙、生命ってものは、とてつもなく凄い仕掛けなんだ。そういうことだ。


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