まるで水の中の魚のように
映像関係の授業の準備で、スタンリー・キューブリックの伝記などをいろいろと読んでいる。完璧主義者と言われるキューブリックは、撮影現場での逸話にことかかない。その中で、特にどの作品にも共通して言い伝えられている話はこういうもの。何度撮影が進んでも、キューブリックは同じ事を繰り返し言う。「OK。それではもう一度」つまり、もういちど撮り直しという指示だ。
俳優が渾身の演技を終え、あるテイクの撮影が終わったところで、こう言われる。一度、完全な演技が行われて、それが完璧に撮影されても「もう一度やりましょう」ということになるらしい。それが積み重なって、ついには60テイク以上も撮影が続けられることも、ざらにあったとか。
演技するほうの俳優としては、たまったものではない。別に何が悪いわけでもない。何か修正の指示があるわけでもない。それでも、ただただ繰り返して撮り直しをする。このように、映画の撮影の現場で、ひたすら俳優を追い込んでいく話。溝口健二監督についても、そいういう逸話が沢山残っている。
ここで監督は、いったい何を意図しているのだろうか?
どんなベテラン俳優も、演技を仕始めた段階では、どこか「意識」が先攻する。台本の台詞を頭にいれて演技をする以上、そこにははある程度の「作為」が出るだろう。どこかに「こういう風に演技をしよう」という意識、それが頭のどこかに生まれる。キューブリックや溝口健二のような巨匠は、それを許さない。俳優が「演技しようとする意識」を捨てて、真実の行動をするひとりの人間になりきったところを撮影したのであろう。
まるで自転車をこいでいるときのように、まるで水の中の魚のように、ピアニストが没我の境地で演奏しているように。俳優が登場人物そのものになりきり、お腹のそこから、その存在になりきる瞬間を待っているのだろう。