精神を停止状態に置く

だれかが無心で食べたカップケーキ

昨夜は、キューブリックのような巨匠の映画に出演する俳優が「意識を捨てて本人になりきる」ことを求められるということを書いた。優れた映画に現れる優れた演技というものは、意識的な演技ではなく、無我の境地の「演技を捨てた演技」でなければならないということ。なにか禅問答のような話である。

横尾忠則氏も著書「絵画の向こう側、ぼくの内側」で、画家も無我の境地で描くことが重要であると述べている。以下、少しだけ引用させていただく。

「絵の制作は、文章を書く時とは違って無心になることができる。精神を停止状態に置くことができるので、時間からも解放されて自由になれる <中略> こうした無心状態の時、肉体は精神と繋がっているのではなく、むしろ魂と繋がっていることが知覚できる」

横尾忠則さんは、「精神」と「魂」を別のものとしてとらえている。僕たちが普段「精神」としてとらえているものとは「意識的なもの」のことである。人間の存在そのものとしての総体とは違うものなのだ。それなのに、僕たちの日常では、この「意識的なもの」を強く感じるあまり、より重要であるはずの「魂」を、その支配下置いてしまう。

「精神を停止状態に置く」というのは、思ったほど簡単ではないのだ。そしてまた、これは、日本の古武道にも通じている。

 

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