大機大用
大機大用。こう書いて「たいきたいゆう」と読みます。柳生宗矩が残した「兵法家伝書」の「無刀の巻」にある一章のタイトルです。
ものごとには「体用(たいゆう)」というものがある。たとえば、弓は「体(たい)」である。引くぞ、射るぞ、当るぞ、というのは弓の「用(ゆう)」である。灯火は「体」である。光は「用」である。水は「体」である。うるおいは水の「用」である。梅は「体」である。香や色は「用」である。梅の体があるからこと、体から花が咲いて色香が現れ、匂いが起こるように、機が内にあって、その用が外にはたらき、付け、懸け、表裏、懸待、さまざまな誘いを仕掛けなどする。このように内に構えた機があるために、外へ現れることを用というのである。(☆1)
うーん、むずかしい。
どういうことでしょうか。
人間の働きが出るのも、人間の内側に「機」というものがあるから。その「機」がちいさくて、せせこましいものでは、そこから生まれる言動や働きも、小さくて効力のないものになってしまう。だから、人間は日頃から自分の内側にある「機」を、おおきく育てて、常に大きく構えていることが重要である。自然と「機」が外へ出てくるように、精神を自在のコントロールのもとに置かなければならない。そういう教えかと思います。
内面にある「機」が凝りかたまり固着していては、用ははたらかない。内にある「機」が熟すれば、全身全体にのびのびひろがり、手にも足にも目にも耳にも、その所その所で「大用」が発揮されるのだそうです。
現代では、宮本武蔵の「五輪書」や、柳生宗矩の「兵法家伝書」などを読む習慣はありません。日常刀を下げて歩く人はいないので、刀を持つ武芸の心得などは不要ですから。でもそれはもったいない話。なぜならば「五輪書」や「兵法家伝書」のような武芸書には、現代の私たちにも役立ちそうな話がいっぱい載っているのです。
他人と刀で闘う方法というよりも、むしろ平常時の心得を教えるところが大きいのです。闘いと闘いの間にある平常時こそ、精神を鍛錬しておくべし。そして来るべき試練に存分に戦える精神と身体をを作っておくべきという教えですから。それでありながら、その教えは具体的かつ実践的です。だから、観念知識のみに執着する現代人にとって、目を開かれる思いのする教えがたくさんあるのです。鍛錬習熟して技を身につけ、その技にとらわれることなく無意識にこれを活用することを教えています。
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☆1:「兵法家伝書・無刀の巻」柳生宗矩原著 大河内昭爾 訳 p.218