勉強の逆回しをしなければならないのだ
学校で学んだことをそのまま学術的に復唱するというのはただの「ラーニング(Learning)」であって、あまり価値が無い。本当は「アンラーニング(Unlearning)」して、学んだことを自由自在に使いこなすことが大切です。(☆1)
鶴見俊輔さんのお話の概要です。とても面白いので、本に赤線をひっぱっておいたものです。この「アンラーニング」という発想は、実は鶴見さんのオリジナルではなく、ヘレン・ケラーさんからじきじきにお聞きした話なんですって。
鶴見先生が、18歳のときにニューヨークの図書館で本の運搬のアルバイトをしていた。するとそこに、ヘレン・ケラーが来た。さっそく彼女を囲む懇談会となって、この貴重なお話を直接お聞きになったのだそうです。うらやましいです。
「あなたはどういうひとですか?」と、ヘレン・ケラー女史
「ハーバードの学生です」と、鶴見青年
「私はハーバードの隣のラドクリフに行っていた。その後、社会に出て、そこで学んだことを『アンラーン』した」
「!」
ヘレン・ケラーの自伝「わたしの生涯」で、彼女は大学に対する幻滅をあからさまに語っていた。視覚と聴覚を失ったハンディを乗り越えて、大学入学という偉業を果たしたのは、大学に対する大きな憧れがあったから。大学とは、この世界のすべての真実を解き明かしてくれるところに違いない。そういう憧れに対して、実際の大学での勉強は、現実的であり打算的なものに感じられたらしい。この「アンラーン」という言葉には、ヘレン・ケラーが大学に対して感じた、残念な気持ちが反映しているように思う。
「アンラーン」
つまり、勉強の逆回しですな!
学校で学んだことをそのまま鵜呑みにしているのでは、それは学問ではなく、荷物をほどいて活用するようにしなければ意味が無い。大学におけるタテマエ的教育内容は、そのままでは社会には通用しないことがある。例えば「平等主義」というもの。これは「期末試験」のようなバーチャルな競争には当てはまるのだが、実社会の競争というものはそんなに単純ではない。人間関係を築くための処世術の大半は、大学の教科には存在しない。日本の社会というのは、それほど「オモテ」と「ウラ」があるのだ。
長年「アンラーン」してきた熟年層こそが、社会で本領を発揮すべきところなのだが、それができない。せっかくの人生の蓄積を活かせない。なぜか。インターネットをはじめ、社会で仕事をするためのツールが急変しているため、どうしても大学出たてで「ラーン」したばかりの若手が仕事の中心になってしまうのだ。「熟年層の智恵」がスポイルされているということも問題だと、鶴見先生は語る。
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「ぼくはこう生きている 君はどうか」
月刊「潮」に掲載された、鶴見俊輔氏・重松清氏によるシリーズ対談をまとめた本です。
面白くないわけないですよね。さまざまな視点から現代社会の構造や教育の問題を、自由闊達に語った楽しい本でした。
☆1:p.120 の概要をまとめてみました