バラとはなにかひとことで言いあててみよ


「バラの名前」という話がある。バラというのは、私たちが「バラ」と名付けたからこそ存在しているのか。それとも、バラという存在は普遍的なものとして存在していて、私たちがそれに名前をつけて呼んでいるだけなのか。なんだかそんなような話だった。

詳しくは、宗教学の方や哲学の方に語ってもらわなければならないのだが、ここはいい加減のまま許して欲しい。要するに今日この花について、私が一体何を知っているかということなのだ。バラに関する情報は山ほどある。とげがある。バラ科である。花びらが紅い。アロマの原料になる。女性に好まれている。紅いバラの花言葉は「愛情」である。

だけど、要するにバラとは何なのか。どうしたら「一言」で言えるのか。

僕たちはものすごい情報社会に生きている。だから、バラ一本についても、台風についても、芸能人の消息についても、やまほど情報を受け取ることができる。あらゆる事柄について、あふれるほどの知識を手に入れることができる。でもだからといって「バラの本質」について知っているかというと、それは別問題だ。

イネと人間。その遺伝子を比べると、その四分の一が全く同じだという。むこうは水をはった田んぼの上で光合成をしてブドウ糖を定着して黄金色の籾に結実する。こっちは、それに肥料と水を与えて世話をして、そして刈り取る。遺伝子は一緒でも、お互いにまるで別世界の生き物になった。イネと人間はそんな関係だけど、バラと人間もきっと似たようなものだろう。

バラというものを僕たちは鑑賞する。そのために丹精こめて育てる。肥料をやり、虫除けをし剪定して育てる。彼らは「美しいバラにはトゲがある」とか言われて、まるで人間の女性のように扱われる。もしかすると、その辺を彼らは完全に理解していて、人間に愛されていることを利用して、進化しているのかもしれない。バラの品種改良をやっているのは人間だけど、その実は、バラたちにそれをやらされている?

それはともかく、「バラについてひとことで言いあてることができるか」ということを考える。僕たちは、実はバラの本質について何も知らない。それなのに、バラについての情報は山ほど持っている。ウソだと思ったらバラに関するwikipedia をみてほしい。情報はこんなにいろいろと揃っている。だけど、これを読んだからといって、バラを知るわけではない。

多すぎる情報は、ともすると雑音になる。

情報が多すぎて、ものの本質がわからなくなる。あるいは、情報がいっぱいあることに安心して本質を考えなくなる。このへんの事情が、現代における人間の情報量とかしこさの関係となっているのかなー。ちょっとそれを考えてみた。


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