ハーヴェイ・カイテル


声を聞いただけで「あっあの人だな」と分かる。そういう「声が気になる」俳優っている。私の中では、ハーヴェイ・カイテル氏がダントツである。しわがれた声質で、相手に対してぐいぐいと踏み込んでくるような喋り方。語尾が上がるから、相手の反応を一々確かめるように、からんでくるようなニュアンスになるのか。

スーパーで働く奥さんの稼ぎでだらけた生活をしている青年(演じているのはタランティーノ)を、ぐいぐいマイペースで引きずり回す暗黒街の掃除屋・ウルフ。この役本当に良かった。「パルプ・フィクション」の後半に登場する。

時間軸がウルトラぶっとんだこの映画の後半、観客がだんだん訳がわからなくなったところで、ものすごいリアルな存在感で登場。時空間が怪しくなってきた映画に、現実的な磁力のようなものを注ぎ込む役だ。私、このウルフ登場のくだりだけでも何度でも見たいと思う。

「テルマ・アンド・ルイーズ」では、2人の女性主人公を追いかける警部の役だが、このしわがれて、世の不条理をかき分けて生きているような話し方は健在。ハーヴェイ・カイテルが話し出すと、それは、どんな役柄であろうとも、ハーヴェイ・カイテル的存在を通しての役になってしまう。やはりこれは、役者としての風貌、ルッスよりも声という音響的印象というものが大きいのではないかと思う。

付け足しになるけれども、例の映画史に残る大作「地獄の黙示録」での主人公、ウィラード大尉はハーヴェイ・カイテルが演じる予定だった。撮影第一週で、イメージが違うと降板となり、マーチン・シーンと交代となった。もし、ハーヴェイ・カイテルが演じていたら、映画全体が違うものになっただろう。なにしろ、ウィラード大尉のモノローグで進んで行くからね、あの映画は。原作の「闇の奥」とそこが一緒。

このように、違う映画の全く違う役柄で出ていても、「あっ、あのひと〜だー」となる俳優としては、私としては次の三人の方の名前を挙げたい。

クリス・クーパー
「アメリカン・ビューティー」では、隣りの家に住んでいる退役軍人のフィッツ大佐。「アダプテーション」では、野生ランの収集家、ジョン・ラロシュ(アカデミー賞助演男優賞)この2つの役の落差はすごいけど、どちらにも共通点がある。完全に自分の世界だけにはいりこんでしまうキレたキャラクター。彼の声はそれにぴったしだ。

ジョシュ・ブローリン
「ノー・カントリー」では、麻薬取引の大金に執着するあまり、恐ろしい殺人鬼と対決する羽目に陥る、ルウェリン・モス。「ウォール・ストリート(Part2)」では、巨額のトレーディングで身を興し、そして破滅していく辣腕証券マン。やはりこのふたつの役に共通するものがある。お金に執着するあまり身を破滅させる。そういう設定にぴったしの声。

ジェームズ・アール・ジョーンズ
「フィールド・オブ・ドリームス」では、遁世的生活を送る元作家(J・D・サリンジャーがモデルと言われる)を演じ、その深い声で天からの予言をひきだす。「星の王子様ニューヨークへ行く」では、架空の王国「ザムンダ」の王様。どちらもそのすばらしくドスの効いた声で、浮き世離れした存在感を発散していた。どちらも世俗を離れた異界の香りがする。それもそのはず、この人の声とは誰あろう。宇宙の暗黒世界を支配する、ダース・ベーダー卿なのだから。

映画にしてもテレビにしても、私たちは「映像」に夢中になっている。そう思っている。だが、じつのところは、音声や音楽の役割というのは非常に大きく、情緒的表現や、俳優の性格などを感じ取るかなり大きな部分を担っているものなのだ。

映像をつくる仕事を、なんだかんだ30年近くやってきたが、結論としてはそういうこと。映像のパワーというものも、まずは音楽や音声の力を借りてナンボ。そのことをしっかり意識しなければ、映像そのものが生きないのである。ハーヴェイ先生の顔を思い浮かべながら考えた。

Popular posts in Avokadia

レイチェル・リンド

九方皐

清水次郎長