いつでもどんなものにでも


「いつでもどんなものでも宇宙につながっている」詩人の故まどみちおさんは、生前のインタビューで、繰り返し話されていた。誰でも、じっとちいさなものたちを見つめると何かが見えてくる。心を静めて耳を澄ませば、何かが聞こえてくる。

サンティアゴ巡礼の旅に出た、ハーペイ・カーケティング氏も、そんな体験をたくさんしたようだ。「神に出会う」というほど大げさなものかどうかは、わからないが、「普段は知らない何かを感じ取る」ことには、何度も出会ったようだ。

一体、どんなふうに?

険難な峠を越え、灼熱の道を渡っているうちに、だんだんと「考えることをやめる」ようになってくる。するとついには「ものごとの印象」というものが根本的に変わってきて、「ものごとを感じる」こと自体が変質してくるらしい。そうすると、自然に宇宙との会話が可能になるのだ。実際に彼は、道中なんども「宇宙さんにお願い」している。そして、しっかり「宇宙さん」から返事をもらってる。

僕たちは、日常生活の中で「自分が得た印象」を、なにかのかたちで「押し出す」ことによって「表現」している。「表現されたもの」は、誰かほかの人の心を「押し出す」ことで、その印象を伝える。これが、僕たち人間社会における「他者とのコミュニケーション」というものの一端だ。しかし、それは僕たちの日常的な感覚を無駄に使っているのかもしれないのだ。

考えることをやめた時。
印象というものは変わる。
感じ方が変わる。

一粒のニンニクだってそうだね。料理の材料と思えばそれまで。オリーブオイルと一緒にフライパンからたちあがる香りの素だね。でも、同じニンニクだって、何かを語る深淵なる存在だと思って眺めていると。うーん。

なにかを内に秘めた悟りの境地の修道僧のようでもある。はたまた、草原で午睡を楽しんでいる羊のようでもある。いやいやこれは、道行く人々の安寧を願うお地蔵さんなのではないか。いやいやまてよ...


Popular posts in Avokadia

レイチェル・リンド

クリングゾルの最後の夏

九方皐