シエスタ民族

日本にはなぜ「シエスタ=お昼寝」習慣が根付かなかったのだろうか。日中の日差しが強すぎることもなく、適度な気候であったため、日本人は常に「働きつづける」ことを美徳としする、セカセカ民族の国となってしまったのだろう。実に残念なことだ。

水木しげるさんの「睡眠至上主義」を持ち出さなくとも、「お昼寝」の効用は明らかなのだ。午前中の活動を終えて、おいしい昼食を食べれば、誰だって眠くなってくる。当然活動の度合いも落ちて、仕事の効率だって悪くなる。思い切って、2〜3時間寝たほうが、効率が良いのに決まっているではないか。

しかし、日本は勤勉で働き者の国なのだ。明治以降はとにかく、西欧諸国に追いつくために、国を挙げて生産性を向上させなければなかった。日本人に「お昼寝」などしている暇はなかったのだ。しかし、21世紀ともなり、日本の置かれている状況は激変したはずだ。中国に抜かれたとはいえ、日本のGDPは、いまだ世界のトップクラスにある。もう、セカセカする理由は無いのでは?

森村泰昌著「露地庵先生のアンポン譚」は、このへんの消息を実にうまくとらえて、現代の日本人のセカセカ具合を笑い飛ばす、素晴らしい本である。大阪の露地裏的価値観を武器に、近代を大股で走り抜けてきた日本人が気づくべき、「ゆっくりした間合い」について思い起こさせてくれる。

森村先生が、ヨーロッパでの展覧会において体験したエピソードが面白い。マドリードでは、シエスタが終わり、サッカーの試合が終わるまで、誰もレセプションに現れない。パリの展示会場では、電気工事のお兄さんが、二日続けて遅刻。それでもまったく悪びれずにニコニコしている。ベネチアの展示会場では、つごう三種類の電気コンセントが、統一されることもなく使われている。「使えればそれでいいじゃん。間に合えばまあいいじゃん。楽しければそれでいいじゃん」。という、実に鷹揚なゆったりとしたひとびとが、ゆったりとした価値観を交換している。「流れているのは悠久の時間」だと、森村氏は発見する。

慌てることはないよ。人間の一生はとりあえず一生にすぎないんだから。
太古からとぎれることなく続く、この時間の流れを感じて生きていこう。

シエスタ的価値観に近いこれらの都市、パリ、マドリード、ベネチア。いずれも堂々たる芸術の街じゃないか。以前に一度マドリードで、アルコという芸術見本市に参加したことがある。(仕事でした)私はここで、一般市民、それこそおじいさんも子供も、本当に自然体で「芸術を楽しんでいる」のを見て実に驚いた。日本でならば、こむずかしい解説などを聞きながら、ひたいにしわを寄せて「鑑賞」するのが芸術だろう・しかし、あちらでは、みんなで「楽しむ」のが芸術なのだ。少なくとも、そういう感性が一般市民に溢れているのだ。みんな本当に楽しく幸せそうなのだ。

ブエノスアイレスで、オフィス街でビジネスマンむけに「シエスタ=お昼寝」のできる、時間貸しのベッド・サービスが始まったという。アルゼンチンとはいえ、さすがにオフィス街では、シエスタの習慣は昔のことになってしまったということか。まずいのではないか。

「シエスタ=お昼寝」を大事にする感性は重要だ。これまでのセカセカ民族から、大人のシエスタ民族に成長して、世界から尊敬されるような芸術大国になろう。日本に、まず必要なのは、お昼寝だ。

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