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Showing posts from May, 2011

あの彼は君ではないのか

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昨夜は、共同印刷で偉くなった友人と遅くまで飲んでいました。ネットで話題になってしまった「茗荷谷の印刷所出火」ですが、それほど大事に至らず良かったです。怪我をされた方にお見舞いを申し上げます。印刷業界では震災以降、インクや上が不足したり受注が減ったり大変ですが、これに負けずに頑張っていただきたいところです。 しかし、集英社が少年ジャンプを一週分、ネットでの無料ダウンロードにしたという話にはびっくりしました。一週たりとも遅らせることなく、被災地の読者に届けようという集英社の心意気を感じる話ですね。でもこれで、ダウンロードビジネスへの展開が早まるなんてことはないのでしょうか。NHKが地震発生後に一時期、番組をUSTREAM 配信した話に似ていますね。 ところで昨日まで、鴨長明の『方丈記』について書いてみました。そのテーマとして考えたのが「無常観」。特に、デビッド・ボウイにも登場いただいき、西洋と東洋の「無常観」のちがいなども考えました。そもそも西洋の考え方に「無常観」というものはあるのだろうか。 そこで書庫(というほどでもないけど)より一冊の本を取り出しました。ちくま学芸文庫『わが世界観』という本です。著者は、エルヴィン・シュレーディンガーというノーベル賞も受賞した物理学者。いまはなぜか「シュレーディンガーの猫」のほうが有名のようです。難解な本です。はっきり言ってかなり背伸びして読んで(ページをめくって)います。(汗) なぜシュレーディンガーか。彼は西洋の物理科学者の代表格なのですが、独自の東洋的宗教観を持っていたことで有名だからです。晩年はウパニシャッド哲学なども研究していたそうですよ。 この天才が、この世を去る一年前に、残した『わが世界観』が、面白くないわけがない。早速、一部読んでみたいと思います。まず「自分という存在」について。 「かくも突然に無から君を呼び覚まし、君になんの関係もないこの光景を、ほんのしばらくの間君に楽しむようにさせたものは、いったいなんなのだろうか。<中略> おそらく百年もまえに誰かがこの場所に座り、君と同様に敬虔な、そしてもの悲しい気持ちを心に秘めて、暮れなずむ万年雪の山頂を眺めていたことだろう。<中略>はたして彼は、君とは違う誰か他の者であったのだろうか。彼は君自身、すなわち君の自我ではなかったのか。君のその自我と

鴨長明は警告する

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枕草子とならび、日本最古の「ブログ(随筆)」などとして有名な『方丈記』。しかしこの『方丈記』をいま手にとって読んだら、その内容に誰もがびっくりすることだろう。(僕もまじめに読んだのは高校の「古文」以来です。「古文」大きらいだったし... ) だって『方丈記』の記述は多くは、火事や竜巻、そして巨大地震といった「大災害」に関するものなのだから。 鴨長明が体験した大災害として『方丈記』に書かれた災害を列記します。体験の年代順で『方丈記』での登場順ではありません。(カッコ内は、災害発生の西暦と長明の年齢) 1:安元の大火 [1177年/23歳] 2:治承の辻風(竜巻)[1180年/26歳] 3:福原遷都 [1180/26歳] 4:養和の飢饉 [1184年/31歳] 5:元暦の大地震 [1184年/31歳] [3]の「福原遷都」(治承四年)が、天災のように描かれているのが面白い。実際には「平氏政権の大失策」という「人災」だ。長明は、成り上がり貴族の平家が大嫌いで、この歴史的大失敗の遷都を徹底的に批判。実際に福原まで出向いて、その地形や経済面の不備に言及し、平家の失策を手厳しく論評している。平家の威光にすがろうと必死でしがみつく小役人もこきおろす。 災害の中で最も悲惨だったのは、[4]の「飢饉」だったという。一気に迫り来る火災などと違い、飢饉は2年も3年も続いて人が死に続けるために、その姿も苦しみもが凄惨なのだという。そして、この飢饉も、一見「天災」のようでありながら、流通経済にも起因する「都市型災害」であり「人災」でもある。 さて前回の続きです。☆1 前回は『方丈記』の出だしが、デビッド・ボウイの『チェンジズ』に通じるという話を書いた。でも、デビッド・ボウイと鴨長明では、その世界観はまるで逆だと思う。みなさんはどう思われますか? デビッド・ボウイが見る「河の流れ」とは、永遠の営みを続ける宇宙を舞台に、人間は常に変革を続けるのだというメッセージ。特に「古い世代」は「新しい世代」によって取り代わられるものだよと、オトナ社会へのプロテストでもある。そしてまた、自己変革、世代の変革。そういう前向きなメッセージなんだと思う。 < David Bowie "CHANGES" Lylics > それに対して、鴨長明が「河の

あぶくのような人生

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行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。 鴨長明「方丈記」より ☆1 iPhoneをいじっていて面白いのが「i文庫」です。とにかく著作権の切れてしまった文学作品をかたっぱしから並べてある。ある日、通勤時間のつれづれに「i文庫版・方丈記(鴨長明)」を読んでみたんです。そうか、でもこれをタダで読んでいいの? なんだか、悪いことをしているような気分なんだけど。 一体どこの誰が、これらのデータを入力してくれているのかしら。 ところで、この冒頭のくだりなんですが、どこかで聞いた感じがしませんか? 下のデビッド・ボウイの「チェンジズ」の2コーラス目の歌詞に似ていますでしょう。そんなこと言われて「あっ、なるほど」なんて言う人は相当なボウイ・フリークですけどね。いや、それは相当なオタクと言わざるを得ない。実は僕、このことには、ずーっと前から気づいていて、いつかブログに書こうと思っていたんです。 I watch the ripples change their size But never leave the stream Of warm impermanence So the days float through my eyes But still the days seem the same David Bowie [ Changes ] ☆2 デビッド・ボウイと鴨長明が同じことを考えていたなんて、ちょっと格好いい発見じゃないですか。洋の東西、800年もの時を超えて、このふたりが通じ合う。「川面に浮かぶあぶくのような人生」について歌う二人の詩人。 それが最近、「方丈記」を文庫で通して読んでみて、改めて考えました。といっても、原文ではなく、武田友宏先生による、角川ビギナーズ・クラシックスのシリーズにある、現代文訳です。( i文庫の原文でも理解できるのだけれども、やはり現代文の翻訳はありがたい。実に分かりやすいです。)この二人の考え方は、実はまるで逆だったのだと。 鴨長明とデビッド・ボウイは、非常に似た言葉を残したんだけど、実は考え方の根本はまるで違っていた。その違いについては、明日また改めて書こうと思いますが、まあ、ひとことで言えば、こういうこと。デビッド・ボウイ

オリーブの樹

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ガーデニングに詳しい友人が、遊びに来てくれたので、聞いてみた。「庭にオリーブの樹を植えたいんだけど。どうしたらいい?」 すると彼は、オリーブの樹は、2本以上一緒に植えなければだめなんだよ、と教えてくれた。 雄の樹と雌の樹があるわけではないのだけれども、オリーブは1本だけではだめなんだって。なぜか? オリーブは自家受粉しないために、DNAの違う別の樹がなければ、交配して種子を残すことができない。オリーブの実のならない、オリーブなんか育てていてもつまらないし、可哀想だということ。 そうか。オリーブの樹って、ホームセンターで見ると、1本でも結構高価なんですけどね。2本一緒に買うとなるとまた、庭にオリーブの樹を植えるという夢が遠くなる。 ついでに彼はこんなことも教えてくれました。オーストラリアには、山火事にならないと子孫を残せない「パンクシア」という樹があるのだそうだ。通常時は、ちょっとやそっとでは割れない実をつけている。山火事があって、その実がはじけるんだって。だから、友人いわく、人間が山火事を消してしまうと、その樹の種は繁殖できなくなる。 不思議な植物もあるものですね。 人間のやっていることも不思議といえば不思議だ。この世に生まれてきて、成長して、一人前となり、結局は子孫を残すことが、ひとりの人間としての仕事だ。だからみな、子孫を残すための相手探しに大変なエネルギーを注ぎ込んでいる。 ファッションも、メイクも、食事を選ぶのも、お酒を飲むのも、お金をかせぐのも、すべては、要するにこの人間としての最終目的、つまり配偶者選びのための所業かもしれない。極論すれば、人間社会における、商品経済も、生産活動も流通活動も、この目的のためにつぎ込まれる。 受験戦争をくぐりぬけて、大学での勉強。その勉強だって、最終的には、よい仕事について、よい家庭を築いて、よい子孫を残すのが目的なのではないか。つまりは、良い配偶者にめぐまれて良い子孫を残すこと。本質的には、すぐれたDNAを残すために、自然界の掟に従って人生の全精力をつぎ込んでいる。シェークスピア先生によれば、こうした配偶者獲得の争いで、でかい戦争だって起こるらしい。 だったらと、僕は思う。 なにも、こうした人生の営みを通して、人間が苦しんだり、傷ついたり、戦ったりする必要はないんじゃないのか。み

本人の問題

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マルクス・アウレリウス帝(左) リドリー・スコットは、既存の傑作映画を上回るB面的映画を作る天才です。 「エイリアン」は「スター・ウォーズ」のホラー版で、「ブラック・ホーク・ダウン」は「プライベート・ライアン」の戦争ドキュメンタリー版。そして「グラディエイター」は「ベン・ハー」や「スパルタカス」のリアリズム追求版だと言える。 でもこんなこと書いて、リドリーのことを「B級映画監督」なんて勘違いされてはいけない。上記の三作品ともに、リドリー・スコット監督の作品は映画史に残る傑作ぞろい。ある意味で彼は、すでに存在する傑作作品の軌道を辿りながら、自分なりの完成形を模索しているのかも。すでに存在する傑作をものともせず、同ジャンルに攻め込む確信的な使命感と勇気。逆に言うと、巨匠だからこそ許される本格リメイクということか。 紹介した写真は、 「グラディエイター」 の冒頭、主人公マキシマスの戦功をたたえる皇帝マルクス・アウレリウス。「ハリー・ポッター」でのダンブルドア校長先生を演じた、リチャード・ハリスが演じている。リチャード・ハリス、良かったなあ。迫る老いと戦いながらも、後継者選びに苦悩し憔悴する賢帝を演じきっていた。リドリー・スコット監督いわく、賢人皇帝も年老いて、ついには「しょうがないクソ親父」になってしまった、みたいなテイストを狙っていたそうです。渋いキャラ設定ですね。 賢帝、マルクス・アウレリウスが残した言葉です。☆1 「私は祖父から、善良な行儀と激情の抑制とを学んだ。私の父の名誉と思い出からは、謙譲と男性的気品とを学んだ。私の母からは、敬虔と仁徳と、また単に悪い行いばかりでなく、悪い考えも忌むべきこと、尚また富者の習慣とは遠く異なった素朴な生活のしかたなどを学んだ。ルウスティカスからは、私自身の性格が矯正と修養とを要するという肝銘を受けた。 <中略> 万物が互いにいかに変化するかの理を諦観することを身につけよ。 ー これのできる人は身体のことに執着せず、やがて自ら人間界を去るべきことや、一切の事物をこの世に残さなねばならぬことを覚っておるので、彼は己れのあらゆる行為を正しくすることに全身全霊を打ち込み、その他のことに関しては己れ自身を宇宙の本性に任すのである。」☆2 いい言葉ですね。さすがローマの賢人皇帝。「自省録」という立派な本も残して

四惜

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江戸川の対岸に向かって街の灯を見つめる。明け方と同じように、ヒバリが鳴いている。夕方も、鳥たちにとってはおしゃべりの時間なんですね。今日の一日にあったことを、忙しく報告しているのかな。コウモリたちは、群れをなして羽虫を追いかけて食事に夢中。 街が静かに暗闇につつまれて、川面にいくつもの灯が映る。なんだって人間は、こんな風な都会を作ってしまったのだろうか。高層マンション、街灯で照らされた道路、走り続ける自動車、眠らないコンビニ、飲み屋、歓楽街。この静かな川の向こうには、変わらない都会の喧噪が一晩中続くのだろう。 こうした都会の生活を、当たり前のこととして享受してきた。そればかりか、これからもこうした都会の生活は、日本中から若者達を吸い寄せ、さらに巨大化していくことだろう。僕自身が、かつてこの都会の明かりに吸い寄せられてきた一人なのだが。 明の末期の学者、陸世儀(りくせいぎ)は、次のような言葉を残して、後代の人間生活を戒めている。安岡正篤先生は、著書「養心養生をたのしむ」の中でこれを「四惜」として紹介しています。 昼坐まさに陰を惜しむべし。 夜坐まさに灯をおしむべし。 言に遇わばまさに口を惜しむべし。 時に遇わばまさに心を惜しむべし。 この言葉について、安岡先生の言葉を借りて解説します。 昼は光陰(時間)を惜しめ。夜はせっかく灯火をつけたら、勉強をしなさい。灯火をつけっぱなしにして遊んでおってはいけない。自由にものを言うというのは人間の特徴であり、幸福であると同時に、これは非常な災いになる。くだらないことをだらだらと述べるのはやめて言葉をつつしむべきだ。重大な時に、心を乱用してはならない。非常な重大な時こそ、我々が心を養う、心を練るのに最も必要な時である。 大震災以来、灯火の摂生は僕たちの習慣となった。 くわえて、口も心も摂生していかなければならない。 この未曾有の危機を乗り越えるため、この文明と、都市生活の習慣に生きる僕たちは、心をこそ、節していかなければならないのかもしれない。もっと、自然とともにある生活に帰るためにも。