誰かと一緒にいる時間


11月28日の日経新聞に「感動体験に財布開く」という記事がありました。というか、この記事読むために買ったんですけどね。(電子版で全文見れず→結局実物購入)この不況のさなか、堅調なディズニーランド。バブルの頃よりもお金がないはずなのに、客単価が上がっている不思議。その秘密をオリエンタルランド社長の上西京一郎さんが明快に解説していました。

誰かにプレゼントを買ってあげてもそれは一瞬のこと。でもテーマパークでは、誰かと長時間を一緒に過ごせる。そこが大事。だから、ディズニーランドは三世代で時間を一緒に過ごせるようなパークを目指しているという。なるほどなるほど。ディズニーランドが売るサービスとは「誰かと共有できる時間」なのですね。

周防正行監督の大ヒット映画「Shall We ダンス?」のDVDを最近見直しました。アメリカの試写会での挨拶で周防監督は、こうおっしゃってました。「人間は生まれてくるときも死ぬときもたったひとり。でも、生きていく過程では決してひとりでは生きていけない。必ず誰かと誰かが関わって、影響しあって、人生ができあがる。だから僕は僕の映画で必ず『誰かと誰かの関係』を描くのです」

別々の人生を歩んでいる誰かと誰かが、偶然にある時間を共有する。

ダンス教師の舞(草刈民代)と、サラリーマンの杉山(役所広司)。二人の世界はまるで別のもの。それが偶然に交差することで生まれる、大きなショックと変化。二人の人生が、まったく予期せぬ(そして素晴らしい)変化を遂げていく。

「Shall We ダンス?」は、日本映画の興行成績記録を塗り替えた。それだけでなく、8年後にはハリウッド版リメイクまで作られることになった。この映画がとりあげている「誰かと誰かの時間の共有」というテーマが、日本人にとっても、アメリカ人にとっても、普遍的なものであったことを証明している。

思えば、子供の遊びというものも、子供どおしが「時間を共有するため」にあったのだ。「トランプ」「将棋」「野球」などというものも、ゲームそのものの結果が重要なのではなく、一緒に競い合ったりしながら「一緒の時間を共有する」ということが大事だったのだろう。

子供の遊びの時間を「ゲーム」が独占するようになった。「ゲーム」の多くは「ひとり遊び」だ。相手はいるけれど、それはICチップの中のプログラムされた「誰か」でしかない。人生の時間を共有する仲間ではないのだ。考えてみれば一時流行った「eラーニング」というものも「独習」という一人の時間。

社交ダンスというのは、絶対にひとりではできない。
そこが人生にも似ているのかな。と考えました。

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