放蕩一代息子

ホームドラマの黄金時代を築いた、石井ふく子さんの業績を調べているうちに、「山田洋次×渥美清 TBS日曜劇場傑作選 4作品-ボックス」という、とんでもないDVDを見つけました。

収録の4作品は、いずれもTBSの「日曜劇場」の枠で、70年代に放送されたもの。時代の勢いというものを感じますが、それとともに、テレビ番組の制作側の人々の矜持というものが画面に溢れている。また、渥美清さんをはじめ、出演者陣の珠玉の演技が素晴らしい。これならこの時代、視聴者が夢中でテレビを観ていたのは、ある意味で当然だったのかも。

さてまずは「放蕩一代息子」(1973年)です。一見して、下敷きにしているストーリーはおそらく、落語でいう「唐茄子屋政談」かと思う。吉原通いの道楽がすぎた若旦那の「徳」が、ついに親に勘当されて乞食となる。そして極限の苦労の果てに、なんとか真人間に戻るという話です。だめな「徳」をはげましたり、怒鳴り倒したりする、叔父さん叔母さんや周囲の人々の人情が、泣かせてくれる名作落語。(よかったらこちらを

そう思いこんで、この「放蕩一代息子」を見ていると、どうも様子がおかしいぞ。道楽者の徳三郎(渥美清)が、清兵衛(志村喬)に勘当されるところまでは一緒なのだけれども、こちらの「徳」は、金がなかろうが、食い物がなかろうが、平気の平左右衛門。むしろ、乞食仲間や、精神喪失の乞食女(奈良岡朋子)と一緒になって、まるで「上流貴族」のような気分で暮らしている。妹のせつ(倍賞千恵子)が、どんなに心配しようとも、どこ吹く風と、乞食生活を堪能している。浮き世から捨てられても全く平気。

エンディングでこのドラマは、観客に、こう語りかる。「乞食に身をやつしながらも満ち足りていた徳三郎と、まじめ一筋で店の心配ばかりしていた清兵衛と、どちらが幸せだったのだろうか?」脚本担当の、山田洋次さんは、このドラマにどんなメッセージを込めようとしたのか。普通ならば「この道楽者!」と怒鳴り倒されるはずの徳三郎を、あえて擁護するようなストーリーを、なぜ書いたのだろうか?

考えてみました。うん。おそらく、こういうことではないでしょうか。

江戸時代の話であれば「遊んでばかりいたら、お天道さまに申し訳ないよ!」という教訓が必須だった。江戸時代にはおそらく、みんな適当に遊んでいたから。しかし、このドラマが放送された70年代は、日本中が仕事や金儲けに夢中になっていた時代でしょ。山田洋次さんとしては「まあまあ、そうムキになって働いてばかりいたら、人間として生まれた甲斐がないんじゃないの?」っていうような、気持ちを込めたかったのではなかろうか。たまの日曜日、TBSの「日曜劇場」を見たサラリーマンに、ふと我に返って自分自身を取り戻してほしい。そんな願いがあったのでは。

映画「男はつらいよ」シリーズにも溢れる、現代人への優しいメッセージの原点が、このドラマにある。それだけでなく、兄=渥美清、妹=倍賞千恵子、という最高のコンビネーションも見ることが出来る。(この番組でも、倍賞千恵子さんが渥美清さんを『あんちゃん』と呼んでいる!)まじめすぎて世知辛い、この浮き世から、つまはじきとなる風来坊。でもなぜか彼らは、お金持ちなんかよりも、よっぽど上品で優しく頼りになる。山田ワールドの実験場の中で、素晴らしい才能たちがぶつかり合って、テレビドラマという世界の可能性に、めいっぱい挑戦している姿がここにはあるなぁ。このDVDが見ることが出来て、本当に良かった。


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[ ここから後日談 ]
ワニブックスから「放蕩一代息子」の脚本が出版されているのを知って、さっそく注文(絶版らしく、中古で)しました。そして「放蕩一代息子」が下敷きにした、古典落語は「唐茄子屋政談」ではないということが判明しました。以下、この本の脚注を引用します。
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放蕩一代息子: 古典落語「山崎屋」をもとに初代三遊亭遊三が創作した落語「よかちょろ」及び古典落語の「湯屋番」を独自の短編小説として作り変えたものです。注)・・・「よかちょろ節」は、明治21年頃に流行した流行唄です。


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