本物らしいということ


この絵は、先日の大阪出張のおりにいただいたオリーブの盛り合わせ。これが本物に見えるかどうかは、ひじょうに怪しい。所詮「絵」なので、本物とは違う。しかし、「本物」と「絵」の間には不思議な関係性がある。つまりは、それを見る私たちという存在の問題。そこにリアリティを見いだせるかどうか。

嵐の大野君。今年の日テレ24時間テレビの中で、スペシャルドラマに出演する予定とか。いまから本当に楽しみである。大野君ほどの演技の達者なタレントは珍しいと思う。「魔王」「鍵のかかった部屋」から「怪物くん」まで、幅広い演技力で魅了してくれる。大野君のすごいところは、それがどんなドラマであっても、そのドラマの世界観に合わせたリアリティを出現させてしまうこと。

正直言って「怪物くん」の場合、特殊メイクやらVFXやらにお金がかかったせいか、美術セットにはあまり予算が使われた形跡がない。かつて同業者だったので、なんとなく様子が想像される。「悪魔界」を再現するためには、特殊メイキャップから、特殊セット、そしてそれをまとめるVFXまで、気の遠くなるほどのお金がかかる。だから、通常のセットやロケにかけるお金は足りなくなる。

「怪物くん」の場合、そんな窮地を堂々と「お金をかけない作戦」で切り抜けているところが素晴らしい。廃校になった中学校らしき場所や、ちょっと安っぽい(失礼!)セットでシーンをこなしているのだ。だが、これがある種の奇跡を生み出している。通常ならば「リアル」には見えない場所なのだが、これに、大野君や松岡君の迫真の演技が加わると、本当に「ちょうどいい」リアリティが生まれるから不思議だ。

やはり映像作品において、もっとも強力なパワーを発揮するのは、役者さんの演技なのだ。見る僕たちが引き込まれるのはそこだ。それさえあれば、その周辺のものは「だいたいのレベル」でいいのだ。もしかすると、こうかとも思う。もしかすると。役者の演技が迫真である場合、背景のセットや衣装、メイクなどは、ウソっぽいほうが共感を得ることが出来る。こんなことあるだろうか。

いやいや、じつはきっとそうなのだ。役者の演技だけでなく、セット、小道具、衣装、メイク、すべてがリアルというのも素晴らしい。しかし、役者の演技が、作品のその他の分野の「弱い」部分を補ったとき、その作品は奇跡的なリアリティを生み出す。そういうことなのかもしれない。

「絵」にしても「番組」にしても、どこでその「リアリティ」が生み出されるのか。実に興味深いことである。うちの研究室の大学院生も取り組んでいるが、私自身にとっても実に興味深いテーマである。

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