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12月 14, 2014の投稿を表示しています

日記の人生

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入院している間も、まじめに日記をつけていた。いろいろとこまごまと書いた。だから、入院中の思い出が、沢山残った。いや、入院する以前から日記はつけていたのだ。「DayOne」というアプリがあって、好きな時に好きなだけ書き込める。この3年間ほど、そのアプリにのせられる形で書き続けている。

横尾忠則氏の著書「絵画の向こう側・ぼくの内側」に、日記についての面白い話がある。横尾氏はなんと40年以上も毎日日記をつけ続けているという。やはり、40年前に大病をしたのがきっかけとか。それだけ日記を書き続けていると、日記と人生の間にある種の化学反応のようなものが起きるらしい。内容の良い日記を書くために、より活発で能動的な人生の活動をする。そういうことが起きるらしい。

Facebookも、同じことかな。一日の終わりに、書き込んで知人に読んでもらうため、ちょっとだけ背伸びした一日を送る。その一日を写真におさめる。ちょっと贅沢なご飯をたべる。ご飯の写真をのせる。

嵐の大野君も、長い間、かかさず日記をつけていると聞いた。しかもその日記のつけかたがとてもいいなと思った。曰く、「どんな一日でも、どこか嬉しかったり、良かったりしたことがあるはず。日記には、そういう「良かった」と思えることだけを書く。そうすると、あとで日記を読んで振り返ったときに、素晴らしい記憶だけがよみがえるのだ。

よく「年をとるほど、時間が早く過ぎる」という話を聞く。もしかするとそれは、日記のようなものをつけないせいなのではないだろうか。日記をつけて、沢山のことを思い出すようになれば、いくつになったって、充実した長い長い時間の積み重ねを感じることができるのではないだろうか。


心のベルが鳴っている

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まるまる一週間のあいだお世話になった病室。その入り口の僕の名札には、こんなクリスマスの飾りがつけられていた。こういうちいさな思いやり、とてもうれしい。突然の疾患で入院した身としては、それなりに傷ついている。そこに、こういうプラス・ワンの暖かみをいただく。看護婦さんのちょっとした心遣いが、ゆったりとした癒しとなって伝わる。

クリスマス。

日本人にとっては、宗教的上の風習でもなく歴史的慣習でもない、イベントなのだけど、どこかまわりをいたわり、同胞、親戚みんなが幸せだろうか?と心配し合い、きづなを確かめるシーズンになっている。なにか、胸の真ん中あたりが、ぽかぽかと暖かくなる日々。

赤く反射する丸いボール。グリーンのリボン。小さな黄金のベル。

その小さなベルが、心の中で鳴っている。なぜなのだろう。このベルが、友人のことを思い出させてくれたり、家族のことを思い浮かべさせてくれたり。僕の心に、ただ、懐かしい思いを沢山つめこんでくれる。ちいさなベルが心で鳴っている。

みなさまへ、メリー・クリスマス(=゚ω゚)ノ

ベッドの上で一つ歳をとりました

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あまりに忙しすぎて自分の誕生日を忘れていたということが、確か一度だけあったと思う。僕が30代後半あたりの頃。周りも見えていなかったし、自分がやってることも見えなかった、そんながむしゃらでオバカな時代のこと。

50代になって、今度は入院で誕生日を過ごすことになろうとは夢にも思わなかった。誕生日のほぼ一週間前のこと、急な腹痛で薬をもらいに病院にいった。ところがそれは明らかな虫垂炎との診断。即日入院、即日手術ということになった。その日は金曜日であったため、もしその日の手術を逃すと、月曜日まで二日間も待たなければならなかったので、不幸中の幸いであった。
もしかすると「誕生日に退院」という偶然もあったのだが、抜糸などのタイミングもあって、退院は誕生日の翌日となった。つまり今年の誕生日は、病院のベッドで「独りでスゴした」のである。
いろんなことを考えた。考えるしかないもんね。入院して、村上春樹訳、レイモンド・チャンドラー著「ロング・グッドバイ」も読んだのでなおさらであった。頭の中が、ちょっとだけ、ハード・ボイルドな感じになっていて、思考がドライな文体になってしまった。ベッドの上で独りで面白がっていた。
このへんのことは、後ほど詳しく書きたいと思う。村上春樹氏がいう、小説の文体における「自己意識の不在」って本当に示唆に富んでいる。この話は、意外にもさまざまなことに繋がっているのだ。たとえば、映画のシーンで演技する役者の没我的状態。個人的体験を言語を使って共有するということの難しさ。だって言葉というものは、僕たちの経験していることのほんの一部だって表現できない。

だから、レイモンド・チャンドラーは、言葉以前の体験に基づいて文章を書いているんだって。こういう文体を読むということは、無意識に演技している役者の演技を見るとか、完全に没入した状態で演奏しているピアニストの音楽を聴いているのに近い。そういうことなのだと思う。また、キューブリックの映画などでは、非言語的表現によって、これを実現している。

「意識」というものと、「意識」が感ずることすらできない「自分」という存在について。とにかく考えさせられた。